・「宮下文書」は「寒川文書」とも呼ばれるが、これは延歴19年(800年)4月、富士山が大爆発を起こし、噴火が35日も続いたことがあった。この大噴火は「日本紀略」にも記されているが、伝承によると高天原は壊滅し、阿祖山大神宮も消失した。
そこで、神宮関係者は、相模国に移住し、相模川の河口近くの高座郡に、高天原を流れていた川の名にちなんで寒川神社を創建し、伝来の文書を保管したという。このため「寒川文書」なる名称が付けられたという。
・山梨県南都留郡山中湖村沖新田地区には、徐福の子孫の秦氏一族が住んでいたが、延暦十九年(AD800)の富士山大噴火で、今の神奈川県秦野市に移住したと言われている。また、山梨県側の富士山麓の畑から中国の大変古い印鑑が出土している。地元の郷土史家は、「秦の始皇帝の命を奉じ、徐福の一行が富士山に不老長寿の薬草を採りに来て住みついた。」という徐福伝承と印鑑の結びつきがあると信じている。
・神奈川県藤沢市の福岡家墓碑から、福岡家は、秦の徐福の子孫であり、渡海して富士山麓に住み着いたのち、秦野に移り、後に、藤沢に移り住んだということが伺える。尚、「富士古文書」によると、福岡姓は徐福の長男・福永の家系ということである。
・福岡家墓碑から徐福の子孫の旧蹟は、藤沢に近い「秦野」の地であったことがわかる。秦野の伝説を探ってみると、いくつかの徐福の伝承が存在した。丹沢山系から降りて横野に定着した「からこさん」伝承と、大磯から上陸して、本町に定着した「からこさん」伝承がある。
・秦野市本町の伝説によると、「からこ(唐子)さんは、中国からおいでになり、大磯の浜から秦野に移住したと伝え、徐福一行ではないか」と考えられている。
蓬莱の地を探し求めた徐福一行は、日本列島に渡航後、九州から、瀬戸内海を通り、熊野、三河、遠州、駿河と沿海を船で巡り、東海、関東に上陸した人たちもいるということであろう。大磯から金目川沿いにのぼってくる場合、入り口の高麗山は、見る角度によって、ピラミッド型の蓬莱山を思い浮かばせる。秦野河原町東北部にある浅間山は、古名「宝来山」と呼ばれていた。神仙思想をもった人々の渡来を彷彿させる。
・丹沢山麓の地が「秦野」と名付けられた由来が「秦氏」の開拓にあると伝える碑が、蓑毛大日堂の境内に2基と、個人の墓地になるが室町(養泉院)にも1基存在する。何れも秦川(河)勝に関するものである。
・神奈川県北部・藤野町小渕に三柱神社がある。唐土明神(カグツチ神)と大牟神社(大己貴命)と八坂神社(スサノオ神)を併せたので、三柱の名が起こったという。この社は明治の神仏分離前は、峰昌寺という別当寺が管理し、寺の後裔が栗原家で現当主は毅氏という。ここに徐福縁起があった。
藤野町は、徐福伝承をもつ富士吉田から、相模の寒川神社に至る中間点にあり、交通路にあたる。少なくとも延暦年間の富士山噴火で移動した徐福の子孫一行の可能性が高い。
・相模の人々が信仰対象とする大山阿夫利神社は、関東総鎮護の役割を担っている。阿夫利神社のご祭神は、山の神・大山祇神である。大山祇神は、「徐福」をさすという説があり、信憑性が高い。
・大山阿夫利神社の由緒書によれば、神社創立は、今から2200余年以前(徐福渡来の時期に合致する)の人皇第十代崇神天皇の御代であると伝えられている。古来より大山は山嶽神道の根源地であり、別名に雨降山、古名を「大福山」と呼ばれていた。大山祗神は、またの名を酒解神と言い、酒造の祖神(秦氏の祖神)としてもあがめられている。
また、生活の資源、海運・漁獲・農産・商工業に霊験を示されるということは、徐福の特徴をよく反映している。碓井静照氏の著書「徐福の謎」によると、徐福一族は、各地に定着するにあたり、あらかじめ目標を定めた山(その地域で一番高い山)に立ち、海や河川を望み、最も住みやすい地を選んで山を下りたと見られる。これが後に、土地の人々において、神の降臨伝承となった可能性が高いという。
・寒川神社のご祭神・・寒川神社の「浜下祭り」のとき、田打ち舞といって、俗に「福種蒔」と称する祭式がある。伶人古尉(雅楽武人)の面を被って舞うこの面は「寒川主神」の似顔であると言い伝え、極めて福徳円満の相を備えている。この古式に用いた荒稲を参拝者が拾って持ち帰り、その年の苗代に交えるという習慣がある。秦氏は宮廷の雅楽を担当する集団として有名であるが、福徳円満の秦氏で、稲種を持ち来たった人物とは、徐福を彷彿させる。その子が大山皇子とは、2200年前に祭神となった大山阿夫利神社の祭神・大山祇命との関連を惹起させる。
・富士山麓から相模に降り立った徐福の子孫は、相模から関東平野全体に広がったと思われる。関東平野や丹沢は、徐福が王となって、止住したと伝える平原光沢かもしれない。そもそも、神奈川県の名山「大山」は、古名「大福山」であり、そこにある阿夫利神社は2200年前の創立と伝えられている。そのご祭神は「大山祇命」であるが、この神は「徐福」その人を反映しているとも考えられる。
これらの真偽はわかりませんが物語としては流れが通ります。この徐福所縁の大山阿夫利神社と寒川神社を参拝して来ました。
大山阿夫利神社は社伝によると、崇神天皇の御代に創建されたとされ、大山は古くから山岳信仰の対象として知られているところです。
「大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)は、相模の大山にある関東総鎮護の神社。大山の中腹に下社・二重社、山頂に本社・前社・奥社、が鎮座しています。大山は、雨が多いので雨降山(阿夫利山)といわれ、古代から雨乞いの霊山でした。江戸時代には、大山参詣の大山講が関東各地に組織され、今も続いています。 山頂は、富士山からつながる強い龍脈の頂上に位置しています。本社: 大山祗大神、奥社 :大雷神、前社・二重社: 高おかみ神 (たかおかみのかみ:「山の上の龍神」を意味する、水や雨を司る水神。祈雨・止雨の神。貴船神社のご祭神で有名。神仏習合時代は小天狗が祀られていました。)」
ケーブルカーで上がり、すぐ神社ですが相模の眺望は格別です。何故か拝殿地下に「幸の神」の石像がありました。
寒川神社は相模国一宮です。以下のように記載があります。
「相模川河口から約7km遡った左岸の低台地上に鎮座し、古代には相模湾がここまで入り込んでおり八方除の守護神として関東一円から参拝者が集まります。現在の祭神は寒川大明神と総称される寒川比古命 (さむかわひこのみこと)寒川比女命 (さむかわひめのみこと)の2柱で、とも記紀には記載がなく、詳細は不明です。この寒川大明神は八方除の神とされています。八方除とは家相、地相、方位、日柄等からくるすべての悪事災難を取除くご祈願の事で、いわゆる方災厄除の神としての信仰です。
寒川神社からは二至二分に、それぞれ丹沢の大山、富士山、箱根の神山に日が沈むのです。夏至の日の入り:大山、春分・秋分の日の入り:富士山、冬至の日の入り:神山に日が沈む。
寒川神社が建立された当時は海水準が高く、寒川神社は直接相模湾に面していたと考えられている。これらの好条件から、八方除けの神社として建立された可能性が高い。」
ご利益は大きいのでしょう、沢山の参拝客です。駐車場に止めるにも長蛇の列で、露天も沢山あり皆さん買い物で大賑わいです。神門にはなぜか、ねぶたが飾られています。
いろいろ調べてみると、寒川神社でも不明とされている寒川比古・比女ですが、実は宮下文書にははっきりその系譜が記されているといいます。
「寒川彦はツキヨミの息子でオオヤマツミと同神で、寒川姫はスサノヲの娘です。」もしかすると、記紀では寒川両神を無視したようですが、宮下文書を大和朝廷が偽書扱いをする背景にも成っているかもしれません。そして相模という国名の由来も寒川からきているようです。吾妻鏡には、寒川神社が佐河大明神と表現され、さがと呼ばれています。
「更に大化5年(649年)には今の富士吉田市明見に寒川大明神があり、その後福地八幡大神と改称したとあります。そして延暦の富士山の噴火(800年)で明見(阿祖谷)が壊滅的なダメージを受け、福地八幡大神(寒川大明神)の機能を、現相模国一宮寒川神社に遷し、里宮としたとされています。それが延暦21年(802年)のことであると記されているので、もしそれに従うと寒川神社の創建は802年ということになります。現在、寒川神社側では創建は不詳ということになっています。」
宮下文書によると、さらに富士宮の大宮浅間大社、三嶋大社、甲斐一宮の浅間神社、また北口本宮冨士浅間神社などもルーツは明見にあった宗廟群「阿祖山太神宮」であるということになっているようです。