「鬼の棲む川
現在の福島県域に人が住みはじめたのは今から一万年も前の旧石器時代からであるが、ここを流れている川に阿武隈川の名がついたのはいつの頃からなのであろうか。この川は距離が長いだけに、流域の各地域で、それぞれ別々の名で呼ばれていたと思われるが、それが阿武隈川の名で統一されたのは生活上か、または何らかの必要があって一本の川であるという認識が生まれてからだと考えられる。想像できることは、ここに住んでいた人たちが阿武隈川と名を付けた筈ということである。
古代、蝦夷は蝦夷地(北海道)から出雲(島根県)にかけての広い範囲で生活していた。それが大和の勢力に追われて東走し、北上して行ったものと考えられるから、東北地方においての蝦夷と大和の境界は、東西に連なる線が南から北へと平均的に押し上げられていったと想像してもよい。ところが阿武隈川は南から北へ流れることで、その流域を東西に分けている。すると蝦夷と大和は、阿武隈川を挟んで東西に存在したという不思議なことになってしまうのである。
『あさか』についての話が三重県津市に伝わっている。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の伯母の倭姫命が、藤方片樋宮(三重県津市にある加良比乃神社とされる)に着くと、そこには阿佐鹿の悪神がいたというのである。この阿佐鹿の名前から安積が連想されるが、ではこの阿佐鹿の悪神とは誰を指していたのであろうか。悪神とする以上、それは『大和側にとって良からぬ者』と考えられる。当時それは、蝦夷以外に考えられないことから、阿佐鹿の悪神とは蝦夷を意味していたと思われる。するとそれは、安積に蝦夷が住んでいたということなのであろうか。(途中省略)
これらのことから阿武隈川の西の『阿』は阿尺評の『阿』であったと仮定できたが、東の『武』とは何を表しているのであろうか?
そう思って随分調べてみたが、『武』の付く国名や地名に類するものはまったく見当たらなかった。探しあぐねていて、この地方で根強く語られている田村麻呂の伝説に気がついた。ところで現在、田村郡は度重なる町村合併のあおりを受けて、田村市、田村郡、郡山市(郡山市田村町、中田町、西田町)の三つに分割されてしまった。以後、これらの三つをまとめて、田村地域と表記する。
田村地域には、田村麻呂の生誕からはじまる数多くの伝説が残されている。その中でのハイライト、田村麻呂が大滝根山(田村市滝根町)を根城にしていた悪路王・大武丸を破ったという伝説に、『武』の文字があったのである。もし大武丸の『武』をこれに当てはめることが可能であれば、『阿』と『武』がそろうことになる。そう考えると、『阿』尺評と大『武』丸の国がこの川を挟むことになり、阿武隈川は蝦夷と大和の境界として格好な位置となる。宝亀元(七七〇)年、田村麻呂の父の坂上苅田麻呂は、陸奥鎮守将軍に任じられ多賀城に赴任している。この苅田麻呂にも阿武隈川について次のような伝説がある。
1 坂上苅田麻呂が大きな熊に乗ってこの川を渡り、屯田(みやけだ・郡山市田村町御代田)へ行ったので大熊川の名称が発生した。
2 大熊川が合曲川になった。
3 合曲川が逢隈川となった。
4 逢隈川が阿武隈川となった。
これらのことから、阿武隈川の東に鬼を見つけ出すことで、西の大和と東の蝦夷の境界線が阿武隈川であったとの推測が可能になるということになるのではないかと考えた。そこで鬼という単語に着目したのであるが、この単語の最初は日本書紀にあった。その中に『まつろわぬ鬼神』という表現があり、鬼は天皇に仇をなす辺境の『蛮族』だとされていた。
そうなると鬼は蝦夷を表現していたと想像してもよいと思われるし、郡山市日和田町の蛇骨地蔵伝説などにでてくる大蛇なども蝦夷を表現していたと考えてもいいのかも知れない。郡山周辺には鬼や蝦夷の付く地名や遺跡、そして大蛇伝説などが多いのである。つまり阿武隈川周辺は、鬼(蝦夷)の棲み家であったのであろうか。それらを次に、書き出してみる。」
長い引用になりましたが、その鬼(蝦夷)所縁の地の一つに三春の蛇石があげられています。境内は静まり清楚な感じです。氏子さんたちの手入れが良くなされ大事に守られています。この近辺は蛇石の地名がある程でこの石の存在は大きいのでしょう。
「蛇石 三春町蛇石蛇石前192番の4 王子神社・弁天神社境内
この蛇石は厳島神社の御神体として、王子神社の境内に庚申塔などと一緒に玉垣に囲まれ鎮座しています。高さ1.4m、長径3.8m、短径2.5mほどの阿武隈花崗岩である。卵形の形状で、高さ半分の所に全周に渡るほぼ水平な割れ目が入っています。
ダムの建設で現在地に神社ごと移転し、鎮座しています。その経緯を記し、昭和63年(1988年)に建立された記念碑が、王子神社前にあります。
「記念碑
数々の伝承と、豊かな伝説を持つ蛇石。祖先が永きに亘り、苦難に耐え、山野を拓き耕し、墳墓の地としたこの地区で、昭和四十三年ダム建設の基礎調査が始められた。為に、生業に係る計画立案もままならず、我々は動揺し困惑した。
同四十五年、建設計画が発表され、我々は生活再建、移転問題等々幾多の難題を抱えながらも、事態の推移黙し難く、補償基準の妥結を決断した。時に同五十九年十二月である。
鎮守王子神社は、社殿を解体せず、所謂「曳き舞」工法により現在地に遷す。
厳島神社(又の名を、弁天様、蛇神様とも)の御神体は、「蛇石」と呼ばれる大石で、地名発祥の謂あるものなれば、姿、形を変えることなくその處を移した。
昔より伝えられた祭典行事の一つ、三匹獅子舞は、氏子大半の移転のため、廃止の止むなきに至った。
この碑の前に佇む時、湖底に、豊かな耕地あり、それを潤した祖先の大いなる遺産であった潅漑用水路あり、その中を県道栃本線、大越線が走り、傍に鎮守の森を見 農協支所、郵便局、公民館、商店が軒を連ね、戦後誰言うとなく「蛇石銀座」と呼ばれ親しまれた聚落があったことに、思いを馳せられたい。
我等がこよなく愛した故里、蛇石の歴史を、永遠に留めるべく、我々はこの碑を建立する。 昭和六十三年十二月吉日」