2016年1月21日木曜日

565「仕切り8」2016,1,21

 富士宮市にある富知(ふくち)神社は富士山本宮浅間大社の北西500mほどの位置にあり浅間大社の境外摂社で、祭神は大山津見神です。由緒は以下のようです。
「今の富士山本宮浅間大社が鎮座した大宮は、もとは福地明神(当社)が鎮座していた地、とあり浅間大社が鎮座した、平城天皇大同年間以前から、当地の地主神として崇敬されていた古社ということになる。案内板によると、坂上田村麻呂によって、浅間大社が大宮の地に移され、当社は、大宮の地から現在地へ遷座させられたらしい。」
 浅間大社が山宮から大宮の地にあった富知神社の場地に里宮として祀られ、それに伴って現在地に移って来たようです。道路脇の小川を渡った先にあるこじんまりした神社で特別なものはなさそうです。


 富士山山宮浅間神社は富士宮市山宮にあります。富士山の世界遺産の構成資産の1つですが、由緒等は以下の通りです。
・御由緒
 当浅間神社は通称山宮と呼ばれ、往古霊峰富士を神として仰ぎ崇めた人々が、山の頂から直接山体を礼拝した神聖な霊域で始めから社殿が無く、敷石は祭事執行の際、神官参列者の配列を考慮したもので、最も古い形式の神社である。
・御祭神
 木花佐久夜毘賣命 古くは富士大神を申し上げ、後には浅間大神とも申し上げた。
・御鎮座の由来
 当浅間神社は現在、富士宮市宮町に鎮座する元官幣大社浅間大社の元宮で、その御鎮祭は極めて古い。浅間大社の社記によると、人皇第十二代景行天皇の御世皇子日本武尊が勅命により東夷を征討される余次、駿河国で賊の攻撃に遇われた際、陣中で富士の神を祈念され無事、災難を免れられた。尊は深く富士の神の恩恵に感謝され、神霊をこの山宮に祀られたと伝えられている。
 更に、社記には平城天皇の大同元年(806)征夷大将軍・坂上田村麻呂が勅命により東夷を征討した帰途、浅間大神の神威を敬い奉って、現在浅間大社のある地(大宮と称した)に壮大な社殿を造し、神霊を山宮から遷し奉ったと伝えられている。その後、当社と浅間大社との間柄は山宮(元宮)里宮という密接不離な関係を保ちつつ悠久今日に及んでいる。



 この山宮は富士山本宮浅間大社の創建以前に富士信仰の大神が最初に奉斎された場所ですので、浅間大社も含め、全国に約1,300社ある浅間神社のなかで最も古いと考えられているものです。
 神社の奥に富士山を遥拝するための遥拝所があり、これは、古い富士山祭祀の形をとどめているものです。遥拝所は溶岩流の先端部に位置していて、石垣に積まれた上には、本殿といった祠などはなく神の依り代である榊の木と御神石が祀られていて、富士山が林の間からしっかり見る事ができます。まさに神域の佇まいです。現在遥拝所の階段工事が成されていていましたが仮設歩道で進め、不二の山を遥拝できました。




 この神社は社殿が無く遥拝所のみですがその謂れが以下にあります。
「美しい富士山も、ある時期突如として大爆発を起こし、人々の生命財産を奪う恐ろしい山であった。その火を噴く不思議な力を人々は畏敬し、山そのものを御神体として祀り、噴火の度に富士山を拝み、朝廷でも山の神の位を上げ、使いを派遣して富士を拝ませた。
 その富士山を拝んだ場所が山宮浅間神社だと考えられている。
 山宮浅間神社には本殿がなく、いつのころか、この神社に神様を祀る本殿を建てたいと村人が本殿造りに取りかかった。しかし、上棟式までこぎ着けたとき、大風が起こって吹き倒されてしまった。こうしたことが何度か起こり、「山宮浅間神社に本殿を造ろうとすると、
 風の神の祟りがあるので本殿を造ってはいけない」というようになった。
 こうした伝承に託して、昔の人々が古い信仰の形を今に伝えてきたのである。」
(富士宮教育委員会案内板より)

 村山浅間神社は山宮浅間神社から10分程です。祭神は木花開耶姫ですが富士修験道の中心地として栄えた神仏習合の神社です。ここも世界遺産の構成資産のひとつです。
「鎮座地は富士山村山口登山道の要所を占める。社伝によると孝昭天皇2年に富士山中腹の水精ケ岳に創建され、崇神天皇朝に神領地や神戸を賜り、応神天皇朝に社殿修造、大宝元年(701年)に現在地へ遷座したという。中世になると末代上人が富士山を修験の霊山として開くが、その末代が現境内地に堂舎を構え、以後富士山に対する神仏習合の地として発展したという。元は富士山興法寺を構成する1つであり、付属する7坊を有して多くの修験者の信仰の中心として仰がれた。」
 閑散としています。この村山浅間神社や山宮浅間神社は「富士山を守る龍神様のねぐらであり、休みの場であった。」とのことですが如何でしょうか。






 富士宮市上条にある千居(せんご)遺跡は富士山の西南麓のなだらかな裾野に立地する繩文時代中期の集落跡および配石遺構を主体とする遺跡です。
 集落跡は径約50メートルの大環状をなす20余棟の円形竪穴住居跡からなっていて、約50mほどの規模に環状列石や帯状列石といった配石遺構が12か所で検出されています。このうち、帯状列石を形造っている2本の列は、平行して直線的に富士山(の方向)に向かって配置されていることから、明らかに富士山を意識して富士信仰とのために造られている遺構と考えられています。
 遺跡から富士山が綺麗に見える素晴らしい場所です。古の民は豊にこの地で過ごしていたのでしょう。





 白糸の滝も圧巻です。ここも世界遺産構成資産の1つで、昭和25年の観光百選滝の部で1位に選ばれた国の名勝及び天然記念物にもなった名瀑です。湾曲した岩壁の高さは20m、幅200mの大スケールで、幅は日本で最大です。白糸の滝は全面から幾筋にも水が流れ落ちる姿は素晴らしいです。

「白糸の滝のすぐ上には岩窟がある。そこには「お鬢(おびん)水」という水が湧いている。このお鬢水で源頼朝は髪のほつれを直したと伝えられている。また、このお鬢水は富士講の霊場の1つでもある。」

 白糸の滝の奥には富士山も綺麗に見えます。時間が無いので滝壷には下りずに済ませました。