2日目朝は爽やかな目覚めです。私はまたまた天然ラドン温泉に入り元気をチャージです。朝食も美味しくいただき8時ごろに宿を出発しました。
三春町は戦国大名田村氏の居城があった地で会津の葦名家、太平洋側の相馬氏、宮城の伊達家の両雄の間にあって小藩ながら三春藩として江戸時代も安泰で明治まで栄えた所です。田村家は坂上田村麻呂の後継と言われています。また田村家の愛姫は当時米沢城主伊達家の嫡男、伊達政宗に嫁いでいます。伊達政宗は仙台伊達藩の開祖です。以下紹介します。
「戦国大名田村家と愛姫
田村氏は、征夷大将軍の坂上田村麻呂の子孫(※1)を称し、現在の三春町に田村郡の鎮守である大元帥明王(現在の田村大元神社)を守山(郡山市田村町)より、菩提寺の福聚寺を八丁目(郡山市日和田)から移し、城下町の基盤としました。
田村氏は、小さな国人領主のひとつでしたが、一族をまとめて田村郡内を統一し、さらに勢力を拡大して戦国大名へ発展しました。
(※1) 坂上田村麻呂から4代目の古哲が田村を名乗り、古哲から16代目の田村輝顕(輝定)が福聚寺を開いています。
三春町が城下町として歩み始めたのは、永正元(1504)年に田村義顕が城を築いたことで、城下町として発展したといわれています。
しかし、それより前の正応2(1289)年に法蔵寺が開山されたと伝えられ、南北朝時代初期の古文書には「御春輩(みはるのともがら)」と呼ばれた武士団を見ることができます。これを裏付けるように、城山や町の中心部を発掘すると、14世紀から15世紀の瀬戸や常滑、中国の焼き物の破片がたくさん見つかります。このことから、三春には鎌倉時代以降、宗教者や武士、さらに彼らの暮らしを支える庶民が暮らすようになり、そうした人々を取りまとめ、新たに城を築いたのが田村氏だったのだろうと考えられます。
また、あまり知られてはいませんが、このころ、亡くなった義父に代わって南北朝の争乱に兵を出して、後醍醐天皇から七草木村の領有を認められた女性もいました。
そして、今から450年前の1568年に愛姫が生まれます。愛姫は、義顕の孫・田村清顕と、その妻で相馬家出身の喜多(あるいは於北)の一人娘でした。ほかに伊達家出身で小宰相(あるいは御東)と呼ばれた祖母・田村隆顕夫人もおり、大勢の親戚や家臣たちの愛情を一身に集めて、愛姫は三春で育ちました。
数え年で12歳になった愛姫は、わずかな侍女たちを伴い、米沢城主・伊達輝宗の嫡男・政宗の元へ嫁ぎます。これは父・清顕から託された田村家の存亡をかけた嫁入りで、この重責を果たすことに、愛姫は生涯を捧げることとなります。」
三春は春になると一度の梅、桜、桃が咲くことで三春と言われているとか?特に三春の桜は有名です。その数ある桜の名所の中でシンボル的な滝桜を見に行きました。花の無い巨木です。昔は木にも触れたのですが今は柵で保護され巨大な駐車場も整備されています。静かにその雄姿を誇示しています。花見の頃は大渋滞で辿り着くのが大変ですが私達以外誰もいません。
「三春滝桜 三春町大字滝字桜久保
日本三大桜に数えられる滝桜は、大正11年10月12日に、桜の木としては初めて国の天然記念物に指定された名木です。皇居宮殿の正殿松の間を杉戸絵「櫻」(橋本明治画伯)や、赤坂サカス赤坂Bizタワー壁画「四季樹木図」(千住博画伯)が、滝桜をモデルに描かれたことでも知られています。
開花期には四方に伸びた枝から、薄紅色の小さな花を無数に咲かせ、その様はまさに流れ落ちる滝のように見えることから「滝桜」と呼ばれるようになったとも言われています。
※日本三大桜:根尾谷淡墨桜(岐阜県本巣市)、山高神代桜(山梨県北杜市)と三春滝桜。
日本五大桜または三大巨桜の1つとして知られる。2012年時点で推定樹齢1000年超、樹高12m、根回り11m、幹周り9.5m、枝張り東西22m・南北18m。
三春町の滝地区に所在すること、毎年4月中・下旬に四方に広げた枝から薄紅の花が流れ落ちる滝のように咲き匂うことから、この名がある。毎年全国から30万人の観光客が訪れる。 天保の頃、加茂季鷹の詠歌「陸奥にみちたるのみか四方八方にひびきわたれる滝桜花」によってその名を知られ、三春藩主の御用木として保護された。