2016年1月23日土曜日

566「仕切り9」2016,1,22

 忍野八海は沢山の中国人観光客で溢れていました。以前にも増してあまりにもの観光地化に驚きです。ささっと巡りました。

 忍野八海から程近い忍草(しぼくさ)浅間神社に参拝しました。こちらは落ち着いてお参りできます。
「忍草浅間神社は大同2年(西暦807年)に創建されました。桧皮葺屋根・三間社流れ造りの本殿は村指定重要文化財です。本殿には、木花咲耶姫命・鷹飼(たかがい)・犬飼(いぬかい)坐像の三神像(国指定重要文化財)が祀られています。」
 立派な社殿で時代を感じる由緒ある神社です。源頼朝所縁の神社でもあり、江戸時代に盛んだった富士講の聖地の一つになっています。



 ここで富士講(浅間講)について少し触れてみます。富士山とその神霊への信仰行うものですが、狭義には江戸時代の民衆信仰を言います。その起こりは角行(かくぎょう)藤仏(1542年~1646年)という行者によります。角行の伝記などについて以下の表記があります。
「応仁以来の戦乱の終息と治国安民を待望する父母が北斗星(または北辰妙見菩薩)に祈願して授かった子だとする点や、7歳で北斗星のお告げをうけて己の宿命を自覚し、18歳で廻国修行に出たとする点などは共通して記された。
 当初修験道の行者であった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で著名)に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)に辿り着く。そして、この穴で4寸5分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年(1560年)「角行」という行名を与えられる。その後、角行は富士登拝や水垢離を繰り返しつつ廻国し、修行成果をあげるたびに仙元大日神より「フセギ」や「御身抜」(おみぬき)という独特の呪符や曼荼羅を授かった。なお、「フセギ」は、特に病気平癒に効力を発揮する呪符であったらしく、江戸で疫病が万延した際にはこれを数万の人びとに配して救済したという。」
「富士講の説では、人穴にて修行中の角行行者に徳川家康が謁見し、天下泰平のための法を伝授され江戸幕府を開いたと伝えられています。」
 
 仙元大日神とはどのような神であったのでしょうか。更に富士講について以下の記載もあります。
「富士信仰の信仰対象は、山そのものであり、浅間大神・仙元大菩薩・木花咲耶姫大神である。この神は、大日如来と一体のものだとも云われているし、穴信仰では弁天と同一視としている場合もある。」
「参拝者は、富士山の頂上を目指すのではなく、人穴や山麓にある「富士八海」と呼ばれる霊場をまわった。今日では、富士五湖と言われるものだが、八海には富士吉田市の明見〈あすみ〉湖と泉津湖、それに市川三郷町の四尾連湖(その時代は志比礼湖)も含まれていた。この富士八海には、「法華経」に登場する八大龍王(あるいは八大龍神)がまつられていた。今流に言えば、パワースポットだったのである。こうした信仰者たちを神社として集める中心となったのが、静岡県の側では、富士宮市の富士山本宮浅間神社であり、山梨県側では、富士吉田市の北口本宮冨士浅間神社である。北口とは、吉田口の登山道のことを言い、両者では「富」と「冨」の字が違う。」
 東口本宮冨士浅間神社も立派な神社です。須走浅間神社(すばしりせんげんじんじゃ)とも言われます。その由緒は以下です。
「平安時代初頭・延暦21年(802年)、富士山東麓が噴火をしたため、須走に斎場を設け祭事を行い鎮火の祈願を行った。それにより同年四月初申の日に噴火が収まったため、大同2年(807年)に鎮火祭の跡地に、報賽のため社殿を造営したと伝えられている。」
 閑散とした中に神気満ちるエネルギーを感じます。




 冨士巡りを終えて三島に下ります。
 ここまで来て、私のお気に入りの長泉町元長窪にある愛鷹水神社を参拝するのを欠かせません。富士山の南東側にある愛鷹山の山中、富士山からの湧水が流れ来る渓流に小さな滝があります。その脇に神社はあります。
 この由緒は以下のようです。
「日竜上人明治初年、中山法華経寺大荒行道場の修法を成満し、桃沢川をたどりこの地に着き、水神竜王尊楼神の姿を霊感してこの地に修験の行に励む。明治36年水神竜王尊を配置し本堂建立、その後、昭和50年日蓮宋々教法人愛鷹教会となり法華経の道場として水信仰の場として現在に至る」。

 参拝者はおられず一人で富士山からの龍脈、龍神様のパワーを満喫しました。滝には光が降り注ぎ、素晴らしいエネルギーです。