橿原神宮を中心に出雲と富士山を結ぶ円を描きます。更に朝貴神社を中心に出雲と富士山を結ぶ円を描くとその線は、西は岩国市、北は小松市、東は三島大社を通ります。どうやら橿原神宮が中宮と言え、更に大きな意味では朝貴神社も中宮でもあるようです。
出雲の須佐神社は何の基点かですが、富士山と須佐神社の距離を測定して見ます。実測と東経のみを使う測定でみると、東経のみで見るとその上に法隆寺があります。その他諸々検討すると、富士山と須佐神社のラインは時間軸と言えそうです。
そして土地と時間、その両方の軸となるのは京都の貴船神社です。以下がその数字です。
A:富士山と出雲大社・須賀神社の中心との中心 東経137度47分43秒
B:富士山と須佐神社の中心 東経135度43分51秒
C:AとBの中心の中間点の中心 東経135度45分47秒
Cは京都貴船神社(東経135度45分46秒)と1秒(25m)の差しかありません。その近くに京都相国寺、京都御所があります。
そして、結論としてAは東西の地理的な中心、Bは東西の時間軸の中心、Cは土地と時間の中心と結論付けます。
「貴船神社は時間に関係し、呪術的な要素を兼ね備え、航海術に関係し、水や船への信仰が厚いことを考えると日本の時間軸を決める重要な位置にあったと仮定できる。」
と述べています。それらの全ての基準は富士山です。
さて基準の富士山ですが、富士山が富士との表記になったのは平安時代以降のようです。奈良時代は不尽、不死、福慈、不二、さらには塩尻山、鏡山、七宝山などと言われていたようです。
富士山を起点にするとして、スサノウに代表される出雲の国で、富士山の存在を認知出来ていたとしたら、富士山の辺りと交流があったのか、そこから移動してきたのか、更にスサノウが東北、津軽から出雲に移る過程で富士山を含めて周辺に栄えていた文明を知っていたのか等、いろいろな推測が出来ます。
そしてスサノウの霊力、神力を日本の各所で知りえていて、当時の日本ではスサノウを国造りの盟主として崇められていたので、各所で御祀りされたのでしょう。それはスサノウの後継者の出雲の神々もその威力を持ち崇拝されていたのでしょう。
出雲から真東に富士山があり、その途中の中間点、中宮に橿原神宮があります。富士山を起点に(中心点)に出雲との中間点で大和の国造りをしたと考えられるのですが、いつごろこの測量技術を会得活用できたのか、何故出雲で国造りをしたのか等の疑問が残ります。
それはさて置き、富士山はこれまで大きな噴火として3回記録されています。それは延暦の大噴火(800~802年)、貞観の大噴火(864年)、宝永の大噴火(1707年)ですがそれ以前については以下のように記されています。
「新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前–約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前–約3,200年前の1,300年間と考えられている。これ以降、山頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が断続的に発生している。」
富士山に関係するものとして徐福伝説があります。富士山は「不二の山(世に二つとない山)」「不死の山(不老長寿の山)」として古代より崇敬され、信仰の対象に成ってきた霊山です。徐福が日本に来たとされるころは、富士山の噴火が無い安定した時代だったようです。秦の始皇帝は徐福に命じて蓬莱の国へ行って不老長寿の妙薬を探させたのですが、この霊峰、不死の山(不老長寿)なら妙薬があるかもしれないと考えても不思議はありません。
司馬遷の史記に「蓬莱の国に不老不死の妙薬を求めて、3000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を引き連れて、五穀の種を持って東方に船出し、平原広沢(広い平野と湿地)を得て王となり戻らなかった。」と記していますが、この高原広沢は一説によると、富士吉田市辺りでないかと言われています。
富士吉田市の宮下家に宮下文書という古文書があります。徐福が富士山一体に伝わる話として書き記したものですが、宮下文書については以下のように記されています。
「徐福に関する伝説は、中国・日本・韓国に散在し、徐福伝説のストーリーは、地域によって様々である。『富士文献』は富士吉田市の宮下家に伝来した宮下家文書に含まれる古文書群で、漢語と万葉仮名を用いた分類で日本の歴史を記している。富士文献は徐福が編纂したという伝承があり、また徐福の来日した年代が、『海東諸国記』の孝霊天皇の頃という記述が『宮下文書』の記述と符合することが指摘される。ただし、宮下文書はいわゆる「古史古伝」に含まれる部類の書物であり、文体・発音からも江戸後期から近代の作で俗文学の一種と評されており、記述内容についても正統な歴史学者からは認められていない。」
記紀以外の古文書の多くは偽書扱いをされているのですが、全否定されるものでは無いように思いますが如何でしょうか。富士吉田市の北口本宮冨士浅間神社には徐福の記念碑があり、その繋がりを示しています。
北口本宮冨士浅間神社は富士講が盛んな頃の主たる登山口でした。由緒は以下です。
「景行天皇40年(西暦110年)、日本武尊ご東征の折、足柄の坂本(相模国)より酒折宮(甲斐国)へ向かう途中で当地「大塚丘」にお立ち寄りになられ、そこから富士の神霊を親しく仰ぎ拝され「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と仰せになりました。よって大鳥居が建てられ、大塚丘に浅間大神と日本武尊をお祀りし、当社の創建となりました。
天応元年(781)、富士山の噴火があり、甲斐国主の紀豊庭朝臣が卜占し、延暦7年(788)、大塚丘の北方に社殿を建立しました。これが現在社殿のある地で、ここに浅間大神をおうつしし、大塚丘には日本武尊をお祀りしました。
古代、富士のような高い山、美しい山は神のおわす山として人が入ることは禁忌でした。よって当地は、ご神体の富士山を遥かに拝み祭祀を行う場でありました。現在拝殿を囲んでいる巨木はその神域を物語っています。
時代は下って、平安時代の頃に山岳信仰が普及し、登山を実践して修行する修験道が各地で広まるとともに富士講が出現し、発展するにつれ、御山に登ること即ち祈り、とする「登拝」によって、人々は山頂を目指すようになりました。
初めて富士登山を行ったのは、大宝元年(701)の役小角という行者であるとされ、のちに富士講の開祖と仰がれる藤原角行師は、天正5年(1533)に登山しています。」
初詣の参拝客が沢山です。御神木の巨大杉はカメラに収まりません。光も燦燦と降り注ぎ清清しい神域です。
大塚丘は閑散として往時をしのぶに十分です。しかし残念ながらここからは富士山を遥拝できません。
山梨側の富士山も端麗、美しい自然美です。
もっと素晴らしい富士山の姿を見られたのですが運転中で撮影できず残念でした。