神社への初詣は終えて、いよいよ奥州33観音の下見です。1番から3番までは確認できたらと思って車を進めました。この3箇所は名取市高館の同じ町内にありますので簡単に巡れると思っていたのですが、そうは簡単ではありませんでした。
先ずは1番札所の那智山紹楽寺は高館山の麓の道の奥にありました。立派な曹洞宗のお寺です。ここには十一面観世音菩薩が祀られてあります、以下の様な表記があります。
「御本尊は十一面観世音菩薩で秘仏である。当寺の開創は古く、尊像は養老三年(719)、今の名取市閖上の浜より出現、用明帝のとき七間四面の堂建立とあり。二番、三番札所と同じく名取熊野三山神社の別当寺として古くより栄え、長い間に幾多の盛衰を繰り返す。慶長元年(1596)火災の為全焼し現在に至る。又、保安四年(1123)名取老女旭、紀州那智観音を茲に分霊し、那智十一面観音と改称したと伝わる」
境内に入って左手に大きな観音様の石像があり、光が丁度降り注いでいました。説明文に那智十一面観世音菩薩分霊像とあります。そこにはご本尊は山頂にあると記されてあります。えっ!ひょっとして那智熊野神社の車道を左に下ったあのお堂のことかと思いました。今回は住所だけ調べて詳しい下調べはまだしっかりしないで来たのです。時間があれば回ることにして次の札所に向かいました。
2番札所の天苗山秀麓斎です。紹楽寺から5分ほどのところです。高館山の裾野に広がる曹洞宗のお寺でお墓も沢山で、大きなお寺です。3,11観世音菩薩もあり、先の震災の慰霊塔のようです。聖観世音菩薩が祀られているお寺で以下の様な紹介があります。
「お寺ですが「齋」という名です。全国でも珍しく、日本三齋の一つといわれ、創建は延暦17年(798)征夷大将軍坂上田村麻呂が奥州に蝦夷平定の軍を進めるにあたり戦勝と天下泰平を祈願するため、信仰する西国清水寺の観世音をこの地に勧請したことに始まります。ご本尊 聖観世音菩薩は別名「利勝観音」と称し、坂上田村麻呂の戦勝を祈願し、そのご加護により大任を果たし得たという故事に因むものです。」
次の3番札所の桑島山金剛寺も住所でナビを設定すると数分のところです。しかしその場所にはそれらしきお寺がありません。細い道を通ったりして生垣の枝に車を擦ったりしながらうろうろです。インターネットで再検索しても住所に間違いがありません。何度目かのサイトで違う場所が出ました。そこに向かうと道路脇の小さな広場の奥にお宮があり、石塔に「奥州三番川上十一面観音堂」と記されてあります。公園のようですが川上生活センターという集会所があり、新年会でしょうか賑やかに酒宴をしていました。
十一面観菩薩が祀られてあります。後で調べたら以下の様な記載がありました。
「御本尊十一面観音菩薩は2m余りの木造で、金箔仕上げ、慈覚大師の作とつたわっています。往時の別当寺は金剛寺で、観音堂から南西500m先にあるが、無住で文献も少なく由緒不明である。伝承によると、用明天皇時代(585~587)の創建。
現在は金剛寺の本寺である新宮寺が務めており、御朱印も新宮寺からいただきました。
新宮寺は安永2年(1773)の古文書によれば、天台宗から真言宗智山派に改宗、大聖不道明王を本尊とし、山城国醍醐山報恩寺の末寺となり、保安年間(1120~1124)に創立したとあります。」
先ほど参拝した熊野神社の境内にあった新宮寺文殊堂はこのお寺の繋がりのようです。
まだ日暮れまで時間がありますので、1番札所の高舘観音堂に向かうことにしました。今度は紹楽寺まで戻って、奥の山道を行きましたが、半端じゃない悪路です。スリル満点の山登りドライブになりました。しかし案ずるより生むが安し、で程なくして那智熊野神社の表参道に着きました。見上げると朱色の正門が階段の上に見えます。そこから少し昇った左手に高館観音堂がありました。近くにある銀杏の巨木は立派なものです。
観音堂の謂れは以下のようです。
「高舘観音堂の創始は古く、御本尊十一面観音像は養老3年(719)、今の名取市閖上の浜から引き上げられ、用明天皇のとき7間4面の堂建立し、羽黒山物響寺と号し、同寺の本尊として安置したのが始まりです。
保安4年(1123)名取老女旭が紀州那智観音をここに分霊勧請してからは那智十一面観音と改称し、真言宗 那智山物響寺と号するようになった。
慶長元年(1596)山火事の類焼で焼失、慶安2年(1649)に現在の御堂が再建された。
天保7年(1936)同寺の退転により同宗系の管理となり、後に紹楽寺に移管された。」
どうにか初期の目的を達成できて元旦、初詣の巡りは終了できました。果たして2016年は如何様な年になるのでしょうか。