「土津神社 猪苗代町字見袮山1
土津神社は延宝3年(1675年)、磐梯山麓見祢山の地に葬られた保科正之の墓所に造営された。「土津」(はにつ)という名称は、寛文11年(1671年)に正之が吉川惟足より吉川神道の奥義を授けられた際に「土津」の霊神号を送られたことに由来している。
翌寛文12年12月18日(1673年2月4日)に正之が死去すると、遺言通り見祢山の麓・磐椅神社の西方に葬られた。正之は生前、死後は磐梯山の神を祀る磐椅神社の末社となって永遠に神に奉仕したいと望んでいたという。そのため、土津神社は磐椅神社の末社となっている。創建当初の神社は戊辰戦争の時に焼失しましたが、現在境内には、明治13年(1880年)に再建された社殿と7つの末社、山崎闇斎の撰文で正之の治績を刻んだ土津霊神之碑があり、亀石に載った石碑は日本最大のもので高さ7.3m、重量30tもあります。さらに奥の院として正之の墓所がある。」
保科正之は名君の誉高く、将軍家光の異母兄弟で将軍の信任厚く以下の様にあります。
「保科 正之(ほしな まさゆき)は、江戸時代初期の大名。会津松平家初代。信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主。江戸幕府初代将軍徳川家康の孫にあたる。第3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と第4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。日本史上、屈指の名君との呼び声も高い。将軍の「ご落胤」でもある。」
車を降りて、「本当は近くの磐椅(いわはし)神社の方が雰囲気が良いですよ。」と、話したら木内さんが即、そっちに行こうといいます。道が狭いのでハイエースは少し不安があるので10分ほど歩くと話したのですが、それでも良いという事で、鳥居前の駐車場から歩き出しました。
先の土津神社の紹介にあった様に保科正之は磐椅神社を殊の外、気に入っていて、その末社として祀って欲しいと遺言したほどです。
綺麗な水が勢い良く流れる堰に沿っての道は中々風情があります。食後には丁度良い加減の散策です。
磐椅神社は以下の様にあります。
「磐椅神社 猪苗代町字西峰6199
式内社として格式が高い神社で、郡内一の大社であったと伝わる。神社の名は、磐梯山の古名「磐椅山(いわはしやま)」に由来し、神体山崇拝の歴史を現在に伝えている。境内には、村上天皇の時代、勅旨が参拝の折に京都から移植したと伝わる大鹿桜(会津五桜の一つ)がある。土津神社は末社とされる。
最も古い記録によると、今から1200年ほど前に「陸奥国磐椅神に従四位下を贈る」とあるので、この地方にあって最も古い時代に建立された神社とされています。
その後、幾たびか盛衰があって、万治2(1659)年会津藩初代藩主保科正之が参詣した際、自分の死後末社となることを告げて神事が行われました。その遺言により末社として土津神社に正之を祀りました。
磐椅神社の南側には縄文時代の遺跡である「西峯遺跡」が広がっています。」
「「いわきさま」と慕われる神社
そのむかし、磐梯山に足長手長という魔物がいました。足長手長は、のちに磐梯明神になり、これを祀っているのが磐椅神社です。歴史は古く、応神天皇のころ(270年頃)にはじまり、天平元年(729年)には、見祢山(みねやま)南麓の現在地に遷座します。
大同元年(808年)には、磐梯山の噴火で社殿が壊れますが、弘仁4年(813年)に新しい社殿が造営されています。
天暦元年(947年)に、村上天皇より勅使の派遣があり、その時に宸翰物(天皇自筆の書)と、桜樹を奉献して社殿を修復しました。この時の桜樹が大鹿桜です。
大鹿桜は、サトザクラの一種の子孫で、会津五桜のひとつに数えられています。
元久2年(1205年)に、猪苗代城主の三浦経連(猪苗代経連)から、社領8000余町の寄進があり、承元元年(1207年)に、現在の場所に旧社殿のまま遷座しました。
このとき杉を植えて、これを鳥居杉と命名しました。
保科正之は、社殿の造営を行い、社領も寄進し、自ら神事を行うほどでした 。
土津神社からの、土田堰沿いの道を歩いて、磐椅神社へ向かうと、古代から続く磐椅神社の歴史を思い起こすことができるでしょう。」
神社の鳥居前の大鹿桜は見事な老木です。鳥居杉もその大きさは驚きです。杉の木に桜の木が接ぎ木されたように伸びていて、えんむすび桜と言われて縁起物として、縁結びの御利益を願う方が多いようです。
他の参拝に方が居られずにゆったりと自然の霊気溢れる神域を味わえました。