2016年3月18日金曜日

588「観音6」2016.3.16

 3月6日、33観音巡りの2日目の朝を迎えました。曇りで部屋からの松島の景色も重く雲に覆われています。6時からの露天風呂は格別です。皆さんもすっきりとして朝食会場に勢ぞろいです。美味しく頂き8時の出発まで寛ぎタイム。中山さんは昨晩の皆さんへのお言葉を清書してくださるとのことで、ありがたいことです。

 今日の巡りの初めは33観音の中でも奥州3観音と言われる富山観音、牧山観音、箆岳観音を午前中に巡ります。午後からは奥州7観音といわれる午前の3観音の残りの4観音の、清水寺、長谷寺、華足寺、大勝寺、その他を巡りますので33観音の中でも重要視される観音巡りになります。
 奥州3観音は坂上田村麻呂に所縁のところで、征服した蝦夷の遺体を埋めた地で鎮魂、封印されて観音様をお祀りした、と言われています。

 最初に松島町にある第7番札所大仰寺の富山観音です。富山の山頂にあり、臨済宗のお寺で 千手観世音菩薩がお祀りされています。富山は標高116mほどの松島湾の北に位置する山でその眺望は素晴らしく、松島四大観として有名です。しかし今日は生憎の曇りで全くその天下の絶景を見る事はできません。


ここは伊達様と所縁が深く興味深い歴史があります。以下にその内容を引用します。

「山頂の観音堂は坂上田村麻呂が大同年間に慈覚大師円仁作の観音を安置したものというのですが、はて、私の頭の中の年表に基づくならば田村麻呂と円仁が同時代にこの地を舞台にしていたと考えるにはかなりのギャップがあります。
 田村麻呂がアテルイやモレを降伏させたのは延暦21年(801)であり、伝承にある大同年間とは西暦でいうところの806年から810年までの年号です。この頃は、慈覚大師円仁などまだ歴史の表舞台には存在せず、むしろその師である伝教大師最澄や、そのライバル弘法大師空海が帰朝していよいよ平安仏教旋風を巻き起こし始めた時代です。円仁が入唐して密教を究めて帰朝したのは承和14年(847)のことですから、富山観音が田村麻呂によって安置されたものと信じるならば、円仁の作であるというセンはほぼあり得ないと断定してよさそうです。
 あるいは田村麻呂が安置したという伝承が偽りなのでしょうか。しかし私は田村麻呂については少なくともなんらかの真実があったのではないか、と考えております。
 それは、現存するこの観音堂は伊達政宗の長女である「五郎八(いろは)姫」、すなわち天麟院が山口重如なる人物に命じて修理させたものである、と夢庵の『松島記』にあり、しかもその天麟院が並々ならぬ思いで取り組んでいたフシがあるからです。
 天麟院の命令で山口重如が観音堂の修理にとりかかる際、周囲には大木が多かったようです。これではせっかくの眺望を妨げるという理由で、重如はそれを伐採しようとしたのだそうです。
 このとき天麟院は厳しくさとしました。伐採を決して許さなかったのです。なにやら天麟院のこの観音堂にかける強い思いが伝わってまいります。
 それが何故田村麻呂の信憑性につながるかというと、天麟院の母親、すなわち政宗の正室である愛姫(めごひめ)が三春――現福島県――の田村家の女であり、三春田村家とは代々坂上田村麻呂を始祖と仰ぐ一族であり、それを信じるなら天麟院は田村麻呂の裔孫ということになり、それ故にこの観音堂にかける思いが強かったのではないか、と考えることも出来ると思うからです。
 ちなみに、天麟院すなわち五郎八姫といえば、政宗の最後の野心の切り札でもありました。
 彼女は、徳川家康の6男松平忠輝に嫁いでおりましたが、やがて大坂の陣で豊臣家が滅びて以降、事実上抜きんでた実力者となってしまった政宗が、舅として徳川家の執権と化す可能性を徳川家は恐れたのでしょうか、忠輝は改易され、五郎八姫も離縁され政宗のもとに返されました。
 そもそも、大名同士の婚姻を禁止した豊臣秀吉の御法度を破ってまで実現された徳川家康の息子と伊達政宗の娘の政略結婚でありましたが、五郎八姫はそれでも忠輝を愛してやまなかったようで、出戻りとなった以降も新たに夫を持つことはなく、天麟院と名乗る尼として生涯を閉じました。
 富山にはこの天麟院の逸話以外にも、かつてはやはり霊地としてそれなりに一級品であったことを思わせる話があります。
 『松島町誌』によれば、寛文年中山頂すぐ下の「富春山 大仰寺」という寺に、瑞巌寺の僧「洞水」が十年不帰の誓いを立ててひそかに入山していたのだそうです。
 松島湾においてそのような行に最もふさわしい霊地といえば、真っ先に思い浮かぶのは雄島である気もするのですが、とにかく、この洞水という僧は何故か富山を選択しました。
 「“ひそかに”入山した」と伝わっている部分が気になっておりますが、残念ながらそれ以上の情報は得ておりませんのでなんとも言えません。
 いずれ、それが秘されなければならない理由が、入山そのものにあるのか、それとも富山という場所にあるのかはとても気なっております。お気付きのとおり、なにしろこの山の名前は“トミ”ヤマなのです。
 さて、その大仰寺には、明治天皇や大正天皇が東北地方を御巡幸されたときにご休憩所とされた「紫雲閣」があります。陛下ははたしてどのような基準で立ち寄り地を選定されていたのでしょうか。
 おそらく単なる偶然なのでしょうが、天皇陛下が立ち寄られたという場所には往々にして私の好奇心を刺激するキーワードが多いのも事実です。
 ところで、奥州三観音全てに言えることなのですが、これらの地には各々エミシの酋長の首を埋めたものというような伝承があります。
 ちなみに富山の場合、大竹丸――大嶽丸――という酋長の首を埋めたところとも伝えられております。」
 http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/23450323.html
 観音堂の前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「さあ、さあ皆々様方、参りましょうぞ。これより始まる極楽浄土。
皆々、その身の中へと作り、しっかり頂て、変わらずに、大きなる峠を越し行きて、開けば晴れて、真のあなた様、嬉しき、嬉しき、嬉しきなり。いざ、いざ参りましょう。」8:55



 富山を下り石巻市の牧山に向かいます。その車中に以下のお言葉がありました。
「必ず、必ず、きっと、きっと、この身と共々参りて致すは、大いなる真の伝えなり。
 響きたるこの身は、本日、新たなるを出だして参る。
 新たなると成りたれば、ゆるゆる、晴れるや。」9:14

 お言葉によると今日、新たなるを出だすとあり、新たになればゆるゆる晴れるとあります。
 果たした如何成るのでしょうか。楽しみに車を進めました。

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