今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2020年10月2日「愛語」と2021年07月14日「声なき声を聞く」の2つの記事を紹介します。
「声なき声を聞く」
臨死体験をきっかけに、神さまを見て、声を聞き、正しく人生の目的を知り、
そしてその後の人生で、多くの方の精神性の向上(心の浄化)のために
働いていらっしゃる方が沢山いらっしゃいます。
今日はその中のお一人である、鈴木秀子さんのお話をご紹介します。
鈴木さんは、日本近代文学を専攻する聖心女子大学の教授で、聖心会のシスターでもあります。「死にゆく者からの言葉」など沢山のご著書もあります。
『自分の花を精いっぱい咲かせる生き方』(致知出版社)が出版された直後のインタビューです。
<転載開始> 転載元
インドにある「死を待つ人の家」を訪れたある神父が、現地でマザーテレサに出会った時のお話です。
神父はボランティアとしてインドの現地に赴き、風呂に入れた病人をバスタオルで受け止める役目を担いました。
しかし当初は、やせ細った病人の体に触れることはおろか、怖(お)じ気づいて後ずさりしてしまったのです。その様子を見かねたマザーは、彼の代わりに病人を受け止め、優しくその病人に語り掛けました。
「あなたは大切な人です。あなたは神様から許されて、愛し抜かれています」
死人同然の彼は、うっすらと目を開いてほほ笑んだそうです。
鈴木秀子さんは、このストーリーをこう締めくくっています。
「マザーが死にゆく男性に施したのは、何も特別なことではありません。
一人の人間として敬い、神様から愛されていることを祝福した、それだけのことです。
しかし、そのひと言は、苦しみと絶望の間をさまよっていた男性には、何よりの喜びであり、
力となるものでした」
小さな良いことが、やがて良い人生につながるのです。周りの人々と小さな心の交流を重ね、
人を敬って生きていくことに大きな喜びを感じる人生こそ「良い人生」なのだと、マザーの行いを例に鈴木秀子さんは仰います。
また、マザー・テレサが1984年に来日し、シスターが教鞭(きょうべん)をとっている
聖心女子大学を訪れた時のあいさつについても触れられています。
「日本では路上で生き倒れて死んでいく人、膿(うみ)にまみれてハエにたかられている人はいません。しかし日本を歩きながら、大変なショックを受けました。
街はとてもきれいだし、とても賑(にぎ)わっているのに、その街を歩く人たちの顔に笑顔がないのです。皆さんの悲しそうな顔が心に焼き付けられました。
寂しい思いをしている日本人たちには、ちょっとした言葉をかけてあげてください。
温かい笑顔を見せてあげてください。それは私がインドで貧しい人々にしているのと同じことなのです」
こう話すマザーに、日本への思いの深さと、愛に満ちた生き方、信仰を貫く姿勢を鈴木秀子さんは見て、改めて感動したと記しています。
<転載終了>
日本は先進国と言われ、豊かな国であるのに、
・人々の顔に笑顔が無い
・悲しそうな顔をしている
・寂しい思いをしている人が沢山いる
まさにそれはインドの貧しい人たちが、誰にも顧みられることもなく、寂しさの内に、
人生と神を呪い死んでいく姿と同じではないか? そう、仰ったのです。
それは自分以外の者への関心の薄さ、無関心に寄るものです。愛が欠如しているからです。
その結果が、インドのスラムで孤独の内に、人と神を呪い死んでいく貧しい人と、日本人の心を同じものにさせてしまったのです。
皆さんはどうでしょうか?
カルカッタのように生死に関わることはめったにないかもしれませんが、こんな小さな声、叫びを聞いたことはありませんか?
「寂しい」「助けて」
これは声なき声、単なる小さな波動かもしれません。
ですが、いま確実に世の中に、この小さな叫びが増えています。
生活やお金に追われ、必死に生きている私たちにも、最初は聞こえていたかもしれません。
でも、いつしかそれは、忙しく動き回る私たちにとって社会の中で、単なる生活音でしかなくなり、気にも留めず、気付くことすらなくなってしまったのかもしれません。
そしてその小さな叫びを発した人達は、誰にも顧みられず、孤独の内に生き、エネルギーのある者は、やるせない気持ちを爆発させ、エネルギーの無い者は、ひっそりと命を閉じるのかもしれません。
でも、私たちにも耳を澄ませば、「寂しい」「助けて」と言う声が、家族や友人、目の前に居る人、そんなすぐそばからも、聞こえてくるかもしれません。
その声が聞こえたら、どうしますか?
マザーはこう仰いました。
ちょっとした言葉をかけてあげてください。温かい笑顔を見せてあげてください。
まずは、自分の目の前に居る人に対し、笑顔で、優しい思いやりのある言葉を
かけて差し上げたいものです。
その笑顔と優しさは、今度は受け取った人を介して、またそこを拠点に広がって行きます。
どんどん笑顔と優しさの連鎖が、あなたの最初の行動をきっかけにして始まります。
そしてその愛のエネルギーは循環を繰り返し、必ず何倍にもなって自分に帰ってきます。
どうか目の前の方に笑顔で、優しい思いやりのある言葉をかけて差し上げてください。
「愛語」
見える世界、見えない世界を含めその世界のありさまを決めるのは、私たちの心です。
今日は、その心を美しくするために簡単にできる、「愛語」について書きたいと思います。
きっと、この愛語の精神でいる限り宇宙からのサポートがふんだんに降り注ぎ、私たちの所属する銀河が、今通過している大きな潮流に乗り、ご自分も、そしてご家族も幸せになれることでしょう。
<転載開始> 転載元 小林正観さんの記事より
「愛語(あいご)」という言葉は、良寛和尚が好んで使っていたと言われています。良寛和尚の「愛語の心」とは、こういうものだと聞きました。
「自分は貧しいひとりの修行僧なので、人に与えるもの、あげるものが何もない。だからせめて、心をあたたかくするような、心を安らげるような『言葉』をあげたい。それならいくらでもあげることができるから」
良寛さんは、自分の口から出てくる言葉を
・あたたかい言葉
・やさしい言葉
・思いやりに満ちた言葉
にしたいと思っていたようです。
日本の神道には「言霊(ことだま)」という概念があります。
「言葉には神が宿っている」という考え方ですが、私たちは、普段、使っている言葉のひとつ一つに、相手に大きな影響を与える力(神)が宿っていることを、忘れていたのかもしれません。
京都に、空也上人(くうやしょうにん)の木像があります。木像の口から細い板が出ていて、その上に、小さな仏様が何人も立っています。
説明によると、「空也上人の口から発せられるひと言ひと言が、すべての人を救いに導く『仏』であった」というのです。私はこれまで、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」を言うことは、「悪臭を放つ花の種を蒔(ま)くこと」と同じだと考えていいましたが、
一歩進んで、自分の口から発せられる言葉をすべて、
・あたたかいもの
・勇気づけるもの
・安らげるもの
・幸せを感じさせるもの
・喜びを与えるもの
にできたらと思います。そうすれば、「芳香(ほうこう)を放つ花の種を蒔く」ことにもなるでしょう。
「悪臭」の中で生きるか、それとも「芳香」の中で生きるか…
芳香の中で生きるほうが、楽しそうです。
「言葉には『神』が宿っている」という考えは、「言葉には『気』が込められている」という考えでもあります。だとすれば、人の心を明るくする気を込めたいものです。
人に対して「愛語」を考えるだけでも、生活が変わってくるような気がします。
<転載終了>
自分の口から出る言葉に少し気をつけて、良寛さんのように、
・あたたかい言葉
・やさしい言葉
・思いやりに満ちた言葉
を口にしたいものですね。そうすると、その発せられた言葉は、神さまの波動を帯びていますから、必ず相手のハートの神さまも共鳴します。その結果、お互いの間に目に見えない良き共鳴現象が起き、美しいハーモニーを奏で、幸せになることができます。
私たちは、自分の心の中に在るものを、自分を取り巻く外の世界に見ます。また、自分の心の中のものが、口から出ます。ですから、自分の心に取り込むもの(見たり、聞いたりするもの)も
・美しい心の表現
・信じる心の表現
・優しい心の表現
・思いやり、助けいあいの心の表現
を見て、そして聞きたいものですね。そうすれば、同じもので、私たちの心は満たされます。
逆に、興味本位で(面白いからと)
・人をけなすもの、おとしいれるもの
・人を疑う、疑心暗鬼のもの
・人を差別するもの、排除するもの
・怒りと憎しみに満ちたもの
からは遠ざかり、心に入れないようにしたいものです。それらのことを、もし面白いと感じたのなら、静かに心を振り返ってみてください。そこに邪悪なものは潜んでいないでしょうか? そうすれば私たちの心のバケツは美しいもので満たされることでしょう。美しいもので満たされた心は、それを表現しようとし、周りを幸せにすることでしょう。
そしてご自分自身も、世の中に美しい心の世界しか、見なくなることでしょう。