今回は「いっぷくからありがとう」さんの2021年01月20日と2021年02月01日の2つの記事を紹介します。
おかげさま
今日も心のお話です。
私たちの心は強力で、広大です。見える世界、見えない世界を包み込んでいます。例え、神様・仏様、能力者の方が一瞬にして私たちの境遇を引き上げたとしても私たちの心が変わらなければまたすぐに同じ世界に戻ってしまうことでしょう。
それに引き換え、心の中に感謝の気持ちを持つことができれば私たちの境遇は一瞬にして変わってしまうことでしょう。空海が仰るように生きながら天国に住むものとなります。
さて今日は、お陰様に付いてご紹介します。謙虚で優しい気持ちです。前ノートルダム清心学園理事長、渡辺和子さんの言葉です。
<引用開始>
小さなお子さんの手を引いて、一人のお母さまが水道工事の現場の傍(そば)を通りかかりました。暑い夏の昼下がりのことでした。
お母さまは坊やに向かって、「おじさんたちが、汗を流して働いてくださるから、坊やは、おいしいお水が飲めるのよ。ありがとうと言いましょうね」と話してやりました。
やがてもう一人、同じように幼い子の手を引いて、別の母親が通りかかりました。
「坊や、坊やもいまから一生懸命にお勉強しないと、こういうお仕事をするようになりますよ」と言ったというのです。
同じ仕事に対して、こうも違った考えがもてるものでしょうか。最初の母親は、この日、子どもの心に労働に対しての、尊敬と感謝の気持ちを育てました。
二番目の母親は、(手をよごす仕事、汗まみれの労働)に対しての、恐ろしいまでに誤った差別観念を、我が子に植えつけたことになります。
私たちがいま、子どもと一緒にこの場にいたとしたら、どんな会話を交わすことでしょうか。会話以上に大切なのは、どんな思いを抱いて、働いている人たちの傍を通るかということなのです。
人は、自分がもっていないものを、相手に与えることは出来ません。感謝の気持ちを子どもたちの心の中に育てたいならば、まず親がふだんから「ありがとう」という言葉を生活の中で発していることが大切なのです。
例えば、「お元気ですか」と尋ねると、「はい、元気です」という答えは返ってきても、「おかげさまで元気です」という返事のできる学生が、以前と比べて少なくなりました。
遅刻して教室に入ってきた学生が、授業の後で、「遅刻しました」と、名前を届けにはきても、「すみません、遅刻しました」という枕詞がつかないのです。
「お話し中、すませんが」とか、「夜分(やぶん)、失礼します」という挨拶のできる学生も少なくなりました。いずれにしても、言葉が貧しくなっています。
そして、それは取りも直さず、心が貧しくなっている証拠なのです。せめて、「おかげさまで」という言葉と心を、生活の中に復活させましょう。理屈っぽい人は、「何のおかげですか」と言うかも知れません。何のおかげでも良いのです。
この表現は、私たちが実は、一人では生きられないこと、たくさんの〈おかげ〉を受けて生きていることを忘れない心の表れなのです。見えないものへの感謝なのです。ところで、本当にありがたいこと、何でもない時に「おかげさまで」と言うのは比較的に易しいのですが、不幸や災難に遭った時はどうしましょう。
そんな時にも、「おかげさまで」と言える自分でありたいと思っています。ごまかすのではなく、不幸、災難、苦しみをしっかりと受け止めながら、「いつか、きっとこの苦しみの〈おかげさまで〉と言える自分になりたい、ならせてください」と祈る気持ちをもっていたいのです。
<引用終了>
子どもは親や教師の「いう通り」にはならないが、「する通り」になる。そう渡辺さんは仰います。このたとえ話では、親の価値観が、子どもの価値観を作る・・ということが良く描かれています。
私たちの日々の何気ない一言、行動を子どもたちは本当によく見ています。そして、ものすごい早さで吸収していきます。親だからといって、100%完璧な人間になることは不可能ですが、「お手本」になるために、少しだけ意識してみることはできるかもしれませんね。
一番大切な人
今日は「今、目の前にいる人、目の前にあることが一番重要」ということで、小林正観さんのお話をご紹介します。
<転載開始> 転載元
私たちの周りで起きているすべての現象、人生のあらゆる出来事に、
・重要なこと、重要でないこと
・大きいこと、小さなこと
の区別は、実はありません。というのは「小さいこと」の定義を言ってくださいと言われても、誰も答えられないからです。何らかの現象について、そのときは、小さいこと、些細なことと思っていても、 それがなければ、今の自分はなかった、ということを考えたら、(大きいこと・小さいこと)の区別は、つきません。
このことを、実際にあった状況を取り上げて説明しましょう。
私が出た高校の同級生の一人が、大学にも行かず、就職もしないで、とりあえずアルバイ トとして晴海のイベント会場でコーラの販売をしていました。そのとき、コーラ売り場の前をアメリカ人の夫婦が通りかかり、70歳ぐらいの歳のご主人が足を滑らせて倒れてしまいました。
彼は自分の売り場の前ですから、走り寄って助け起こし、ケガの手当てをしたりとかいろいろ世話してあげたそうです。そしたら、「あなたのような親切な人に、初めて会った」と、
その夫婦は大変感激し、「実は、私たちは結婚して40年も経ちますが、子どもがいないのです。あなたさえよければ、 私たちの養子になりませんか」と言われました。
彼としては、別にほかにすることもなかったから「わかりました。いいですよ」ということで、アメリカに渡り、その夫婦の養子になりました。彼はそこで英語を覚え、大学にも行かせてもらい、卒業してからは企業買収の専門家になりました。今は日本に戻り、その分野で大手の外資系企業の社長をやっています。
コーラの販売をしていた、その前で人が滑った、その人を助けてあげた、これらはすべて小さいことのように見えますが、結果としては小さいことではありません。
因果関係がわかったときには、一つひとつがものすごく重要で大変な出来事だったと、気 がつくでしょう。優先順位とか、出来事の大きい小さい、とかの区別がないことを、さらにわかりやすく説明します。人生はドミノ倒しだと思ってください。
ドミノ倒しの如く、人は連続した瞬間を生き、最後の一個がパタッと倒れて、人生を終えます。これらのドミノは、すべて同じ材質で、同じ厚さで、同じ形状です。大きい小さいは ありません。重さも全部一緒。それが一個ずつ、ただ淡々と倒れていくだけです。
自分の目の前に現れる人が、小学生であろうが、中学生であろうが、大人であろうが、大会社の社長であろうが、出会う人は全部一緒です。それを一緒だと思えるかどうかに、その人の人間性が表れます。
社会的な地位や権力といったものを背負ってるかいないかで人を見るのは、まだ自分の中で本質的なものが形成されていないからです。出会うすべての人、どんなに些細に見える行為も、人生を成り立たせるうえでは、どれも 必要不可欠なことであり、ドミノの一個一個が同じ価値だということに気がつくと、何も怖くなくなります。
人生で最も大事なのは、今、目の前にいる人です。一人ひとりをきちんと受けとめていくことで、その後の人生を組み立てていける、ということです。
この一個一個のドミノ、それ自体が結果であり、次のドミノを倒す原因になっています。
倒れた「私」が、また次のドミノを倒していく。今、目の前にいる人を大事にすることが、
私の未来をつくっていくのです。人生は、その繰り返しのように思えます。
<転載終了>
仕事などだと、よく優先順位を付けて仕事をテキパキこなすのが優秀なビジネスマンなどと言われ、もてはやされたりします。ビジネス書なども飛ぶように売れているようです。
また、私たちはよく人を
・みなり
・地位、肩書
・所有している資産(お金、家、車)
・健康か病弱か
・頭の回転が速いか遅いか
・器量が良いか悪いか
など、見た目だけで判断して、態度を変えがちです。
ですが正観さんが仰るには、どんなに些細に見えることであっても、自分の身に起こってきたことは、大きい、小さいの区別は存在せず、必ず次のステップへの礎(いしずえ)となってくれるものだと言うことです。優先順位が無いのですから、来た順番に対処していくことになります。
また目の前の人が一番大事なのですから、誰彼と区別せず、例え子供であっても、丁寧に誠意を持って、愛を込めてお付き合いしたいものです。
結局、その時の私たちの取った態度が、次のステップが来る時に、
・良きものか、悪しきものか
・楽しいものか、苦しいものか
・心を明るくするものか、暗くするものか
を決めるからです。
ですから私たちは、将来のことを心配したりせず、過去をクヨクヨと、いつまでも悩んでいず、何か判断を間違えて、不幸な人生を選んでしまうのではないかと取り越し苦労などせずに。今、目の間に居る人やコトだけに集中し、良心に恥ずかしくない行動さえしているだけで、ずいぶんと楽に、そして楽しい人生を送れるようです。後は、神さまが良きにはからって下さいます。