2021年7月31日土曜日

2410「宇宙エネルギーの流れ」2021.7.31

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年07月24日「心を受け取る」

2021年07月25日「宇宙エネルギーの流れ」の2つの記事を紹介します。


「宇宙エネルギーの流れ」

今日のテーマは、「宇宙エネルギーの流れ」です。 

まず小林正観さんの、短い文章をご紹介します。

 

<引用開始> 『心に響いた珠玉の言葉』より

ある営業マンは、がんばってトップをとったのですが、有頂天になってそのうち怠けていたら、一気にトップから後退してしまいました。 

それから挽回しようとがんばりましたが、なかなかうまくいきません。 

がんばっても成績があがらない営業マン。 

会社から「このままの成績なら、あと2ヶ月でやめてもらう」と通告を受けます。 

そこでその営業マンは、

「どうせクビになるのなら、自分の成績を上げるという考え方はやめて、仲間のために力を尽くそう」と考えました。 

それからは、忙しく外回りをする同僚へ電話の要件をメモして机上に置いておいてあげたりなど、2か月間は徹底してサポートに回りました。

そうしたら、新規顧客の大口案件が舞い込んできたりなど、奇跡的なことが次々と起こり、 

結局2か月後にはまたトップに返り咲いたのだそうです。 

<引用終了>

 

この結果、この方は、今までサポートされていたのは、自分の方だと気づきました。

周りを潤わせ、利を与えること。その結果として、自分に戻ってきたのでした。 

これはブッダが教えてくださった四摂事(ししょうじ)、 

衆生(一般大衆)を救う4つの徳の中の一つ、「利行」のことです。

「まずは相手を潤わすこと」

これが結果的に、巡り巡って自分によい形になって返ってくる。

これは、お布施も同じですね。

まず、喜捨すること、自分から出すことで巡り巡って自分に帰ってくるという、宇宙の法則です。

断捨離も同じです。まず、古くなった不要なエネルギーを手放すことで、空いた時空間に宇宙のエネルギーが流れ込みます。 与えることで、自分の中に空いた時空が生まれます。  

また、ここには、もうひとつ大切な意味が込められています。

何か大きなことを成したり実績を残すことが 私たちの生まれてきた目的ではない・・ということです。 

私たちが生まれたのは、

・人々と調和

・愛

・優しさ

・思いやり 

・助け合いの心

これらを共有すること分かち合うこと、魂の震える経験をすること

そのために生まれてきました。

決して、

・物質的に豊かになったり

・地位や名誉を得ることではありません。

そのようなものは、天に帰る時、持って帰れません。 

魂が震える経験

人々と、喜びを分かち合えた時、生まれて来た目的が達成されます。

この目的さえ達成されれば、それを味わうための舞台装置であった、

・喜び

・悲しみ

・苦労、苦難

・豊かさ

・貧困

・嫉妬

・憎しみ

それらを味わう経験は、もう必要なくなります。 

人生において

全ての流れが調和してスムーズに運び始めます。 

この宇宙の真実に気づいている人は、 

・何かを得ようと

・大きなことを成し遂げようと 

必死に努力するのではなく 

最初から

・周りの人々に喜ばれる道

・助けいあい、調和する道

それらを第一に考えて、そのための利他行を行います。 

最後に、美しい詩を一編、ご紹介します。

<引用開始> 

大きなことを成し遂げるために、力を与えてほしいと、神に求めたのに、謙虚さを学ぶようにと、弱さを授かった 

偉大なことができるように健康を求めたのに、より良きことをするようにと、病気をたまわった

幸せになろうと、富を求めたのに、 賢明であるようにと、貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに、得意にならないようにと、失敗を授かった

人生を享受しようとしてあらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるようにと、命を授かった

求めたものはひとつとして、与えられなかったが、願いはすべて聞きとどけられた 

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りは、すべて叶えられた私はもっとも豊かに祝福されたのだ 

<引用終了>

  

「心を受け取る」

誰かが何かをプレゼントくださった時、もしそれが、自分の嫌いなものだったら

「なんでこんなもの」と嫌な顔するのか

それとも、相手の方の心をおもんばかり、その人が プレゼントを選ぶ時

・私の笑顔を想像して、選んでくれた物であるから

・私の喜ぶ顔が見たいと思ってくださったから

と物ではなく、相手の方の、その心を受け取って、笑顔で喜んで、それを受け取るのか? 

あなたはどちらですか?

その時は嫌な顔をしなくとも、相手がいなくなった途端ゴミ箱行き・・なんてことはありませんか?

今日は、このことに関して、ブッダのお話をします。

ブッダが亡くなる直接的な原因は「毒キノコ」でした。

<引用開始> 引用元

 

翌日のこと、仏陀はアーナンダと数名の弟子を連れて、鍛冶職人のチュンダの家に向かった。

仏陀たちは、作法に従って、席についた。食卓には、地方の村にしては豪勢な食事が並んでいた。

食事も終わろうとしていた時、チュンダが言った。

「最後になりますが、とても珍しいキノコのスープを用意いたしました。是非、お召し上がりください」食卓にそのスープが並べられた。

すると仏陀が

「このスープは、修行者には食べられない。如来しか食べてはいけないものだ。すべて私の前におきなさい」

といったのだ。そして、仏陀一人でアーナンダら修行者に出されたスープを食べてしまったのだった。

その仏陀の姿を見て、修行僧たちは心の中で(世尊にしては珍しい。いったいどういうことだ)(世尊はどうされたのだ。あまりにもいやしいではないか・・・)などと思っていた。

仏陀は、そうした修行僧の心の中を見抜いてはいたが、何も答えず

「残ったスープは、家の隅に穴を掘って埋めてしまうこと。決して、誰も食べてはならない」

とチュンダにきつく命じたのだった。


チュンダの家で、食事を済ませ、一通りの教えを説いた仏陀は、

「他の長者の接待は断るように。すぐに旅に出る。クシナガラを目指そう」

とアーナンダに告げた。

仏陀たちは、果樹園で修行をしていたの残りの修行僧たちと合流し、旅へと出たのだった。

その途中、仏陀に異変が起きた。激しい腹痛と嘔吐が襲ったのだ。

仏陀は、歩くことができなくなり、木の傍らに身体を横たえた。

「しばらく一人にしてくれ」仏陀はそういうと、静かに眠り始めた。

その様子を見て、アーナンダたちは一安心し、仏陀のそばを離れたのであった。

しばらくして、不気味な笑い声が響いた。しかし、その声は仏陀にしか聞こえないものだった。

「うわははは。仏陀よ、約束の3カ月が来た。お前ももう終わりだ」

注:マーラーとは悪魔のこと

「マーラか。そろそろ現れるころだと思っていた。約束のことは覚えている。

だからこそ、あの毒キノコのスープを私が引き受けたのだ」

「わははは。バカなヤツだ。わざわざ自分から死を選ぶとは。あんなものは、弟子に食わせればよかったのだ」

「マーラよ、お前は勘違いをしている。毒キノコのスープはきっかけにしか過ぎない。

あのスープを私が口にしなくても、私には別のことで死が訪れよう。

それがわかっていて、なぜあのスープを避ける必要があろうか?。

肉体の死へのきっかけを先に延ばせば、さらに苦しみは増大するであろう。

ましてや、毒キノコのスープとわかっていて、弟子に飲ませる者がいようか?。

マーラよ、お前は何が欲しいのだ?。

私の死が欲しいのであろう?。ならば、静かに待つがよい」

「ふん、死にかけのくせにエラそうなことを言うな!。

ふっふっふ、しかし、チュンダも罪な奴よ。仏陀を殺した者になるのだからな。 

毒キノコのスープを飲ませ、ブッダを殺した犯人はチュンダだ。

あの者は、多くの人々から罵られ、そしられ、叩かれてひどい目にあうだろう。 

それもお前があのスープを飲んだからだ。

お前が飲まなければ、チュンダも罪を犯さずに済んだものを。

チュンダは、これで地獄行きだな。最も苦しい地獄行きだ。

お前がそうしたのだ、仏陀。お前のおかげで、チュンダは苦しむことになるのだ。わはははは」

「黙れマーラよ。口を慎むがよい。チュンダは、地獄に行かぬ。むしろ天界へ生まれ変わるであろう。仏陀に最後の接待をした者として、大きな功徳を得たのだ。チュンダには罪はない。

 毒キノコのスープが食卓に出たのは、すべて自然の導きであり、真理なのだ」

「くっそ!、あーいえばこー言いやがる。死にそうでフラフラのくせして、偉そうなこというな!」

「マーラよ。そんな悪態しかつけないとは、見苦しいものだ。哀れなものだ、マーラよ。

私の肉体の死は間もなく汝のものだ。それまで静かに待つがいい」 

そういうと、仏陀の顔色がにわかに戻ったようだった。仏陀は起き上がった。

従者のアーナンダは、

「世尊のこの体調不良は、チュンダのキノコのスープが原因ではありませんか。 

もしそうならば・・・」と仏陀に尋ねた。

「アーナンダよ。私は、もう食事はしない。

水のみを口にする。したがって、チュンダの食事は如来が取った最後の食事である。

如来の最初に食事を供養した者と如来に最後に食事を供養した者は、同等の功徳を得る。 

よいか、誰も決してチュンダを責めてはならぬ。

チュンダには私から話をしよう」と仏陀は、力強く答えたのであった。

仏陀が病で倒れた、と聞いたチュンダは、「もしや・・・」と思っていた。

もしかしたら、あのキノコのスープにあたったのではないかと思い、どうしていいのかわからず、家の中に閉じこもってしまっていた。

仏陀の体調が悪いのは、チュンダのせいではないか、という噂もそろそろ出始めていたのだ。

アーナンダは、チュンダの家に行き、仏陀が快方に向かっているから来るようにと告げた。

チュンダは、大いに喜び、仏陀の元へと向かった。

仏陀は、木にもたれながら、チュンダに優しく話をした。

「チュンダよ、汝の接待は大変良いものであった。気に病むではない。

しかし、キノコには、毒のあるものがある。有毒か無毒かは、専門家にしかわからない。

今後は、山で取ったキノコの料理は控えるがいいであろう。

今まで誰も死者が出なかったのは、たまたま運が良かっただけのことである。

キノコを食べたいのならば、市場で買ってきたほうがよい。 

よいか、チュンダ。汝には罪はない。私は汝の接待を受けなくても、寿命がやってくるのだ。 

汝の接待を受けなかった場合、おそらくは毒蛇にかまれていたことであろう。 

死というものはそういうものである。 

それが来るときは、山に逃げても海に潜っても、どこへ逃げ隠れしても、逃れることはできないのだよ。

だからこそ、今を大切に生きることが必要なのだ。

チュンダよ、汝、罪を犯さず、善行をし、布施の心を忘れず勤めなさい」

チュンダは、涙を流して喜んだのであった。

<引用終了>

 

ブッダは既に完全なる悟りを開き、宇宙の真理を把握していましたので、鍛冶職人のチュンダの接待のキノコスープが毒であることは十分にわかっていました。 

ですが、ブッダは敢えてそれを拒まず、ブッダ達を喜ばせたい、笑顔になっていただきたいというチェンダの心を受け取り、お飲みになりました。 そして亡くなりました。 

ですが、決してチェンダを責めることなく、逆に栄誉を与えたのです。

とかく私たちは目に見えるものしか把握できないために 

物を見て、

・自分に必要の無い物

・嫌いな物 

であれば、決して贈ってくださった、その人の心を見ることなく、嫌な顔したり、すぐに捨てたりと邪見に扱うかもしれません。  

私たちは心が織りなす世界に生きています。 

見える世界もその後ろに控える、広大な見えない世界も全ては、私たちのこの小さな体の「心の中」にあります。心こそが、全ての世界を包括するものです。 

心が変われば、全ての世界が変わります。 

私たちの心が温かな思いやりや愛で満たされていれば、

全世界が、そのような暖かな世界に一瞬で変わることでしょう。

誰かの悪口ばかりを言い回り 憎しみや疑心暗鬼、嫉妬の心でいれば全世界が、自分を責め立てる修羅の世界に変わることでしょう。

どんな時も、相手の方の心を推し量り、大切にしたいものですね。

物質である物は、そのずっとずっと後からついてきます。

イエスの黄金律ではこう言っています。

「自分のして欲しいことを、相手の方にして差し上げなさい」

皆さんが、ご自分の心の中にいらっしゃる神さまに気づき、お幸せになりますように。



 

2021年7月30日金曜日

2409「おかげ様の人生」2021.7.30

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年07月23日の記事を紹介します。


「おかげ様の人生」


私たちは同時に3つの世界を生きています。 

・見えている、今の現実と思っている世界

・見えない、不思議の世界(黄泉の国、霊的な世界)

・心の世界

この3つです。 

そして一番ないがしろにされているのが「心の世界」ですが、一番重要で、見える世界、見えない世界を変えてしまうほどの力があります。

見えない世界は、一見 神秘的で不思議で、ワクワクさせてくれます。 

見えない世界の、神様や龍、精霊など何だか頼れば、大きな力をくれそうな気もします。 

ですが、私たちの心が変わらなければそれも一時のこと。  

心を清浄にすること、ピュアにすること、感謝の気持ちで満たすこと 

このことの方が、何千倍、何万倍、何億倍も価値があり、

永続的な幸せの世界、神々の世界へ私たちを連れて行ってくれます。 

見えない世界の力をいくら手に入れようと、ご自分の心の世界の変化にはかないません。 

ご自分の心を鏡に映したとき、その姿を、まっすぐに見つめることはできますか?

それでは、今日も心をピュアにするためのお話です。 

 

ブッダが悟りを開いたとき、最初に気づいた宇宙の法則があります。

それが、「縁起(えんぎ)の法則」です。

縁(よ)りて起こる

この意味は、自分の人生は、

・自分以外の、すべてのおかげ、

・神仏や、まわりのおかげで成り立っている。

自分の思いで成り立っているものは、何ひとつない。

人は、自分の思い、力、能力で未来を切り拓(ひら)き、人生が変わっていくと思っているので苦悩する。

人間の苦悩の本質は「縁起」を認めないために起こっている。

この「悟り」を言い換えて言うと、あなたの努力や才能によって人生が組み立てられていることは一つもない。あなた以外のすべてが、あなたの人生を決めている。

ということです。 

それでは、ここで、正法寺住職の青山俊董さんのお話をご紹介します。

<引用開始> 引用元 


京都駅で拾ったタクシーの運転手さんが語りかけてきました。

「ご出家さんですね。お話をさせていただいてもよろしゅうございますか」と。

「どうぞ」と私は答えました。

「私は高校三年生の三学期に両親を亡くしました。

町会で河豚(ふぐ)を食べに行き、その毒にあたって一晩で亡くなりました。

いつもなら母親が早く起きてお弁当を作ってくださるはずなのに、いつまで経っても音一つしないので、“おかしいなあ?”と思って、両親の部屋の戸を開けてみました。

二人ともさんざん苦しんだ後、息が絶えておりました。

驚いて電話に走り、親戚の者が駆けつけて葬式は出してくれました。

借金はありませんでしたが、一銭の貯えもありませんでした。

私の下に五歳の妹がおりました。

父が出征しておりましたから、年はなれて妹ができた訳です。

高校三年の私と五歳の妹では家賃がとりたてられないであろうというので、家主が追い出した。私は五歳の妹を連れ、最小限度の荷物を持ち、安い六畳一部屋を借りて出ました。

両親に代わって妹を育てなきゃならないと思って、私は夢中になって働きました。

朝は新聞配達、昼は勤め、夜はアルバイトとメチャクチャ働いて、

二十二、三歳のときには、安いアパートを買うほどの金は作りました。

その間、私は働くことしか考えていませんでしたから、洗濯も炊事も掃除も何もしませんでした。五歳の妹がしたことになります。

妹に勉強机の一つも買ってやりたかったのですが、六畳一部屋に食卓と勉強机と二つおくと寝るところがなくなるから、妹はかわいそうだけれど食卓を勉強机に兼ねてもらいました。

狭い家で育ったから妹は整理の名人になり、今、大きな家にご縁をいただいておりますが、

きれいに整頓されております。

考えてみましたら私なんか、もし両親が元気でいてくれたら、今ごろ暴走族か突っ張り族か、

ろくな人間にしかなっていなかったと思います。

もし両親が死んでくれても、金を残してくれたら今の私はなく、また妹がいなかったら淋しくてぐれていたでしょう。

両親はいない、金はない、幼い妹がいる。私は本気にならざるを得ませんでした。

私を本気にしてくれ、一人前の大人にしてくれ、男にしてくれたのは、

・両親が死んでくれたお陰、

・金を残してくれなかったお陰、

・家主が追い出してくれたお陰、

・幼い妹をつけてくれたお陰

と思い、毎日両親の位牌(いはい)に感謝の線香をあげております。

何もかも私を一人前の大人にするためのおはからいと感謝しております。

ただ一つ、妹がよいご縁をいただいて花嫁衣裳を着たときは泣けました。

両親に見せたかった。

わずか三十分ほどの間の話でしたが、どんな立派な方の話よりもすばらしい話を聞くことができ、心から「ありがとう」といって車を降りました。


お釈迦さまは、この世の中には四種類の人がある、と説かれました。

・闇から闇へゆく人、

・闇から光へゆく人、

・光から闇へゆく人、

・光から光へゆく人と。

人生の幸、不幸を、光とか闇という言葉で表現することができるでしょう。

一般的にいって闇としか思えないことを、

・両親が死んでくれたお陰、

・金を残してくれなかったお陰、

・家主が追い出してくれたお陰、

・幼い妹をつけてくれたお陰で、

本気になれた、一人前の大人になれたと

全部「幸い」と受けとめ、光へと転じているよい例といえましょう。

<引用終了>

 

私たちは、誰一人他の誰かのお世話にならず、迷惑もかけず、生きていける人はいません。

必ず、どこかの誰かのお世話になり、周りに迷惑を掛けながら生かされています。

今の私があるのも、

家族をはじめ、友人、職場の仲間

・私を好きな人

・私が好きな人

・私を嫌いな人

・私が嫌いな人 

全てのお陰様で、今の私たちが形成され、ここまでの道のりを連れてこられてきました。 

辛く苦しい環境、辛く当たる人たちでさえ、 今の私になるために、欠かすことができなかったのです。 

そのすべてのバランスと、タイミングを見計らい 

人を連れてきて、その出来事を起こしてくださったのは、私たちの魂の成長のために、

常に心を砕いてくださっている神様です。

私たちは、出会った人すべての人によって今の私たちが形成されています。

たとえ嫌いな人でも、人生に現れた人達は、全て私たちに経験をくれた人。

一人でも欠けていたら、今の私はありません。

・私が嫌いな人

・私を嫌いな人 

そんな嫌われ役を、わざわざ引き受けて生まれてくださった方々です。

私たちに、苦い経験をさせてくれるために、敢えて苦しい立場を引き受けてくださいました。

嫌いな人や苦手な人を無理に 好きになろうとしなくていい。

良いとか悪いというジャッジもしない事。

それは単に波長が違うだけなのだから。

私たちは、そんな風に思えたら

好きにならなくとも、感謝はできるかもしれませんね。


感謝のあるところ、いえ感謝のあるところにしか、神々の恩寵は現れることができません。



2021年7月29日木曜日

2408「全ての母親に伝えたい」 2021.7.29

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年07月26日の記事を紹介します。


「全ての母親に伝えたい」


今日は、生前の小林正観さんが高岡で講演した時のお話です。

分かりやすくするために内容を若干補完して掲載します。


<引用開始> 引用元 


正観さんが、生前の40年間の間に 24人の子どもさんに会い、天国にいた時の記憶を聞いたそうです。

・3歳児が22人

・4歳児が2人

すべて生まれる前の記憶を持つ子供たちです。

生まれる前の状況はどうだったの?

・上から見下ろしていた。

・お母さんがとても楽しそうに色々喋っていたので話し相手になったら

  すごく楽しそうと思ったら生まれちゃった。

・上から見ていたら、いつもお母さんが悲しそうで 寂しそうな顔をしていた。

  話し相手になってあげようと思ったら生まれちゃった。

・お母さんがいつもいつも男の人に泣かされていた。いつも寂しそうで悲しそうだったから

 応援 支援してあげようと思ったらお母さんのところに生まれちゃった。

 いつも泣かしていた人は お父さんだった。

全部のお話に共通していたことは

・お母さんの味方をしよう。

・お母さんを励ましたくて。

・お母さんの話の相手に。

・お母さんの応援 味方に。

お父さんのお話は、一人も出て来ませんでした。


正観さんは仰いました。

感動的な結果です。

全ての母親に伝えたい。

究極の感謝の対象(生まれてきてくれた子供たち)がそこにある。

もし皆さんが、このことを受け入れることができたとしたら・・・

もう二度と、子供たちを怒ることは無くなると思います。

 

子供たちは、「お母さんの 味方をしてあげたい」

そう言って生まれてきました。

それなのに

・あれが気に入らない。

・これが気に入らない。

・もっと勉強ができれば。

・もっと健康であれば。

「何であなたは そうなの?」

責め続けている自分(母親)であったなら

今日のこの瞬間に、胸に手を当てて考えてみたほうがいいと思います。

母親を 

・励ますために 

・力づけるために

・笑顔で 話し相手になってあげるために

こどもは全部そういうつもりで生まれてきました。

男の親は その母親の精神的な安定と、経済的な安定のための存在。

特に精神的な安定のために 

女性がこの男性なら安心して子どもを産めて 育てることができる。

この人の子どもなら 産みたい。

そのような精神的な安定のために、存在するみたいです

怒鳴ったり イラついたりしないための安定剤らしい。

<引用終了>


男の親は出番が、あまりありませんが、

愛する奥さんと、子供たちの幸せ、そして笑顔のためであれば

どんな辛い状況も、耐え忍び、乗り越えていけるかもしれません。

母と子、魂と魂の濃密な結びつきです。

そしておい互いが、研ぎ石の役割を果たしています。

ギリギリと、私たち親の悪い所、自分勝手なところ

そんなところを、デフォルメして見せてくれます。

まるでヤスリ(研ぎ石)のように、容赦なく、私たちの心を削り、魂を輝かせようとします。


そのことに気づき、感謝の気持ちを持てた時、

子供たちの生まれて来た目的の大半が達成された時です。

お互いが魂の底から喜びあえる瞬間です。

海老蔵さんも、生まれる前の記憶(天国)があるとNHKの番組「プロフェショナル」で告白しています。

魂の目的が達成された時、そのために設定してきた環境は解除され、生まれる前の

仲の良かった、愛に溢れた2つの魂の交わりに戻っていくことでしょう。

もう 悩む必要も苦しむ必要もなくなります。




2021年7月28日水曜日

2407「青空ひろば」2021.7.28

今回は立花大敬さんの「青空ひろば」のワンデイ・メッセージを紹介します。

最初の384は前回に紹介していますが再掲します。


384 2021.07.15

苦しい状態を解消する一番副作用が起きにくい方法は、<時に身を任せる>方法です。

<時に身を任せる>とは、<解きに身を任せる>ことです。

現われた世界は、本当はもう過去で、ナイのですが、私たちが苦しい、つらいと<認めて>、つまり<見停めて>、そんな苦しい状態を持続させてしまっているのです。

だから、もうナイんだと信じて、心配せず、あせらず、自然な<解き(時)の流れ>に身を任せていれば、いつの間にか事態が好転していて気が付いて驚くことになります。

一気に好転というわけにはいきませんが、少々時間がかかっても、これが一番副作用がすくない「運命転換法」です。


395 2021.07.27 

ある若者の質問

「ある人から、人生は生まれた時から運命が決まっている、と聞きました。それは本当ですか」

大敬の答え

「ええ、そうなんですよ。人は生まれた時から、いや生まれる前から、運命は決まっているのです。

どんな風に決まっているのかというと、神様が私たち一人一人に<愛のゴムひも>をくくりつけて下さっていて、<光の国>へと、<しあわせの国>へと、そのゴムひもの弾力で引っ張って下さっているのですよ。

ですから、どうあがいたって、どんなに違う方向に走ろうとしても、結局は<神様の愛のゴムひもの力>で、光の国、愛の、融和の国に到着して、<光の存在>となってしまわざるを得ないんですよ。残念ですけれど、そんな運命から、あなたも私も逃れることは出来ません」


394 2021.07.26

お釈迦様が説法の座にすわっておられました。たくさんの弟子が集まっていて、お釈迦様が語り出されるのを、今か、今かと待っていました。

その時、お釈迦様は、その説法の座をかざっていた花をご覧になって、さも、いとおしげに、その花に手をお触れになりました。

それを見ていた弟子たちのうち、ただ一人、迦葉(かしょう)だけが、それを見て、ニッコリ、ほほえみました。

それをご覧になった、お釈迦様は、

「私が得た真理全部を、この迦葉も得ることができた。迦葉こそ、私の後継者としてふさわしい」と二代目に定められたのです。

つまり、禅の悟りというものは、この「ほほえみ」につきるのです。

私たちの坐りの正邪の判断の基準も、この「ほほえみ」です。

ほほえもうというのではなくて、「ほほえみ」がいのちの内側から、おのずと湧き出してこないような坐りは本物ではありません。


393 2021.07.25 

私も、あなたも、本当に非力な、無力な、「いのちの赤ちゃん」です。

ところが、不思議な事には、非力で、無力で、とても生きてゆけそうもない、そんな私たちを、どうしてだか私にはとても分かりませんが、「いのちのお母さん」が、生かそう、生かそうとしておられるのです。

「いのちのお乳」で大きくなれ、元気に育ってねと、祈りをこめてくださっているのです。

私はただ、ただ、そんな「いのちのお母さん」の愛情を信頼して、『お母さん、ありがとう』と坐るだけです。


3922021.07.24 

まず、坐る時は、アタマをやめることです。

道元禅師が、坐禅の仕方を説明された『普勧(ふかん)坐禅儀(ざぜんぎ)』のなかで、『不思善(ふしぜん)、不思悪(ふしあく)、念・想・観(ねん・そう・かん)の測量(しきりょう)をやめて、作仏(さぶつ)を図(はか)ることなかれ』とおっしゃっておられます。

善悪を思わない。『ああ、いい坐りだ』、『これはマズい坐りだ』などと思うのは、それはアタマですから、それをやめるのです。

瞑想法では、何かを念じたり・何かを想ったり・イメージを観じたりします。それはアタマがやる事ですから、それもやめます。

仏になろう(作仏)とすらしないのです。

坐禅は、アタマをやめて、ただ坐るのです。


3912021.07.23 

心臓がドクドク打っています。

それはあなたが計算して、努力工夫して動かしているのですか?

食物が消化されてゆきます。

それはあなたがやっているのですか?

そうではないですね。

それらはすべて「いのち」がやっている営みです。

あなたは自分の力で生きているのではなく、そんな大きな「いのちのお母さん」に生かされているのです。


390 2021.07.22 

赤ん坊がお母さんの胸に抱かれて、すっかり安心してスヤスヤ眠っています。

<坐る>要領は、自分が赤ん坊なんだとイメージして下されば、それにつきると思います。

「坐禅しましょう」といいますと、まず聞かれるのは呼吸法です。

赤ん坊が呼吸法の訓練をしますか?

赤ちゃんが眠る姿勢を工夫しますか?

赤ちゃんはいのちのままにスヤスヤ息して、その時、その時、一番楽な姿勢で眠っていますね。すっかり安心して、いのちのお母さんを信頼して坐ればいいのです。


389 2021.07.21

本当は、坐禅という言葉は使いたくないのです。

なぜかといいますと、「さて、坐禅しましょう」といいますと、きっとガンバッテしまう人が出てくるからです。そんなガンバリを一切放棄するのが坐禅なんですが…。

ですから、<坐り>という言葉を使ったほうがいいのかも知れませんね。

<いのちの坐り>です。

それぞれの人のいのちが、それぞれ本来のいのちに坐りごこちよく落ち着いている姿が<坐り>です


388 2021.07.19 

すべてのヒーリングは本来<セルフ・ヒーリング>なのです。

目の前に病気の人がいるのではないのです。

世界は、あなたの心が創り出しているのですから、その病気の人にあなたが出会うのは、あなたの心が病んでいるからなのです。

ですから、あなたの心の中の、その人を病人と認める気持を融かしてゆき、彼の本来の「光明的いのち」を認めてゆくことによって、彼の病いを治すこともできますし、逆に、彼に愛の声かけをし、はたらきかけてゆくことによって、あなたの心のヒーリングもできるのです。


387 2021.07.18 

親も子も癒(いや)しぞ 老いも若きも癒(いや)し 必要ぞ

世界病(や)むぞ 諸人(もろひと)闇(病み)の中ぞ

心傷つき 心腫(は)れ 心爛(ただ)れ 心 血流し 心枯るるぞ

癒し必要 心癒(いや)されて、人弥(いや)さるるぞ

癒(いや)し、弥(いや)しのはじめぞ

教育も癒し 会社経営も癒し 商品販売も癒し

生徒癒(いや)され 生徒弥(いや)すぞ 生徒弥(いや)されて 成績上がるぞ

社員癒(いや)され 社員弥(いや)すぞ 社員弥(いや)されて

会社 弥栄(いやさか)ぞ

顧客癒(いや)され 顧客弥(いや)すぞ 顧客弥(いや)されて 商売繁盛ぞ

心の癒し必要 心 癒さるれば 心 うるおう 心 うるおえば

いのちが伸びる 夢が育つぞ


386 2021.07.17 

<クレーム法>という「想いの実現法」があるので紹介します。

これは、神様にクレームをつけるという方法です。

「神様、だめじゃないですか。もっとしっかりはたらいてくれなくちゃ。私はこんなにがんばっているのに。こんなに、人のために、世のしあわせのための活動に労力とお金を持ち出しているじゃないですか。

それなのに、どうして私の会社を赤字にするんです。

神様の望みはなんですか。すばらしい世界を創りたいんでしょう。

それならもっと私に協力してくれなくちゃ。もっと本腰になって、身を入れて力を添えてくださらなくちゃ…」

まあ、こんな風に神様にクレームをつけるわけです。

大阪で会社を経営しておられるAさんが<クレーム法>を実践された例があるので紹介します。

会社が赤字になったのだそうです。

赤字になったらボーナスは半額にすると社員に宣言しておられたんですが、本当に赤字になって、どうしようかと悩まれた末、思いきってボーナスを全額出すことにしたのです。

さて、そうなると強いですね。自分にはもう何ら、うしろめたいところもないのですから、堂々と神様にクレームをつけられます。

「神様、もっとがんばって下さい。私は多額のお金を平和運動に出しているのだし、こんな風に持ち出してまで社員のボーナスを出しているのです。こんな私の会社をつぶしてしまったら、困るのはあなた、神様でしょう。さあ、もっとどんどん働いてください」

そうしますと、途端に商品の注文が殺到して、ついに工場の生産が追いつかないというほどの状態になって困るほどなんだ、という話でした。

<クレーム法>のポイントは、このAさんの実例でよく分かりますね。

まず、「神様にクレームをつけるにふさわしい自分になる」ことです。

ここは「思い切り」が必要です。

Aさんの例では、Aさんは多額のお金を平和運動に投入しておられますし、さらに身銭を切ってボーナスを全額出されました。

そんな「エゴが断ち切れた状態」をつくりますと、自分に何らやましい、うしろめたい気分がないので、思い切って神様にクレームをつけられるのです。

「エゴがなくなれば、神様と同格」なのですから、同僚に語るように平気で注文をつけられるのです。


385 2021.07.16 

『阿弥陀経(あみだきょう)』というお経があって、そこには、極楽浄土(ごくらく じょうど)という理想世界の様子が描かれていますが、その経文に<白色白光(びゃくしき びゃっこう)・赤色赤光(しゃくしき しゃっこう)>という言葉があります。

白い花が白い光をはなって咲いています。

赤い花が赤い光をはなって咲いています。

なんの変哲もない、当たり前の姿ですが、そのように、それぞれの生命が背伸びせず、卑下せず、小は小のまま、欠点があれば欠点のまま、そこに落ち着いて<いのち>しているのが極楽浄土だというわけです。




2021年7月27日火曜日

2406「魂の泥を落とす」2021.7.27

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年07月21日「魂の泥を落とす」

2021年07月22日「慈悲の心」の2つの記事を紹介します


「魂の泥を落とす」

今日は、美しい魂になるためにということで、小林正観さんのお話をご紹介します。

この記事の目的も、読んでくださる方の

・霊性を磨くこと

・心をピュアにすること

・神々の心に近づくこと

を目的としています。

ひいては古き良き日本を再興し、地球を平安な世界にするためです。 

自分の心を生まれた時のように、ピュアにすることができれば

・何か不思議な力に頼ったり

・人を貶め、マウンティングし、自分を高き者のように見せなくとも

・心ドキドキさせる見えない世界に頼らなくても 生きている間に天国に住み、

そして死後も、天の国に住み続けることができるからです。

私たちが住み、見て感じているこの世の中は、私たちの心が反映されたものです。

ですから、心の中が怒りと憎しみで一杯であったなら、策略謀略、悪口・・諸々の悪しき物を見て、それらに囲まれていることでしょう。

逆に心の中が清く、美しいもので満たされていれば、愛、思いやり、信頼、優しさ、助けあい、お互いさまの心など、様々に心が癒される世界に生きていることでしょう。


これが空海が言った「即身成仏」、つまり、生きながら地獄に住む、天国に住むと言うことです。もし、美しい思いやりの世界で生きて行きたいのなら、まず自分自身の心の洗濯が必要です。

それでは、正観さんのお話をご紹介します。意味が分かりやすくなるよう、少しだけ補足して転載します。

<転載開始> 転載元

 

魂の特性を見抜いてあげる 魂の話、子育て、教育のお話です。

きれいな魂の状態を泥汚れにしているのは、競うこと。較べること。争うという事です。

きれいな魂のままであるためには、今のありのままでいい という事です。

それは 学校教育では出来ません。

競う 較べる 順番をつけることを学校教育のシステムとして成立させてきたからです。

ところが日本の教育は、本来違うものだったんです。

それは「寺子屋教育」と呼ばれていました。寺の境内で遊んでいる子どもは 寺子と呼ばれ、

その子達に読み書きを教えたところから始まりました。

寺子屋では 一切順位付けはしません。

読み書き そろばん 社会に出た時に文字が書けて読める。そろばんで足し算、引き算。

それらができるようにそれを教え込んだのが寺子屋でした。

そこで順位をつけることは 一切しませんでした。寺子屋教育こそ教育の本質です。

吉田松陰の松下村塾が教え込んでいたことは順位付けすることではなく、「見抜いてあげる」ことでした。

松陰先生は「あなたは こういうほうがいいのではないか。こういうジャンルが向いているのではないか。」

「あなたは こういう分野で 優れているので、その道で身を立てたらどうか」と教えてあげていました。

塾生に対し順位をつけることなど一切しませんでした。

でも西洋教育は違うんですね。

順位付けをする。その結果 その順位を競わせるということになりました。

その教育を日本が受け入れ、「富国強兵」 国を富まして兵を強くする という方向に向かって行きました。

確かに一時は、そうなっていったので、その教育が 一番正しいと 思い込んだのです。

ですが、それは違います。

本当は優しさ、心の温かさとかいうものを評価する世の中のほうが良いわけでしょう。

でも現代社会においては、そういうものが評価されずに魂が濁っているわけですよ。

競うこと 較べること 争うことで、魂が泥汚れになっているわけですよ。

それがある日突然、泥が払われることがある。景色の美しさに驚く瞬間。雪の結晶の美しさに気づく瞬間。その瞬間とは、魂の泥が 一瞬にして払い落とされた瞬間です。

競う。較べる。争うことを全部やめ、ただ自分が必要とされるところでニコニコと生きていく だけでいい。それが何番目であるかなど関係ありません。

母親自身がその事に気付き、変わっていけば、子どもはどんどん変わっていくでしょう。 

本当に綺麗な魂に、きっと戻っていきます。 

その時、子どもは言うことでしょう。

・お花がこんなにきれい。

・海はこんなにきれいだったの?

・わ~今日の空は すごくきれい。

そうした時 子どもも大人も きっと「仏性に目覚めた」ということだと思います。

ブッダの仰った「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)」。

魂の構造が少し分かりましたか?

実は 魂を磨く必要なんてないんです。魂はもともと完全で綺麗なクリスタルです。

磨くのではありません。泥汚れを落とせばよいだけです。

自分の内側の競う心 較べる心 争う心をゼロにすること。

それだけで 魂はもとのきれいな状態になっていきます。 

<転載終了>


みなさん、ちょっと周りを見渡してみてください。 

・良い学校と言われる所を出た人は、みんな幸せに暮らしていますか?

・勉強嫌いだった同級生は、生きることが苦しく、みんな暗い顔していますか?

・仕事ができず要領の悪い人は、みんな解雇され、貧困に陥っていますか? 下を向いて生きていますか?

そんなことは決してありません。

みんながみんな、一人残らず、自分の居場所を見つけ、そこで生きているはずです。

その場所で必要とされているはずです。 

私たちは、生まれる前に、既にその「居場所」を見つけていたからです。

その場所で必要とされていたからです。

以前、山古志村の文化遺産保存のための映像ライブラリを作成したことがあります。

その時に田植えの季節の「田植え唄」の取材をしたことがありました。

春、ブナ林の新緑の中。みんなで水の張られた田んぼに一列に並び、「田植え唄」を歌いながら稲を手植えしていく行事です。昔はどこでも、このような光景が見られたそうです。 

その時参加してくださった地元の方は、

高齢の3名の方。そしてもう一人は若い方ですが、知的障害のある方でした。

でも、笑顔がとびっきり輝いているのです。

皆さん、もちろん差別や、特別扱いは一切しません。

普通に話しかけ、普通に笑いあっているのです。 

少しの違いなど一切気にしません。それがあるからこその、彼の輝く笑顔なのです。 

地域の中で、分け隔てなく、みんながみんなを大切にして生活していることが、よくわかる光景でした。

彼の心には何の心配もなく、そして人々の差別や偏見は一切感じなかったことでしょう。 

自分が丸ごと受容されていることを知っていたからです。

私たちも同じです。心配しなくても、みんなに居場所が用意されています。

その居場所で自分のことを必要としてくれる誰かが必ず居るのです。

競う 較べる 順番をつけることなどしなくても私たちは本来の伸びやかな、美しい心のまま生きていけるのです。

競う 較べる 順番をつけることを止めた時、神さまを信じ、自分を信じ、あるがままの自分でも生きていける。生きて行っていいんだと、心から信じられた時、私たちの魂は本来の美しさと輝きを取り戻すことでしょう。 

きっとこれこそが、私たち人間の生きるべき本当の姿だと思います。 

皆さんも、一足飛びではなくとも、少しずつ、そちらの方向に進んでみませんか?

きっとお幸せになれますよ。


「慈悲の心」

私たち人間は弱いものです。

・正しくありたい

・優しくしたい

・笑顔でいたい

・人の役に立ちたい

そう願っていても、何時も弱い心が頭をもたげます。

何が正しいか、分ってはいても,なかなか一歩踏み出せないでいます。

生きている間は、ずっとその繰り返しかもしれません。

でも諦めないでください。みんながそうなんです。そこが出発点なんです。

ブッダが生前こんなことを言いました。

「嘘をつけないような人になっては いけない 優しさは真実に勝る」

ブッダの仰りたかったことは相手を思いやる優しさや、調和の為の嘘は、真実よりも尊い・・ と言う事を仰ったのでした。

また、こうも仰りました。

捨戒の法

ブッダが仰るには、仏教徒が戒律を破るとき、

いま仏教を捨てます、と天に向かって言います。

そして、酒を飲んだり、戒律を破る。

その後、また仏門に帰依します、と言って戻れば、それで良いのだよ。

ブッダは人間の弱さを知っていました。そして温かい目で人間を見ていました。

過ちを見て、人を切り捨てるようなことはなさいませんでした。

人を追い詰めることはなさいませんでした。

ブッダは戒律重視ではなく、優しさ(慈悲)を教えていたからです。

また同じく人間の弱さ、哀しさ、神仏への憧れの気持ちを正しく理解していた空海も、このような言葉を残しています。

<転載開始> 転載元 

人は、着の身 着のまま ありのままの自分でいても

愛と慈悲を差し出すことで 即 仏になることができる

仏性は つねに 人の中にあるからこそ

探し回る必要もなく 遠くに求めに行くこともない

ただ、あなたが 優しさがなんなのかを知っており

それを 目の前の人に そっと差し出すならば あなたが人の痛みを知っており 

それを目の前の人を癒すものとして あたたかい言葉をかけるなら

それこそが、仏の姿の現れだからです

愛と慈悲 すなわち 仏性は 頭で 理屈として 理解するときではなく

わが身をもって 実践するとき 花ひらく

<転載終了>


空海は、

・人の痛みを知っていること

・優しさがなんなのかを知っていること

が大切であると仰いました。

すなわち、私たち自身が、その痛み、苦しみ、辛さの中に

一回身をおいて経験してみなければ、本当に理解できない心です。

今まさに、悩んだり道をはずしたりしながら、

頭をあちこちにぶつけて暮らす 私たちのことです。

この悩み、苦しみの中に在るからこそ、人の優しさや、ありがたさが分かり、

「お陰さまの心」が湧き、人を癒していくことができる。 

仏性を発揮していくことができるようになります。

さてもうひとつ、空海の優しさがにじみ出ている

「祈り」について、現代語で意訳してくださっているものをご紹介します。

<転載開始> 転載元 


手と手を合わせて 目を閉じ 頭を下げてみてください。

心が穏やかになるのを感じませんか?

祈りは心に平和をもたらします。

やさしさは祈りから生まれてきます。

祈りとは仏像に向かって 拝むことではなく、

自分の中に湧き起こったことに対して 行うもの。

祈りは愛をもたらします。


 <転載終了>


人は弱いものです。

いくら正しい道を示されても、「こうであるべきだ」と正論を教えていただいても、

なかなかそう簡単に行きません。

でも本当はそうしたいのです。心で分かっていますから。

そして、それが自分には簡単にはできないとわかると、結局あきらめてしまい、 

また元の苦難の日々に埋もれてしまいます。

正しい道を示されても何の役にも立ちません。

せっかく芽生えた神仏を敬う信仰の心を閉ざしてしまうかもしれません。

仏教の教えは、対機説法(相手の状況に合わせて説く教え)と言われています。

ですので、ブッダも空海も様々な方法で真理を説き、

様々な方法論を用意してくださいました。

神社やお寺さんに行き、手を合わせ、家族のために

家内安全; 身体健全; 延命長寿; 中気除; 無病息災; 交通安全; 

学業増進; 入試合格; 試験合格; 就職成就; 良縁拝受; 安産息災; 

開運福寿; 心願成就; 厄災難除; 方災消除; 病気平癒 

などの身内の幸せを願う気持ちは自然なことです。

神社は「願い事ではなく、お礼を言いに行くところ」と教えてくださる方も沢山いらっしゃいます。確かにその通りです。

ですが、私達庶民の願いは、もっと身近で切実な、今の今、苦しみながらも精一杯生きで行こうとしている。そんな生活の中から生まれた願いです。絞り出すような心の思いです。

私は思います。神さまは、そんな私達でもきっと許し、素直に頭を下げ、

真剣に神様に祈る人間を、愛でて下さるのではないかと。。

そして、神さまの元に来た私達を、祓い、清めて下さるのではないかと。。

人に迷惑を決してかけず、自分の力で生きて行くんだ・・

そう思いを定めて生きるのも良いでしょう。

ですが、私たち誰一人、他の方のお陰なくして生きられるものはおりません。

全てが「お陰さま」で成り立っています。

自分の力だけで生きていくとは、宇宙的視点から見れば少し傲慢な心かもしれません。

心弱かった私たちに、信仰の心が芽生え、自分の非力さを認識し、素直に頭を垂れる。

その最初の動機は、自分や家族のためなので、まさしく利己的かもしれません。

ですが、それこそが、本当のスタート地点ではないかと思うのです。

小林正観さんはプレアデスのアトラス星から地球に来られました。

その後、ブッダの弟子、空海の弟子の時代を過ごします。

今世においてもブッダの教えを中心に講演していましたので、比喩や対機説法を多用していました。

正観さんも、人間の弱さを熟知したうえで、まずはスタート地点に立って頂こうと、 

「ありがとうや感謝の心を持つことは、幸せになる第一歩ですよ」と、

 はたから見れば非常に利己的な言い方をなさいました。

ですがそれも、そこをスタートとして、神さまの心に近付いて頂くための方便でした。

それを彼は「究極の損得勘定」と呼んだのです。

私もこのブログで書くことは、

・読んでくださる方が幸せに思えること、

・心がほっこりするようなこと

・心が洗われるようなこと

を書くように心がけています。

難しい言葉を使わず、方便も交えた上で読んでくださる方に心の大切さ、心の中の神さまに気付いて頂きたいからです。

それは、何か凄いパワーを人や神から頂いて、他力的に幸せを掴むのではなく、ご自分の力で、ご自分の心を開き、本当の幸せ、永続する幸せを、自ら手に入れて頂きたいからです。

ご自分が幸せになれば、きっと周りのご家族もお幸せになれることでしょう。職場でもそうです。

どうか皆さんが、内に居らっしゃる神さまに気付き、お幸せになれますように。



2021年7月26日月曜日

2405「神様の恩寵」2021.7.26

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年07月17日「素直になれたら」

2021年07月20日「神様の恩寵」の2つの記事を紹介します。


「素直になれたら」

今日のお話は、元伊勢道場長、中山靖雄三のお話をご紹介します。

障害のある弟さんを持った、お兄さんのお話です。

障害を持って生まれてくることも、全て生まれる前に、

・ある目的を立て

・その目的を達成するために計画を立て

・この世に出てから関係することになる人たちの承諾を得て

・神様にその計画を承認していただき

・生まれる瞬間の星の影響などを考慮して 

生まれて来るようです。綿密な計画です。 

特に障害を引き受けて生まれてくることは、魂の進化の進んだ魂にしかできません。 

そして本人だけでなく、周りにも大きな波紋を投げかけます。

ですが、その波紋は、魂の輝きを増すための大きな大きな試練の波紋です。

当人たちが、天に帰った時、その大きな意味が明かされることでしょう。 

では、今日のお話を始めます。

<引用開始> 引用元 

 

修養団で三泊四日の研修を終えられた最後の日に、「帰ったら弟にごめんなさいって、お詫びをしたいと思います」と言ってくださった方がおられました。

「私の弟は耳が聞こえません。そしてしゃべることができません。

その弟と、おふくろと私と三人暮らしなんです。

親父が早く死んで、私が父親代わりで今まできました。おふくろや弟を大事にしてやらなきゃいけないってことは、いやというほどわかっていましたが、なかなかできませんでした。

今はおふくろに、『母ちゃんは弟のことが心配なんだろう?俺に安心して任せておきなさい』って言いたい気持ちがしています。

だけど、家に帰っておふくろの顔を見たら、照れくさくてとうていそんなことは言えないような気がします。ただ今日は家に帰って、弟を一回抱きしめて、言っても聞こえませんが、

今までごめんって、お詫びをしたいと思います」

そう言われたのです。

それを聞いて、「明日の朝、電話を入れるから話を聞かせてね。絶対嘘つきにならんといてね」と言って別れました。

翌日、電話を入れると、私からの電話を待っていてくださったようでした。

「先生、やれました」そうおっしゃいました。

「ただいま」と帰ったら、弟が部屋にいた。「謝ろう」と思ったのに、なんとなく体が動かない。お兄ちゃんがいない間は、鬼のいぬ間でのびのびしていた弟も、お兄ちゃんが帰って来たら、また「やられる」と思ったのでしょう。

気配を察して、弟が慌てて遊び道具を片付けて、外に遊びに出かけようとしたのだそうです。

その時、弟の後ろ姿にだったから言えたのかもしれないけど、「今までゴメンだったね」と言えたというのです。

今まで弟のせいで、自分がいじめられることもあり、心の底では悪いなと思いながらも、

やり場のない思いを幼い弟にぶつけてしまっていた。

言葉で抵抗できない、ものを言えない弟をいじめていたのだ、というのです。

それをお母さんはずっと見ていて、知ってはいても、お母さんもお兄ちゃんのつらい気持ちを思うと叱ることもできず、そんな兄を見守るしかなかったという家庭だったといいます。

弟に申し訳なかったと思っている今の気持ちを、なんとかわからせたいと思い、外へ飛び出した弟を追いかけた。すると、弟が必死に走って逃げだすのです。

「逃げんでもいいぞ」と言っても、弟には聞こえない。

いくつめかの信号でやっと襟首を捕まえたのですが、逃げようとして七転八倒します。

なんとか、今の気持ちをわからせたいと思うけど、どうにもならない。しかたがないから、襟首をぐっと引きずり寄せて、回れ右させてて、自分の体に押さえつけるように抱き寄せながら、「ごめんね、ごめんね」って、体をさすってみたのだそうです。

もがいていた弟も、いつもならボカボカってやられるのに変だな、と思ったのか、ほっと顔を上げたのだそうです。

その弟のなんとも言えない恐々とした表情を見た瞬間、あふれる涙を止めることができなかったといいます。 


その流れだす涙が弟の顔にもポトリポトリと当たって、弟にも何かが伝わった。

「先生、あいつが、何をやってくれたと思う?俺の首ったまに、パッとぶら下がって、

『あ~っ』って、声にならん声を一生懸命搾(しぼ)り出そうとするんだ。

もし、ものが言えたら『にいちゃん、こんな嬉しいことはないよ、ありがとう』

と言いたいんだろうなって思ったら、もうたまらなくて、みんながいる往来で

『ごめんな、ごめんな』の繰り返しでした」とおっしゃいました。

それから一緒に家に帰って、お風呂に入って、ご飯食べて、お母さんが布団を並べて敷いてくれたそうです。いつもは必ず、布団を離して隅に持っていこうとする弟が、その日は並んだ布団にすぽっと入って、すやすやと寝ている。

「言うても聞こえんし、寝てるし、わからんと思ったけど、布団の上から『今までゴメンだったね、ゴメンだったね』って、もう一度、お詫びをさせてもらいました。

こんな思いが、いつまで続くかわからんけど、精一杯大事にしてやりたいなぁ。

そんな気持ちでいっぱいなんです」とおっしゃいました。  

みなさん、いろんな条件があるでしょう。それぞれの条件の中で、今を喜びに変えながら生きていくこと。それが、世界を清めていくのです。

 

発達障害のピアニスト 野田あすかさんがいらっしゃいます。

22歳で発達障害とわかるまで、両親は自分たちを責め続けたそうです。

彼女が22歳の時、障害のパニックから自宅の2階から飛び降りて右足を粉砕骨折してしまいました。その後遺症のため、現在でも杖がなければ歩くことができず、日常生活では車椅子が必要です。 想像してみて下さい。 その時の彼女の心ご両親のお気持ち


話を戻します。

このお兄さん。さまざまな条件の中、素直になれなかったその方も、初めてその人本来の本性(ほんせい)に立ち戻ったのですね。

そこに気づかなかったら、勝手な思いのままの性(しょう)でいってしまいます。

しかし、どんな人も、出来事を良し悪しにせず、その条件の中で喜びに出会うご縁をいただいているのだと気がつきさえすれば、本性に立ちかえることができるのです。

本性に立ちかえると、自分の心が安らげます。

大きな祈りの中で過ごせるものを、みんな生まれながらにして持っているのです。

<引用終了>

 

みなさん、置かれた場所は異なります。

何の悩みも苦しみも葛藤もない環境の人も 悲しみ苦しみの中にいらっしゃる方も

そして、いろんな条件の中で、今あるもの、与えられているものを見い出し、感謝して、花を咲かせようとする人もいます。不平不満、呪いの言葉を口にする人もいます。

生きているうちに

・地獄に住む人

・天国に住む人と

分かれてしまいます。 

ですが、きっと神さまは、私たちが生まれてくる時に

どんな環境の中でも喜びを見出し、みんな仲良く、感謝の心で過ごしてくるのですよ。。 

そう言って、送り出してくださったのだと思います。

もうしばらくして、私たちが、再び天に戻った時、神さまの、悲しむお顔は、見たくないですね。笑顔でお会いしたいですね。



「神様の恩寵」

よく聞く言葉があります。

・願いが叶ったら、感謝する

・気持ちが落ち着いたら、感謝する

・生活に余裕ができたら、感謝する

ですが、これは、宇宙の法則とはまったく逆のことをおっしゃっています。 

宇宙の法則とは与えたものが、受け取るもの

まず自分から、何かを出さなければなりません。  

出したものと同質のものが、巡り巡って自分に何倍にも帰ってきますから 

幸せになりたいのであれば・・

感謝の人生を送りたいのであれば・・

まず自分から他人に対し優しさや、思いやりのある言葉かけ、笑顔、感謝を、出さねばなりません。 そうやって初めて自分に返ってきます。

何かを得たら、とか素晴らしい環境になったら感謝する 

そんな気持ちを元春日大社宮司の葉室 賴昭さんは、「それは、取引だ」と、排除なさっています。 

それでは、今日のお話です。 

自分が持っていないものに、不平不満、愚痴を言うのではなく

与えられているものに・・・何もない平凡な日々に、感謝しよう

そんなお話です。  

あなたは他人や、モノ、動植物、自然、神様に感謝することはありますか?

一日に何回「ありがとう」と口になさいますか?

今日は何人の方に、笑顔を向けましたか?

そこから解放される手段を、ブッダは2,500年前に「般若心経」の中で教えてくださいました。それは「感謝の心」です。

ブッダは人間として生きていく上での全ての悩み苦しみの、共通の解決方法を、「般若心経」に残してくださいました。

「般若心経」はブッダの弟子の一人、シャーリプトラ(舎利弗=10大弟子)に、観音菩薩が教えを説くという設定で全文が構成されています。

では、小林正観さんの講演会でのお話をご紹介します。

<転載開始> 転載元


講演会が終わったところで、本にサインをする場合があります。

その時は百二十名ぐらいの講演参加者でしたが、半分の六十名ほどの人が本にサインが欲しいということで並びました。

三十人ほどのところに、「質問していいですか?」という女性が立っていました。

年齢は四十歳ぐらいでしょうか。質問の内容はこういうものでした。

実は私は看護師をしています。夫は長距離トラックの運転手で、毎晩出かけて行って、夜はいません。そして、自分は夜勤も嫌がらず引き受けてやっているので、週に二回、子供たち三人だけの夜があります。

最近のニュースを見ていると、子供たち三人をおいていく時に、何か事件や事故があるのではないか、変な人間が侵入してきたらどうしようか、火事が起きたらどうしようか・・・

そういうことばかりを考えて、夫婦二人で話し合い、どちらかが仕事を辞めた方がいいのではないかと話しています。けれども、住宅ローンを返さなければいけないという事情もあって、簡単に二人とも辞めることができません。悩んで苦しんで、いつも夫と話し合っているのですが、どうしたらいいでしょうかという質問でした。

私はこのように聞きました。

「一年に五十三週ありますね。 週に二日、子供たち三人だけの夜があるということは、 

一年を通していえば百六日になりますが、子供たち三人だけの夜は百日を超えていますか?」と聞きました。

「超えています」と答えが返りました。

「では、二年だと二百日を超えますが、 二百日を超えていますか?」

「超えています」

「では、三年だと三百日を超えていますが 三百日を超えていますか?」と聞きました。

「三百日も超えていると思います」と答えが返ってきました。

「それでは伺いますが、 その無事に過ごせた一日だけにでも、安全に何事もなく過ぎてくれてありがとうと、手を合わせて、感謝したことがありますか?」

と問いかけました。

十秒ほど黙っていましたが、この方は、そこからどわーっとすごい涙を流して、泣き始めました。二十分ほども そこで立ったまま泣いていたでしょうか。

私はその間に残り三十人ほどの本のサインを済ませ、それがちょうど終わったころに、彼女がやっと話ができる状態になって口を開きました。

「ほんとうに一度も感謝したことがありませんでした。 心配ばかりをして、無事に過ごしてきた日に一日たりとも、 一度たりとも感謝したことがありませんでした。

今日、帰って宇宙に、地球に、いろいろな方に感謝をするとともに、子供たちを思いっ切り抱きしめてあげます」と語りました。 泣いてはいましたが、明るい笑顔でした。

この話には後日談があります。

半年ほど経ってまた同じところで講演会があったのですが、

「先日はありがとうございました」と言って、その方がお見えになりました。

その後、毎日毎日、感謝をして、何事もないことに手を合わせてお礼を言っているそうですが、何事もなくほんとうに平穏無事に毎日が過ぎていっている。

ありがたい。何かが変わったわけではないのに、状況がなにも変わったわけではないのに、

心が平穏になり、穏やかで豊かで幸せである、ということを話にきてくれました。

<転載終了>


このことに気づいたお母さんは、もう大丈夫ですね。宇宙からのパワー、神様からの恩寵を

手に入れる方法を知りましたから。 

何かが叶ったら、感謝する ではなく、本当の感謝は、何も起きないことに感謝なのかもしれません。何も起きないで淡々と穏やかに過ぎていく日々、実はこれが物凄いことなのだということに気がつくこと。

不安 恐れ 懸念 心配事というのは、私たちのために、常に沢山の恩寵を施し、時間やタイミングを調整し、様々とやって下さっている神様に対して、それに気付くことなく、感謝することなく、それどころか文句を言っているのと同じことです。

また、まだ起こってもいない未来に対し、心配し取り越し苦労することも、同じことかもしれません。

いま何事もなく 淡々と過ぎている時間というのは 何も起きていない ということではなく、神様が全てを調整し、全ての出会い別れをセッティングし、そのうえでそれがうまく動いているが故の「無事なことが起きている」の連続かもしれないのです。

この奇跡の連続、とめどもない神様の恩寵の連続、これこそが、感謝の源泉です。

そのことに気づき、感謝することができれば、宇宙からのサポートの100%を享受することができます。

正観さんは、これこそが 本当の感謝の本質と仰っています。

何かを頑張って、努力して手に入れることが感謝ではなくて、今、穏やかに穏やかに暮らしていることが、本当の感謝の源なのだそうです。

悩み、苦しみの生活の中でも、ふと穏やかな時が流れることもあるのではないでしょうか?

そんなひと時もあるのですから、「置かれた場所で咲きなさい」と言われるように、その環境の中で感謝の心を身につけることは、本当に大切なことではないかと思います。

何よりもご自身の幸せのために・・

感謝の心は、幸せになるために、どうしても必要な心です。

夜明けは近いです。もう少しの辛抱です。それまで命を繋いでください。

周りの人に優しくしてください。愛を分けてあげてください。

それが自分の身を助けることに繋がります。




2021年7月25日日曜日

2404「希林さんのできた訳」2021.7.25

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年07月15日の記事を紹介します。


「希林さんのできた訳」

樹木希林さんは、若いころから内田裕也さんと共に法華経の「希心会」と言う会に属していたそうです。  

大変良心的な会で、一世帯の月会費が、たったの100円。

希林さんは、旧芸名は悠木千帆でしたが、その名前をオークションに出品し、新しい名前、希林の名は希心会の一字を受けたのだそうです。 

日本では、敗戦後占領軍の指導のもと、日本人の精神的支柱を破壊するために宗教的なものは、全て否定され、忌み嫌うものとされて来ましたが、そんなことは決してなく、もし悪いところがあるとすれば、それは 

・お金儲け、

・全面依存させ、精神の自立をさせない(一生の金づるにするため)

・他の考えを認めず、攻撃する

などに陥れば、非難されてしかるべきですが、古くから日本に根付いていた信仰の心は

決して悪いものではないと思います。

世界の常識では、誰でも、信仰する教え・考えを持ち、多くの日本人のように「私は無宗教です」などと言えば、人格を疑われるほどです、 

さて、希林さんですが、若いころからブッダの教え「法華経」を信じていたからだけでなく、

その素晴らしい考え方、生きる覚悟は、どうも、ガンを患ってから身に付いたようです。

次にインタビューの記事をご紹介します。

10代、20代の不登校・ひきこもり当事者とともに、樹木さんに3時間のインタビューをした『不登校新聞』の編集長・石井志昂さんが追悼の思いを込めてつづっています。

 <引用開始> 引用元

 

石井:私が取材したいと思ったのは、映画『神宮希林』のなかで、夫・内田裕也さんについて「ああいう御しがたい存在は自分を映す鏡になる」と話していたからなんです。

これは不登校にも通じる話だな、と。

お釈迦さんの弟子でダイバダッタという人がいます。

でも、この人がお釈迦さんの邪魔ばっかりする、というか、お釈迦さんの命さえ狙ったりする。お釈迦さんもこれにはそうとう悩んだらしいですが、ある日、ブッダは「ダイバダッタは自分が悟りを得るために難を与えてくれる存在なんだ」と悟るんです。

私は「なんで夫と別れないの」とよく聞かれますが、私にとってはありがたい存在です。

ありがたいというのは漢字で書くと「有難い」、難が有る、と書きます。

人がなぜ生まれたかと言えば、いろんな難を受けながら成熟していくためなんじゃないでしょうか。今日、みなさんから話を聞きたいと思っていただけたのは、私がたくさんのダイバダッタに出会ってきたからだと思います。 

もちろん私自身がダイバダッタだったときもあります。

ダイバダッタに出会う、あるいは自分がそうなってしまう、そういう難の多い人生を卑屈になるのではなく、受けとめ方を変える。

自分にとって具体的に不本意なことをしてくる存在を師として先生として受けとめる。

受けとめ方を変えることで、すばらしいものに見えてくるんじゃないでしょうか。


石井:そう思うきっかけはなにかあったのでしょうか?

樹木:やっぱりがんになったのは大きかった気がします。ただ、この年になると、がんだけじゃなくていろんな病気にかかりますし、不自由になります。

腰が重くなって、目がかすんで針に糸も通らなくなっていく。

でもね、それでいいの。こうやって人間は自分の不自由さに仕えて成熟していくんです。

若くても不自由なことはたくさんあると思います。(=自分の自由にならないことは沢山ある)それは自分のことだけではなく、他人だったり、ときにはわが子だったりもします。

でも、その不自由さを何とかしようとするんじゃなくて、不自由なまま、おもしろがっていく。それが大事なんじゃないかと思うんです。

<引用終了>

全身、ガンに侵されそうなったら誰でも、自分のいのちと向き合うしかありません。

そんなことでもない限り、私たちは自分は何のために生まれて来たのか?

考えないかもしれません。 

希林さんは、内田裕也さんという、ダイバダッタに出会い苦労し、ガンというダイバダッタに出会い、人生を深く味わい、そうして、人生の奥深さ、醍醐味を身につけたのかもしれませんね。

私たちの人生で出会う、一見不幸な出来事

・事故

・病気

・別れ

・貧困

・死 

それさえも、私たちの人生を輝かせてくれる舞台装置に過ぎません。悩み苦しみ、呪いの言葉で、 相対するのではなく、感謝の心で、望みたいものですね。

そうしてこそ、このような不幸に見える出来事も私たちの魂にとって意味のある出来事に変化します。

ちなみに、提婆達多(ダイバダッタ)は生きながらにして地獄に堕ちた悪人の代表とされていましたが、経典の提婆達多品において、提婆達多こそ実はブッダの前世において師であったと明かされ、未来において、その成仏(仏・悟りを開くこと)を保証されています。  

樹木希林さんにとっての、内田裕也さん。皆さんにも、そんな

・自分の思い通りにならない

・目に障る

・言うことを聞かない

・自分の理想とはかけ離れた言動をする

・自分の思う「普通」や「当たり前」とは違う

のようなご家族はいらっしゃいますか?

それとも、同僚や友人に、そのような方はいらっしゃいますか?

そのような人こそ、ブッダの弟子だったダイバダッタのような人かもしれません。

・とっても嫌な人、

・顔も見たくない人

・会えば文句を言いたくなる人

・憂鬱になる人

・苦しみの種

かもしれません。

ですが、その人が居てくれるからこそ、悩み苦しみ、悲しみを味わうことになりますが、ご自分の魂を揺さぶり、深く熟考を促し魂の深みを味あわせてくださっているのでは、ありませんか?

その人が存在するからこそ、

・生まれて来た目的

・生きる目的

・神様のこと

を深く考えるようになったのではありませんか?

まさにダイバダッタです。ブッダは、この時悟ります。

この人は実は有難い存在だったのだと。

魂の闇は明け、光が差し込み悩みは悩みでなくなり、苦しみも、苦しみではなくなり、

感謝の中に幸福な人生を歩めるのではないでしょうか。 

この時、確実に、神々の大きな恩寵が動き出すことでしょう。





 

2021年7月24日土曜日

2403「オリンピック」2021.7.24

  7月23日東京オリンピックは開幕し開会式が執り行われました。コロナ感染の緊急事態宣言下で異例中の異例の開催で物議を交わし、平和の祭典は謳い文句で、商業主義オリンピックの在り様が問われています。このような形での最後の開催とも言われています。何か隠された仕組みがありそうです。 

今回はオリンピックについての話題で2021年07月17日の「Walk in the spirit」さんの記事を紹介します。

「オリンピックとはルシファー崇拝の儀式 」

https://plaza.rakuten.co.jp/555yj/diary/202107170001/

ロンドンオリンピックを例に、

olympics-blatant-occult-symbolismAugust 13, 2012  by Marcos (H.Makow)

古代ギリシャのゼウスのために、宗教的な儀式として始まったオリンピック、

その積んだ薪は、太陽(ルシファー)からの光線で点火されなければならなくて、

すべての衆目を集めて、スタジアムに誇示される。

この儀式は、公然とルシファーを崇拝する絶好の機会となる。

それは、1900年ごろから、(ピエール・クーベルタンによって乗っ取られて以降、)

より暗くて、より気味悪くなっている。

オリンピックの開会・閉会式は、数十億の視聴者を前にして、オカルトパワーの誇示、

そして、教化のためのまたとない機会。

しかし、今回のロンドン・オリンピックほど、そのルシファーからのメッセージ性について、露骨なオリンピックは、過去になかった。

ロンドン大会の開会式は、(スポーツの称賛の代わりに、)13のフリーメーソンのピラミッドで照らされるステージで、主催者が、英国をルシファーの支配する国と、表現したかったようだ。


以下、式から、

彼らのサンプルメッセージをいくつか掲げる、英国グラストンベリーの丘、

 

https://vigilantcitizen.com/vigilantreport/the-occult-symbolism-of-the-2012-olympics-opening-and-closing-ceremonies/

スタジアム内に木がトップの上にある丘が置かれる。 

オカルト的解釈で、アーサー王の墓と聖杯が隠されている場所であり、禁じられた善悪を知る木、あるいは、ドルイド僧の神聖な木という解釈がある。

また、式の最初の歌が、”エルサレム”であったことは、(エルサレムが神の都であること考えるならば、)彼らは、新しい世界の中心として、英国を据えたいことを表明したのでしょう。(注:これは、英国首相の、「聖歌”エルサレム”を国歌としたい発言」と符合、)

ショーの主役は、デーモンと魔女、

なぜ、ベッドの病気の子供たちが、スポーツ式典に出てくるのか?

それはデーモンの犠牲者に他ならない。子供たちは洗脳されていて、ハリー・ポッターと吸血鬼本によって、オカルトに引き入れられている。

開会式の最後は、崇拝されている巨大な気味悪い、死んだ赤ちゃんが出てきて終る。

開会式が英国の暗いシンボルを表すなら、閉会式は彼らが支配するところの、(明るい??)New World Orderを示唆する。

ショーの主役の3人は、LGBT:フレッドマーキュリー、ジョージ・マイケルとデビッド・ボウイ、(ケイト・ブッシュも、「女の子は男でありたい」を歌った。)

ルシファー(黒い翼の人)と一緒のアニー・レノックス(赤服)の奴隷船は、おそらくショーで最も気味悪い部分。

歌手は赤と黒の魔女の祭司の服を着て、何かに取りつかれたように見える。

拷問されているボート内の人々は何を表すのか。 (おそらくNWOの反対派?)

宗教のない平和な世界を歌ったジョン・レノンのイマジン、

 (想像してごらん)

Imagine there's no heaven

(天国なんかないんだよ、)

Imagine all the people living for today

(人々は今日のためだけに生きている、)

Imagine there's no countries

(国境のある国なんかないさ、)

Imagine all the people living life in peace

(みんなが平和に暮らしているんだ、)

Imagine no possessions

(財産の取り合いの争いもなく、)

A brotherhood of man

(兄弟愛を持って、)

最終フィナーレは火の鳥フェニックス、 

この火は、全スタジアムを覆った。

ダンサーはフェニックスコスチュームで悪魔的なダンスを踊り、

オカルトソング"Rule the World"(世界を支配せよ、)を歌う。

 ダンスのメッセージは、

「ルシファーの手が下り、世界が彼のものとなりますよう、」

式典からのメッセージは、

我々が戦争を予想しなければならないということ、を示唆する。

そして、フェニックス(Illuminatiのリーダー)が、誰の灰(犠牲)から生まれるか、

それはおそらく、アメリカ(瀕死のワシ)が関係するのだろう。

イルミナティーは、彼らの計画が人々を幸せにするような錯覚を植えつける。

また、戦争の到来と、偽メサイアの到来を自慢げに言ってのける。

しかし、恐れるに足らず、我々の責任は、ウォッチャーであり続け、世の人々に、近い将来、来るであろうNWO/悪(Evil)の到来と、それに対抗しうる唯一の対抗策が、神であることを、知らしめることにある。

(ここまで)

このぐらい予習しておくと、東京オリンピックも楽しくなるのではないか。

(以上引用終了)


 東京オリンピックでは2021年7月17日に巨大人形モッコが新宿御苑に登場し、更に、巨大な首なし人形が東京上空に上がりました。復興五輪の謳い文句と裏腹に、コロナ渦中に次々と関係者の辞任が続き、多くの国民の懸念の中それでも開催するのか、何の為の五輪なのかと思います。

 開会式の7月23日については中国共産党設立100周年の記念日とか。創価学会との関係も指摘されています。興味のある方は以下のサイトをご覧ください。

※参考 

鶴丸マーク→日蓮正宗 八葉マーク→創価学会


1,「真実の玉手箱」 2021-07-19  

https://shinjitsu7.com/2021-7-19/2868/

2,創価学会USA - 創価学会USAの概要 - Weblio辞書

https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9AUSA_%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9AUSA%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81




2021年7月23日金曜日

2402「疫病を治めた空海」2021.7.23

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年07月19日の記事を紹介します


「疫病を治めた空海」


今から1200年前にも、日本で疫病の大流行がありました。その時治めたのが空海です。

空海と言えば、亡くなる直前に弟子たちにこう言い残しています。

私は兜率天へのぼり、弥勒菩薩の御前に参るであろう。

兜率天にのぼって私は雲の間から地上をのぞき、そなたたちのあり方をよく観察している。

そして、56億7000万年後、私は必ず弥勒菩薩とともに下生する。

私の入滅の後をよく見るべきである。

その時、よく勤めている者は天の救いを受けるであろう。不信の者は不幸になるであろう。

と述べています。

高野山 奥の院 今もなお、ここに空海がいらっしゃるといわれています。

  

弥勒菩薩と言えば、ミロクの世は3段階でなされ、最後の10年間は 

567(みろく)の世、つまりコロナとも読めますが、

その10年間で、いっきにミロクの世が完成するといわれています。

その567(みろく)の世の始まりが、2020年。つまり今年、

そのため、新たな天皇陛下の御代となったともいわれています。

弥勒菩薩(マイトレーヤー) 

それでは、1200年前に空海が疫病を収めた時の様子をご紹介します。 

「般若心経秘鍵」と言うものがあります。

これは、西暦818年頃、今から1200年ほど前に空海によって書かれた「般若心経」の注釈書であり、この中で「般若心経」は真言密教の経典であると書いてあります。


般若心経秘鍵

 弘法大師が、密教の眼をもって般若心経を解釈した独創的な見解と言えます。

さてその「般若心経秘鍵」の中に空海自身が書いた、空海の前世物語があります。

ご紹介します。

まず、少しだけ原文です。般若心経秘鍵の「上表文」原文です。


時に弘仁九年春、天下大疫す。ここに帝皇自ら黄金を筆端に染め、紺紙を爪掌に握って

般若心経一巻を書写し奉りたもふ。。。

(中略)

これを現代文に訳すと以下の通りになるそうです。→元記事

++++++++++++++++++++

西暦818年の春、疫病がはやり、多くの遺体が都のはずれの山道に捨てられるほどになりました。この状況を見て嵯峨天皇は、空海にお尋ねになりました。

「このところ、都では疫病が流行し困っている。 空海殿なにか良い智慧はないものかな?」そこで空海は 

「この世は、天・人・地一体でございます。

人々の心が乱れると、天災が起こり、地震が起こるのでございます。

すべては人々の心が、起こしているのでございます。

人々の心を治めるには、(人々の集合無意識の代表である)

あなた様が般若心経をお書きになり、祈られることが最良かと存じます。」

と答えられました。

そこで天皇は紺色の巻紙を左手に爪でしっかりと握り、すずりに用意した金箔を右手の筆先につけ、サラサラと見事な筆使いで、お書きになられました。

そこで空海は、お経を選んだ理由を説明するために、 般若心経秘鍵を書いて、お経の意味を解説いたしました。

そうしますと

「お祈りがうまくいきますように」との、結びの言葉(結願--けちがん)を言わないうちに、 

蘇生した人々が、病気で捨てられていた道端で、立ち上がり始めました。

意識レベルが変わると、別次元の世界が現れるのです。

パラレルワールド

でもこれは、私・空海が戒を守り、徳を積んだためではなく、

 「金輪・御信力(きんりん・ぎょしんりき)」のためなのです。

この世は天・人・地は一体である

ですが神社や仏閣にお参りするかたがたは、ぜひ般若心経秘鍵をお唱えください。

「なぜこのお経の意味を知っているか?

それは、前世の昔、インドの遺体・捨て場でもある霊鷲山(りょうじゅせん)で

霊鷲山(インド)

お釈迦様が説法をされているときに、筵(むしろ)を引いて般若心経の深い意味を聞いていた、過去世の記憶があるからなのです。」   

唐に入って沙門(シャーマン)となった空海が書き上げました。

++++++++++++++++++++

どうですか?

 

はっきりと空海自身が、前世に置いてブッダのそばに居たと述べています。

この中で出て来る霊鷲山はブッダが法華経を説いた山です。

山頂の形が鷲(わし)に似るので、また山中に鷲がいたのでこの名があるといいます。

また空海は意識レベル(次元)のこともここで論じています。


次元が異なる、つまり私達の固有周波数が異なれば、それにふさわしい世界(並行宇宙 パラレルワールド)が出現し、その世界で生きていくことになる。

異なる次元(意識レベル)に存在する人間は、例え同じ場所(物理的な空間)に居ても、 

交わることも見ることもできないと言われています。(つまり通り抜けてしまう)

ヒマラヤに生きる聖者達は、この宇宙法則を利用し、自分自身の固有周波数を変えることで、

瞬間的に移動する事が出来るそうです。

 またバシャールも同じことを言っています。

「般若心経」は空海の開いた真言密教の経典だったのですね。

また空海は、自分の来世に関しても亡くなる直前にのべています。

 

「私は兜率天へのぼり、弥勒菩薩の御前に参るであろう。 

兜率天にのぼって私は雲の間から地上をのぞき、そなたたちのあり方をよく観察している。

そして、56億7000万年後、私は必ず弥勒菩薩とともに下生する。 

ブッダの徳世界観では、時間の概念はありませんから、それは、もしかしたら今の時代のことかもしれません。

大きく世界がミロクの世、霊性の時代に変化を遂げようとしているのですから。

弥勒菩薩、つまりマイトレーヤーは、地上に生まれ変わり、第二のブッダとして人々を救うのだそうです。その時、空海も一緒に下生して、人類を救うのだそうです。

空海は、その時、マイトレーヤーと人間の橋渡しの役を担うのだそうです。 

この伝承(空海の真実)があるゆえに高野山の奥の院には、あれほど多くの墓標があるのだとか。

戦国時代、敵だった者も味方だった者も地位ある者も、無い者もみんな、ブッダに繋がりたいのですね。空海に、ブッダと繋げて欲しいのですね。 

また空海が仰るように 

密教の根本経典はブッダの説いた「般若心経」なのだそうです。 

空海没後1200年、人間の生まれ変わりの最小公倍数に当たる年月でもあります。

もしかしたら世界のどこかで空海は今、生を受けているのかもしれません。 

空海と、ミロク(567=コロナ)、新天皇の御代の本格的な始まり、色んな事が符合してきます。

つい先日まで私たちが暮らしていたの喧騒の社会、もう、その元の世界には戻れないといわれています。であれば、人々の心を大切にする優しい社会を作っていくために、私たちも何かできることから始めていきたいものですね。

 

夜明けは近いです。 もう少しの辛抱です。それまで命を繋いでください。

周りの人に優しくしてください。愛を分けてあげてください。

それが自分の身を助けることに繋がります。