2026年1月1日木曜日

4124「許し 幸せになるために」2026.1.1

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月22日の記事を紹介します。


「許し 幸せになるために」


今日のテーマは「許し」です。 

以前書いたことがあったのですが、最近また再掲したほうが良いと思いましたので、

加筆して掲載します。

本当の、心からの幸せを得るために、何が邪魔をしているのか? 

特に、理不尽とも思える辛い出来事を経験した人に、

何故、幸せになれない人が多いのか?

それは、憎しみの心が、幸せが来るのを邪魔をしているせいかもしれません。  

誰かを許すこと、それは神さまから、自分が許されること

誰かを何時までも許さないこと、

それは、いつまでも、自分で自分を許さないこと 

神さまから、自分が許してもらえないこと

人を許さない限り、

自分を許さない限り

幸せになるのは、難しいようです。

さて、愛媛県西条市に「のらねこ学かん」という、知的障碍者のための通所施設があります。 

ここを自費で運営し、ハンディのある人たちの人生の花を開かせている、

塩見志満子さんという方が居られます。

今日は塩見さんのお話です。

<引用開始> 引用元

塩見さんの人生は、まさに試練に次ぐ試練の連続でした。 

壮絶かつ感動的な人生体験、そこから掴まれた信条を学ぼうと、

いま全国各地から講演の依頼が舞い込んでいます。 

塩見さんが語った

「降りかかる逆境と試練が、私の人生の花を咲かせた」とは──。

──そこから学かんの立ち上げまでは、どのように進むのですか。

1つのきっかけとなったのは、私が38歳の時に、小学2年生の長男を白血病で失ったことです。

白血病というのは大変な痛みが伴うんですよ。

「痛い、痛い」と叫ぶと脊髄から髄液を抜く。 

そうすると痛みが少し和らぐ。 

それを繰り返すわけですよ。

ある時、長男はあまりの痛さに耐えかねて、そんなこと言う子じゃないんですが 

「痛いが(痛いぞ)、ボロ医者」と大声で叫んだんです。 

主治医の先生は30代のとても立派な方で

「ごめんよ、ボク、ごめんよ」と手を震わせておられた。

長男はその2か月半後に亡くなりました。

49日が済んだ後、主人と2人、お世話をかけたその主治医の先生に

御礼を言うために病院に行きました。

ところが、いらっしゃらないんです。 

聞いてみたら、長男が死んだ後、 

「僕は小児がんの研究をするためにアメリカに渡る」と

すぐにその病院を辞められたと。 

私たちは「ボロ医者」という長男の一言が、この先生をいたく傷つけたかもしれないと思うと、申し訳なさでいっぱいでした。

後で知ったのには、その先生は10年間アメリカで小児がんの研究をした後、 

小児がんの権威となり日本の国立小児病院に帰ってこられたそうです。 

いま思い出しても本当に素敵な先生でしたね。

──そうでしたか。

長男が小学2年生で亡くなりましたので、4人兄弟姉妹の末っ子の二男が3年生になった時、私たちは「ああこの子は大丈夫じゃ。お兄ちゃんのように死んだりはしない」と喜んでいたんです。

ところが、その二男もその年の夏にプールの時間に沈んで亡くなってしまった。

長男が亡くなって8年後の同じ7月でした。

──プールの事故で突然。

近くの高校に勤めていた私のもとに 、「はよう来てください」と連絡があって、タクシーで駆けつけたらもう亡くなっていました。

子供たちが集まってきて「ごめんよ、おばちゃん、ごめんよ」と。

「どうしたんや」と聞いたら10分の休み時間に、誰かに背中を押されて、

コンクリートに頭をぶつけて、 沈んでしまったと話してくれました。

母親は馬鹿ですね。

「押したのは誰だ。犯人を見つけるまでは、学校も友達も絶対に許さんぞ」

という怒りが込み上げてくるんです。

新聞社が来て、テレビ局が来て大騒ぎになった時、同じく高校の教師だった主人が

大泣きしながら駆けつけてきました。

そして、私を裏の倉庫に連れていって、こう話したんです。

「これは辛く悲しいことや。だけど見方を変えてみろ。 

犯人を見つけたら、その子の両親はこれから、

過ちとはいえ自分の子は友達を殺してしまった、という罪を背負って生きてかないかん。

わしらは死んだ子を、いつかは忘れることがあるけん、わしら2人が我慢しようや。

うちの子が心臓麻痺で死んだことにして、

校医の先生に心臓麻痺で死んだ という診断書さえ書いてもろうたら、 

学校も友達も許してやれるやないか。そうしようや。そうしようや」

私はビックリしてしもうて、この人は何を言うんやろかと。

だけど、主人が何度も強くそう言うものだから、仕方がないと思いました。それで

許したんです。

友達も、学校も。

──普通の人にはできないことだと思います。

こんな時、男性は強いと思いましたね。

でも、いま考えたらお父さんの言うとおりでした。 

争うてお金をもろうたり、裁判して勝ってそれが何になる。

許してあげてよかったなぁと思うのは、 

命日の7月2日に墓前に花がない年が1年もないんです。

30年も前の話なのに、毎年友達が花を手向けて、タワシで墓を磨いてくれている。

もし、私があの時学校を訴えていたら、お金はもらえても、 

こんな優しい人を育てることはできなかった。

そういう人が生活する町には できなかった。

心からそう思います。

<引用終了>

さて、子供が夭逝(ようせい)=早く亡くなる、と言うのには、大きな大きな意味があるそうです。

両親や、周りの人に気付きを与えるため・・・。

塩見志満子さんのお子様たちの場合には、小児がんの研究者。

そしてご両親の「許し」という崇高な行為と、 

その後、ご自身の「知的障碍者のための通所施設」の自主運営に続いて行きました。

お子様2人も早くに無くされることは、大変な悲しみだと思います。

子を持つ親として十分察しできます。

ですが、その悲しみを悲しみのまま、憎しみを残すことなく、許し、 

ご自分の心の中の黒い霧を払われ、世の中に尽くす所まで進められたのは

素晴らしいことだと思います。 

私達は、とかく、人を憎んだり、恨んだり、仕返ししようとしたりします。 

「同じ苦しみを味あわせてやる」

また社会全体を憎しみの対象とします。

ですが、仕返しは、私達がやることではありません。

それは神様の領域のお話です。

「復讐するは我にあり」の 我とは 神様のことです。

人を許すこと 

自分自身も許すこと 

人を愛すること

大変 難しいことかもしれませんが、 

それは私達のハートの中に居らっしゃる神さまの特性です。 

私達も、今はできなくとも、その神さまのように

いつか、いつか、振る舞うことが出来るはずです。

あなたには、許せない人はいますか?

憎しみをたぎらせている相手はいますか? 

それとも、特定の人ではなく

世の中を、憎んでいらっしゃいますか? 

誰かのことを許せれば、それは、神さまの前において、自分自身を許すことになります。

自分自身を愛することに繋がります。 

自分自身を愛することができたなら、私たちは、また一つ、

心の世界において、神さまに近付くことになります。 

何時までも憎しみに、しがみついた 暗黒の世界

そしてもう一方は、愛と許しの 光の世界。 

心の分かれ道です。

どちらに進まれますか。 

先に亡くなった家族や、ご先祖の方々は、残された私たちに、

どちらを望んでいらっしゃるでしょうか? 

そして、あえて理不尽に見える逆境を準備された神さまは、

何を望んで、そうされたのでしょうか?


2025年12月31日水曜日

4123「私たちが元居た所」2025.12.31

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月21日の記事を紹介します。


「私たちが元居た所」


今日は、皆さん忘れてはいますが、私たちが生まれる前に居た世界 

そして亡くなった後に、帰る世界のことを書きたいと思います。 

日本人は、世界の他の国々とは異なり、

縄文の昔から、死後の世界(神々の世界=黄泉の国)と、

私たち生きている者の世界が、密接にかかわり合い、 

コミュニケーションを取りながら生活してきました。 

能の幽玄の世界がそれを表し、また柳田国男の遠野物語などは、現代の日本人に、

その心を取り戻して欲しく、いえ、取り戻さねば国が亡びると・・書かれたものです。 

また、皆さんの中には

もう先に神々の国である黄泉の国に帰られたお子さんや、ご家族が居るかもしれません。

または、ご本人が、もうすぐ帰ろうとしている方もいるかもしれません。 

今日のお話は、その世界が、どんなに神々に近い場所であったか。

全てと繋がった感覚を持って、生きていたか。 

そこは決して暗く冷たく、孤独な世界ではありません。 

・時間、空間の制約のない世界

・愛と思いやりの世界

・光の世界

・調和の世界であったか。 

なぜ、そんな素晴らしい世界から、この苦しみだらけのように見える地球に来たのか。 

ここ地球で、何を得たかったのか。

考えてみる、思い出してみる、良い材料になるかもしれません。 

1981年4月27日 オートバイ事故で、

臨死体験をしている最中の高木善之さんの体験談です。

大手術している所や、家族が嘆き悲しんでいる姿を空中から眺め、 

そして意思疎通が出来ないことを悟った後の出来事です。

<引用開始>

行かなきゃあ でも行きたくない でも行かなきゃあ  

そんな思いで手足をバタバタと動かしてもがいているような感覚。

今、僕はあの病室で死んだのだ。 

この思いは、強烈だった。

死ぬって、こんなことだったのか。

激しいショックだった。

しかし、やがてその事実を受け入れた。

事実は、受け入れざるを得ない。

そして嵐が静まった。 

穏やかになった。

もう何もしなくていいんだ もう全てが終わったんだ

そう思うと、不思議と気持ちが楽になった。

苦しみが去り、私はなめらかに上昇し始めた。 

今までの、もがきや、もつれがなくなり、ス―ッとのぼっていく。  

私の人生は 今 終わった。

したかったこともたくさんある。

でも、出来なかったこともたくさんある。

家族はどうなるんだろうか?

仲間達はどうなるんだろうか?

もっと優しくしておけばよかった。

もっと仲良くしておけばよかった。

ごめんね ・・・  でも 仕方がない。 

もう苦しむこともジタバタすることもない。

あれこれ考えることもない。

何もかもが終わったのだ。 

今、私は死んだのだ。

さよなら みんな さよなら

ありがとう みんな ありがとう

■宇宙へと■

地球が・・・

苦しみが無くなり、なめらかに上昇し始めた。

次第に高度が増し、目の前の風景が遠くなる。

河原の両岸が寄ってきて狭まり小さくなる。

山々も集まってきて小さくなり・・・ 

やがて、四国が見えて小さくなる。

日本が小さくなり、そして、ついに目の前に地球が現れる。

これが、地球なんだ。

これが僕が生きた地球なんだ!

強烈な衝撃! 強烈な映像!

その美しさ! その大きさ!

その厳粛さ! その圧倒的な迫力!

その偉大さ~その美しさに感動!!!

幸せ 満足 充足 至福 の感覚。

突然、激しいショックを感じた。 

それは、思い出した衝撃。 

長い間悩み続けた問いを思い出した衝撃。

誰もが必ず考え、そして、答えが見つからず 

やがて、あきらめてしまう 問い。

自分とは何か 

どこから来たのか 

そして、どこへ行くのか ゛

■光の中へ■

今、目の前に巨大な地球。

本物の地球~三次元の地球! 

立体の地球が圧倒的な迫力で語りかけてくる。

それを見たとたん、激しい衝撃。

生きている。

地球は生きていたんだ。 

魂が揺すぶられる。

感動の涙がこみあげてくる。

今、自分が変わりつつあることがはっきり分かる。

自分が、地球と宇宙とつながっていくような感覚。

ついに分かった。

一生問い続けた 問い。

自分とは何か どこから来たのか そしてどこへ行くのか  

その答えをついに見つけたのだ。  

感動的な答え。 

それは、光。 

すべては ひとつ。 

命は光であり、光の世界から来て、光の世界に帰る。

すべての生命は、一つにつながっている。

ああ、分かった・・・ 

これが分かればすべて分かる。

何のために生まれてきたのかも分かる。 

どのように生きればいいのかも分かる。 

なぜ、こんな簡単な事が、分からなかったのでろう。

すべては一つ。

すべてはつながっているのだ。 

すべての 謎 が解けた。 

すべて 分かった。

もう 何もいらない。

安心 安らぎ 満足 本望 もう 何もいらない。

安心して いくことができる。

安心して 帰ることができる。 

もう 何も いらない。

もう 何も いらない。

暗黒の宇宙の中で、地球だけが美しく輝いている。

周りがゆっくりと明るくなり、音響が湧き上がってくる。

光は、次第に輝きを増し、ハ-モニ-は強まってくる。 

やがて、激しい眩しさに何も見えなくなり、轟音に包まれて、何も聞こえなくなる。

ああ、今から光の世界に帰るのだ。 

自分の周りの強烈な光が、四方八方に飛び散っていく。

光の世界に入って行く・・・

■光の世界■

ここには、何もない。

物質的なものは、何もない。 

しかし ここにはすべてがある。

過去 現在 未来 のすべてがある。

未来永劫がある。 

永遠がある。 

めくるめく~光の波。

無数の映像~無数のフラッシュ。  

自分の過去現在未来のフラッシュ。

自分の未来。

再生-地球環境-平和運動-そして死

<引用終了>

高木さんは、その後生還します。

そしてパナソニックの研究員を辞め、「地球と調和する小さい社会」を目指す

ネットワーク『地球村』(NGO)を作り、ずっと活動されています。

今、生きている私たちは、このような「光の世界」から来たことを忘れ、

日々の生活に忙殺されています。

そして、日々起きる色々な出来事に、一喜一憂して生活しています。

この世界から、地球に生まれる時に、神さまと約束してきたことや、

地球でやりたかったことなど、すっかり忘れています。

それは私たちがここでの生活によって、より深く学べるように、

自ら記憶を一旦消去して来ているために、仕方のないことです。

ですがその代りに、目的遂行のために、様々な出来事が、

身の回りにベストなタイミングで、起こるようにしてあります。

様々な人との出会いがセッティングされており、

その出会いにより、沢山の感情を味わえるようになされています。

喜びも悲しみも、愛情も憎しみも、家族や、友人、同僚などが、その役割を担います。

そして私たちは、予定した寿命が尽きると、予定していた死因により、

元の光の世界に戻って行きます。

私たちは、この「光の世界」から、ここにやって来ました。

すべては一つ、すべては繋がっている世界からやってきました。

それはここ地球でしか味わえない、様々な感情を味わうこと。

魂を向上させること。

人を助けるためです。

あなたは、あと何年したら、そこに戻りますか?

この地球で、沢山の経験をしましたか?

沢山の感情を、味わいましたか?

人に優しくしましたか?

人を憎みましたか?

笑顔を人に向けましたか?

人を愛しましたか?

感謝することは、できましたか?

お陰さまの気持ちで生きてきましたか? 

決して、恨み、つらみ、憎しみの心に囚われたまま

肉体を脱ぐことがありませんように・・・ 

肉体を脱いだ後の世界は 心の世界そのままです。

心の内が、自分を取り巻く世界、現実になります。 

この物質次元に生きていた時よりも、明確にそれが現れてきます。 

どうか皆さんが、内に居らっしゃる神さまに気付き、本来の美しき心を思い出し、 

お幸せになれますように。


2025年12月30日火曜日

4122「心を受け取る」20025.12.30

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月20日の記事を紹介します。


「心を受け取る」


誰かが何かをプレゼントくださった時、もしそれが、自分の嫌いなものだったら

「なんでこんなもの」と嫌な顔するのか?

それとも、相手の方の心をおもんばかり、その人が プレゼントを選ぶ時

・私の笑顔を想像して、選んでくれた物であるから

・私の喜ぶ顔が見たいと思ってくださったから

と物ではなく、相手の方の、その心を受け取って、

笑顔で喜んで、それを受け取るのか? 

あなたはどちらですか?

その時は嫌な顔をしなくとも、相手がいなくなった途端、

ゴミ箱行き・・なんてことはありませんか?

今日は、このことに関して、ブッダのお話をします。

ブッダが亡くなる直接的な原因は「毒キノコ」でした。

<引用開始> 引用元

翌日のこと、仏陀はアーナンダと数名の弟子を連れて、鍛冶職人のチュンダの家に向かった。

仏陀たちは、作法に従って、席についた。食卓には、地方の村にしては豪勢な食事が並んでいた。

食事も終わろうとしていた時、チュンダが言った。

「最後になりますが、とても珍しいキノコのスープを用意いたしました。是非、お召し上がりください」

食卓にそのスープが並べられた。

すると仏陀が

「このスープは、修行者には食べられない。如来しか食べてはいけないものだ。すべて私の前におきなさい」

といったのだ。そして、仏陀一人でアーナンダら修行者に出されたスープを食べてしまったのだった。

その仏陀の姿を見て、修行僧たちは心の中で

(世尊にしては珍しい。いったいどういうことだ)

(世尊はどうされたのだ。あまりにもいやしいではないか・・・)などと思っていた。 

仏陀は、そうした修行僧の心の中を見抜いてはいたが、何も答えず

「残ったスープは、家の隅に穴を掘って埋めてしまうこと。決して、誰も食べてはならない」

とチュンダにきつく命じたのだった。

チュンダの家で、食事を済ませ、一通りの教えを説いた仏陀は、

「他の長者の接待は断るように。すぐに旅に出る。クシナガラを目指そう」

とアーナンダに告げた。 

仏陀たちは、果樹園で修行をしていたの残りの修行僧たちと合流し、旅へと出たのだった。

その途中、仏陀に異変が起きた。激しい腹痛と嘔吐が襲ったのだ。

仏陀は、歩くことができなくなり、木の傍らに身体を横たえた。

「しばらく一人にしてくれ」

仏陀はそういうと、静かに眠り始めた。

その様子を見て、アーナンダたちは一安心し、仏陀のそばを離れたのであった。

しばらくして、不気味な笑い声が響いた。しかし、その声は仏陀にしか聞こえないものだった。

「うわははは。仏陀よ、約束の3カ月が来た。お前ももう終わりだ」

注:マーラーとは悪魔のこと

「マーラか。そろそろ現れるころだと思っていた。約束のことは覚えている。

だからこそ、あの毒キノコのスープを私が引き受けたのだ」

「わははは。バカなヤツだ。わざわざ自分から死を選ぶとは。

あんなものは、弟子に食わせればよかったのだ」

「マーラよ、お前は勘違いをしている。毒キノコのスープはきっかけにしか過ぎない。

あのスープを私が口にしなくても、私には別のことで死が訪れよう。 

それがわかっていて、なぜあのスープを避ける必要があろうか?。

肉体の死へのきっかけを先に延ばせば、さらに苦しみは増大するであろう。 

ましてや、毒キノコのスープとわかっていて、弟子に飲ませる者がいようか?。

マーラよ、お前は何が欲しいのだ?。

私の死が欲しいのであろう?。ならば、静かに待つがよい」 

「ふん、死にかけのくせにエラそうなことを言うな!。

ふっふっふ、しかし、チュンダも罪な奴よ。仏陀を殺した者になるのだからな。 

毒キノコのスープを飲ませ、ブッダを殺した犯人はチュンダだ。

あの者は、多くの人々から罵られ、そしられ、叩かれてひどい目にあうだろう。 

それもお前があのスープを飲んだからだ。

お前が飲まなければ、チュンダも罪を犯さずに済んだものを。

チュンダは、これで地獄行きだな。最も苦しい地獄行きだ。

お前がそうしたのだ、仏陀。お前のおかげで、チュンダは苦しむことになるのだ。

わはははは」

「黙れマーラよ。口を慎むがよい。

チュンダは、地獄に行かぬ。むしろ天界へ生まれ変わるであろう。

仏陀に最後の接待をした者して、大きな功徳を得たのだ。チュンダには罪はない。 

毒キノコのスープが食卓に出たのは、すべて自然の導きであり、真理なのだ」

「くっそ!、あーいえばこー言いやがる。

死にそうでフラフラのくせして、偉そうなこというな!」

「マーラよ。そんな悪態しかつけないとは、見苦しいものだ。哀れなものだ、マーラよ。

私の肉体の死は間もなく汝のものだ。それまで静かに待つがいい」 

そういうと、仏陀の顔色がにわかに戻ったようだった。仏陀は起き上がった。

従者のアーナンダは、

「世尊のこの体調不良は、チュンダのキノコのスープが原因ではありませんか。 

もしそうならば・・・」と仏陀に尋ねた。

「アーナンダよ。私は、もう食事はしない。

水のみを口にする。したがって、チュンダの食事は如来が取った最後の食事である。 

如来の最初に食事を供養した者と如来に最後に食事を供養した者は、同等の功徳を得る。

よいか、誰も決してチュンダを責めてはならぬ。

チュンダには私から話をしよう」と仏陀は、力強く答えたのであった。

仏陀が病で倒れた、と聞いたチュンダは、「もしや・・・」と思っていた。

もしかしたら、あのキノコのスープにあたったのではないかと思い、

どうしていいのかわからず、家の中に閉じこもってしまっていた。 

仏陀の体調が悪いのは、チュンダのせいではないか、という噂もそろそろ出始めていたのだ。

アーナンダは、チュンダの家に行き、

仏陀が快方に向かっているから来るようにと告げた。

チュンダは、大いに喜び、仏陀の元へと向かった。

仏陀は、木にもたれながら、チュンダに優しく話をした。

「チュンダよ、汝の接待は大変良いものであった。気に病むではない。

しかし、キノコには、毒のあるものがある。有毒か無毒かは、専門家にしかわからない。

今後は、山で取ったキノコの料理は控えるがいいであろう。

今まで誰も死者が出なかったのは、たまたま運が良かっただけのことである。

キノコを食べたいのならば、市場で買ってきたほうがよい。 

よいか、チュンダ。汝には罪はない。

私は汝の接待を受けなくても、寿命がやってくるのだ。 

汝の接待を受けなかった場合、おそらくは毒蛇にかまれていたことであろう。 

死というものはそういうものである。 

それが来るときは、山に逃げても海に潜っても、

どこへ逃げ隠れしても、逃れることはできないのだよ。 

だからこそ、今を大切に生きることが必要なのだ。 

チュンダよ、汝、罪を犯さず、善行をし、布施の心を忘れず勤めなさい」

チュンダは、涙を流して喜んだのであった。 

<引用終了> 

ブッダは既に完全なる悟りを開き、宇宙の真理を把握していましたので、 

鍛冶職人のチュンダの接待のキノコスープが、

毒であることは十分にわかっていました。

ですが、ブッダは敢えてそれを拒まず、 

ブッダ達を喜ばせたい、笑顔になっていただきたいというチェンダの心を受け取り、 

お飲みになりました。 

そして亡くなりました。

ですが、決してチェンダを責めることなく、逆に栄誉を与えたのです。

とかく私たちは目に見えるものしか把握できないために物を見て、

・自分に必要の無い物

・嫌いな物

であれば、決して贈ってくださった、その人の心を見ることなく、

嫌な顔したり、すぐに捨てたりと邪見に扱うかもしれません。

私たちは心が織りなす世界に生きています。 

見える世界も、その後ろに控える、広大な見えない世界も、

全ては、私たちのこの小さな体の「心の中」にあります。 

心こそが、全ての世界を包括するものです。 

私たちの起きている全ての現実は、実は私たちの心が決めています。 

心が変われば、全ての世界が変わります。

私たちの心が、温かな思いやりや愛で満たされていれば、

全世界が、そのような暖かな世界に一瞬で変わることでしょう。 

誰かの悪口ばかりを言い回り、憎しみや疑心暗鬼、嫉妬の心でいれば、

全世界が、自分を責め立てる修羅の世界に変わることでしょう。 

どんな時も、相手の方の心を推し量り、大切にしたいものですね。 

物質である物は、そのずっとずっと後からついてきます。 

イエスの黄金律ではこう言っています。

「自分のして欲しいことを、相手の方にして差し上げなさい」 

皆さんが、ご自分の心の中にいらっしゃる神さまに気づき、

お幸せになりますように。


2025年12月29日月曜日

4121「死を選んでも良いですか?」2025.12.29

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月19日の記事を紹介します。


「死を選んでも良いですか?」


今日はショッキングな題名ですが、 

小林正観さんの「投げかけ」とは・・からご紹介します。

いま、自ら命を絶ちたいとお考えの方に向けたメッセージです。 

<転載開始> 

 

それまで一度も会ったことのない人から、こんな質問を受けることがありました。 

毎日が楽しくありません。

死んでしまいたいのですが、自殺してもかまわないでしょうか?

初めて会った方なので、その人がどういう人生を歩んできたのか、

私はまったく知りません。

その人の精神に関して、私がとやかく述べる立場にはありませんし、

そんな資格もありません。

そいういう質問をされたときの、私の答えは必ず同じものでした。

「生死に関して私がとやかく述べる立場ではありませんが、

一つだけ質問があります。 

あなたは今まで『投げかけ』をしてきましたか?」

その問いに返ってくる答えは、必ず決まっていました。

「『投げかけ』って何ですか」

周りの人に喜ばれるように自分が生きてきたならば、

同じように周りの人が、自分を喜ばせてくれるような状況で、

その人は生きているはずなのです。

しかし「投げかけ」をしてこないから 

・何も楽しいことが起きず、

・楽しい状況ではなくて 

生きているわけです。

「死んじゃいたい」というのは、

「楽しいことが何もない」ということを言っているのです。

人間は、喜ばれるとうれしい、という本能を神様からいただきました。

喜ばれるように生きれば生きるほど、自分の中に喜びが湧いてきます。

喜ばれたその瞬間に、自分の喜びが得られるのですから、

十分に対価をいただいているわけですが、 

その喜ばれるという状況を投げかけた結果として、 

さらにその数年後、自分も喜ばれる状況に囲まれることになります。

つまりダブルで喜びがいただけるのです。

「喜ばれるとうれしい」+「同じ状況に自分が囲まれる」 

ということです。

温かさに囲まれたい人は、温かさをたくさん投げかければいいのです。

やさしさに包まれたいのであれば、やさしさをたくさん投げかければいいのです。

不機嫌に囲まれたいのであれば、どんどん不機嫌を投げかければいいのです。

嫌みや皮肉の言葉に囲まれたいのであれば、

嫌みや皮肉をたくさん投げかければよいのです。

宇宙の法則はとても単純で簡単です。

とてもわかりやすい仕組みになっています。 

<転載終了> 

日々の暮らしの中で周りの人から

・ひがみや

・嫉妬

・悪口、陰口

・根も葉もない悪い噂

・一面だけを見た、「悪い人」のレッテル張り 

様々な

・嫌なこと、

・胸の苦しくなること、

・憂鬱になること

・悲しいこと

をされることもあります。

ですが、そのような人たちも、

あえて、その悪役を引き受けて、生まれてくださいました。 

正観さんは、そのことを次のように説明しています。 

<引用開始>

人生で出会う全ての人100%が

「あなたはえらい。好きなようにやりなさい」とか 

「あなたは全て正しい」と言ったとしたら、どんな人もいい気になり、

うぬぼれて傲慢になり、自分を見失い、ダメな人間になるでしょう。

逆に、出会う人全て100%が

「あんたは駄目だ」

「それじゃあいけない」

「間違っている」

「何とかしろ」と言い続けたとしましょう。

言われたほうは委縮し、自信を失い、やる気も失って

やはり駄目になることでしょう。

では、最も確実に人を成長、向上させるのは…。

そうです。

温かい言葉や環境50%、

冷たい言葉や環境50%、

それが最も人間を向上させる。

ですから、人生は常に、

温かい側の人50%、

冷たい側の人50%です。

そのように自分で設計し、

それぞれの人にお願いし、

居てもらったのです。 

<引用終了>

嫌な上司や、同僚、友人、言うことを聞かない家族は、どこの世界にもいます。 

ですが、それにいちいちへこんでしまい、根に持って、自分の心に、毒をため込み 

憎しみの心や、仕返しの心を醸成してしまっては、元も子もありません。 

せっかく、魂を輝かせるために、悪役をお願いしてきたのに・・・ 

ですが、そのような人たちの行動を止める方法もあります。 

正確に言えば、

役割の「目的を完成させてしまう」ということです。 

彼らの目的とは、私たちの前に立ちはだかり、

まるで砥石(とぎいし)のように、私たちの魂を磨き、輝かせることです。 

そして、魂の輝きとは、 

私たちの心が「感謝の心」になったとき、輝きだします。 

悪役の方々の一面だけを見て、憎み、恨むのではなく、 

どこか良いところを見つける努力をすることです。 

鬼心ではなく、仏心だけを見つめることです。 

そして、その部分だけを、クローズアップして、 

そこに感謝すること、「ありがとう」の言葉をかけることです。 

その時、私たちの魂は、輝きだすと同時に、悪役をしてくださった皆さんも 

「喜ばれるとうれしい」という、本能を持っていますから

魂が共鳴して、嬉しくなるのです。

暖かな気持ちになるのです。 

そうなった時、その悪役のお役目は終わります。 

目的であった魂が輝き始めたからです。

その後は、悪役という役割を終え、その方々も、美しき心に満たされ、 

味方に変わってくれることでしょう。

感謝の心、言い換えれば、神さまの心には、 

このように強い力があります。 

是非、みなさんも経験なさってみてくださいね。


2025年12月28日日曜日

4120「青空ひろば」2025.12.28

 今回は立花大敬さんの「大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」」から最新の記事を紹介します。


1602 2025.11.12 ~ 1613 2025.11.27

<黒住宗忠公の紹介>

・宗忠公は、日本的霊性復興の始めの人でした。それで、子の年、子の月、子の日、子の刻にお生まれになりました。

(註)

「子(ね)」は「十二支の始め(日本的霊性復活の始め)。

「音(ね)」は「<はじめに言葉あり>の言葉、世初音(ヨハネ)」。

「根(ね)」は「日本的霊性根ざしの始め」

宗忠公の四柱推命の命式(めいしき)は、陽のかけらもない全陰でした、これは易の坤(こん)の卦にあたります。生まれつきの性格は、とても暗い方であったのですね。

宗忠公は、一年で最も夜が長い、陰気が一番強い「冬至の日」に生まれました。

そして、結核を患い、死に直面した時、「冬至の日」に日の出の太陽を拝んで、太陽神霊が腹に宿り、「天命直授(てんめい じきじゅ)」されて、天から新たな命(いのち)を授かりました。

それ以来、性格が変わり、穏やかで明るい、よく笑う人になりました。人が慕って集まるようになり、それらの人の病が治ったり、元気になったり、運命が改善するようになりました。

あかつきはまだはるかなり高野山 かすかに照らす法(のり)の灯火(ともしび) 弘法大師

月は入り日はまだ出でぬあけぼのに われこそ道のしるべなりけれ

日蓮上人

むかし尊き人のみ歌にかんじ奉り、予が今の心をよめる

月は入り 日の今いづるあけぼのに 我こそみちのはじめ成りけれ

黒住宗忠公


<宗忠公の年譜>

1780年、備前国(岡山)の今村宮の禰宜(ねぎ)の家に生まれる。

今村宮のご祭神:天照大神,春日大神,八幡大神

19歳、「生きながら神とならん」という大志を抱く

(この年、天理教祖 中山ミキ生る)

24歳、伊勢参宮(当時、往復滞在で1ヶ月ほど要した)

33歳、父母、相次いで死去。

34歳、11月頃より臥床。次第に病が重くなり、死に瀕する。

35歳、11月11日(冬至の日)に天命直授(てんめいじきじゅ)され病気全快。

(この年、金光教祖 川手文治郎生まる)

36歳、講釈とまじない(ヒーリング)による布教開始

45歳、伊勢参宮

46歳、一千日参籠(おこもり)開始

49歳、一千日参籠満願

51歳、百社参り開始

52歳、伊勢参宮

54歳、伊勢参宮

56歳、伊勢参宮

66歳、伊勢参宮  

伊勢の神官に「神前で何を願って祈っておられるのですか」という質問に対して、「私はほかに祈ることはありません。ただ天照大神さまの御開運を祈っています」と答えた。

70歳、病臥

71歳、死去


<宗忠公、天命直授前後のいきさつ>

○ 心の切り替え

(34歳)1月19日 両親の死去で傷心の末、病(肺結核)となり、医師も匙(さじ)を投げ、占いの結果も「必死」と出て、覚悟を決めて死を待った。

「自分は死んだら神となって、世の病に苦しむ人たちを救いたい」と心に誓った。

その時、ふと気付いた事。「自分は父母の死を悲しんで<陰気>になったために大病となったのだから、心さえ<陽気>になれば病は治るはずだ。せめて残る息のある間だけでも、そのように心を養うのが孝行である」と思い定め、有り難いこと、面白いこと、楽しいことに心を向けて、心を養うと、不思議なことには、その時を境にして病が次第に軽くなった。

○ 肺結核 癒される

(34歳)3月19日 入浴して日拝(にっぱい)したいと言い出した(妻はとめる)。

入浴を終えて縁側に這い出でて太陽を拝むと、太陽の陽気が肺腑に照り徹るように感じ、肺の病いが癒えたと実感した。

○ 天命直授

(35歳)11月11日(冬至の日の朝)、日拝すると、太陽の陽気が全身に浸透して満ち渡り、身に迫ってくる一団の温かい玉(魂、太陽神霊)をしっかり胸におさめ、まるごと呑み込んで腹に収まったと思うと、なんとも喩えようのない、さわやかな、よい気分になった。「笛を吹き、糸を調べ、金をたたき、鼓を鳴らして歌い舞うとも及びがたい」ほどの楽しさで、身心とみに快活となった。「天地生々(てんちせいせい)の霊機(いきもの)>を自得したと表現しておられる。 


<宗忠公の講釈の一例(現代語意訳)>          

「私の講釈は、何かの書物に基づいて説くということはなく、説くたびに<天命のままに説く>のですから、東と言ったかと思えば西と言い、

有ると言ったかと思うと無しと説いたりします。

ですから聞き様がとても大切なのです。学問がある人は、その学問を捨て、世に知られた智者、徳者であろうとも、持ち前の定規を捨て、一切、我を離れ(アタマの判断をしばらく止めて)、ただ一心に聴聞(ちょうもん、素直に、全身を耳にして聞くこと)されなければ、少しも聞こえません(宗忠公の波動を全身心に取り込んで自らの振動とすることが出来ない)。

およそ、天地の間に、万物を生み生かし養育される、その根源は、皆、天照大神(太陽神霊、日神)さまなのです。この日神さまこそ万物の親神(万物は日神さまによって生み出された日子)で、そこから放たれる御陽気が天地にみちわたり、一切万物が、その光明と温暖につつまれて生々養育されて息む時がないのです。まことにありがたいことではありませんか。

おのおのの全身に暖気があるのは、日神さまより授かっている『心』が備わっているゆえなのです(人の心と日神の心は結ばれて一つ)。

『心』は『こごる(凝る)』という語源で、日神さまの御陽気が凝結って『心』となったのです。

我欲や捻じ曲がった思いで『心』の純粋な陽気を覆って陰気にしてしまわなければ、あなたがたの『心』は、日神さまの『心』と一体なのです(そうすれば、「陽気暮らし」が開けてきて,「あいよかけよ」の「日の寄進」への道が伸びてくる)。

『心』が主人(原因)で、形(現象)は家来なのです。悟れば『心』が身を使い、迷えば身が『心』を使います。

どんなつらいことが形の世界(結果の世界)に現れても、そんな形の事は打ち忘れて、『心』だけは日神さまのおぼしめしにお任せして、見ること、聞くことをおろそかにせず、一々味わってありがたさをかみ締め、昼夜、ありがたいこと、嬉しいことに『心』を寄せる。そうすると日神さまの御陽気が次第次第に貯えられてくるので、その日神さまから賜った御陽気をしっかり下腹に収め、天地と共に気を養い、面白く、楽しく、『心』がたるむことがないように(陽気の充電切れにならないように)生きてゆくと、活き活き伸び伸びした、しあわせな人生が送れるようになるのです。

活き活き生きるが日神さまの道、面白く楽しく生きてほしいと願っておられるのが日神さまの御心なのです(イノチの本来性)。

そのように生きられるようになれば、アタマであれこれ思量分別しなくても、人生の歩み方の教えは天より降り、私たちが進むべき道は自然と天より示されます(充ち満ちてあふるるものが道となり これを歩めと伸びてゆくなり)。

日神さまと一心同体に生きてゆくという誠を取り外してはいけません。

天の任せなさい。我欲を離れなさい。命の内側からフツフツとあふれ出してくる日神さまの御陽気に従って道を歩みなさい。

古の聖人方の『心』には形がありません(無心)。今の私たちの『心』にも、本来、形はありません。

『心』のみとなって形(現象)を忘れる時は、今も神代、神代今日。

 世の中のことは『心』ほどづつのことなのです。

『心』が神になれば即ち神です。

この左京(宗忠公の本名、宗忠は名乗り)が瀬踏みをしましょう。皆々私についておいでなさい。


スウェーデンボルグ(1688-1772)によると、天界の中央に不動の「太陽神霊」が存在しており、その太陽から光(智慧)と熱(愛)が地上世界に注がれているのです。

人(万物)はそのおかげでイノチを得ています。これを神道では「日足し(ひたし)」と呼んでいます。「ひたし」とは、養育することです。私たちがイノチを存続して成長してゆけるのは、太陽神霊の養いによるのです。

人にはその「太陽神霊」から注がれる智慧の光と愛の熱量を受け入れる器である「天の御蔭(あめのみかげ)」と「日の御蔭(ひのみかげ)」という器が、生まれつき備わっています。「御蔭」は「倉庫」という意味です。

「天の御蔭」は太陽神霊から届くメッセージを貯え、「日の御蔭」は太陽神霊から届く生命エネルギーを貯えます。

また、最高天界の神殿は簡素な木造なのだそうです。下のレベルの天界ほど、神殿は荘厳な石造だったとスウェーデンボルグは報告しています。これは、下の天界ではまだ他と張り合う気持ちがまだ残っているので、その心境が投影されてそのようになるのでしょう。

伊勢神宮は、一見素朴な木造で、これは最高天界の神殿を地上界に映し(移し)たものだと思います。

また、天界の住人は顔を常に霊界の太陽に向けており(これが神道の「面白(おもしろ)」=顔が太陽光を受けて著しく輝いている様子)、地獄界の住人は顔を常に霊界の太陽から背けているのだそうです。

そして、天界の住人も旅行するのですが、どの方向に向って進んでも、常に面前に太陽があるのだから、天界の住人の歩みは常に太陽に向う歩みとなるのですね。これが神道の「日向(ひむか)」ですね。

地獄界の住民の歩みは天界の逆で、常に霊界の太陽に背を向けて進むことになって、ますます暗い世界に向かってしまうのです。


<宗忠公のまじない法(ヒーリング)>

① 下腹に陽気を収める。 

「何事も天命にお任せ、とかく下腹に御心をしずめ、すなわち雷復の卦の如くに陽気自然と発し候ようになされ候えば、開運なされずと申候事御座なく候」

② 患部に手を当てる。

③ 陽気を吹きかける。

「有るものは皆吹き払え 大空の無きこそ元の住家(すみか)なりけれ」と称える。

④ 遠隔にいる人のために祈れば「幸魂(さきみたま)」が往って働く。

⑤ 言葉の力。形は死に物、心こそがイキモノ。形のことはとにもかくにも、心にオミキ(お神酒,お三キ)を供えることを忘れないように。

(註)「お三キ」とは、

有がたキ また面白キ 嬉しキと みキ(三つの「き」、御神酒)をそのふ(供ふ)ぞ信(まこと)成りけれ

⑥ 「笑い」修行。これで肺病の人が快癒した。

⑦ 「ありがたし」を繰り返し称える行 岡山藩の高禄の家来の癩病(ライ病)がこの行で快癒した。

<宗忠公の教え まとめ>

・人は天照大神の「御心」を分与されている→人の「心」と天照大神の「心」は今もひとつに結ばれている。

・各人の「心」の本来性は「陽気・生々・創造」である。

・人の「腹立ち」、「物思い・煩い」が「心」を覆い「陰気」にする。

・「陰気」は生命力の減退させ、おっくうになり、身心の病や不幸な出来事を引き寄せる。

・「心を養う」ことが大切。養う方法は、

a.無心を養う(坐禅、お経・祝詞、寺社参拝)

b.今・ココを、丁寧に味わう

c.「ミキ(有難き・面白き・嬉しき)」をお供えする。

d.「難有りが有難し」とすぐ切り換える。

(完)


1601 2025.11.11

<人生が暗闇の時の心得>

・日の出前の夜闇が一番暗いことを知っておこう。絶望しないで…。

・日は必ず昇る(それが「天の循環の理」)という明るい希望を捨てないように。

呪文「一陽来復(いちよう らいふく)、きっとよくなる。ドンドンよくなる」

・日の出が始まったと、先走りしてとび出してはいけない。「陽気」が定まるまで、じっくり準備し、計画を練っておくこと(反復練習)。

・あせって暴走しがちな時期になった。脱線したと気付いたら、早めに撤退してもとの位置に復帰すること。

・気を降下させる。下腹部と足で呼吸するとイメージする。

・日の出を拝み、太陽を腹に収めるとイメージする。

・「坤(大地)」のオオクニヌシ様,「震(雷)」の天神(またはスサノヲ)様,「陽(日)」のアマテラス様の三社参りをする。


1599 2025.11.09 ~ 1600 2025.11.10

Q.「鎮魂祭」ではどんな神事が行われているのですか?

A.

(1)宇気槽の儀(うきふねのぎ):宇気槽という名の箱に女官が乗って、桙(ほこ)で宇気槽の底を10回突く(「猿女(さるめ)の鎮魂」)。

(2)魂振の儀(たまふりのぎ):天皇の衣装を左右に10回振る。

<応用1>箱の中に自ら(元気を回復させたい人)の写真を収め、

(1)「鎮魂の数歌」を称えながら、箱を10回突く(その人の魂を活性化させる行事)。

(2)「鎮魂の数歌」を称えながら、箱を10回揺する(その人の元気を揺り起こす行事)。

<鎮魂の数歌>

一二三四(ひふみよ) 五六七八(いむなや) 九十(ここのたり) 百千萬(ももちよろうず) 

(意味):日踏みよ 嫌むなや 個々の足り 百霊(力)結集

<「鎮魂祭」の 応用2>

(1)日の出の太陽を拝み、太陽神霊を腹に収めるとイメージする。

(2)「一陽来復(いちよう らいふく)」と称える(黙称する)。

(註)百日行うとおかげがあると、古来伝えられています。(完)


1598 2025.11.08 

Q.「鎮魂祭(ちんこんさい、みたましずめのまつり)」とは、どういうお祀りですか?

A.

冬至の頃に、弱りきった天皇さまの体内の太陽神霊を復活させるために宮中で行われる祭りです。石上神宮(奈良県)、彌彦神社(新潟県)、物部神社(島根県)でも同様の神事が行われています。


2025年12月27日土曜日

4119「お陰さまの心」2025.12.27

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月18日の記事を紹介します。


「お陰さまの心」


今日のテーマはお陰さまの心です。 

本当に、本当に大切なことです。 

人間の一生の、幸、不幸を左右するほどの力があります。 

この「お陰さま」の心は、日本人固有の意識のようで、

英語に正しく翻訳することができないのだそうです。 

敢えて言うなら

・Luckily 「ラッキーなことに」

・Fortunately 「幸運なことに」

しかないそうです。 

でも、私たちがこの言葉を使う時、そんな薄っぺらい意味では使っていません。 

もっと、温かで、敬虔な、見えない物、神さま、先祖、周りの方がたに

深い感謝の気持ちを含んでいます。 

ここで、上所重助さんの詩をご紹介します。  

<引用開始> 引用元

夏が来ると「冬がいい」と言う

冬が来ると「夏がいい」と言う

太ると「痩せたい」と言い

痩せると「太りたい」と言う

忙しいと「暇になりたい」と言い

暇になると「忙しい方がいい」と言う

自分に都合のいい人は「善い人だ」と言い

自分に都合が悪くなると「悪い人だ」と言う

借りた傘も 雨が上がれば邪魔になる

金を持てば 古びた女房が邪魔になる

所帯を持てば 親さえも邪魔になる

衣食住は昔に比べりゃ天国だが

上を見て不平不満の明け暮れ

隣を見て愚痴ばかり

どうして自分を見つめないのか

静かに考えてみるがよい

一体自分とは何なのか

親のおかげ

先生のおかげ

世間様のおかげの固まりが自分ではないか

つまらぬ自我妄執を捨てて

得手勝手を慎んだら

世の中はきっと明るくなるだろう

「俺が」、「俺が」を捨てて

「おかげさまで」、「おかげさまで」と暮らしたい 

<引用終了> 

神社にて御祈願をする時、ふと迷うことがあります。 

・開運福寿 

にしようか? 

・厄災難除 

にするか? 

皆さんなら、どちらにしますか? 

・ちょっとぐらい災難に見舞われても、

 ツキがどんどん入ってくる人生が良いか?

・大きな幸運が来なくとも、平凡な日々でも

 平穏無事で暮らせる人生が良いか? 

私は、何もなくとも、平穏無事な方を選びました。

病気や事故。

経験したことのある方ならお分かりなように、健康だった時、

何気なく過ごしていた毎日が、どれだけ幸せだったか、 

気づく人もいることでしょう。

また、どれだけ私たちの肉体が、

沢山の細胞やその他の調和・バランスの上に、

維持されていたのかに気づく人もいるでしょう。

何かが少し欠けただけで、不調になっただけで、 

肉体の健康を維持することができなくなります。

全ての細胞たちが、自分の役割を全うし、調和して働いているが故に、 

私たちは、何気ない日々を送ることができるのです。

その調和を維持しているのは誰ですか?

その設計図を書いたのは誰ですか?  

ダーウィンですか?

勝手に肉体が動いているから、そうなっているのですか?

違います。

全ては神さまが設計し、そしてそれを一瞬一瞬、維持してくださっているからです。

病気で入院などすると、それに気付くことができます。 

そして、そこには感謝しかありません。

そういう意味では病気も、事故も、意味のあることです。

それを、私たちが生まれる前に、人生のシナリオの中に、

組み込んでくるのも分かります。

そういった「お陰さまの力」を何も知らず、気付かず、 

おのれ一人の力で生きているという、傲慢なまま人生を終えて、

何の価値があるでしょうか。

宇宙の仕組み、神さまの存在、

お互いさまで、生きていることに気づくこと。

助け合うこと、互いを尊重すること、

傲慢にならないこと。

全ての全てに、真心をこめて、優しく接すること。。

このこと以上に、私たちが生まれてきた意味において、

大切なことは無いのかもしれません。


2025年12月26日金曜日

4118「神さまと繋がる人」2025.12.26

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月17日の記事を紹介します。


「神さまと繋がる人」


毎日ブログを書いていますが、 

主に

・悩んでいる方、

・苦しんでいる方、

・泣いている方 

向けの記事が多いです。 

記事を通じ、苦しんでいらっしゃる方々が、

ご自分の内に居らっしゃる神さまとの結びつきを強化し、

本当のお幸せになってくれることを願って書いています。 

人に頼るのではなく、それは、一番の大本、つまり内なる神さまと繋がることが

一番効果的で、かつ永続性があると思うからです。 

根本のことですから。 

私たち存在する者は、目に見えるもの、見えないもの、

これら全てが、元は源の神さまから発生しています。 

ですから、生まれる前の記憶(中間世記憶)がある子どもたちが言うように、 

私たちが生まれてきた目的の一つに、魂の進化、

と言うのが、必ずあげられているのです。 

魂の進化とは、要するに、最終的に源の神さまと一体化すると言うことです。 

私たちが出て来た魂の大本へ戻ると言うことです。 

これをチベットやヒマラヤの聖者の方々は、「キリストのヨーガ」と呼んでいます。 

ですから、自分の中の神さまを信じると言うことは、

その目的のための大きな一歩となります。

またもう一つ重要視しているのが・・・ 

ブッダとその僧団(サンガ)達の時空を越えた壮大な計画を、 

ブッダを信じる小さき者として、ハチドリのひとしずくかもしれませんが、 

何か協力できることはないかと思っているからです。

2,500年前にブッダが生まれ、人類の精神性は目覚ましく進歩しましたが、

どうもブッダのグループは、生まれ変わりの最小公倍数である1.200年ごとに集まり、

同時に地球に転生し、それぞれ別の切り口で人類を教化していらっしゃるようなのです。 

ブッダの生きた時代は、八正道を方法論にした自力、

つまり自灯明・法灯明(じとうみょう、ほうとうみょう)でした。 

この意味は人や神様に頼らず、自力で人生を切り開いて行くこと。 

ブッダの教えてくれた法を頼りにすること。

これはブッダが亡くなる直前、

従者アーナンダが人間、ブッダに縋りつく姿を見ての最後の教えでした。

ブッダや、神に頼らず、今まで長い年月掛けた「教え」そのもの。

「法」そのものを頼りに進め!! と言う事です。

そして、それから1200年後の空海の時代、

ブッダを中心に再び集まったブッダ僧団の方法論は、 

今度は宇宙の根本法則である大日如来(神さま)の存在を人々に教えることでした。

そして、それから1200年。丁度今の時代です。

それは、空海時代のように、偉大なる存在を自分の外に見つけることでなく、 

また再びブッダの時代と同じく、自力でありながらも、偉大なる(神のような

絶対的な宇宙の根本法則である神さまの)存在を、

自分の内に見い出しなさいという、ブッダ、そして空海。

2つの時代の融合し、発展させたものではないかということです。 

これが2500年の時の流れの中で、人間の魂を進化させるための、

ブッダ達グループの壮大な計画ではないかと思うからです。 

「神さまを信じる人は幸せになれる」と良く言われています。

神さまを信じる・・と言っても、何か宗教組織、団体に入信し、

厳粛で宗教的な生活を送らなくても良いと思うのです。

ただ、神仏に対して、敬虔に敬う信仰心を持つだけでも大丈夫です。

この宇宙は見えている世界だけでなく、その何万倍もの見えない世界があり、

成り立っていると言われています。 

現に人間の見える光の波長も、ほんの小さな範囲でしかありません。

動物や昆虫は、もっと広い範囲を見ています。

音も同じです。

人間は小さな可聴範囲の音しか聞こえません。

私たちが認識している世界よりも、はるか巨大な世界が存在し、

それら全てと私たちは繋がっています。

もし神さまの存在を信じていなければ、生きて行く上で遭遇する色んな出来事 例えば

・生まれる

・人との出会い・別れ

・結婚、子供、家族・不仲・登校拒否・いじめ

・就職、会社でのいじめ、嫌がらせ、パワハラ、セクハラ

・ケガ・病気・事故

・貧乏な時期、裕福な時期

・幸せな時期、苦汁をなめる時期

・ケンカする時、仲良くする時

・怒る、イライラするキッカケ、タイミング

・死ぬ時

などが全て偶然に発生しており、これらに全部自分一人の力や知恵だけで

対処しなければならない・・ 

そういった非常に困難で、孤独な立場に置かれます。

その結果、未来に対する不安でいっぱいとなり、うつ状態となってしまいます。

そして、そうならないために、それを打ち消すために、

常に何かに追われるように必死に努力し、 

・人より上の立場に立とう、

・お金を儲けよう、

・損することは絶対にしない、

それを家族にも強制する・・ 

など非常に精神的に不安定で殺伐としており、生きていても楽しくもないし、

追い込まれた、あせりの状態に置かれてしまいます。

これが年間自殺者10万人を超えると言われる日本の現実です。

15~39歳の死因で、自殺がガンや事故などを上回り、

死因の1位となっている現実を生みだしています。

さてここで、小林正観さんの

「なぜ、神さまを信じる人は幸せなのか?」からご紹介します。

<引用開始> 引用元 

「正観さんのお話を聞いて、

1週間ぐらいは調子がいいんですが、すぐ忘れてしまいます。

ずっと忘れないようにするには、どうしたらいいでしょうか」 

という質問がよくあるのですが、忘れないためには、どうすればいいか。 

それは《実践をし続ける》ことなのですね。 

「いい話だったなあー」で終わってしまうと、3日後ぐらいには忘れていますけど、 

毎日、「ありがとう」を言い続けたり、トイレ掃除をし続けたりすることで、

目の前にいろいろな奇跡や、思いがけない嬉しい現象が起きてきます。 

自分も元気になるし、仕事も人間関係もスムーズに流れ出しますので、

実践するのが楽しくなるのですね。 

話の内容を忘れないためには「忘れないぞ」と気合を入れるのではなく、

実践をし続けることですね。 

すると、面白い現象があまりに頻繁に出てくるので、

引き続きやりたくてしょうがなくなります。 

私の中には「やらなければならない」というのはまったくなくて、 

「ありがとう」を言うのも、トイレ掃除をするのも全部損得勘定ですから。 

損得勘定でやると続くのです。 

どんなに下心があって、野心があったとしても、 

実際にそれをやった人を《実践者》と言います。 

例えば、電車に乗っていて、おばあさんが乗ってきた。 

ある男は、おばあさんに席を譲ってあげたいと思った。 

自分の中では、人によく思われたいとか、評価されたいとかはまったくないけれど、 

人の目が気になって、席を譲ると恥ずかしい気がして譲らなかった。 

それに対して、もう一人の男は、おばあさんが乗ってきたとき、

目の前にきれいな女の人がいたので、この女性によく思われたいと思って、

邪心と野心の塊で席を譲ったとしましょう。 

さて、邪心の塊で席を譲った男と、すごく美しい心で席を立てなかった男と、

どちらを神さまが喜んでいるだろうか。 

多分、席を立った男のほうに、

微笑(ほほえ)みかけているのではないかと思うのです。 

動機はどうであれ、席を譲った瞬間に、

宇宙に一つ《喜ばれること》が生まれたのですから。 

邪心や下心が全く無い人というのは、

神の領域ですから、肉体を与えらえてはいません。 

人間としては卒業してしまっている。 

肉体を持っているということは、

人間としての様々な体験をまだしたいということですから、 

損得勘定でやっていくことは、とても自然なことだと思います。 

100%美しい心でやっていこうと、考えなくてもいいですから 

「究極の損得勘定ができる人、究極の欲深い人になってください」と伝えています。 

宇宙構造を40年研究してきて、損得勘定でないものは、どうもないようです。 

どのような分野でも、人に喜ばれるような生き方というのは、

すべて自分にとっての損得勘定で言えば“得”になっています。 

人に喜ばれることをして、自分が圧倒的に損だ、ということはないのです。 

さらに言えば、みんながいやがってしたくないようなことは、

一単位あたりの“得”の密度が高いみたいです。 

トイレ掃除は、その最たるものです。 

そういうことを実践している人が何かを始めようとすると、

あっという間に支援がきます。 

それは、その人が望みを実現させようとか、目標に到達しようとがんばっているわけではなくて、ただ毎日“徳”を積んでいるだけなのです。 

まさに、人徳の“徳”とは、損得の“得”なのです。 

心の中で、どんなに善きことを考えていたとしても、

それが実行に移されなかったら、それはないのと同じ。 

「ありがとう」という感謝の言葉も、「笑顔」も、「気くばり」も、

「優しい言葉」も、「席をゆずること」も、

心で思っているだけなら、ただの絵に描いたモチにすぎない。 

どんなに強烈に願おうと、深く想おうと、それは同じこと。 

たとえば、喫茶店で注文するとき、

どんなに強く心の中で「紅茶が飲みたい」と願ったとしても、 

「コーヒーください」とひとこと言ったらコーヒーが出てくる。 

神さまも同じで、心の中がどうであれ、

現象として現れた「言葉」なり「行動」を評価するという。

よき実践者をめざしたい。 

<引用終了>

神さまを信じるとは、宗教組織に入ることではありません。

ただ私達の心の中に居らっしゃる神さまを信じるだけです。

神様の存在を信じて、考えたり行動すると、 

正観さんの仰るように、精神が安定するだけでなく、 自然界からの応援が得られて、 

活き活きとした人生を送れます。

そして家族も幸せになることが出来るのではないかと思います。

また神さまを信じれる人は、中間世の記憶を持って生まれて来た子供たちが言うように、

私たちは生まれる前に、神さまと一緒に、どのような人生を送るか計画を立て、

・人の役に立つため

・魂の進化をするため 

にこの地球に生まれて来たことを、信じることができるでしょう。

私たちは神さまと共に、生まれる前に、

生きている間に起こる全ての出来事を決めてきました。

ですから、何が起ころうと、神さまの名のもとに、絶対に大丈夫なようにできています。

私たちが人生において選択する全てのことは、私たちが、そのどちらを選ぼうと、 

結果的に生まれる前に決めて来た通りを、選択するようになっています。

ですから、どちらを選ぼうと、どちらに転んでも大丈夫なようにできています。

これほどの救いの事実があるでしょうか?

この真実は神さまを信じる方が得ることのできる、大きな安心と、

生きて行くための躍動感、優しさ、愛のエネルギー源となります。

私たちは、自分の期待していた状況と、現実が異なってくれば、

「あぁ、もうだめだ」

「あの時、あんな選択をしなければよかった」

そう思いがちですが、神さまは、その苦労の先(後に)に、私たちを生かしてくれる道を

既に準備してくださっていたのです。

皆様が内に居らっしゃる神さまと繋がり、お幸せになられますように。