・富士山と須賀神社のラインの延長上に玉前神社(千葉県一宮町一宮)、その少し南に貝須賀鹿島神社(千葉県いすみ市大原町)があり、その差は須賀神社と10秒で310mの差。
そしてこの貝須賀鹿島神社と富士山を結ぶ中間点が「源頼朝墓所」で、その西500mに鶴岡八幡宮がある。
・須佐神社から東へ、もっとも東端の時間軸と思えるところに猿田彦神社(銚子市猿田町)がある。そして富士山と猿田彦神社の中間点に「神田明神」がある。この神田明神は時間軸でなく土地の中心軸である。
・神田明神と富士山を結ぶ円を描くとその円上に、犬吠崎、武田神社、三島大社がある。
神田明神を中心に富士山を通らない円を描くと、成田山新勝寺、高尾山薬王院、寒川神社、江島神社、鎌倉がある。
・神田明神と同じ東経139度46分04秒の上の線上には平将門首塚、川崎大師、林羅山墓地、大塚先儒墓所、佐藤一斎墓などがある。
・江戸城は東経139度44分59秒にある。時間軸は東経139度43分51秒であり神田明神との中間の東経139度44分58秒で江戸城とは1秒差でしかない。つまり「江戸城は時間軸と土地の中心軸の中間にある」。
・江戸城と富士山を結び、円を描くとその線上に犬吠崎、武田神社、伊豆大室山がある。
・小田原市にある紀伊神社と出雲須佐神社はほぼ同緯度で、3秒(100m弱)差でしかない。その緯度のライン上には、他に多賀大社、富士山本宮浅間大社、箱根元宮神社、貝須賀鹿島神社がある。
・神奈川県松田町の寄(やどりき)神社と出雲大社はほぼ同緯度(500m差)にある。
・紀伊神社と寄神社の経度はどちらも139度08分上にある。9秒の差があり225mの差でしかない。この2つの神社に出雲と位置的な関係があり、富士山のお膝元であり、何らかの刻印が押されている。
これらを更に簡単に纏めると以下のようです。
「関東の中心は神田明神であり、平将門首塚、江戸城はそれら中心軸を考えて造られている。鎌倉の鶴岡八幡宮、源頼朝墓所も、出雲と富士山の関係の中でみると中間点であり、重要な場所だ。
出雲の須佐神社、出雲大社の位置関係は、紀伊神社と寄神社の配置と相似形でスサノウの刻印がされている。」
ここに登場する鶴岡八幡宮、紀伊神社、寄神社等を巡りましたので簡単に紹介します。
鶴岡八幡宮は鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として有名です。
「当宮は康平6年(1063)源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。
その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝公は、治承4年(1180)鎌倉に入るや直ちに御神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、 建久2年(1191)には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としました。」
沢山の参拝客で道路も大渋滞で駐車場もいっぱいです。源頼朝墓所の白旗神社まで辿り着けずに鶴岡八幡宮の境内社で参拝しました。
寄神社は北条氏の小田原城から真北にあります。「スサノウの数字」の中では足柄平野の玄武は寄神社で、朱雀は紀伊宮大権現とあります。つまり四神を配置しているのです。
寄神社寄神社は、神仏混交の寺社で、かつては弥勒寺と呼ばれた禅刹です。神社の鳥居前に寄大杉があり、北条政子の安産祈願に植樹された樹齢700年の大銀杏で産土神が祀られています。この地は縄文中期から人が住んでいたようで、方位取りの為に造られた神社で北の玄武が祭神で、弥勒大神ほか18の神様を祀っています。
神社縁起によれば、貞観年中(859~876)の創建で、祭神は五十猛命と惟喬親王(文徳天皇の第一皇子)とが奉祀されている。」
東海道線の線路のガードレールを潜り神社はあります。神社脇の御神木の大楠木は中々のものです。光が降り注がれていました。
小田原城から北、北極星に見立てて、宗我神社は鬼門の北東に配置された神社です。その由緒は以下です。
「宗我神社は、曽我の人々が小澤大明神を崇拝して祀ったことがそのはじまりだという。
1028年(長元元年)、大和国の宗我都比古神社の神主だった宗我播磨守保慶が、祖先の宗我都比古命と武内宿祢命を祀って社を創建した。」
ここは曽我兄弟に縁のある社とのことですが、赤穂浪士の仇討ちと供に日本三大仇討ちの一つです。
「曾我兄弟の仇討ちは、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。」