2022年12月31日土曜日

2927「『人間』という宇宙的実験」2022.12.31

 2022年大晦日です。今年1年お世話になりました。ありがとうございます。

ご縁の皆様、素晴らしき新年をお迎えください。


 今回は木の花ファミリーのジイジからのメッセージ「ジイジのブログ」の2022年12月23日記事を紹介します。

『人間』という宇宙的実験 〜 2022年冬至のメッセージ | ジイジのブログ (jiiji-konohanafamily.org)


『人間』という宇宙的実験 〜 2022年冬至のメッセージ

 


「夜明けは近い」という印象的なフレーズが繰り返される『友よ』という歌があります。この歌は、1960年代末の学生運動が盛んだった時期に、社会変革を訴える歌として世の中に受け止められ、ベトナム戦争の時にも反戦歌としてよく歌われていました。あれから半世紀が過ぎた今、夜明けが近くなるどころか、世の中の闇はさらに深まっているように観えます。

現代は、一人ひとりの個人も、地域社会も、世界全体も、大きく滞っています。その根本は皆共通しており、そこから腐敗が発生し、広がっていることが感じられます。今、現代の地球上にこの事を発しなければならないという思いが湧き、それが言葉となって湧き出してきています。2012年12月21日の銀河の冬至から10年となる今日、2022年12月22日冬至の日に、その事を皆さんにお伝えします。


地球生命の歴史の中で、時を経て、人間は他のいかなる生命とも違う歩みをするようになりました。その最大の特徴は、個の喜びを追求するようになったことであり、それが自我の増幅を際限なくもたらしていることです。

生命の成り立ちとは、元々、個の喜びを追求し、自我を表現することではありませんでした。人間以外の生命は、人間のように強い自我による意志を持たず、地球生態系の大調和を定めとし、その大いなる循環の中でそれぞれの位置を与えられ、役割を果たし、全体の調和を表現してきました。それは絶対的で、揺るぎのないことです。不調和をもたらす目的で地球上に生まれてきた存在はいないのです。

そのような生命世界に、人間は誕生しました。そして、自我を持つことにより、『人間』という生命は、宇宙的実験を使命付けられました。

人間は、個々の目的を達成することを喜びとする特殊な生き物です。それは、探求心を持ち、過去の経験を現在に繋ぎ、未来に向かって自らの意志で現在の状況を変えていくことができる、特別な能力を持っていることでもあります。しかし現代の人間は、その特別な能力を、自らに都合の良い未来を想定し、全体を無視して自分だけの利益を追求することに使うようになりました。それは自我から生まれる自己実現の欲望をくすぐり、欲望が満たされれば満たされるほど、人間はその虜となっていきました。それを可能にしたのは、自らを他と区別し、差別するようになった人間の心です。

区別とは、自分と他との違いを認識し、その違いを個性として互いに補い合い、全体を繋いでいくものです。ところが人間は差別をすることにより、自分と他とに差を付けて違いに優劣を生み、違いを生かすのではなく、違いによって優越感を見出したり、反発したりするようになりました。そして、自らが他のために存在するという、生命の根幹たる姿勢が失われていったのです。


現代の人間社会の営みは、すべてがゲームやスポーツのように、地球生態系の大調和の中にある生命本来の在り方とはまったく違った感覚で行われ、自然界には決して無い生き方を貪るようになりました。そして自我から生まれる欲望の自己実現をすることが、当然のこととして、代々伝承されるようになりました。生命として生まれ、新鮮な欲求が新たに湧いてくるというよりも、DNAに刻まれた欲望の心が自動的に湧き出してくる状態です。それがあまりにも身近にあり過ぎて、そのことが何をもたらしているのかが観えないのです。

欲望を叶えようと、誰もが当たり前にするようになった結果、大調和の下にあった地球の生態系は大きく乱れました。今や人間というひとつの種が、地球上に汚染をまき散らし、まるで地球のガン細胞のように、全体の生命バランスを破壊するところまで来ています。人間が欲望を叶えるために創った経済システムは、自然界とはまったく異なる「人工」という世界を構築しました。それは一見、人間の特殊能力である探究心や創造力、テクノロジーによって豊かさが表現されているようでありながら、その実態はこの世界の秩序を無視し、自然を破壊する力を持ち、地球全体を貧しくして危機的状況に陥らせる驚異の源泉となっています。

近年の地球規模の危機的状況は、多方面からの情報によって多くの人々の知る所となりました。ところが、特別な能力を持つ賢い生命であるはずの人間は、その深刻な事態を知っているにも拘らず、自らの欲望を満たす快楽の方が勝ってしまい、危機的状況の源泉である自らの生き方を改善することができない状態に陥っています。それは、個人という小さな単位の生き様に現れているだけではなく、国という単位の国家エゴにも如実に現れています。それぞれが自らの欲望の延長に生きた結果、他者との不調和を生み、最終的には自分自身の健康や生命としてのバランスさえも脅かし、自らの行いが自らを破壊する自己矛盾を創り出す生き物となったのです。


宇宙は、極めて道理の通った世界です。その宇宙において、人間が道を踏み外し歩んできた結果、地球上にしかない矛盾に満ちた現象が、問題ごととして発生しています。歴史を紐解き、世界観を広げ、高い視点から未来までを見通して現在の実体を捉えてみれば、今地上で起きている現象は、時代の流れの奥にある時(トキ)からの大いなるメッセージであることが感じられます。それは、宇宙の始まりから常に世界をひとつの方向へ導き続け、壮大なる生命進化の物語の果てに人間を地上に降ろした「宇宙的意思=大いなるもの」からのメッセージです。


21世紀に入り、25800年ぶりの銀河の冬至(2012年12月21日)から10年の「統合」を迎えた今、道を踏み外して物事が観えなくなっている人間たちに対し、時の物語は様々な現象を起こし、メッセージを送っています。しかし、自らの側だけに立ち、欲望を叶えることの虜になっている人間には、そのことがまったくわからず、気付こうとさえしないのです。そこに、地上に理想世界が生まれないすべての原因があります。

ネイティブアメリカンの言い伝えにもあるように、人間が本当に馬鹿になってしまったように見える闇の時代の局面を今、私たちは生きています。銀河の冬至が明け、霊的な光が差し始めたことで、これからさらにその闇が浮き彫りとなってくることでしょう。それでも真実に向かうことを諦めず、歩んでさえ行けば、その先に確実に光が観えてきます。

地球の生命進化の歴史を振り返ると、過去6億年の間に、6回の大量絶滅が起きています。時の意思と共に進み続ける進化の物語にそぐわないものは淘汰され、その度に質的転換が起き、新たな種が誕生してきました。

近年、人類という種の営みは、地球生態系の調和を破壊する特に見苦しいものとなっています。その愚かしさの極みを、時のメッセージを受けて自ら振り返り、それを痛みとして善きものに転換する能力を、人間は発揮するべきなのです。このまま7回目の大量絶滅に向かうのか、それとも、人間の叡智がそのことを学習し、絶滅を伴わずに次の進化へとソフトランディングするのか。それは、次の時代を生きる人間の新しい姿がもたらすものです。

有史以来の6500年間、人間は文明を築いてきましたが、それは人間の地球上での身勝手で我儘な振る舞いを表現するためのものでした。自我から生まれる願望が、たとえどれほど他を傷付けるものであったとしても、一たび勝利者となってその願いが叶えられれば、それが正義となり、その有利な立ち位置に立てば何をしても良く、それこそが正義であると称えられる時代でした。しかし本来、他の生命にはない特別な能力を与えられた人間は、この多種多様な生命の大循環の中でコンダクターとしての位置を与えられ、宇宙の奇跡として創られた命あふれる星、地球を、その大調和の法の下に、より美しく、より優れたものに仕上げるための存在でなくてはならないのです。

人間は元々失敗作であったのか、それとも宇宙的実験の結果、失敗に至ったのか。或いは、大いなる宇宙的意思の下、本来の尊さへ向かうための物語を今、歩んでおり、現象を通して気付きを得ることで、その広く高い視点から世界を観ることを学ぶプロセスの中にいるのか。前者であれば、人間はこのまま気付くことなく、自らの矛盾によっていずれ破壊を生み、地球生命進化の歴史の中で7回目の大量絶滅のプロセスを迎えるのかもしれません。その結論を今出すことはできませんが、できれば後者でありたいものです。その可能性を、示したい。


過去から現在の自分へと連なる人類の歴史を理解し、それを学びとして自らを転換すれば、現在の自らが浄化されると同時に、結果としてその先にある未来も、そしてその元となった過去も、すべてが浄化されます。「あれがあったから、こうして今気付くことができた」と、過去の愚かしい出来事が、気付きへと繋がる尊いことに変わるのです。あなたのベースを築いた祖先が愚かであったとしても、あなた自身が目覚め、優れた者となることで、そのあなたにつながる祖先もまた尊い者となるのです。

これまでの人類の歩みは、浄化どころか、更なる愚かしさを積み重ね、次世代へ負のカルマの連鎖をもたらすものでした。しかし、銀河の冬至が明けて宇宙的ターニングポイントを迎え、時代は闇から光へ、即ち浄化の方向へと舵を切りました。ですから、この事を理解した者は、信念の下に、誰もがそれをやり切らなければなりません。時代がそれを後押ししています。それは、このターニングポイントに生まれてきた者としての一番の醍醐味と喜びにするべきことです。現代人は、お金を稼ぐことや、物に執着することを生きる上での最優先事項にしていますが、それは本来、生命として最も大切なことを育む時に付随するものでしかなく、最優先事項ではないのです。

過去、人(ヒト)である事の尊さを探究する道は、狭い視野での修行や、そういったことを行う人々が組織となった宗教などによって探究されてきましたが、それはまだまだ宇宙的存在としての人間の実体を掴んでいなかったがために、人類の歩みを訂正して人間を尊き者へと導き、この惑星を本当に美しいものとする能力を人間にもたらすことはできませんでした。人間は、個々の自我が持つアイデンティティを自らのためだけに積み上げてきたのであり、人類という種としては、地球上における宇宙的な役割に対して何も積み上げてはいないのです。それが、人類がどうしても大局に立てない原因となっています。どれほど自己矛盾を生んでも、地球や、宇宙にまで汚染をもたらしていても、それに気付くことができず、そのことの重大さについていくら語って聞かせても、その道理の響きが響かないほど、汚染が蔓延しているのです。


そこで今、なぜこの話が湧き出しているのかというと、現在のその実態がようやく人々にも観える時代に来たからです。そして私たちがこの生き方をしてきたのは、そのことに気付いてもらうためなのです。

残念なことに、現在は個々の人間の霊的な価値があまりにも低くなっています。願わくば、こういった気付きを持つ者を、天から多く地上に降ろし、真理の気付きのウェーブを人類にもたらす、風を起こしたい。事実、天はそのような気付きを持つ者を少しずつ降ろし、時代を現わしていることが感じ取れます。その時代の流れの中で、こういった気付きを体系化し、語る者が地球上にいることも、また事実です。ここに道理があるということは、それがほんの小さなものであっても、今その動きが始まっているということです。そしてそれは、大局の視点に立ち、大いなるものの側から観た道理であるから、時代は必ずこれを進めていくのです。

その時に、願わくば人間一人ひとりが自らの自我を超えてこの視点に立ち、その延長に生きることを少しでも早く成し遂げることを望むものです。

個人の希望はどうでもよいのです。個人の小さな使命や願望の下に、大いなる使命を果たすのではないのです。個であっても、大局の使命は持てます。それは、私たちは皆、この大いなるものの一部であるからです。

物理的には人間には限界がありますが、霊的には無限の存在です。なぜなら、私たちはこの大宇宙の中にあり、大宇宙と共にあるのだから。そのことを、霊的には悟ることができるのです。一日の些細な行いであっても、人間がその姿勢を改めることで、大いなる宇宙と共に世界を生き、救っていくことができます。人間にはそれだけの能力があるのです。

その揺るぎない心をもって、互いの違いを生かし、補い合い、その喜びを分かち合うパートナーシップを組む。それこそが大切であり、私たちが生まれてきた意味です。それは、過去に個として修業を重ねた者たちには到達し得なかった境地です。

どれほど歩みが外れたとしても、人間の成り立ちの根本は、その尊き仕組みの下にあることを忘れてはなりません。そこに気付けたことの喜びを持ちたいものです。そしてそれは、ひとりの者が気付きとして発しても、あまり意味がありません。これを発するためには、同じ価値観をもってそれを受け取る対極の受け皿がないと、発する響きは微細なものにしかなりません。そして、その対極の受け皿が無限に連鎖していけば、世界は変わるでしょう。人間は個人ごとを離れ、大局を生きることを求められる時代に立っています。かつて孔子の語った「大同世界」は、古い時代の話であり、人間の生き方に限定されたものではありますが、大局を歩むための悟りの出発点でもありました。


人間は魂を与えられ、自らの手の中にはない世界に降ろされました。肉体を返上した魂はどこへ行くのかも、自らが選ぶのではなく、自らに相応しいところへしか行くことができません。しかし逆に言えば、自らに相応しいところへ行ける、ということでもあります。

その最終段階の結果は、日々の生活をどのように積み上げてきたかという、それぞれの人生の道のりの先にあります。ですから、日々を怠ってはなりません。この尊き道には、特別に美味しい食事もなければ、お金が山と積まれているわけでもありません。この世界において最優先するべきことに歩みを進めるからこそ、そこに価値が生まれるのです。

その人生の過程で、自らの事に限定し、心がうきうき、わくわくするのは、心が低い位置にあるからです。自然療法プログラムを受けている人の症状が良くなっていくと、主治医としての私の心はうきうきわくわくしますが、自分自身のことに対しては常に冷めています。人間は、自らが低い位置にいて、高い所を目指す時に、うきうきわくわくするものです。そこに差があることで、そうなります。それはある意味、そういった美味しい餌(高揚する心)で、天は人間を釣り上げているのかもしれません。

天に近い所に意識があると、特別にうきうきわくわくすることはありません。意識が低い位置にあると、例えばカジノやゲームなど、人の心を刺激するものの依存症にもなります。それはうきうきわくわくするものですが、同時に落とし穴も常に伴うものです。今や、人間は皆、欲望の依存症になっています。その結果、欲望が人間を支配するようになりました。その依存症に陥っている自らを取り戻し、自己コントロールすることによって、初めて自らを有効に活かせるのです。それには、己を離れ、高い位置から俯瞰して捉える目線を持つ必要があります。それは、現代を生きる人々には難しいことであるとも言えます。


得をしようと思えば、「何か得するものは落ちていないか」と目線が下を向き、視野が狭くなります。その目線の違いを自ら認識し、心次第で自分はどちらを向いているのか、判断する必要があります。その時に基準となるのは、物理的な上中下ではなく、霊的な目線です。今日一日自分はどこを向いていたのか、その目線を振り返れば、自ずとわかるはずです。

私は近ごろ、日々の作業の中で、充実した時間を過ごしています。それは、作業を目的としているのではなく、今ある流れに乗っていこうという、その姿勢の延長に作業があるからです。それは、自我で算段をするのではなく、流れに沿い、今するべきことを淡々と進めていくことになりますから、結果として良い時間を過ごすことになります。自然療法プログラムを通しても、心身を病んだ人々と向き合うことで、不要な思いを乗せない、ある意味冷めた視点を育ててもらいました。私がどれだけ相手を治そうと思っても、私の誘導に乗らない人もいるのです。ですから、そういった人々と出会った時には、「可能性は彼らの中にしかない」と、相手を治そうとする自らの欲を捨てるのです。


人間という種の歴史は数百万年、猿人を含めると一千万年の歴史があるそうです。その種としての歴史を紡ぎながら、人間は今もこの世界で個として地上に降ろされ、生まれてきます。他の生命は種として地上に降ろされ、その種を存続させ、大いなる生命の大循環を表現するために存在しています。

人間は、強い自我を持ったがために、自我の欲望に囚われて大循環を破壊する存在にもなれば、自らの自我と対峙し、それを超越することで、この世界の全容を捉える広く高い視点のもと、世界をより良き方向へと導くコンダクターの位置にも立てるのです。

古の中国の「天盤の巡り」では、文明の発祥からおよそ3000年間の「青陽期(王の時代)」、その後約3000年間の「紅陽期(聖人の時代)」を経て、1927年より「白陽期(民衆の時代)」が始まることが予言されていました。それは、これまでのように王や聖人が人々をリードしてきた時代から、個々が自ら宇宙と対話することによって真理に目覚める「個の悟り」の時代に入ったということです。

「個の悟り」とは、特定の経典を学ぶように、個の救済を目的としたり、個々の満足を得るためのものではありません。個が悟るということがウェーブになると、人間の価値が本来の位置へ戻り、人類の種としての役割を果たすことになるのです。


今、あるイメージが浮かんでいます。それは、女性のお腹の中に卵があり、そこに魂の種が入り、子宮のベッドで新しい命として育まれるのと同じように、個々の人間もまた、人として生まれてきた本来の役割や尊さを自らの中に表現するため、長い時をかけて築かれてきた生命の土台の上に、肉の身体を与えられ、そこに魂を宿らせて、地球上で育まれてきたということです。

今も私たち人間は、ここ地球上での様々な修行の結果もたらされる、個の悟りのために生きています。個の悟りがウェーブとなり、連鎖すると、初めて人類としての悟りがもたらされます。それはつまり、「コミュニティの悟り」です。

お釈迦様の時代は、「個の悟り」の探究でした。その後宗教は「個の悟り」をご利益のように扱い、その本来の目的を見失ってきました。21世紀の悟りは「コミュニティの悟り」であり、それはお釈迦様の時代より宇宙的に進化したものとして、私は語ってきました。しかし、今私が語っているのは、21世紀から30世紀(3000年)に向けての悟りとして語られているものです。いずれ人間がもっと大局に生き、魂が進化していくと、肉体を超越してこの宇宙を運営していく存在となります。

私たちが肉体を持って生きるこの物理的世界は、背景にある霊的世界が運営しています。我々人類も、役割として、そこに立てる時が来るのです。今は、地球生命生態系の中の一生命である、人類という枠の中での役割を果たしていますが、この間違いが一体どこから始まっているのかを、徹底的に紐解いたなら、それは「30世紀の悟り」へと到達するのです。

個々の悟りは、宇宙の大樹に、花を咲かせます。その一つひとつの花は小さくとも、一たびそれが連鎖し、無数の花々が咲き出せば、それは乱舞の如く宇宙に花開く、満開の大樹となるでしょう。そしてその大樹に、個の花が咲き切った時、この宇宙の実体である大いなる精神の花 ——— 宇宙生命曼荼羅が誕生するのです。



2022年12月30日金曜日

2926「因果応報」2022.12.30

今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年12月21日「因果応報」と2022年12月23日「与える喜び」の2つの記事を紹介します


「因果応報」

21世紀に入ってから、ずっと日本は「一億総いじめ社会」などと言われ

・不寛容な社会

・殺伐とした社会

・陰湿な社会

が出現していました。 

それが、2011年の東日本大震災、そして今現在起きている「コロナウイルス」をきっかけとして、この冷酷な心が、少しづつ溶け始めています。 

大きな犠牲のもと、神々がそう仕向けたのです。 

このいじめ社会の中では、自分以外の他人の言葉や、行動に寛容さが足りず、すぐに歪んだ正義感を振りかざし、その雰囲気に付和雷同した人々とともに、相手をとことんまで、貶めて、再起不能にさせます。 

非難する側は必ず「正義」を振りかざします。

正義感を隠れ蓑に他人を傷つけて、楽しむ心理があるのかもしれません。

今日は、人から悪口や、イヤミを言われた時どうすればよいか? 

斎藤一人さんが非常に簡潔に、優しい言葉で大切なことを仰っていますのでご紹介します。

<転載開始> 転載元 


人間関係の問題は、いろいろあるんですけれど、「これだけ覚えておけばいいですよ」というものがあるんです。

これだけ覚えておけば、いろいろな問題があるなかの8割は大丈夫。

解決するんです。

この世の中には“嫌なヤツ”っているでしょう?

イヤミを言ったり、いばったりする“嫌なヤツ”がどこに行ってもいるんですけれど、 

それをやめさせようとしちゃいけないんです。

「復讐するは我にあり」じゃないけれど、復讐は人間がすることではないのです。

悪いことをした人には必ず、神さま(自分自身の良心)によって、同じように悪い報いがくる。

だから、ことのなりゆきは、天の神さまにお任せするんです。

そして…ここが大事なところですよ、いいですか。

「やられたらやり返せ!」って、その“嫌なヤツ”の悪口を言っていると、

今度は言った人に、悪い報いがきてしまうんです。

自分の畑にピーマンをまいたからピーマンがなる。

自分の畑に、自分で麦をまけば、麦がなる。

そして、自分がまいたものを、自分が刈り取るんです。

隣の人が唐辛子をまいていても、唐辛子を収穫するのは隣の人であって、あなたではありません。


それと同じで、あなたがイヤミなことを言われた場合、悪いことが起きるのは、あなたではありません。

あなたにイヤミなことを言った、その人間です。

つまり、放っておいても、勝手に相手は痛い目をみるようになっているのです。

それを、あなたがもし「イヤミを言われて嫌な想いをさせられたんだから、こっちも、あの人にイヤミをお返ししてやるんだ」という気持ちでいると、あなたから、“居心地のよくない”ムード(波動)が出てきます。

それではあなたに、人も、運も、お金も、近寄ってきてくれません。

それどころか、自分が望まない、嫌なことを招き寄せてしまうんですよ。

だから、復讐しようとしちゃいけないのです。

復讐はあなたの仕事ではありません。

神さまの仕事です。

<転載終了>


よく人の悪口を言う人がいます。

また現在のようにネットが普及してくると、SNSで人の悪口や非難をする人も目にします。

もしかしたら、相手がいないところで、自分の周りの人に、悪口を吹聴している人もいるかもしれません。

そして、それに対して、反応してしまい、今度は自分が同じようにやり返す方もいます。

ですが、それらの行為は、一人さんが仰るように、やめた方が良いかもしれません。

今度は言った相手ではなく、仕返しをした自分自身が同じ土俵に立ち、同じような嫌な波動をまとい、自分自身の人生に不幸を引き寄せてしまうからです。

やられたからやり返す。

そうしなければ、自分は正しく生きているのに、何だか負けた気になってくる。

やられ損にはなりたくない。

それらの心では、必ず相手と同じ波長をまとってしまいます。

私たちの住む世界は、自分の心の状態が現実を作りますから、その汚れた心と同じ現実が

自分の周りに現れてくることでしょう。

ですから例え悪口やイヤミを言われたとしても、それを心に留めず、受け流し、受け取らなければ良いことです。

もし目の前で言われたのなら、ニッコリ笑って「ご忠告ありがとうございます。感謝します」と言って、離れたら、また元のようにご自分の信念に基づき行動すれば良いだけです。

ブッダもこのような時、静かに反論せず、受け取らなければ良い・・ そう仰っています。

人から根拠なき悪口やイヤミ、陰口を言われることは日常茶飯事ですので、一人さんの仰っる方法を実践するだけで、かなり楽に生きられるかもしれませんね。

さて、みなさん、世界中に巻き起こっているパンデミックの嵐の中、心をざわつかせていらっしゃる方も多いかと思います。 

  

この言葉ご存知ですか? 

「断じて行えば、鬼神も之を避く」

断固とした態度で行えば、鬼神でさえ、その勢いに気(け)おされて避けて行く。

と言うことです。

私は、これを「ありがとう」の言葉を常に口にして、感謝の心で生きている人のことだと思います。 

「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にする人に対して、

どんな人が、

・蔑み(さげすみ)、

・陥れ(おとしいれ)

・危害を加え

・足を引っ張る

ことができるでしょうか?

また、神々が破滅の運命にひきづりこもうとするでしょうか?

これから先に、何が起こるのか誰もが不安ですが、 

感謝の気持ちでいる限り、どのような運命に置かれようと、必ず助けが来ることでしょう。

神々がなさることに安心して身をゆだね、身近な周りの方々と笑顔と思いやり、お互い様の気持ちで生きていきたいものですね。

14世紀、今で言うところの「最初のグローバル化」と呼ばれる時代、

シルクロードを旅する商人たちが、中国からもたらしたペストは、最初イタリアとフランスを襲い、続いてイギリスに到達して、全ヨーロッパに広がりました。

ヨーロッパの人口の半分がその過程で死亡していますが、感染症の深刻な流行がもたらした予想外の結果として、社会が激変し、ルネサンスが起こりました。

特に西ヨーロッパでは、ペストによる労働力不足が、封建秩序を強制終了させました。

この大災害を乗り越えた後、世界は今までとは全く違う景色を見るのかもしれません。



「与える喜び」


春日大社の元宮司、そして医師であった葉室頼昭さんによれば、神さまは願いごとなどしなくても、ちゃんと叶えてくださる。

他の国で見られるように、必死になって自分の願いごとを祈っている姿とは異なり、

神道では神さまを喜ばせる、感謝する、ということが祈りとなります。

こちらから頼まなければ、神様はやってくれない・・・というのは、神さまを冒涜すること。

神さまというのは全部知っておられるんです。

だから、神さまを認め、喜んでいただいたら充分なんです。

そうしたら、神さまはこちらに出てきて、お恵みをくださる。

そう仰っています。 

あちこちの有名どころの神社や仏閣に出向き、 

・あれをしてください

・これをしてください

・あれもくれ

・これもくれ

とお願いするだけでは、神様も辟易(へきえき--閉口すること。嫌になること。)とすることでしょう。

そのような人間の欲望渦巻くところでは、せっかく力のある神さまの光も、その闇にさえぎられてしまうことでしょう。

色んな神様がいらっしゃいますが、この宇宙を創造し、維持し、破壊する創造の神様は 

大本の神様であり、創造の源です。 

レインボーチルドレンのそうた君の言葉で表せば、12次元にいらっしゃるそうです。

私たちの宇宙に住む、生命体が3次元存在、日本の有名な神々が8次元とのことで、 

遥かに高い次元です。 

創造の源の神様が喜ばれるのは、

・特殊な能力を持つことや

・優れた霊能を持つこと

・優れた過去世を持つこと 

などではなく、やはり王道である、 

・私たちの心を清く保つこと

・身近な周りの方々と、仲良く助け合って暮らすこと

そんな一見、平凡に見えることのようです。 

それでは今日も、王道である私たちの心を浄化し、神々へ近づくためのお話をご紹介します。

注意深く、周りを観察してみれば、どんな人にも、自然や人を通じ、 神さまはいたるところで、その存在を教えてくださっています。 

今日のテーマは「与える喜び」です。 

私たちは、物でも、お金でも、優しさや、真心でも、まず、自分から出すこと(与えること)が先です。

与えた時の心の状態が、宇宙の果てまで、見える世界、見えない世界を飛び回って 

同じ波長のものを、仲間を連れて帰ってきます。 

時々、「優しさや親切を人に与えると、損した気分になる」 

そうおっしゃる方もいらっしゃいますが、そんなことはありません。 

神々のエネルギーは無尽蔵です。

与えることで、その何倍もの恩恵を私たちは受け取ります。 

 

それでは、渡辺和子さんの言葉よりご紹介します。 

<引用開始> 引用元

 

近頃、もらう喜びは知っていても、その他の喜びをあまり味わっていない子どもが、増えているように思えてなりません。

その他の喜びとは、

・与える喜び、

・分け合う喜び、

・そして自分で物事をやり遂げる喜びです。 

マザー・テレサがこんな話をなさいました。

カルカッタの街に、八人の子を抱えてお腹を空かしている家族がいたので、お弁当を作ってもって行ったところ、その母親は押し戴いて喜んだ後、すぐどこかへ出て行きました。

やがて戻ってきた母親は、

「実は隣の家族も、このところ食うや食わずの毎日だったので、半分あげてきました」と言ったそうです。

マザーは、この話をしてから、

「貧しい人は偉大です。飢えを経験した人には、他人の苦しみもわかるのです」と言われました。

本当の豊かさとは、このように、他人に与えるものをもっている心を指すのですね。

最近、自分でやり遂げる喜びを、子どもから奪っている過保護の親も増えているようです。

それは、子どもたちを愛しているように見えて、実は彼らから、その成長に必要な自信と、自立の喜びを奪っているのです。

もらう喜びしか知らない子どもは、自分中心の世界で生きています。

どれほど多くのものを持っていても、その子の心は貧しいのです。

与える喜び、分ちあう喜び、自分で何かをやり遂げた時の喜びをも味わわせることによって、

子どもの生活を本当に豊かなものにしてやりましょう。

<引用終了>

  

確かに、何か物や、お金をもらう喜びよりも

・与える喜び、

・分け合う喜び、

・そして自分で物事をやり遂げる喜び 

の方が、私たちの心を喜ばせてくれますね。

与えたほうも、頂いたほうも、笑顔、幸せになれます。

そこには、調和が生まれ、平和が訪れます。

  

どうせ与えるならモノではなく、 

・感謝

・喜び

・笑顔

・いたわり

・優しさ

・思いやり 

など、美しい心を与えて差し上げたいですね。 

その心は、巡り巡って、必ず自分に帰ってきますから。 

与えるものは、物質的なモノである必要はありません。

貧しかった良寛さんは、

「自分は貧しいひとりの修行僧なので、人に与えるもの、あげるものが何もない。

だからせめて、心をあたたかくするような、心を安らげるような『言葉』をあげたい。 

それならいくらでもあげることができるから」 

良寛さんは、自分の口から出てくる言葉を

・あたたかい言葉

・やさしい言葉

・思いやりに満ちた言葉 

にしたいと思って行動していたそうです。

 

2022年12月29日木曜日

2925「鏡(蛇身=666)を封印した「鍵」2」2022.12.29

 

――その「本質」の部分とはどういうことですか?

 

これから「始まる」ということです。日本の中にいる「ガリチア」の本体が、これから炙り出されていくこととなるでしょう。

 

――「ガリチアの本体」とは?

 

彼らはとにかく集まりたいのです。LINEグループ、仮想通貨運用ビジネス、FX投資ビジネス、資産運用投資詐欺、健康食品、化粧品、給付金詐欺、生活保護費不正受給、ポンジスキーム、モバイルプランナー、ネットワークビジネス、マルチまがいビジネス、マルチビジネスなど、彼らは常にアポをとって人に会って「勧誘」しなきゃならない。

偶然を装い、人に近付き、身振り手振りを駆使して、そして親身になって、そしてあらゆる感情を使って人を騙さなきゃならない。騙すためには集まって密に会話しなきゃならない。

「夢」や「最高の仲間」を語って何も知らない人たちを騙さなきゃならない。

おしなべて言えばそれは「詐欺師」のことです。ダークサイドに堕ちた人の末路です。

 

――その系統でしたか。

 

彼らはコロナを憎んでいます。彼らは「お料理会」「ワイン会」「お話し会」、「バーベキュー大会」「鍋パーティ」、「マッチングアプリ」「街コン」「異業種交流会」「キャッシュフローゲーム」「フットサル」をしなきゃならないのにコロナのおかげでそれらすべてができなくなった。 

「金持ち父さん貧乏父さん」をテキストに無明なる人たちを洗脳しなきゃならないのに、コロナによってそれがすべて中止されてしまった。それを粛清するための「コロナ」だったのだということ。しかも7月8日がなければこうはなっていないということ。 

人からお金を騙し取ることが「引き寄せ」であると曲解した人たちがたくさんいます。 

だから彼らはコロナを憎んでいます。彼らはマスクを憎んでいます。集まれませんから。

マスクをしていたら相手の微妙な表情を読み取れませんから。密になることこそが彼らの生命線でしたから。とにかく集まってパーティをしたいのです。後ろに控える「凄い師匠」を紹介しなきゃならないのです。 

彼らは常にキラキラして成功を引き寄せてるフリをして、常にパーティをして売り上げ高と年収を粉飾して自慢し、セレブを装って生きることが推奨されています。

そんな「やりらふぃー」を始めとして、日本のスピリチュアル界には大規模な「スピリチュアル霊感商法詐欺ネットワークビジネスバビロン南ユダ統一ガリチア大本清和会SS党システム」が完成しています。これはおそらく世界一の規模でしょう。これがこれから「終わる」のです。7月8日に「皇帝」が消えたのですから。

 

――そういうことになりますよね。だからあの大手は「6か月の取引停止」になったのでしょうし、一斉に何かが動き始めたような気がします。

 

「統一協会問題」と「ネットワークビジネス問題」が同時進行しているのです。

同時進行しているということは両者は「同じもの」として捉えられているということですよ。

 

――それは何か理由があるのですか?

 

教祖を崇拝すればカルト霊感商法ビジネス。お金を崇拝すればネットワークビジネス。

たったこれだけの違い。本質的なメカニズムはまったく同じ。この両巨頭が同時に俎上に載せられているのです。

 

――これは偶然ではありませんよね?

 

世の中に偶然などただのひとつもありはしませんて。NHKとネットワーク大手の本社と統一協会本部の場所を地図で確認してみてください。そこはなぜか不思議と富ヶ谷から徒歩圏内。ハロウィンやワールドカップで大騒ぎしている渋谷のスクランブル交差点の人たちの多くは一体何者か?非常に興味深い考察がそこから生まれてくるはずです。

 

――どうして「渋谷」なのですか?

 

あの界隈は「東京陸軍刑務所跡」だからじゃないですか?「二・二六事件」の首謀者が処刑されたのがまさにこの場所なのだということね。

 

――古くからの「因縁」がそこにはあるのでしょうね。

 

現在のNHK、そして渋谷区役所の周辺はかつての大日本帝国陸軍の「衛戍監獄」(えいじゅかんごく)、つまり処刑場の跡地に建っているのです。NHKのあるフロアには幽霊が出ることで有名ですが没入してはいけません。幽霊はすべてリアルでありながらもすべてホログラムでもあるからです。幽霊が「いる」「いない」の二元論じゃないのです。「ガチでいるんだけど全部ホログラム」なのだということ。この「量子もつれ」が大切です。これは「首相官邸のケース」も同じですし、「未確認飛行物体」も「チャネリング情報」も同じです。 

現在の代々木公園にはかつて「陸軍代々木練兵場」があり、戦後は米軍に接収され米軍の家族のための住宅として「ワシントンハイツ」が建っていました。ここで結成されたのが「ジャニーズ少年野球団」です。

 

――すべてを記事として記載できないことが残念ですね。これから日本が最後の舞台となって、総仕上げをしていく様子を私たちは目撃していくということになるのですね?

 

すべてがこれから日本で始まるのです。7月8日以降、頂点の皇帝を失った彼らは、なりふり構わずある意味自暴自棄となって暴れるでしょう。

しばらくはそれが続くはずです。でもしばらくすれば「整って」来ると思います。 

バビロン系南ユダスピリチュアル詐欺グループは、あらゆるジャンルにまで深く浸透し、その正体を隠して水面下に潜伏して活動しています。これからそれらが炙り出されていきます。 

その実情を目にするごとに、多くの方々が衝撃を受けることでしょう。自分がこれまで最も信頼していた人たちが、まさか「バビロン系南ユダガリチアスピリチュアルネットワークビジネス詐欺グループ」だったと明かになってくると思います。

このこと、誰も言っていないですよね。みんなこのことを意図的に避けていると思います。

カバールDS掃討作戦はもう終わったみたいなことをみんな言っています。いやいやそうじゃない。これから日本が舞台として盛大に始まるのだということ。すべては7月8日にすべてひっくり返ったのです。

おもに明治維新以降、この日本の近現代史の中枢を司ってきた勢力が、私たちが通常想定していたものとは懸け離れた存在であったと椅子から何度も転げ落ちる必要があるかもしれません。

 

――本当に「いよいよ」なのですね。

 

そうですね。だからこれからは既存の常識や規範は通用しなくなる。これから目撃する様々なインシデントは、通常のこれまでの価値観では解析不可能となってきます。

 

――「思考」を根底から改める必要が生じてきますね。

 

だから私は「新しい哲学」って言っているのです。二元論の檻から脱却し超越する必要がある。

 

――これまで「封印」されてきたものを解放していくことが求められますよね!

そうそう。映画『すずめの戸締り』はどう思われましたか?

 

――これまでの新海作品とは少し毛色が違いました。

 

そうですよね。この日本列島において、大和朝廷はひたすら縄文を「封印」をし続けて来ました。坂上田村麻呂しかり、空海しかり。彼らは本能そのものであった縄文を、ひたすら封印してきたのです。

 

――はい。東北縄文はこれまでずっと封印されてきました。それはつまり「戸締り」され続けて来たということです。

 

そうなのですよ。今回、新海監督は日本列島の「龍脈」を「ミミズ」と貶め、それを「戸締り」することを美化して描いてしまった。

つまりそれは大和朝廷呪詛勢力を礼賛することに等しいわけです。

 

――その違和感たるや相当なものですよ!

 

その「ミミズ」を「封印」することとは、人の尾骶骨のクンダリーニを封印することと

フラクタルに繋がっていてそれは「イコール」なのです。

人そのものが「蛇体」であるならば、この列島の蛇体をそもそも封印しちゃいけないのよ。

列島の蛇体を封印するということは「人」を封印するということだからです。

そんな暴挙を大和朝廷(カバール)はずっとやって来た。

 

――でも映画では「ミミズ」を封印して鍵を閉めていました。

 

今回の新海作品は「大和朝廷側」のスタンスで描かれてしまった映画。つまり弥生側の映画でありカバール側の映画。ヒット作を生まなければならないというプレッシャーから日和ってブレたのかな? 

これまで私たち縄文スピリットを持つ者たちにとって、大和朝廷、坂上田村麻呂、空海たちが東北を蹂躙し侵略し、徹底的に封印してきたところを「解放」することこそが何よりの仕事だったわけですよね。「閉じ師」って私たちを封印した側の侵略者ですよね。そんな勢力に私たち縄文は与(くみ)するわけにはいかない。 

弥生カバール大和朝廷側の「閉じ師」がいるなら、縄文は「解放師」であり「開け師」ですよね。封印されてしまったものを元に戻すだけの話しですけれども。 

「人」とこの列島と地球と宇宙はフラクタルに連続して繋がっているのですよ。 

ならば、大和朝廷側はまず、この列島の「龍脈」(ミミズ)を封じ「閉じ」るでしょう。そうすれば縄文スピリットの純粋な本能をもった本来の「人」の機能を潰すことができるから。

 

――「閉じ師」っておかしいな?って思っていました。


だってこれまでずっと東北日高見津軽蝦夷はひたすら「封印」され「閉じ」られてきたからです。なんで2022年のこの期に及んでさらに「閉じ」られなきゃいけないのかと。 

「ミミズ」を「恐ろしいもの」として描いてしまったのは致命的だったと思います。

だって私たち自身が「蛇体」そのものなのですから。だけどそれをこの映画は真正面から否定しちゃった。それは「人の否定」でありすなわち「自分自身の否定」をしちゃった。

つまり「宇宙を否定」してしまった。

 

――ただのエンタメ映画作品として見過ごすわけにはいかないかなりショッキングな内容でした。

 

この作品を見て小躍りして喜ぶ人がもしいるならば、侵略者大和朝廷側のスピ勢力なんだろうなと思います。坂上田村麻呂側、空海側のメンタリティでしょう。それはつまりバビロン系南ユダガリチアスピ勢力のことです。 

「閉じ師」? いやいや、これからすべて「解放」していかなきゃならないのに、どうしてここで「閉じ」なきゃならないのよ?って。

その「ミミズ」は本当はアラハバキそのものでしょうって。その「ミミズ」は「蛇身」(かがみ)であり「666」そのものでしょうって。 

この映画を観た多くの人が「閉じ師になりたい!」とか思ってしまう。バビロン系南ユダ呪術師、魔術師になりたいと思ってしまいます。私は今回のこの「すずめの戸締り」については、なんかこう非常に残念な気持ちになりました。 

世界全体を「封印」してきたのはじつは「バチカン」ですよ。バチカンの「サン・ピエトロ広場」を上空から見てください。巨大な「鍵穴」の形をしているのがわかりますでしょ。

だから聖ペトロは2本の鍵を持っているのです。なぜ2本なのか?ってことですよね。

まさに「上の如く、下も然り」なのです。「閉じ師」の世界代表はバチカンです。

「オベリスク」という「蛇体」を封印のために使って支配していました。

これは諏訪の御柱とまったく同じ使われ方をしています。それが終わったのが現在の世界です。

「PETRO」(岩)はアナグラムです。並べ替えればそれは「PORTE」(戸)となります。

つまり「サン・ピエトロ広場」とは世界を封印してきた「岩戸」そのものなのだということです。じゃあ、閉じちゃダメでしょ。開けなきゃ。

 

――本当にそうですよね。エンタメ作品に目くじら立てても仕方ないのかもしれませんが、

何も知らない人たちへの影響力を考えると、複雑な気持ちになることは事実です。

劇中、すずめと椅子にされた男子が鍵を持ってました。冒頭でもすずめの自転車の鍵のシーンがアップされます。あ、そういえば以前、講演会でもお話されてましたが、このバチカンの扉をガチャっと開けたのは澤野さんでしたね。

 

2005年のことですからもう17年も昔のことですね。ローマ教皇、ヨハネ・パウロ二世が亡くなられた時、私はバチカンにいたわけです。 

映画は「ホログラム内ホログラム」の最たるものだけど、そこから得られる経験や感慨はガチのリアルだから、それはそれで大切にする必要はあります。 

映画『ラーゲリより愛をこめて』も注目しています。シベリア抑留については私は独自の考察を持っています。満州関東軍がシベリアで何を「教化」されて帰国したか?

そしてその後彼らはどうなっていったか?主演俳優の祖父もシベリアに3年抑留されていたそうです。映画は当然「愛と感動」に持っていくわけでしょうけれど、私は別の角度からも観てしまうと思います。

 

――澤野さん、そろそろお時間となってまいりました。まだまだ無限にお話しは飛び出してくるのでしょうけど、今回はこのあたりで一区切りとしましょう。

 

はい。取り留めのない内容ばかりになってしまいましたが、続きは青森講演会でということで、うまくまとめてください。

 

――澤野さん、今回もありがとうございました。

 

ありがとうございます。ところで活字版「⑯」が仕上がっております。

 

――ついに「解放」のタイミングとなりましたね。タイトルは決まりましたか?

 

だいぶ「塩漬け」してさらに「塩抜き」までしました。年末に相応しい品質になったかと自負していますがどうでしょうか?タイトルは『賢者の石』です。

 

――12月17日、18日と青森講演会ですから、リリースは12月20日以降でいかがですか?

 

「目に映る全てのことはメッセージ」ですし、「毎日がスペシャル」ですので、小野さんのご都合にすべて合わせます。

 

――かしこ、かしこまりましたかしこ。ありがとうございます。

 

こちらこそありがとうございます。(澤野大樹) 

 


 

2022年も一気に駆け抜けました。まさかの予想だにしない巨大なインシデントを始め、

宗教、政治、経済、戦争や生き方など、いろんなことを考えさせられた年でした。 

そして何より、今年は澤野氏から「量子意識」という「新しい哲学」が提唱されたことが大きかった。それは歴史に刻まれるべき謎解きといっても過言ではないレベルでした。

では果たして2023年はどのような展開になっていくのでしょう。

次回、第18回青森講演会は2022全国ツアーグランドファイナルで今年の幕を閉じます。

最高のスペクタクルショーであることを期待せずにはいられません。 

ブログ読者の皆様には本年も大変お世話になりました。

来年もよろしくお願い申し上げます。どうぞよい年をお迎えくださいませ。

澤野大樹氏青森講演会主催

小野裕美子


2022年12月28日水曜日

2924「鏡(蛇身=666)を封印した「鍵」1」2022.12.28

 今回は「宇宙の中心で愛を叫ぶ」さんの2022年12月16日の記事を2回に分けて紹介します。

宇宙の中心で愛を叫ぶ (ameblo.jp)


「鏡(蛇身=666)を封印した「鍵」」

こちらは現在、辺り一面銀世界となっており、視界を覆うほどの雪が絶え間なく、しんしんと降り積もっております。

季節の移ろいというものはじつに早いもので今年もまた青森に冬将軍が到来しました。 

読者の皆様、こんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。

今回の澤野大樹氏の青森での講演は「ホワイトレセプション」となりそうです。

ご遠方からいらっしゃる皆様、本物の「雪国」をぜひ味わってください。

ということで、青森講演会直前となりましたが、恒例となりました澤野氏へのインタビューを始めたいと思います。それではスタート!

 

――澤野さん、こんにちは。前回のインタビューが10月30日でしたね。あっという間にもう師走に突入しています。

 

はい、こんにちは。誰でも考えるであろう月並みな発言はしてはいけないのですが、あえて言わせていただければ「あっという間にもう年末ですね!」ですね。

 

――毎度のことながらこの間に世の中ではまた、様々なことが起きています。最近の時事の中で澤野さんが特に注目したものはありますか?

 

「上海閥」(上海幇)のボスが消えたので、中国での「ゼロコロナ政策」が急速に緩和されたことですかね。

 

――その代わりに学生たちによるデモが過激化しましたよね。

 

ボスのデリートを察知した「残党」による最後の足掻きであったと思います。

日本で清和会の皇帝が消えたこととリンクしているのでしょう。

上海閥のボスの父親は関東軍の情報部員でしたからね。

 

――これで中国の方は「完了」となったのですか?

 

それで完了となると私も思っていましたが、事実を認めようとしない「残党」が大量に残っているのです。

 

――それは日本でも同様のことが起きていますよね?

 

そうそう。彼らは有史以来「事実を認めたこと」などただの一度もないでしょうから。

 

――彼らは詐術のプロですからすべてをすり替え、入れ替えてくるのですよね。

 

日本の国会議員でも似たようなことがあります。たとえば自身の差別発言によって窮地に立たされたりしているとなぜかタイミング良く「脅迫状」が届いたりするでしょう。

加害者を一瞬で被害者へとひっくり返すという彼ら伝統の「ウソ・エイト・オーオー・システム」です。

 

――私たちはこれまでそのような手口を見破れなかった。しかし、今はもうそのような手法はすぐに見抜かれてしまいますね。

 

不思議なことに人類の意識というものが、自然と研ぎ澄まされてきたのかもしれません。

それはひとえにここ数年の驚天動地の世界を潜り抜けて来たからではないかと思います。

 

――上海閥のボスが消えたことは日本にどのような影響を及ぼしますか?

 

アリババ創業者の馬雲(ジャック・マー)氏を筆頭に「残党」が挙(こぞ)って日本に逃げ込んできていますでしょ。だから表向きでは中国の上海閥、つまり中国の満州関東軍清和会は終わった。

でも「残党」が日本に大挙して入って来ているということは莫大な資金を携えて入って来ているということです。そして日本で彼らを受け入れる体制があるのでしょう。 

ボスの終わりを予感したためか、コントロールされた学生たちは蜂起しました。

彼らは絶対にあきらめないことで知られています。だから日本でも同様のデモが発生しましたよね。日本のそのデモは11月26日の夜から27日にかけて新宿で起こされました。

上海閥のボスが消えたのは11月30日でしょ。

 

――そこからの中国でも感染者急増ということですね。

 

水面下に隠れていた「残党」が一斉に表に顔を出すでしょうから。だから「終わった」のだけれどもその後処理が結構派手なことになる。あのデモをやっている本質は何なのか?

「感染者数」というものが一体何を意味しているのかということです。

すべてはデジタル領域で起こっているのです。これを見抜けないとなかなか厳しいものがありますよ。そのおかげで表の一般市民は公共の場で「PCR検査陰性証明」を提示する義務から解放されました。この緩和措置は12月7日からです。

 

――でもその「残党」の大物たちの多くが続々と日本に入って来ているのですよね。

 

だから日本が「第8波」ということになって来る。

 

――日本がまさに最終的な舞台になるということですか?

 

そうです。これからですよ。だから日本ではまだマスクを外せないというか、これは強制でも何でもないですし、すべて自由ですが一応、提案として「しておいた方がいいんじゃないですか?」ということになります。

 

――マスクを奴隷の象徴だとして敵視している方もたくさんおられますよね。

 

凡百な市井の大衆ならではの意識領域をもってすれば、それも至って当然な反応だと思います。彼らにとってはそれこそが「真実」と映っているでしょう。

つまり「真実」を追い求めると失敗するのですよ。マスクにせよ何にせよ、ひとたび何かを

「敵」と規定した瞬間に、その者は、この二元論世界への強固な忠誠を誓うことと等しくなってしまうからです。

 

――「良かれと思って」という正義心には大きな罠が隠されているということですね。

 

「良かれと思って」とは換言すれば、相手からすれば「ありがた迷惑大きなお世話」となるケースが多いかと思います。そのような浅薄な古いコードの「正義心」をもって人の行動、人生を変えることができるのだと考えるということは、これ、きわめて傲慢なことなのだということ。 

本来ならばこのことに人生の日常のある場面で、己自身で自然にふと気づけなければいけないのです。 

いくら説得しても言うことを聞かない相手に対して「あなたは眠ったままの無知な羊だ」と

宣(のたま)うことができてしまうという、その傲慢性を客観視できるようになって初めて

人としての成長成熟がある程度見込める状況にあるのではないかということが、あくまで推測されるようになるのです。 

「穴があったら入りたい」、これ以外に人を成長させる経験を私は知りません。

「無知」なのは何を隠そう私自身だった!と気づくことができるかどうか。

 

――「恥じらい」を持っている人であるならば、自分自身を「覚醒した」だなんて言えるはずがありませんよね。

 

「ボクが納得できる真実」を追い求めると失敗するのですよ。その「真実」は現状の己の知的レベルに相応したものだけです。己の知的レベル、知識レベル、経験レベルを超えたものは絶対に「見えない」し「理解できない」し「納得できない」のです。

 

――「真実」という言葉はある意味危険ですね。

 

容易に乱用されていますが、きわめて危険です。「真実」という言葉は、ニセモノの覚醒において、それがあたかもホンモノであると、無明なる人たちに錯誤させるためにあるガリチア的方便でもあると言ってもいい。

 

――多くの人は自分の考えこそが正しいと思うでしょうし、しかしそれが人情であるともいえます。斜に構えたシニカルなマイノリティを自称していながらも、じつは心の底ではマジョリティ側でありたいと無意識では思っているからこそ、その「真実」を声高に叫んで他人に強いようとするのでしょうか?

 

強烈な承認欲求の発露であるだろうし、しかし社会から承認されるためには実力がないといけませんよね。実力はないけれど認められたいと考えるのが凡才だといえます。

自己顕示欲の強い凡才は天才を装います。できるだけ奇抜に派手に、そして目立つ言動を行い耳目を引こうとします。これが「ノイジー・マイノリティ」です。

この場合の「マイノリティ」とは実力の度合いを指します。 

では一方で本物の天才はどうでしょう。イチロー選手や大谷選手とかはよく「あの人は天才だ」とか言われたりしていますが、天才というのは本来凡百な市井の大衆には知覚できないから天才なのでしょ。しかし世間一般に語られる「天才」とは、打率が凄いとかPKが上手いとかそういった、普通の人々にとって理解しやすい分野で秀でている場合です。 

もし多くの人が「あの人は天才だ」って考えた場合、それは「普通の人が考えるお誂え向きないわゆる天才像に合致した人」に過ぎないのだということです。

ホンモノの天才の存在はほぼ誰にも知覚されないのです。誰にも相手にされないことが多いのです。ひとりぼっちですし、例えようのない孤独ですよ。

そしてここで重要なのは、ホンモノの天才は、一般大衆の目からは「馬鹿」に見えているのだということ。この不遇こそが天才の天才たる証拠なのです。

ですからホンモノの天才は往々にして「普通であること」に憧れています。

これが「サイレント・マジョリティ」です。 

凡才と天才では量子もつれを起こす二者の存在がまったくの逆位相に位置していることがわかります。ですので凡才と天才はもっとも懸け離れた存在なのだということ。

 

――つい人は己を誇ったり傲慢になりがちです。「真実」と思って疑わない幼稚な己を自覚するためにはどうしたら良いでしょうか?

 

先ほど「真実」を追い求めると失敗すると言いました。その失敗をより確かなものにするものとは「喜怒哀楽」です。「正義の怒り」「悪への怒り」「絶対に許せない」「我慢できない」「仕返ししないと気が済まない」「やっつけてやりたい」こういったものが判断を鈍らせ誤らせる主因となります。

己を振り返ってもし「感情」で行動を左右していた場面があれば、これは非常に酷な言い方かもしれませんが、それは己がまだ「三流」であったのだと断定していい。でも己が三流であったと気づくことができた者は、その後ものすごく伸びてやがて一流になる。

 

――ジャンルは問いませんが、「一流」の人には何か特徴がありますか?

 

世界のトップクラスの人たちには必ず右腕となり得る敏腕プロデューサーの存在があります。アーティストの才能を引き出し、頂点を極めるきっかけを創出するのが名プロデューサーです。 

ここで重要なのはその敏腕プロデューサーは、アーティストの部下などではなく、才能や人間力がまさに比肩していなきゃいけないというかなり厳しい条件が付くことです。

多くのアーティストの場合、芸術的な才能はあっても、自身を売り込みプロデュースすることを苦手とします。セルフプロデュース作品が大体失敗するのはこのためでしょう。

そのアーティストの本人すら気付いていない才能を引き出し、可視化し、作品化にまで持っていくのが敏腕プロデューサーです。

この「プロデューサー」という肩書に固執する必要はありません。職業的肩書きとは別でいるのですよ。それは思わぬところに存在していて、そのプロデュースはすべてナチュラルに行われていくのです。

マイケル・ジャクソン氏にとってのクインシー・ジョーンズ氏、宮崎駿氏にとっての鈴木敏夫氏、ジェームズ・キャメロン監督にとってのジョン・ランドー氏、ハリウッド映画にとってのジェリー・ブラッカイマー氏、SMAPにとっての飯島三智氏、桑田さんにとっての原坊、

ミスチルにとってのコバタケ氏、Bon Joviにとってのデスモンド・チャイルド氏、メタリカにとってのボブ・ロック氏などがあります。(※もっと他にもいろいろあるでしょう) 

アーティストは決して「ひとり」では出て来れない。もちろんアーティスト以外にも実業家だったり、作家であったり漫画家でも何でもそうです。有名漫画家にも必ず敏腕名物編集者がついていますよね。その才能と均衡し量子もつれを起こすだけの力量を持った「もうひとり」が必要なのです。

 

――言われてみれば確かにそうなっていますね!

 

そういった意味で、私は小野さんにプロデューサーを任せているのですよ。仕事のやり方とか方向性とか多くの部分について、私が気がつかないようなことを小野さんはちゃんと気付く。そのどれもが的確なので私は小野さんを信頼しているわけです。だから小野さんの直観に基づいたサジェスチョンを私はきわめて重要視しているのです。

だから「首席補佐官」と呼ばせていただいています。無論、私は有名になる気ゼロですけど。

 

――恐縮です…、でも澤野さんはもうすでに有名ですって。

 

やめれ(笑)、私は一介のさざれ石としてこの世に介在することの方がむしろ大事なこと。

あと、有名になる以上に面白いことがあることを私はすでにある程度理解してしまっているのです。

 

――先ほどの「感情」の話しに戻りますが、確かに澤野さんの文章で感情的な部分を見たことがありません。でもどうしてこの世はこれほどまでに、そういった「感情」によって支配されてしまっているのですか?

 

この世界は完全なるホログラムの世界です。毎日毎秒常に人類がこのホログラム世界を疑うようなことのないように、日々の雑事に没入させ耽溺させるための、コンテンツが無限に供給されています。ですので感情に左右されてしまうということは、じつはこの世を投影し描写する量子コンピュータによるひとつの「愛」が結実したものであるとも言えるわけです。

また同時に逆にですよ、他者に対して感情を意図的に鼓舞させたり、感動を誘発させたり、

涙を誘ったり、あるいは自らが涙ながらに話したりと、そういった話法を用いる者というのは、うっかり感情に左右されやすい非知的階層の方々を、操り搾取しようと企図する詐欺師であるか、もしくはその素質がある者の黎明といえましょう。ガリチアはそうやって生き延びて来ました。人情噺は映画か落語までにしておいた方がいい。

 

――話は戻りますが、これからこの日本が最終的な「舞台」になるのだと理解して良いのでしょうか?

 

7月8日のインシデントをきっかけとして、警察、検察、中でもとりわけ東京地検特捜部が

にわかに「本来のポテンシャル」を回復してきました。その具体的なメカニズムについては、

社会に対して刺激が強すぎるのでここでは申し上げません。

「日本が最後の舞台」と私が申し上げてから方々で同様のことが言われるようになったようですけれども、その本質の部分については多くの方々は意図的にか無意識的にかはわかりませんが、沈黙したままのようです。

彼らは何を話し、何を沈黙すべきかちゃんと知っているところが驚きではあります。


2022年12月27日火曜日

2923「一瞬の幻」2022.12.27

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年12月20日の記事を紹介します。


「一瞬の幻」


皆さんは、自分の暮らしと、他人の暮らしを比較して、うらやましく思ったりすることはありませんか? 

・お金持ちの家に生まれていれば

・もう少し器量が良ければ

・才能さえあれば

・健康でさえあれば 

など。。 

ですが、私たちは、生まれてくる前に、雲の上で神さまと、今世の目的や、やりたいことを相談し、その目的を達成するのにふさわしい、 

・身体、

・家庭環境、

・そして将来起こるであろう人との出会いと別れ、

・事件や事故、病気。

・そして死ぬ時を決めて地上に降りてきました。 

この地球で、どのような経験をしたいかによって、その経験をするにふさわしい 

・金持ちの息子として生まれてきたり、

・病弱の身として生まれてきたり、

・奴隷として生まれてきたり

しています。

全ての人生のストーリーを自分で決めてきました。 

その経験がしたかったから、敢えてその環境を選んで生まれて来たのです。 

ここで例として芥川龍之介が書いた「杜子春」という物語をご紹介します。

あらすじをご覧ください。

<転載開始> 転載元 


■杜子春と仙人の出会い

唐の都である洛陽に、杜子春 (とし しゅん)という若者がいました。 

彼は金持ちの家に生まれますが、両親が残した財産で遊びながら暮らしており、

散財した今では、一文無しの生活を送っていたのでした。

ある日、そんな彼のもとに一人の老人が現れて、夜中にこの場所を掘るようにと告げます。

杜子春はその通りにすると、そこからは黄金が掘り出されました。

一晩にして彼は大金持ちになり、これまでは見向きもしなかったような人たちが、屋敷に訪れるようになります。

■贅沢と貧困の繰り返しの中

大富豪となった杜子春は再び贅沢三昧の暮らしをし始めます。

しかし、やがてはその財産をも使い果たし、以前と同じように一文無しの生活に戻るのでした。

すると再び老人が現れて、金を掘るように告げます。

そして大金持ちになり、またしてもそれを使い果たすという繰り返しを経て、

三度目に老人に出会った時には、杜子春の心に変化が起きていました。

お金があればもてはやされるが、一文無しになれば誰も見向きもしないということを知ります。 

そして人間というものに嫌気が差し、お金はいらないから老人の弟子にして欲しいと頼むのでした。

杜子春は、その老人が仙人であるということに気がついたのです。

■峨眉山での修行

老人は自らを鉄冠子という仙人であると明かすと、杜子春を自分の住んでいる峨眉山へ連れて行きます。 

そこで試練として、仙人が帰ってくるまで何があっても口をきかないと約束をします。

虎や蛇に襲われても地獄へ落とされても、彼は約束通り何も言いませんでした。 

どうしても口を開こうとしない杜子春に怒った閻魔大王は、

既に亡くなっている彼の両親を連れて来て目の前で苦しめます。

閻魔大王に痛めつけられながらも、自分のことを一番に思ってくれている母の心に心を打たれ、たまらず母を呼んでしまうのでした。

■仙人が与えてくれたもの

お母さん、と一言叫んだと同時に杜子春はたちまち現実の世界へと戻りました。 

実はこれまでの出来事は全て、仙人が見せた幻だったのです。

もしあのとき杜子春が何も言わなかったならば、仙人は彼の命を奪っていたと言います。

これからはもっと人間らしい正直な暮らしをするという言葉を聞いた仙人は、杜子春に一件の家と畑を与えて去って行きました。

<転載終了>



お金持ちになって、贅沢三昧をし、それに釣られて沢山の人が集まり、そして、お金が底をつくと誰も見向きもせずに離れて行き、地獄でいじめられる両親の姿を見て、何も持たない惨めな自分であるのに、それでも、自分を大切に思ってくれる両親の姿、これら壮大なドラマが、実は一瞬の幻だったのです。 

もしかしたら、私たちの人生は、これと同じように一瞬の幻、夢物語かもしれませんね。 

農民から、一代にして太閤殿下に上り詰めた豊臣秀吉の辞世の句は・・・

「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」

です。

天下統一の目前まで行った織田信長の好んで使った詩は・・・

「人間50年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」

でした。

生きているうちに、あのような波瀾万丈(はらんばんじょう) を生きた人たちでさえ、

死ぬ間際に気づいたのです。

人生は、一瞬のことであり、人生は、夢、幻であった。

人生とは、単なる役割に過ぎなかった。 

私たち人間は自分の見たいものを見て、経験したいものを経験し、みんなが、実際は同じ世界に居ながら、全く異なる経験をしてます。 

同じ世界に暮らし、同じように生きているのに、それぞれの心の状態によって

・ある人は地獄に住み

・ある人は幸せな天国に住んでいます。 

同じ世界に暮らしているのに・・・

私たちが見る世界、聞く世界、経験する世界は、私たちの心の反映です。 

私たちの心の状態を正確に映し出した世界に、今住んでいます。 

ゆがんだ世界に生きているのであれば、心のどこかに ひずみ があるからです。 

空海が仰ったように私たちは、 

生きながらに、天国にも、地獄にも住むことができるからです。

これを空海は、即身成仏という言葉で教えてくださいました。 

あなたは、今 

天国に住んでいますか?

それとも地獄のような苦しみ、疑心暗鬼の渦巻く世界に住んでいますか?

  

全ては私たちの心ひとつが作り出した世界です。

皆様がどうか、生きながら天国に住むことができますように。

周りの方と、お互いさまの心で助け合い、笑顔で暮らしていくことができますように。 

生きている世界は、まったく同じなのです。 

ただ、様々な出来事を、どのように受け取るか だけの違いで、まったく異なる世界に投げ出せれます。 

・良きことも、悪しきことも、感謝の心で受け取っているか

・不平不満、悪口、嫉妬、憎しみの心で受け取っているのか

 

人生は、夢、幻の世界

私たちは、自分で決めた人生ストーリーの役者

もともとは、純粋で優しい魂の持ち主です。 

いつでも、役柄を変え、心根を変えることで、天国に住む準備ができています。 

自分は天国に住むと、決断するか、しないか? 

決断すれば、すぐに世界は変わってくることでしょう。

 

2022年12月26日月曜日

2922「艱難・苦難の意味」2022.12.26

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年12月18日の記事を紹介します。


「艱難・苦難の意味」

今日は、お子様の病気、事故などと、親との関わりについて書きたいと思います。 

生まれながらに病気を持って来る子もいれば、ある時期に病気になる子もいます。 

早くに亡くなる子もいます。

それらは全て生まれる前に計画し、そして神様の承諾を得て生まれてきました。 

この宇宙の出来事で、神さまの承諾無しに起きることなどないからです。

生まれる前の記憶を持つ子供達、彼らが語ったことは、人生で起こる全ての出来事は、

生まれる前に全部決めてから、生まれる、と言うことです。 

となれば、 

・友人間のいざこざ、憎しみ

・会社の中のいざこざ、憎しみ

・家庭の中のいざこざ、憎しみ

・人との出会い、分かれ

・病気になる時期

・事故に遭う時期

・貧困に陥る時

・光り輝き皆から注目を集める時期

・死ぬ時期 

全ての全てが、生まれる前に決められた事項であると言うことです。 

生まれる前から人生のトピック(病気、事故を含め)と、それに遭遇する時期を決めて、 

そして家族や友人、良き人、逆に行く手を塞ぐ人、意地悪する人、助けてくれる人など、 

登場人物に、予め(お願いして)生まれてきました。 

家族を含め、いろんな人々の中で 私たちは、

・悩み苦しみ、

・そして喜び、

・愛を育みます。

いろんな感情を味わいます。

泣いたり、笑ったり・・



子供が病気になったりすれば、親はどれほど心配し、嘆き悲しむことでしょう。

強い感情を味わいます。

 時には自分の命と引き換えに、、そう思うかもしれません。 

また自分の悪いところがデフォルメ(強調)されて、周りの誰かが表現してくださるでしょう。(特にお子さんが、) 

自分の良いところを通じ美しい友情や、愛を育むことでしょう。 

人々が喜ぶでしょう。 

そして、私たちが、その経験から学び、生まれる前に計画してきた学びが終われば、

その関係性も終わりになります。

なぜなら、生まれる前の約束を果たしたからです。 

その後は、自然と離れることもあれば、生まれる前に居たところ(天国)と同じ関係性のように、美しい友情と愛と思いやりで、後の人生を過ごすことになるでしょう。 

家族の場合なら、関係性が変わらずとも、問題だと思っていた事項が、全く気にならなくなることでしょう。 

それは、ブッダが般若心経で教えてくださった、どんな状況であろうと、全てを受け入れることができたからです。 

私たちが苦しむのは、起きてきた出来事(本当は自分で計画したこと)に対し、 

・気に入らない

・受け入れられないからと、 

抵抗し、何とか、自分の思うようにしたい、そうもがくために起こります。 

本来、その出来事は、自分の魂の成長のために、自分で設定してきたものなのに、善か悪かと、ジャッジして、受け入れようとしないからです。 

自分で自分の人生に埋め込んだ出来事は、自分を破滅させるものではなく、一時は苦しいかもしれませんが、その現実を素直に受け入れ、感謝できた時に、美しい喜びに変わります。

それは、ご自分自身が、受け入れ、変わることができた時です。

神様は、それを一番望んでいらっしゃいます。 

 

問題だったことが問題ではなく、魂を輝かせるための研ぎ石だったと気づきます。

もう気にもならなくなり、感謝の気持ちが芽生えてくることでしょう。 

目の前の出来事は、家族の誰かのせいではありません。 

真っすぐに自分に向かって起きています。

生きているうちは、簡単には、その理由などわかりません。 

ですが、その出来事を通じ苦しみ、悲しみ、悔しさを味わい、経験することができます。 

その経験を、不平不満、愚痴、悪口で反応する人もいることでしょう。

ですが、その出来事は神様が起こしてくださった出来事、そう認めることができたなら、

感謝で受け入れることもできるかもしれません。 

特に、家族間の場合、他人には出せない甘えや、性格の中に潜む幼児性が出やすいものです。

その結果、世の中には、家族間の憎しみのゆえに起こる事件が多いのです。 

ですが、それも、当事者であった家族の誰かの学びが終われば、段々と解決、つまり温かな、愛の関係に戻って行きます。 

もしくは、問題ではなくなっていきます。 

マザーテレサや小林正観さんが言うように、全ては自分がどう生きるか、だけにかかってきます。

家族を含め、他人は変えることはできません。

私たちが、そこから気付きを得て、生まれる前に予定していた 学び・課題が終われば、 

つまり、自分の意識さえ変われば・・

心の持ち方が変われば・・・ 

全ての状況は解決に向かうのです。 

問題ではなくなってきます。 

お子様の病気やケガは、親にとって本当につらいものです。

ですが、その辛い状況を、あえて子供たちは引き受けて、生まれる前の約束を果たそうとしてくれています。 

その状況を、私たち親が経験することで、もしかしたらブッダの般若心経の神髄を心から知ることができるかもしれません。

全ての、モノ、出来事に感謝の心を向けることができるかもしれません。

  

感謝の心を手に入れることは、容易なことではありません。

何百回、何千回もの生まれ変わりが必要かもしれません。

ですが、病気やケガを、自分の人生に計画してきた子供たちは、親の私たちに、辛く悲しい経験と引き換えに、その尊い「感謝の心」に気づかせてくれるために、それを計画してきたのでしょう。 

そのような高貴な目的をもって生まれてくれた子供たちの魂に対し、私たちは、何時までも嘆き悲しみ、不平不満、愚痴、世の中を呪う言葉、自己憐憫(自分を憐れむ気持ち)の地獄に居ては申し訳が立ちません。 

心が変われば、見える世界、見えない世界ともに変わります。 

どうぞ、勇気を出してください。

全ては、自分自身の心が変わることで、変わっていきます。

いろんな環境の中での学びとは、、沢山あるでしょうが、エッセンスは全て同じことです。

お互いさま、お陰さまの気持ちで、相手を尊重し、相手のやり方、個性を受入れ、認め、

批判しない、周りの状況に不平不満、愚痴を言わない、全ての物、こと、人に感謝する。

私たちは、全体で、この宇宙を構成し一人として無駄な者はいない。 

全ては繋がり、あの人も、この人も、この犬も、猫も、花も木も、お日様も雲も、風も雨も・・ 

全ては、私たちと同じ意識を共有している。 

私たちは切り離せない、一つのもの。

私たちが生まれて来た目的は、そう気付くことだったかもしれませんね。

  

お父様、お母様が、それに気づき、笑顔で、感謝の気持ちで生活していらっしゃれば、 

きっと最速で、その出来事の隠された目的は達成されて、問題だと思っていた出来事も、

本当は感謝だったと気づくことでしょう。


 

2022年12月25日日曜日

2921「神々のなさり方」2022.12.25

今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年12月17日「神々のなさり方」と2022年12月19日「一期一会」の2つの記事を紹介します。


「神々のなさり方」

今日は、コロナ禍の現象の中、どこに神々が働いていらっしゃるのか書きたいと思います。

神々も、数字の中に、暗号、秘密、キーワードを隠されることがよくあるようです。

コロナは、数字で言うと 567 

この数字は、空海の仰った言葉に含まれています。 

以前記事で、弥勒菩薩、すなわちマイトレーヤーについて書きました。 

 

弥勒菩薩

空海が亡くなる時に弟子たちに遺訓として、私は兜率天へのぼり、弥勒菩薩の御前に参るであろう。

兜率天にのぼって私は雲の間から地上をのぞき、そなたたちのあり方をよく観察している。

そして、56億7000万年後、私は必ず弥勒菩薩とともに下生する。 

私の入滅の後をよく見るべきである。

その時、よく勤めている者は天の救いを受けるであろう。

不信の者は不幸になるであろう。

と述べています。ここに567の数字が出てきました。

この200年間、世界は、「経済と物質」中心の世界でした。 

この期間、 

・利権 

・権力 

・金  

を、ずるい方法で手にした人々が上に立ち、既存の秩序が成り立っていました。

もちろん、地に埋もれた、まともな人々もおりましたが、上に上がることはありませんでした。

今までの時代は、物の力、お金の力が、あまりに強く、お金や武力を持った人が強かったからです。

しかし今、お金、武力の力が弱まってきました。

20世紀を境に、その仕組みの矛盾が噴出し、限界に達し、お金や武力で上に立っていた人たちが、断末魔の悲鳴を上げています。

2020年、一昨年、時代の転換点、神仕組みが1つ起動しました。

神々は世の中をぐるりと動かす時、破壊と再構築の手段を用います。

・建て替え(古い秩序の破壊)

・建て直し(新しい秩序の再構築) 

まずは、ぶっ壊し、そして再構築する方法です。 

悪も極まり、もう地球が滅ぶかもしれないという最期の最後の時、神々は、その既存の秩序の破壊(建て替え)の手段として、コロナウイルスを使いました。 

この方法は、今までの経済不況などとは比較にならないほどのダメージを全世界、人々に与えました。 

同様に、今まで、上に立っていた人々の力の源泉、お金、武力でも、ウイルスに対抗できない、通用しない、そんな環境を、短期間のうちに一気に作り出してしまいました。 

神々の力は、綿密で偉大です。

今後、国家の力が弱まるために、行政の機能が大幅に低下する中、今まで、お金と権力に押さえつけられ、地域の中に埋もれていた、まともな人たちが、下から台頭してくることでしょう。

その後の、世界の復旧、復興を担っていくリーダー交代ののろしです。


地に追いやられていた優れた素質を持つリーダーたちが、今までの ずるい手法で、人々を脅し、搾取して、上に立っていた人々と交代していく時です。

もう一般民衆が、お金の力に物を言わせていた人々の言うことを聞くことはありません。 

今迄の、卑怯な、自分本位なウソ、恫喝の実態が、あぶりだされ、表面化してしまったのですから。

新しく台頭してくる人々は、沸き上がるリーダーシップを内に秘め、更に、人を搾取することなく、自分たちの力で考えて、行動するために人々が信頼しついてきます。

・今まで上に居たものが下になり

・下にいたものが上になるという

激しい移動が現実化してくることでしょう。

また宇宙神からの強力なバックアップもあります。

ここ日本を中心に沢山の神々が生まれてくるという情報です。

もうお金や権力で、国民を動かそうとする時代は終わることでしょう。

お互いが納得した形で物事を進めていく、民意が大切にされる社会に移行していくことでしょう。

・国家に寄生して生きていた人たち

・他人に寄生して生きていた人たち

・誰ともネットワークを組めない人たち(仲間を作れない)

これらの人は、誰からも相手にされなくなり、孤立してしまう可能性が高くなります。

また、これから始まろうとする世界では、自分の直感が大切になってきます。 

賽は投げられました。 

もう、元に戻らないのですから、私たちは前に進むしかありません。 

ですが、これは絶望ではなく、今までお金、権力の力に騙され、搾取され、恐怖に貶められていた私たち一般の人々にとっては、朗報です。 

自分の価値観を、今までとは異なる、まともな方向に戻さなければなりません。

時間はかかるかもしれません。

ですが、前に進もうとする意志は、とても重要です。

人間は、腹を決め、決心したその時、不思議な力が湧いてくるものです。 

何故なら、見えない世界、神々の世界も同期して動き出すからです。 

その相乗効果で、 

・本当の優しさが沸き上がり

・本当の実力が備わってきます

ミロクが降臨し、世の中を変えていくとは、人々が期待し、望むような奇跡のような、不思議な現象によって引き起こされるのではなく、神々が、このように人間の意識に働きかけ、

あたかも人間自身が行っているかのように見せかけ、行われるものです。

本当に大切なものは、隠れて見えません。

神々の意思は、人の心に働きかけ、人の行動として表現されます。 

今、世界の人々は大きな変容を目にしていますが、実際には、目に見えない神々の世界でも、

大きな動き、働きがあることでしょう。

神々は、このようにコロナウイルスという一見、不幸せな現象を使い、行くところまで来てしまった、神々の意思とは遠く離れたところまで来てしまった人類を再び真の幸せな世界、

心が大切にされる世界へと、導くために、建て替えの最中なのかもしれませんね。

どうぞ、明るい未来を期待して、日々笑顔で過ごしていきましょう。

 「ありがとう」の感謝の心のあるところ、必ず神々の恩寵が現れます。


「一期一会」


憎しみの心を抱えたままでは、決して本当の意味での幸せにはなりません。 

憎しみを持つ限り、自分自身で、その憎しみの種にしがみつき、必死で握りしめているので、

もがけばもがくほど、強く自分自身にまとわりついてくるからです。

また自分自身を傷つけて体の不調や病気にもなります。 

古事記では、この宇宙に最初に現れた神として、造化三神(ぞうけさんしん)のことが書かれています。 

・アメノミナカヌシ(天之御中主)

・タカミムスヒ(高御産巣日)

・カムムスヒ(神産巣日)

この神々は、宇宙に現れると同時にお隠れになったと記されています。 

このお隠れになるとは、虚空に消えてしまった・・と言う意味ではありません。 

この宇宙そのものが、神の中に入ったという意味なのだそうです。

ですから、私たちが住むこの宇宙は、神々の胎内に存在しています。 

神々の本質は愛ですから、この宇宙の根本も「愛」から成り立っています。 

この原則から外れるものはありません。 

・こういう場合には、「愛」は通じるが、

・このような場合には通用しない 

そのようなことは決してありません。 

また量子力学が発見した通り、私たちの宇宙は、波動であり、物質でもあります。 

波動は見えませんが、それは周期的な波であり、発すれば減衰はしても宇宙中に広がります。

波動の周波数の違いによって、物質界に様々な現象を起こします。 

この宇宙において波動の法則は、厳然として存在しています。 

俗にいう、「類は友を呼ぶ」という法則です。 

ある友人、グループ、職場、サークルなど人々が一堂に会している場合、そこには同じような波長が存在し、皆が、その波長に共鳴し、引き寄せられて集まっているということです。

自分の発した波動は、肉体を超え、宇宙の隅々まで広がりますから、何か、意識した途端、その効果は、宇宙全体に広がり、同じ波長をもつ者がキャッチします。 

場合によっては、現実に引き寄せ合い、目の前に現れます。 

それでは、神様に近い存在にまでなった迫登茂子さんの「言の葉づくし」よりご紹介します。

 

鐘の音の激しさに 恐れ 優しさに 安堵する

口から出る 言葉の激しさも 人を飲み おののかせる

同じ言葉なら 安らぎを与える言葉を口にしよう

安堵の表情を見届けるなんて とても幸せなことなのです


迫登茂子さんは、素晴らしい愛の感受性をお持ちです。

このような、

・優しさ、

・愛、

・思いやり 

の繊細な心(内にいらっしゃる神さま)を感知できる柔らかな感受性を持ちたいものですね。

あなたには 愛していらっしゃる人や仲間と呼べる方がいらっしゃいますか?

お子様であったり、妻であったり、夫であったりご両親かもしれません。 既に亡くなった方かもしれません。

それとも心許せる人など、一人もいられませんか?

それでも、生まれた時の事を思い出してみてください。  

ご自分が少女であったり、少年だった時の事を思い出してみて下さい。

誕生をご両親は喜んでくれませんでしたか? 

一緒に遊んでくれた友達はいませんでしたか? 

優しく接してくれた先生はいませんでしたか?

あなたの愛する人が、ほっと安堵の表情を見せてくれた時、笑顔を見せてくれた時、

あなたの心に 何か変化はおきませんか?  

何か温かなものが全身に流れませんか?

もしかしたら、それが、「愛」と言うものかもしれません。 

皆さん、愛する人や、良き仲間がいらしたら、どうぞ大切になさってください。

そしてご自分でも良き仲間となれるように、

感謝と思いやり、お陰さまのお気持ちでお過ごしください。

それはとっても 幸せな状態なのですから。

そして、ここにおいても心しておかなければならないことがあります。

例え愛する人、良き仲間であろうと、別れの時は、必ず来るということです。

生涯死ぬまでずっと、心の通じ合う人と一緒というのは稀です。

 

もし今、お幸せなことに、心許せる人がいるのなら、一期一会(いちごいちえ)の精神で、 

その美しく温かな関係性の機会は、もしかしたら二度と訪れることが無いかもしれないことを 心して、愛する人、仲間を、大切に大切に、優しさ、思いやりの心など、自分のできる全ての良きものを持って、全身全霊でお付き合いしたいものです。 

そして、目いっぱい、その運命の出会いを楽しみ、愛と友情をはぐくんでください。

たとえ運命が、別れを準備していても、その一瞬の煌めきは、決して消滅するものではないからです。

魂を揺さぶる、仲間との出会いは、死を超えて魂に刻みこまれます。

魂の成長に、何らかの必要があれば、また必ず再び 交り合うこともあるでしょう。

でもそれは、自分が決めることではなく、自然の流れとして起こってきます。

私たちの人生のタイムラインを管理してくださっている神さまが決めることです。

私たちは、ただ自然の流れに従い、逆らわず、今、目の前に居る人に

愛を込め、誠意を込めて、真心で接していくだけです。

流れに逆らい、既にエネルギーは別の方向に向かっているのに、固執し、執着して手放さないと、運気は確実に下がって行きます。

神さまが用意してくださった方向を、自分の欲望と執着心で拒否しているからです。

 

「諸行無常」・・ 少し寂しい法則に感じるかもしれませんが、宇宙は変化があるからこそ、進化し発展してきました。

自分にとって、辛く悲しく、苦しい状況も「諸行無常」の摂理が働くからこそ、 

次は良い方向に変わって行くのです。

ピンチがチャンスに変わって行くのです。

幸運は、不幸な顔をしてやってくることができるのです。

その繰り返しを通じ、私たちの魂も、変化し、進化していけます。

あるがままに、自然の流れに身を任せ、 無理をしないこと。

現状に感謝すること。

刻々と変わり行く、この人生。楽しんで行きましょう。

笑顔と笑いがあれば、きっと何でも乗り越えて行けますから。 

2022年12月24日土曜日

2920「心が作り出す世界」2022.12.24

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年12月15日「心が作り出す世界 」と2022年12月16日「縄文スピリッツ」の2つの記事を紹介します。


「心が作り出す世界 」


空海が教えてくださったことに、次のようなことがあります。 

私達が、この世の中で見たり聞いたりすることは、 全部、もともと私達の心の内にあるものである。 

心の中にあることしか、私達は経験できない。

・不平不満、愚痴、憎しみ、ねたみ、

・自分さえよければ、人より優位に立ちたい、

・お金が全て

・世の中の不正に対し、常に激しい憎しみ・怒りを向けている人 

そう思っている人は、その通り阿修羅の世界の中に生きて行きます。

逆に

・感謝や笑顔、

・優しさ、

・思いやり、

・助け合い、

・お陰様

心の中がそれらで満たされている人は、その通り美しく、優しい世界で生きて行くことになります。

これは1200年前に空海が教えて下さった真実です。 

空海が仰った 即身成仏、私達は生きている内に、天国でも地獄でも行ける

とはこのことです。

ですので親の生き方を見て育つ子供たちは、親と同じ道を歩んで行くことが多くなります。

親の私達自身が心の中を天国にすれば、私達も幸せになりますし、同じく繋がっているご先祖や、子供たちも本当の幸せを手に入れることが出来るでしょう。

さて、それではお金もかからず、簡単に出来る「心を天国にする方法」の一つをご紹介します。

良寛さんが大切にした「和顔愛語」です。

良寛さんは新潟で生まれました。

江戸時代末期を生きたお坊さんで、詩人として多くの人に知られています。

良寛さんは多くの人に慕われ、愛された方でした。

その良寛さんが大切にされていたことが

「和顔愛語」(わげんあいご)という言葉だったそうです。

「和顔愛語」とは、その字の通り、

 和やかな顔で、温かい言葉を口にする。ということを言います。

良寛さんは、人に与えるようなお金やモノを何も持っていなかったので、

誰かに何かをあげることはできませんでした。

ですが自分の言葉なら贈り物にできる。そう考えました。

ですので良寛さんの口から出てくるのは、 

・温かい言葉や感謝の言葉、

・人を勇気づける言葉、

・人を明るい気持ちにさせる言葉、

・人を癒す言葉 

ばかりでした。

良寛さんの「和顔」というのは、人への素敵なプレゼントだったのかもしれませんね。

 

2500年前のブッダも同じことを教えて下さいました。

ブッダの教えに無財の七施(むざいのしちせ)というものがあります。

無財の七施とはお金をかけなくても相手のためにできることですが、その中に

・優しい言葉、思いやりのある言葉で接する

・温かい笑顔で接する

ということがあります。

笑顔で優しい言葉を口にする人の回りには、

同じように笑顔の人が引き寄せられて集まってきます。

でも、いつもいつも笑顔で優しい言葉をかけ続けるのは大変なことかもしれませんね。

うまく笑えない時や、優しい言葉など出ない時ももちろんあります。

ですが、そうありたいと思うだけで、

後は私達の内に居らっしゃる神様が後押しして下さいます。

私達が住む地球には、次のような法則があります。

与えたものが、受け取るもの

相手に対して、厳しい言葉をかければ、自分も同じように人から厳しい言葉をかけられます。

優しい言葉をかければ、人から優しい言葉をかけてくれる人が現れます。

良寛さんはきっと、優しい言葉をまわりに投げかけ続けた人だったのですね。

だから多くの人に慕われ、愛されました。

笑顔の良寛さんの周りには、きっと笑顔の人達が集まってきたのでしょう。

そう考えると、笑顔の人達に囲まれ、幸せになる一番簡単な方法は、

自分が笑顔でい続けることなのかも知れません。

私達も良寛さんのように、人様に愛される人間になりたいものです。


「縄文スピリッツ」


先日群馬で行われたトキ君ファミリーの会話の中でお兄ちゃんの一言が心に残りました。 

まだ小学生ですから、語彙(ごい)は少なく、幼いのですが、言っていることから類推できるのは、マルチユニバースのことを言っていました。  

マルチバースとは、多元宇宙理論のことです。

多数のビッグバンにより沢山の宇宙が存在すると考えられています。

私たちの所属する宇宙はその一つにすぎません。 

その宇宙同士は、距離が離れ過ぎている為に、物理的に干渉出来ないのでお互いに独立しています。 

またその一言は 日本書紀、古事記の宇宙創生のお話と一致していました。

お兄ちゃんが、この一言を言えるということは、 

・彼がひとつの宇宙を創造した高度に進化した宇宙的な生命体の出身なのか、

・マルチユニバースを科学的に理解できるほど進化した生命体の出身なのか

であるということです。 

このお兄ちゃんが以前動画で言っていたのですが、

これから日本に沢山の神様が生まれてくる準備が整い、生まれてくると、今まで人間では、動かせなかった時代の流れをぐるりと変えてしまうことができる。 

但し、その神仕組みがうまくいくためには、 

この日本において、神様を信じる人々が多くいないといけない・・

とのことでした。 

では今日も神様のお話です。

 

今世界を見渡せば、最終戦争のような様相を呈しています。

地球の進化にそぐわないものがあぶり出され、まさに魂の振り分けが行われているような状況です。 

そのような中で、ますます希望の光となるのが神々が地政学的に何万年もかけて育て

日本人のDNAの中にしっかりと根付いた「縄文スピリッツ」かもしれません。 

物理的な戦力やパワーはなくとも、その真の日本人の精神性は、例えば羽生選手の例のように世界中の人々の胸を打つものがあります。

戦後この力を恐れた占領軍の敗戦処理によって、日本人の精神性は一見、切断されたかのように見えますが、1万年以上の文化に培われたそのDNAは、そう簡単に破壊することはできません。 

文化は異なっても、同じ神様からの神聖火花を頂いている人類同士、高い倫理観と、神々とともに生きてきた、その生きざまは、世界中の魂の共鳴を起こすのでしょう。 

今日はそんな日本人の心に眠る「縄文スピリッツ」のお話です。

日本人には、はるか縄文の時代から、1万年以上も続く、ものの考え方の基本があります。

  

自然を敬い、全ての物にスピリッツ、魂を感じ大切にするという、いわゆる古神道の考え方です。 

そこでは、神々はもちろん、死者でさえ敬い、その幸せを願い、喜んでいただくことこそが、 

生きている私たちの幸せに繋がると信じられてきました。 

このような考え方、生き方こそ、私たち日本人のDNAに息づく尊いものであり、

まさにそのことにより、日本は世界のひな型と言われるようになりました。 

2011年には、神々に近い魂として、破壊の時代の予行演習がなされました。 

今の時代はまさに、私たちのDNAの中に眠る縄文のスピリッツの遺伝子をONにする時代が訪れています。 

私たちの祖先の縄文の時代は、1万5千年間も日本で続いた平和な時代でした。 

その時代には、争いの形跡が一切見つかっていません。 

争い、いさかい、過度の所有意識が始まったのは弥生時代からです。 

つまり弥生族が大陸から日本に渡って来てからのことになります。 

どうして縄文人は争いをしなかったのかというと、 

その理由は、縄文人は外に「神」を作らなかったからでした。

「神」は人それぞれの「自分の中にある」と信じて、お互いの「神」を尊重しあったからです。

自分の中の「神」が尊重されるには、相手の中の「神」を尊重しないといけません。

このように、すべての対象のうちにある「神」を尊重しつつ、自分のうちにある「神」に感謝した時代が縄文時代であり、古神道の基本的な考え方でした。

これは、まさにブッダグループが、人類の精神性の進化のために時を超え、今の時代に、取っている方法論と全く同じです。

  

まさに縄文回帰、「縄文の心を取り戻せ」のスピリット。 

これこそが、私たちが、私たち一人一人の心の中にこそ神さまを見出し、お互いを尊重し認め、助け合い、お互いさまの気持ちで生きて行く精神的な支柱となります。 

今の時代に言われている「国常立尊の復権」とはそう言う意味を持っています。

地上の変化は、まず目に見えない世界で起こります。

上なる如く、下もまた然り・・です。 

そして神々は、人間の精神性の復活を通じ、この地球を変えて行きますが、 

その変化は、多くの人が期待するような 

・派手で、

・ドラマチックな、

・天変地異のような

やり方ではないと思われます。

大事な物は見えない・・・ いつの世でも、やり方は同じです。 

単なる好奇心を満たすような、人目を極端に引くサーカスを見せるような方法は取りません。 

地味ですが、着実な方法です。 

私たちのハートの中には

・先祖を大切に思う敬心

・死者の幸せさえも願う優しさ

そして、生きている人々に対する、 

・お互いさま

・お陰さまの心

相手の個性、尊厳を大切に思う温かな心、優しい心でありました。 

ただ、明治の文明開化、戦後の敗戦処理によって、その大切な心が強制的に、忘却させられていただけです。 

その美しい神のような心を取り戻せば、きっと、気付いたら、いつの間にかミロクの世が始まっていた・・ そのようになっていることでしょう。 

今は、建て替え、つまり破壊の時を過ごしていますが、これを耐え忍べば、いよいよ美しき世界への建て直しの時期です。 

希望を持ち、周りの人々と助け合いながら、笑顔と感謝の気持ちで暮らしていれば、きっと、その美しき世で暮らすことができるでしょう。


 


2022年12月23日金曜日

2919「青空ひろば」2022.12.23

今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最近の記事を紹介します。

 



816 2022.11.28 ~ 829 2022.12.12 (前日の続き)


歳をとると眠りが浅くなって、真夜中に眼が覚めてなかなか眠れなくなってしまうということが増えてきます。心配事を抱えていれば、ますます眠れなくなってしまいますね。

そんな時は、『どうせ眠れないのだから…』と思い切って坐禅を始めることにしています。

取りあえず30分のつもりで坐ります。それが何時間にもなるという時もたまにはあります。

納得出来るまで坐禅して再び寝床に入ると、たいていの場合、すぐコトンと寝入ってしまいます。有難いものです、坐禅を習慣にしておいて本当によかったなあと思います。

坐禅を始めようと決心する前は、『坐るのはイヤだなぁ』と寝床の中でしばらくグズグズしています。特に冬は寒いのでなかなか決断出来ません。

なぜ坐禅がなかなか始められないのかというと、地上世界は「慣性(かんせい)」が強くはたらく世界なので、しばらくある状態が続くと、それが習慣性を帯びてしまって、そこから切り換えて別のことを始めるのが困難になってしまうのです。

これは物理学の方では「慣性の法則」と呼ばれています。

たとえば、ボールが一直線上を転がっているとします。そのボールに力がはたらかなければ、このボールはこれまでの真っ直ぐな軌道を同じ速さのまま、さらに進んでしまいます。進路を右か左に曲げる、あるいは速さを変えるためには、力を加える必要があります。

質量が小さなボールだと、少しの力でボールの進路を大きく変えることが出来ますが、質量の大きなボールだと、少々力を加えたくらいでは進路を変えることは出来ません。

それで、状態が変化するのを妨げる性質、つまり「慣性」は、「質量」に比例するとされています。


物体の運動だけではなくて、大きく地上世界における「いのちの運び(運命)」においても、物理法則に相応する「慣性の法則」がはたらいていることが分かります。私の坐禅する前のグズグズなんかは、心理的な「慣性」の一例ですね。

「物理の法則」の場合は、「慣性」は「質量」に比例しましたが、じゃあ「いのちの運び(運命)の法則」においての「慣性」は何が相応するのでしょうか。

実はそれは「心の重さ」なのです。

「心が重い人」は、質量が大きい物体の場合と同じように、運命の軌道をなかなか変えることが出来ないで、過去の運命の軌道の延長上をそのまま進んでしまいがちになります。「運命は生まれた時から決まっているんだ」などと断言する人は、このような「心の重い人」だけを観察してそのように思い込み、信じ込んでしまっているのです。

では、「心が重くなる」のは、どうしてなのでしょうか。それは「つみ」に拠るのです。

「つみ」とは「積み」です。人生で積み上げてきた重苦しいものの多さが、運命の方向の改善にブレーキを掛ける「重荷」となります。これが物理法則の場合の「質量」に相当します。

過去に蒙った負の体験が心に残したトラウマやコンプレックス、過去にやってしまった、人や組織に危害を加えてしまった体験などが、心に残存する「重い固まり」になります。この過去というのが、現世のもののみではなく「過去世」という場合もあるのでやっかいです。

それに加えて、親の過度の期待や先祖から託された遺産などが重荷になってしまうということもあります。

過去の成功体験(過去の栄光)が心の重荷になってしまうという場合もあるのです。

心にそういう「重荷」がたくさんあればあるほど、運命の方向を変えることが困難になってしまいます。


坐禅は本当に不思議で有難いものだと思います。

イヤイヤ始めた坐禅でも、坐禅という形(印)を体で組み上げさえしたら、ちゃんと「坐禅の世界」が開けます。『ああ有難いなあ。安楽だなあ。これが本来の自分で、世界の本当の姿なんだなあ』としみじみ実感出来ます。

「坐禅して開ける世界」はそういう安らぎと自己受容の世界です。軽やかで、温かくて、心と体が微妙に細やかに振動していて、その波動の振動数がとても高いのです。

坐禅の心境のレベルが一段と高くなった際の振動レベルはついに「光」の周波数帯域にまで突入して、自身の身心から四方八方に光を放っているのが分かるようになることさえあります。いつもそうだというのではなく、坐禅はそんな状態を目指して坐るのでもありませんが…。

坐禅で開けてくる世界に比べると、地上世界での心の波動は荒っぽくて重く、振動数が低いのです。なぜ地上世界での心の振動数が低いのかというと、心が重いからです。


物理学の方から説明してみましょう。

質量が大きな物体と質量が小さな物体があるとします。

この二つの物体を叩くと、質量が小さな物体の方が振動数が大きい、つまり高い音が響きますね。それに反して質量が大きな物体を打った際に出る音は振動数が小さな、鈍い、低い音となります。

実は心は絶えず振動していて、自らが波源となって世界に波を送り出しています。その心が放つ波動が結晶化して次の世界を形成するのです。

このような「想い→心の振動→世界形成」のメカニズムを研究し、解明したのが、弥勒菩薩(みろくぼさつ)を始祖とする仏教の唯識(ゆいしき)学派です。

坐禅中に心が放つ波の振動数が高いというのは、坐禅中は心の重荷がいったん心の荷台から降ろされて、心の質量が小さく、軽くなっているからです。

心の質量が小さくなっているので、坐禅中に心が放つ波は高い振動数となっているのです。つまり、坐禅中は、日常の地上世界と比べて「心の質量」が小さくなっているのです。


実は、ニュートンさんは、物体の運動の物理法則を三つにまとめました。それは、先ほど検討した「慣性の法則」、それから「運動の法則」、「作用・反作用の法則」です。

「運動の法則」は、「ニュートンの運動方程式」とも呼ばれ、式で書くと、

(力)=(質量)×(加速度)となります。

(加速度)とは、物体の運動の速さの変化の度合い、あるいは方向転換の度合いの大小を表わします。

「いのちの運び(運命)の法則」としては、運命の方向転換が出来る度合いを表わしていますね。

この運動方程式によると、同じ(力)を加えても、物体の(質量)が大きいと、(加速度)は小さくなってしまいます。

「いのちの運び(運命)の法則」としては、「心の積荷=質量」が大きいほど、運命転換が難しい(加速度が小さくなる)という事を示しています。

逆に、「心の積荷」が降ろされて、心が軽やかになると、運命の方向転換が容易になるということも分かりますね。

「いのちの運び(運命)の法則」における(力)に相当するのは、「意念」です。こうしたいという意志が強いほど、その想いが繰り返されるほど、運命の方向転換に必要な(力)は強くなります。

坐禅すれば、取りあえずその間だけは、過去から積み重ねてきた心の重荷が荷台から降ろされて、心がサッパリし、軽くなるのです。この状態を「無心」といいましたね。

そうすると、地上世界では(慣性=心の重さ)が(力=運命を変えようとする意志)より大きくて、必死で力を加えても「いのちの車」のハンドルをちっとも回すことが出来ず、運命の方向を変えることが出来なくても、坐禅中は(慣性)が小さくなっているので、同じ(力)でも、軽々とハンドルを切ることができ、「いのちの車」が進む向きを変えることが出来るのです。

「でも、いつまでも坐禅しておられるわけではなく、また地上世界に戻ってきてしまうのだから、そうなると心の重荷も再び積み戻されて「いのちの車」が進む向きも、坐禅前と同じに引きもどされてしまうんじゃないですか」と質問する人がいるかも知れませんね。

ご心配なく、もとに戻ってしまわないのです。

坐禅の世界で、ハンドルを回すことが出来、「いのちの車」の進む向きを変更出来ました。

「いのちの車」が地上世界に舞い降りてきて、回転している車輪が地面に着くと、この「いのちの車」は、坐禅の世界でハンドルを切った向きに走り始めます。離陸前に地上世界で進んでいた向きに再び引き戻されるということはありません。

着地した瞬間に車が向いていた方向にそのまま真っ直ぐ進んでゆきます。地上世界では「慣性」が復活するので、進路をもとの方向に引き戻そうとしても、「慣性」がその邪魔をするのです。

この場合は、地上世界での大きな「慣性」が、逆にあなたが新しい運命の方向に真っ直ぐ進み続けるための味方になってくれます。


このように、坐禅したり、お経を称えたりして、少しの時間でもいいから、地上世界から離陸して慣性が小さな世界を体験して、その世界で新しい運命の方向にハンドルを切るという訓練をしておくと、地上世界だけにへばりついて生活している場合よりも運命の改善がはるかに容易になるのです。

では、坐禅の世界の中でどのように運命のハンドルを切り替えればいいのでしょう。どういう意念のパワーで運命のハンドルを回せばいいのでしょうか。

ニュートンさんの「物体の運動の物理法則」には三つの法則がありましたね。そのうち「慣性の法則」、「運動の法則」は、「いのちの運びの法則」としても応用できるということが分かりました。

まだ取り上げていなかった「作用・反作用の法則」も同様に「いのちの運びの法則」として応用できるのです。

「作用・反作用の法則」とは、物体Aが物体Bに力を加えると、それと同じ大きさで逆向きの力を物体Aも受けることになるという法則です。

AさんがB君を10の力でパンチすると、Aさんの手にもやはり10の力の衝撃が与えた力とは逆向きにはたらくということです。

「いのちの運びの法則」では、(力)は(意念)でしたから、AさんがB君に対して憎しみの意念を放つと、その憎しみの強さと同じ大きさの憎しみの念を必ず受けとることになるのです。つまり、「差し出す手が、受け取る手」となるのです。


この法則から、坐禅の世界で私たちが持つべき「意念」が分かりますね。

あなたに何か目指す目標があれば、その目標をしっかり祈り(意宣り)、それを心の中に定着させて、それを波源とする波を世界に発信します。

そうすると、あなたの周りにその目標が叶った世界が、Uターンして帰ってくるのです。

あるいは、「しあわせで生きがいのある人生」をおくりたいなら、私が坐禅中に祈っているように、『私にご縁がある皆さんが全員しあわせで生きがいのある人生をおくることが出来ますように』などと祈るといいと思います。

「作用・反作用の法則」がはたらくので、人のしあわせを祈れば自分にしあわせが帰ってきますし、人が元気で生きがいのある人生が送れるようにと祈ると、自分にも元気と生きがい、やりがいがある人生が頂けるのです。(完)



2022年12月22日木曜日

2918「子供の人生は子供のもの」2022.12.22

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年12月13日「子供の人生は子供のもの」と2022年12月14日「心さえ変われば」の2つの記事を紹介します


「子供の人生は子供のもの」

もし自分が親であれば、子供たちは、

・親が守ってあげるべき

・親が正しい方向に指導すべき

・何もわからない子供に代わって、将来を見据えた道を進ませるべき

そうしなければ

・壊れてしまうかもしれない

・悪い道に進んでしまうかもしれない

・遊んでばかりいて勉強しないかもしれない

・生涯、貧乏暮らしかもしれない

・ケガをするかもしれない

などと思うかもしれません。 

ですが、

・障害を持って生まれるのも、

・病気になるのも、ケガをするのも、

・第一志望を落ちて、第三志望に進むのも

・勉強嫌いだけれど、人懐っこい性格も 

みんな、自分たちで、その経験がしたくて、生まれる前に、神様と相談して、そのような人生を決めてきました。 

・病気になってかわいそう

・勉強ができなくてかわいそう

・早くに亡くなってかわいそう 

それは、もしかしたら親の目から見た、親だけの独りよがりの価値観の押し付けかもしれません。 

子供たちは、その経験がしたくて生まれてきました。 

もしかしたら、たとえ体は小さくとも親の私たちよりも、遥かに進化した魂かもしれません。

もし、そうであるなら、親の私たちの近視眼的な価値観の押し付けで、子供たちは、生まれて来た目的から、はるか遠くに離され、息苦しく、生きづらく、魂は泣いているかもしれません。

手塚治虫さんの例をご紹介します。

小学校時代、マンガを授業中にノートに書いていた手塚さん。

母親は呼び出しを受け、先生に注意されます。

その後、母は息子のマンガを読んで、「おもしろい第一号のファンになりました」と言って

褒めてあげたそうです。

また手塚さんが医者を続けるか、漫画家になるか悩んだ時、 

母は、「あなたが選んだ方を応援します」と言って励ましてくれたそうです。

母親から、「いつも肯定されている子ども」は、自分の関心事を否定されないので、自分の才能をスムーズに開花させることができます。

母親が「あなたは、そのままでいいのよ」と受け入れていくと、子どもは個性的に、伸び伸びと育ちます。 

次に生まれる前の記憶(中間世記憶)を持つ りお君のお話を紹介します。 

<引用開始> 引用元 


りお君は心臓病と喘息があり、入退院を繰り返している5歳のお子さんです。

お母さんが

「どうして心臓病を持って生まれてきたの」と聞いたところ、

「そのほうが面白いと思ったから」という唖然とする返事。

「喘息になったのはどうして?」という問いかけには

「だって、治すのが面白いから」だったそうです。 

すなわち病気は自分で選んで、それを治すのが面白いから、というのです。

<引用終了>

 

りお君のお母さんは、こう仰っています。 

「先天性の病気ということで、私は辛い気持ちを引きずっていました。

けれど、りおにそう言ってもらって、気が楽になりました。

それに、喘息も治せるはずだって、明るい気持ちになりました。

りおが病気で生まれたため、本当に大変でした。けれど家族の支えがあったから乗り越えられましたし、沢山の経験を積ませてもらいました。

りおのおかげで出会った、病気と共に生きる子どもたちのことを、私は決して忘れないでしょう。りおは、生きていること自体が奇跡なのだということ、そして家族の大切さを、気づかせてくれました。 

私たち親は、自分が苦労した道を、子供たちには歩ませたくないと

・楽な道

・人よりも優秀であること

・人よりも稼げる道

・健康であること 

を良しとして、苦労させまいとします。

ですが、何も苦労の無い人生を、親の都合で無理やり過ごさせて・・

果たして、天国に帰った時、子供たちは、幸せを感じることができるでしょうか? 

一見苦労に見えること、避けて通りたい経験から逃げてばかりいて、魂は幸せを感じられるでしょうか?

苦労の末に気づいた 

・何気ない日常の大切さ

・人々の優しさ、思いやり

・一緒に苦労を共に乗り越えた人々との友情 

・別れの悲しさ、寂しさ

・恋した時の高揚感

・沢山の喜び悲しみを経験して培った家族の絆

・病気になったから理解できた、同じ立場の人々の心 

そんなことを経験したくて、子供たちは、自分の人生のドラマの中に 沢山の、

・一見苦労に見えること、

・回り道に見えること

そんなことを仕込んできているかもしれません。

可憐なタンポポであるお子さんに、 

「さぁ、バラに成りなさい」と言って、無理強いしても、 

子供の心を傷つけ、萎縮させ、枯れさせてしまうだけです。

私達親にとって出来ることは唯一

成長は本人に任せ、

笑顔で、お水をあげたり、日に当ててあげることだけかもしれません。

子供の人生は、子供のもの。

私たち親は、子供たちを信じてあげたら、干渉せずに、もうご自分の趣味や、楽しみに没頭し、その楽しそうな後ろ姿を、子供に見せてあげることが大切なのかもしれません。

 


「心さえ変われば」


・心の底から幸せになるには、

・今の苦しみから解放されるには? 

このブログでは、そんな人間の魂にとって本質的なことを書いています。 

決して

・どこそこのパワースポットが良い とか、

・どこそこの誰かは、凄い不思議な力を持っている とか、

・この石を持つと良い とか 

そのようなことは決して書きません。 

何故なら、この地球においては、私たちの幸せは、私たちの心ひとつ、 

心が全てを決定しているからです。

自分の心さえ変われば、物事は全て変わっていきます。 

誰にも依存しなくても、真の幸せに気づきます。

家族も、そして黄泉の国のご先祖さえ幸せになれます。

この魂の真実について、斎藤一人さんも同じことを仰っていますので、ご紹介します。 

今日は斎藤一人さん風の「鏡の法則」のご紹介です。 

一人さんのお話は、本質的な宇宙の真理を、

誰でもが分かる平易な言葉づかいで教えてくれるところが素晴らしい所です。 

どうぞ、この優しい説明から宇宙の真理を掴みお幸せになってください。

<引用開始> 引用元 


自分が今世で決めてきた問題からは、絶対に逃れることができません。 

だからそういう問題から一時的に逃れられたとしても、

また別の、本質的に同じ問題が現れたりするんです。 

たとえば、勤めていた会社で人間関係がイヤだからといって辞めると、

また別の会社で同じような人間関係の問題が起こったりします。 

このように人間関係でイヤなことが続くんだとしたら、

それは自分の中にそうさせるものがあるんです。 

「上司が私のいじわるをするんです」って言う人も、

そのいじわるをされた自分が上司になったときに、

同じようなことをやりかねない性格だから、そういうことが起こるんです。 

これを「鏡の法則」といいます。

「自分が好意的に接すれば、相手も好意的に接してくれる」とか、

「相手に対して苦手意識や敵対心を持っていると、相手もその人に対して同じような感情を持つ」

というのは表面的な話で、「鏡の法則」はもっと内面に深いところまで映しだすことがあるんです。 

たとえば、「威張っている人を見るとすごく腹が立つ」人というのは、自分の心の中に、人の上に立ったときに威張ってしまうという性格があるんです。 

または、自分が威張りたいのを抑えてるから余計に、相手が威張ると腹が立っちゃうんです。

人はみな、“傷”を持って生まれてきます。

そして多くの場合、同じ傷を持っている親の元に生まれます。

なぜかというと、それは自分の傷に気づくためなんです。 

自分が暴力をふるっちゃうような人は、暴力をふるう親の元に生まれます。

それで、「これは自分にそういうところがあるからだ」と思えば

その傷も治るんだけど、「暴力をふるう親が悪い」って言っていると、それは治りません。 

そしてそういう人は、自分が親になったときに同じことをやるんです。 

自分の顔にシミがついてるからって、鏡を拭いてもシミは取れません。

鏡を替えても取れないんです。 

だから、部長がイヤだからといって会社を辞めても、また次の会社で似たような人が現れるからね。 

でも鏡を見て、自分の顔の“よごれ”に気づいて取れば綺麗になるように、

自分の中にある傷に気づいて治せば、起こる現象も変わってきます。 

部長の対応が変わるとか、相手が転勤していなくなるとか、

自分が昇進して異動するというようなことが起こるんです。 

鏡には自分のそのままの姿が映ります。 

それと同じで、自分に起こっている出来事は、自分の傷が投影されたものなんです。 

だから起こった出来事を他人のせいばかりしていると、いつまでたってもうまくいかないんだよね。

<引用終了>

  

このことを逆の立場から言い換えれば、今の自分を取り巻く環境が、 

・自分の心の状態

・心の傷(角のあるところ、弱点)

・心の癖 

を示してくれるということです。 

もし、今の状況を改善したいのであれば、自分の心の中の何が、その現象を引き起こしているのか考えてみる必要があります。 

・誰か許せない人はいないか?

・憎しみを持っていないか?

・嫉妬心はないか?

・人の幸せを心から喜べるか?

・たとえ自分と異なる価値観でも、相手の個性を認め受け入れているか?

・人より目立とう、上に立とうと、自分と人を比べてばかりいないか?

・意地悪な心はないか? 

私たちは生まれた時は、神様からいただいた無垢の魂のまま光り輝いています。 

ですが、成長とともに、世の中にもまれるたびに

自我の心も芽生え、その美しい心を 包み込み、光を失っていきます。 

これを包身(つみ)--身を包んで、神さまのお姿を包んで隠してしまうものということ。 

そして神様からいただいた清浄な氣を失っていきます。 --氣枯れ(けがれ) 

ですが、宇宙の真理が示してくれるごとく、 

周りの現象が、その心の今の現実を確実に表してくれています。 

・日々、周りの方々に、ありがとうと、感謝の気持ちでいれば、

・日々、笑顔で暮らしていれば、

・日々、優しさ、思いやり、おかげ様の気持ちで暮らしていれば、 

きっとお幸せになることができるでしょう。


 

2022年12月21日水曜日

2917「観音様の涙」2022.12.21

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年12月12日の記事を紹介します。


「観音様の涙」


昨日は群馬まで、小学生の神様トキ君ファミリーの講演会に行って来ました。 

その中でお母さんが仰っていました。 

どうぞ、神様を好きになってください、神様は優しすぎる故、縋ってくる人々を

・助けてあげたい

・願いをかなえてあげたい 

と思うのだそうです。

そして、参拝に来られた方々の願いを叶えます。 

但し、叶えて下さるその願いとは、その方の肉体の願いではなく、魂の方の真の願いです。 

ですので、魂の願いを知らず、肉体から発する願いにしか気づかなければ

神様が叶えて下さった願い事にも気づかないことでしょう。 

魂の願いとは、生まれてくる前に計画してきたこの人生での目的。

やってみたいこと、経験したいことです。 

ですから、神社でお願いしたことと違っていることも多いです。 

ふつうは、魂と肉体の願いを一致させるのは難しいですから。 

昨日は満員だったそうですから400名くらい入ったのかもしれません。 

私もこのブログを通じ、仕事や、お金儲けのためではなく

・神さまのこと

・神様と人間

・人間として生まれて来た目的

・苦しみや悲しみ、涙の意味

・永遠の魂としての真実の幸せになる方法 

などを毎日書いています。

トキ君(山幸彦)のお母さん、木花咲耶姫

きっとこの記事を読んでいらっしゃる方の大半が「神さまが好き」な人だと思います。 

またここに書かれたことを実際に実践してくださって幸せになられた方も沢山報告くださいます。 

その真実に気づけば、ご本人だけでなく、

ご家族も、そして、既に黄泉の国へ帰られたご先祖さえも幸せにします。

このお母さんのお話を伺っていて、以前書いた記事のことを思い出していました。

今日は、その記事を再掲します。 

※下記の「観音様」という言葉を「神さま」と置き換えてみると、分かりやすいかもしれません。

 

今日は、苦しみの淵で涙されている方のために書きます。

元気いっぱいで、ご興味のない方はスルーなさってくださいね。重いですから(笑)

今日は「観音さま」のお話です。

「哀切かんのん」のお話です。


哀切かんのん

人生に三十三の難所があるとか、だれでも苦悩の路を通る。

哀しい事だけれど、人となるための定めなのか。

泣いて叫んで救いを求めると、哀切の声で「ここまで早くおいで」と、

涯(がけ)の上から身をのり出して白い両手をさしのべられる。

けれど恐れてその手を信じない。

ふれたら突き離されるかと 信じる事を失った習性。

観世音のあなたは,唯、哀しき瞳もて立ち給う。


観音さまは、苦しむ私達に 

「ここまで早くおいで。私の言葉をお聞き、私の顔をみなさい。 

私はこうしてあなたを助けようと語りかけているのですよ」と言って両手を差しのべていても、 

そんな観音さまが信じられない、といって、苦しみのなかでもがいているのが私達。

(本当は信じたいのです。縋りたいのです。でもそれが出来ないのです)

そんな私達の様子を観音さまがご覧になって、

哀しい瞳で私たちを見つめていらっしゃるという、そんな詩です。

こんな優しい心で私たちを見ていらっしゃるのが、観音さまの心です。

観音さまがせっかく手を差し伸べてくださるのに、その手を握り、救われるか?

握らないか?

の最終判断をするのは私たち自身です。

悩みや苦しみがある間は、人を信じることができないかもしれません。

また自分は動かず、何もしなくても、ある日、さっと自分を救い上げてくれる

何者かが来るのを待っているのかもしれませんね。

病気になった時でも、助けてくれるのはお医者様ではありません。

自分は何もせず他人に依存して、全てを任せておけば、お医者様が勝手に直してくれるのではありません。 

まず、そこから私たちは、自分の意識を改めなければならないのかもしれません。

自分の人生です。

誰かが代わって生きてくれるわけではありません。

代わりに苦しんでくれるわけではありません。

面倒くさいからと、自分のことなのに、他人や神様に丸投げして、依存し続け、

自分は何もしなければ、誰も助けてくれません。 

「哀切かんのん」でさえできないのです。

 

その今している経験こそが、生まれる前に計画してきたことだからです。

病気だったら、せっかく身体が(生き方の方向性が違うと)教えてくれているのですから、

「どうして病気になったの?」と自分の生き方を振り返り、見直してみなければなりません。

苦しみ、悲しみを助けて欲しいのであれば、

まずは、その苦しみ・悲しみに執着することから離れなければなりません。

執着などしていない!! と仰るかもしれませんが、そこから、逃れたい、楽になりたいと、

いつまでも、その「苦しみ、悲しみ」の現象ばかり考えていては、べったりと執着していることと同じです。

「苦しみ、悲しみ」に執着している心を、そこから一旦離さなければ、観音様といえど救えません。

せっかく手を差し出してくださっても、私たちの執着の心がそれを拒否するからです。

そんな、私たちの執着の心を見て、「哀切かんのん」は

「哀しき瞳もて立ち給う」と涙したのですね。

誰にでも、苦しみや悲しみ、悩みはありますが、そこから一旦、執着した心を離さなければ、

どんな救いも手にすることができません。

心を離すとは・・どうしたらよいのでしょうか?

どうしたら執着から離れ、救いを手にすることができるのでしょうか? 

それはブッダが「般若心経」の中で教えてくださいました。

どんな出来事も、自分の周りに起こって来ることに無駄、不要なものはありません。

苦しみも悲しみさえも・・

それらは全てが自分にとって必要であり、必然的にベストなタイミングで起こってきます。

その目的は、私たちの魂を成長させるためです。 

ですから、その出来事が、どんなに辛く見えようと、目の前に起きている現象に対して 

・感謝ができ、

・喜びを見出すことができ、

・そこに幸せを感じられるようになると、

自分自身がラクで楽しくなる、ということです。

そして更に、地球と宇宙が味方になってくれると言うことです。

そう「般若心経」の中に書かれています。

・「ありがとう」という言葉を使うこと、

・感謝すること、

・不平不満、愚痴、悪口を言わないこと・・

それこそが、「哀切かんのん」の差し伸べた手を、自ら力強く握る方法ではないかと思います。

まずは、辛くとも毎日「ありがとう」と口に出してみることから始めてみませんか? 

きっと幸せになれますよ。

 


2022年12月20日火曜日

2916「神様の通り道」2022.12.20

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年12月11日の記事を紹介します。


「神様の通り道」


神社や仏閣。私達一般の人間は、願いを聞いて欲しくてよく参拝します。 

 

霊験あらたか、ご利益があると聞けば全国あちこちに出かけます。 

願いが良く叶う、そういった神社・仏閣には、もしかしたら力のある神さまや、仏様がいらっしゃるのかもしれません。 

噂が噂を呼び、ますます人が押しかけ 

・病気を治して欲しい

・お金に困らないようにして欲しい

・家内が穏やかで円満であって欲しい

・良縁に恵まれ、幸せになりたい 

そのような人間の欲望が渦巻くのかもしれません。 

ですが、神様の存在とは、私達人間の、願いや欲を叶えるためにいらっしゃるのでしょうか?

人が集まり、人気が出ればそこに関係する人間側の神職や職員の意識や環境も変わり、それによって、本人の心にとって非常に危うい、驕りなどの状況が起こりやすくなります。 

身近な例で例えるなら、車、排気量の大きな、かっこ良い高級な車に乗った途端、車ではなく、まるで自分という人間が強くなったと勘違いし、尊大で傍若無人な運転を繰り返す・・ 

神社、仏閣の場合なら、そのお力は神様や仏様の御業であり、そこに関係する人間の力ではありません。

また、ヒーラーや、施術師の方。

効果が高く、有名になり、人気が出てきた方は、もしかしたら、それは、神々の力ではなく、 

「自分の力」である。 

そう思われるかもしれません。 

ですが、そのように自己過信が強ければ強いほど、多くの治療をすると、自分が疲れてくるのだそうです。

小林正観さんが言われるには、人より抜きんでた能力を、自分の、自分だけの力と誤解しているとエネルギーに限界があるが、その力は、自分ではなく、天の力。

自分自身は、単にそれを媒介しているに過ぎない。。 

そのような謙虚な心の持ち主は、決して疲れることがなく、ますます人々に幸福をもたらすのだそうです。 

いくら他にはない、ご利益や、治癒効果があろうと・・ 

それが、自分の力「俺が俺が」、、の心でいては、何時しかその尊い神々の力も、色あせてしまうことでしょう。 

そのことを2千年前に、イエスは仰っていました。

ご紹介します。

 

イエスは数多くの転生と、経験と試練を重ね、私達の内にいらっしゃる神様と一体となりました。

イエスが生まれたその時代は、まだ人類の波動は低く、多くの人々は肉体だけの意識。

生殖、物欲、自己が生き残ること・・・などの肉体的な感覚に囚われていた(フォーカスしていた)時代でした。

ブッダが悟った時と同様に、イエスも悟りを開くと同時に肉体を離れ、魂(霊)として人類を助け導くことも可能でしたが、幻想に囚われ、自分を傷つけ、敵味方でも傷つけ合う人々を、この物質次元の地球に於いて助けることを選択しました。

その方法は、

愛を、愛だけが全てであることを説き、神様とは愛であることを伝え、 

どんな困難な時にも、ただ ご自分の生き方を通して、愛を示して歩きました。

イエスがこの地上で行った数々の奇跡。 

その奇跡の目的とメッセージは全て・・・、

あなたが目覚めれば私と同じこと(奇跡)ができる 

私(イエス)よりも、もっと偉大なこと(奇跡)が出来る

ということでした。

つまりイエスだけでなく、私たちも等しく神の子、神そのものであると 教えてくれたのでした。

また、私自身(イエスのこと)は無力である。

全ての奇跡は、神が行うものである。

と仰ったのです。

つまり、イエス自身は無力であるが、

・全ての良きこと、

・美しきこと、

・真理の実現、

・奇跡

・思いやり

・優しさ

・愛

・癒し

は、全て神様の力によって起こっている。 

そう謙虚に仰ったのです。

これは、今のような世の中にとっては、強烈なアンチテーゼになるかもしれません。 

・私が、○○してあげる。

・私が、○○した。

・私が、○○しよう。 

そのように、その方々は確かに力がある人かもしれませんが、その力の源泉は、 

私、自分、個人の能力であると、過信して吹聴してしまっては、 

イエスの取った謙虚な態度と正反対です。

とかく人は

・成功している時、

・人気がある時、

・お金がある時

全部、自分の力で勝ち取ったと誤解しがちです。

有頂天になりがちです。 

それが神々の力から来ているとは認めません。

ですが、イエスは

・自分が人に行う優しさ、親切も

・創造性あふれる仕事も

・奇跡も

全ての良きことは、神様の御技が現れたもの。 

自分自身の力ではない。 

単に自分は、神様の力の通り道になっただけ。

 そう仰ったのです。

それが本当の真実だからです。

そのように自覚していれば、 

・天狗になって人を見下したり、

・人と比べたり、

・自分の知識をひけらかしたり

・人を支配したり

・力や能力を自慢したり 

する必要は無いかもしれませんね。

人生の晴れ(ハレ)の時も、嵐の時も、奢らず悲観せず、 

全てに感謝し、笑顔で、周りの人々と仲良くして行けば、 

きっとそれだけで、いいのですね。

私達人間は・・・

全て、神様が私達の魂が成長するようにと、細かなところまで取り計らってくれますから。

大丈夫です。

俺が俺が、私が、私が・・・そのような高慢な心こそ、

神さまの眼前においては、穢れかもしれません。

今や、嘘が付けない時代になりました。

ミロクの世、精神性の復活の時代の始まりとともに、 

・今だけ

・金だけ

・自分だけ 

の考え方で行動している人々は、どんどん、あぶりだされ、多くの人に、その思想、行動が知れることとなりました。

たとえウソを並び立て、詭弁を弄し、責任を人に なすり付け逃げようとしても、力の源泉である内なる神々は見ています。

その醜い姿を

・自分の愛する子供たち、自分を信頼してくれる子供たち

・産んでくださったお母さん

・慈しみ育ててくれた家族

・故郷の友人たち

この人たちに、胸を張って見せられるでしょうか? 

・あなたたちの父である私の姿、

・生んでくださり、慈しみ育てていただいた、あなたの息子である私の姿

を、どうぞ見てください。 

しっかりと目を見つめ、

そのように言うことはできるでしょうか?

 

2022年12月19日月曜日

2915「心の毒」2022.12.19

今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年12月10日の記事を紹介します。


「心の毒」


今日は「心の毒を消す方法」です。 

この方法は、あらゆる場面で効く特効薬のようなものです。 

ここでも、宇宙最強の言霊「ありがとう」、「ありがとうございます」のお話が出てきます。 

それでは、ご紹介します。

<引用開始>


昔、仲の悪い嫁と姑がいました。

姑は、病気がちでいつも機嫌が悪く、事あるごとに嫁をいびります。

「うちの嫁は、要領が悪くて、怠け者で・・・」 

と、本人に聞こえるようにブツブツと言うだけでなく、近所や親戚にも言いふらします。

夫は、嫁の前では、「お母さんは言い過ぎじゃないか」とは言うものの、病気の母親の前に出ると口答えのできない人です。 

嫁は姑にいびられる度にいい嫁になろうと努力します。

しかし、いくら努力しても、陰湿ないじめをやめない姑に次第に憎しみを募らせていきます。

遂にはいっそ姑が消えていなくなればよいと思うようになりました。

そこで、あるとき、ある僧に自分の悩みを打ち明けます。

するとその僧は、こう言いました。

「そうか、ではお前の望みを叶えてやろう。

簡単なことだ。この薬を姑の食事に少しずつ混ぜるのだ。 

すると、姑の体はだんだん弱まっていき、一月もすると消えてなくなるじゃろう」

嫁は驚きました。「・・・つまり、一月で死ぬということですか?」

僧は平然としていました。 

「人は皆、死に向かっておる。いずれ誰でも老衰する。ただそれを早めるだけのことじゃ」

「でも・・・」

「ただし、この薬を使うにあたって一つ条件がある。この薬を入れた食事は多少味が悪くなる。姑に気持ちよく食べてもらうためには、食事を出すごとに、何でもいいから感謝の言葉を述べるのだ」

「感謝の言葉でございますか?」  

嫁は食事に薬を混ぜるよりも、姑に感謝の言葉を口にする方がずっと難しいような気がしました。

家に帰ると、「どこに行っていたのか、お前はいつも帰りが遅い、グズで要領が悪い」 などといつものように姑から罵詈雑言を浴びせられました。

嫁は台所に駆け込み涙ながらに、食事の支度にとりかかりました。

そして、良心の呵責を覚えながらも、僧からもらった薬を少しだけ混ぜて姑の前に出しました。

さて、何か感謝の言葉を口にしなければなりません。

「お母さん・・・」

「ふん、なんだい、また同じようなおかずか。お前は料理が一向に上達せんの」

「はい、ありがとうございます」

「何?なんだって・・・」

「ありがとうございます」

「どういうことだ」

「わたしは、本当に料理が下手です。ですから、お母さんがわたしの下手な料理でも

食べてくださると思うとありがたく思うんです」

姑はちょっと不思議そうな顔をしましたが、黙って料理に箸をつけました。

そして、黙々と食べると箸を置く前に一言つぶやきました。

「今日の料理、うまかったぞ」

嫁は驚きました。

なぜなら、初めて姑に誉められたからです。

それで積もりに積もった姑に対する憎しみが消えるはずはありません。


嫁は僧が言ったとおり、料理に少しずつ薬を混ぜ、姑に毎回必ず感謝の言葉を言うようにしました。

お母さんに味噌汁の作り方を教えてもらったこと。

お母さんに掃除の仕方を教えてもらったこと。

お母さんに裁縫のコツを教えてもらったこと。

など、自分はまだ十分にできないが感謝しているとくり返し伝えました。

お母さんから言われてきた数々の叱責の言葉も、自分の励ましてくれたと感謝しました。

嫁は始めは心にもない言葉を並べているように思えました。

しかし、毎日感謝の言葉を口にする度に、自分の心が次第にほぐれていくのが不思議でした。

そうしているうちに、姑の嫁に対する態度が明らかに変わっていきました。

嫁を見るときの顔が柔和になってきました。

それどころか、陰で、嫁のことを誉めることもありました。

夫には「お前はいい嫁をもらった」と言い、 近所や親戚には「うちの嫁はできた女だ」と

自慢するようにもなったのです。

それに応じて、嫁は姑に対する憎しみは薄らいでいきます。

それどころか、姑への愛情が湧き上がってくるようになったのです。

嫁は、次第に激しい後悔の念が湧き上がります。

わたしは、あの姑を体よく老衰したように見せかけ、毒殺しようとしている。

なんという恐ろしいことだ。なんという罪なことだ。いたたまれなくなった嫁は、

僧のところ駆け込みます。 

そして泣きながらに訴えます。

「お坊さま、わたしの間違いでした。わたしは、なんと罪深い女でしょう。 

どうかどうかお許しください。

お坊さま、ともかくお母さんを死なせたくありません。

どうかあの毒を消す薬をください。 

お願いいたします。 お願いいたします」

泣いて頼む嫁に、僧は言いました。

「案じるな。あれはただ海草を粉にしたものだ。 

毒ではない。毒を消す薬、と申したな。 

覚えておきなさい。 心の毒は、感謝することで消えるものじゃ。

どうやらお前の心にあった毒は、もうすっかり消えてしまったようだな」

<引用終了>

 

ありがとう、感謝は、本当に私たちの心を清らかにしてくれますね。。

私たちが体験する世界、取り巻く環境、起こってくる事象は 全て自分の心の反映と言われています。

また、私たちは外界と皮膚を境に区切られた存在ではなく、宇宙の隅々まで、存在するもの全てと繋がっています。 

右脳はそれを認識していますし、分かっています。

また科学的にも、遠く離れた物体が互いに影響を与え合うというのは、量子論のもっとも基本的な考え方の一つです。

つまり、私たちの心が清められ、感謝の気持ちで満たされたなら、それは、時間、空間を超えて、全宇宙に伝わると言うことです。

心を清める、清浄にするには、「ありがとう」と、感謝することが一番効果的です。

恵まれた環境に居る人にとっては、感謝することは簡単なことかもしれません。

ですが、苦しい立場に居る人にとって、感謝することは難しいことですね。

そこで、登場するのが言霊です。

心が変われば行動が変わる。

行動が変われば習慣が変わる。

習慣が変われば人格が変わる。

人格が変われば運命が変わる。

運命が変われば人生が変わる。

心が変わることで、最終的には人生までもが変わってしまうというものです。

私は、これは本当の事だと思います。

でも、「心」って、そう簡単に変えられません。

でもご心配なく。

「心を変える」前に、もう一つだけできることがあります。

それは、とっても簡単なことで、お金も一切かかりません。

人に迷惑をかけません。人に知られることもありません。

そのやることとは、 言霊を使う事

機械的に出来ますから、ぜひ習慣化して見て下さい。

この言霊を使うことで、いつの間にか心が変わってきます。

その結果、上に書いたとおり心が変わることで、最終的には人生までもが変わってしまいます。

その言霊は、宇宙最強と言われる言霊 「ありがとう」です。

何度も何度も口にするうちに、いつの間にか、感謝の心が芽生えてきます。

感謝の心が芽生えれば、もうしめたものです。

心が清浄になってきたしるしです。

感謝の心で満たされたなら、宇宙に伝わって行きますから、宇宙中の全てから応援されます。

幸せな道を歩むことができます。

最初は、この言葉さえ、口にするのが苦しいかもしれませんが、

どうか機械的でも良いので、しばらく試してみてください。 

いつの間にか周りの環境が変わってきたことに気づくことと思います。




2022年12月18日日曜日

2914「連鎖する虐待」2022.12.18

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年12月02日「連鎖する虐待」と2022年12月05日「冥界からの電話」の2つの記事を紹介します。


「連鎖する虐待」

今日は、子供たちに対する「虐待」に関する記事です。 

以前掲載したこともあったのですが、最近また、いろんなところで、虐待や、その世代間連鎖に関して、多くの事件が起こっています。 

今、やっと地球は、神々の計画通り、「建て替え、建て直し」の時期に入ったと言われています。 

新しい「精神性の復活の時代」が幕開けるために、神々による、「建て替え」が始まっています。 

建て替えとは、要するに古い価値観の「破壊の時」です。

「破壊」された後、この地球で、新たな価値観、 

破壊の時を経て、人間の精神が大切にされる時代を築くのは私たち人間による「立て直し」です。 

昭和初期、霊的巨人、出口王仁三郎が、予言を残し、今まさに、その予言のように進んでいます。 

今日のテーマ、虐待の問題は、どうしても世代間連鎖しがちです。 

子供のころ、心の傷として残り、大人になった後、自分でも知らぬ間に、

子供に自分が受けた虐待と同じことをしがちです。

気づいて反省しても無意識のうちに、意識の条件反射が起き、

無意識のうちに、体が勝手に暴力をふるうようです。 

建て替え立て直しの時期に当たり、こういった心の問題が、数多く、あぶりだされ、表面に出てきているようです。 

ですが、表面化したということと、人々の意識の中に、それが心の問題であると認識されたということは、矯正するチャンスかもしれません。 

臭い物に蓋をするのではなく、正面から向き合い、来たる「精神性の復活の時代」に備えたいものです。 

それでは、加筆して再掲いたします。

 

中間世記憶、つまり生まれる前に天国に居た時の記憶を持つお子さんが、

かなりの割合いらっしゃいます。

その中で、虐待の家系に生まれたある小学生は、次のように話しています。 

「それも承知で生まれてくるの。お母さんが成長するまで、何度でも同じことを言いに来るんだよ」

子供を虐待する性質は、比較的世代間連鎖が起きやすいものです。 

今日は、その連鎖を、あえて困難な中に身を置いて断ち切ろうとする、高貴な魂のお話です。

親に虐待を受けて育った子供は、無意識の内に自分の子供に対して虐待を繰り返すことが多いようです。

虐待と言っても、暴力だけでなく育児放棄(ネグレクト)や、いわゆる「毒親」と呼ばれる子供に対し過干渉で、子供が大人になっても無意識の内にコントロールし、「心配だ、まだ子供だ、可哀そうだ」という言い訳のもとに、いつまでも子供を自分の支配下に置いておこうとする親も同じです。

それでは、産婦人科医で、中間世記憶の研究を永い間されてきた池川明先生のお話をご紹介します。

<転載開始> 転載元 


何のために生まれてきたかを語る上で避けられないのが、今や大変な社会問題となっている虐待です。

よく、「赤ちゃんは親を選んできたというけれども、虐待される子どもも、そういう親を選んできたのですか?」と聞かれます。

そうだとしたら、あまりにも切ないことです。

でも、すべてかどうかは定かではありませんが、その厳しすぎる環境を選んできている

子どもがいることは間違いないようです。

私のクリニックにも来てくださっている胎話士の未来見基(MIKIMIKI)さんですが、

彼女は、ひどい虐待を受けた半生を送ってきました。

彼女には胎内記憶があります。

ご両親を選んで生まれてきたことをよく覚えています。

「ゆがんだ家庭に幸せをもたらそう」と見基さんは、この世に生まれることを決めました。

しかし、お母さんのお腹に入ってすぐに、自分と同じ目的をもって生まれた幼い2人のお兄さんが、お母さんに折檻されているのを見て、「私には荷が重すぎる」と感じたそうです。

でも、もう引き返せない状態で、彼女は、嵐の中に投げ出されることになりました。 

しつけという名の折檻が始まりました。 

叩かれ、蹴飛ばされ、なじられました。 

15歳のときには、虐待に耐えられずに、自殺しようとまで思い詰めますが、

ビルの屋上の柵を乗り越えようとしたら、片足が柵に引っかかってしまいました。

それで我に返った見基さんは、生きる選択をするわけですが、それからも虐待は続きます。

しかし、見基さんが結婚して出産したときから、風向きが変わってきます。

お母さんが見基さんの身の回りの世話をしてくれるようになったのです。

3人の子どもが生まれ、お母さんと同居をするようになりました。 

風向きが変わったと言っても、2人のぶつかり合いは続きました。

そんなある日、見基さんは、自分がコントロールできなくなって、長男に体罰を加えてしまいました。 

「やっちゃいけない」と思いながらも手が出てしまう。

苦しかったことでしょう。

あるとき、見基さんは、長男に謝りました。

そのときの長男の言葉に、見基さんの心は大きく揺れました。

涙がとめどなくあふれ出てきたのです。

「どんなお母さんでも、ぼくたちは大好きだよ。生まれてきて良かった。

お母さん、産んでくれてありがとう」

すべての子どものお母さんへの思いは、この言葉に詰まっています。

その日を境に、見基さんの中で何かが変わりました。 

長男が自分に向けてくれていた思いを自らがもち、それを自分の母親へと向けるようになりました。

そこから事態は好転していきました。

見基さんの家系は、4代にもわたって虐待が繰り返されてきていました。

この連鎖をどこかで断ち切らなければならない。

見基さんとお兄さんたちは、勇気をもって、その役割を引き受けたのです。

そして見基さんの子どもは、がんばっているお母さんを助けるために、

この世にやってきたのです。

<転載終了>

  

私たちは、親は子どもを成長させるものと思っています。

ですが、どうやら反対に子どもが親の成長を願っている場合もあるようです。

今回のお話のように、

・虐待されることを分かっていても、あえて親の気付きのために生まれてくる魂。

・生まれながらの病気や障害を持ち、それらを通じ、周りの人々に幸せの本当の意味を教えるために生まれてくる魂。

みんな高貴な魂ですね。

そして病気や障害を持つ子供に見出され選ばれたご両親も、同じように高貴な魂ですね。

神さまは私たちに、乗り越えられないような試練は与えないと言われます。

そして同じように、苦しみや悲しみなどの試練を経験するからこそ、魂は磨かれ、成長すると言われます。

沢山の苦労や苦しみ、悲しみを経験されている方は、もしかしたらお幸せなのかもしれません。

マザーテレサはかつてこのように仰いました。

苦しみは神からの贈り物なのです。

それによってわたしたちは、イエス(キリスト)に最も似た者となるのです。

苦しみを、罰と受け取ってはなりません。

苦しみ、苦痛、屈辱、病気、失敗、それは主のくちづけにほかなりません。

皆様がたとえ艱難苦難に会われても、勇気と希望を見失わず、しっかりと内なる神さまと繋がっていられますように。

陽の当たる場所(天津神)だけでなく、陰の場所(黄泉の国)(国津神)も

深い鎮静の中で、全てを浄化し、清めるという意味で大切なものです。 

両者ともになくてはならないものです。

 



「冥界からの電話」

今日は生と死、肉体と魂に関して以前載せた記事ですが、加筆して掲載したいと思います。 

最近は、本当にさっと生まれて来た目的を果たし、子供の内に天に戻っていく魂が多いように感じます。 

レインボーの子供たちが増えてきたのも同じような目的があるのかもしれません。 

佐藤愛子さんの著作「冥界からの電話」に故人 中川昌蔵さんの言葉が載っています。

中川さんは、菩薩界から生まれて来た方です。

中川さんはどんな人にもわかり易く説明されます。 

波動を高めるにはどうすればいいかって? 

ちっとも難かしいことじゃありませんよ。

学問とか知識は必要ありません。

ただね、人は一人では生きられない、生かされているということをよく認識してね、

そのことに対してありがとうという感謝の気持を表せばいいんです。

 

感謝することで魂の波動は上ります。

実に簡単なんですよ。

死後の 世界は波動の世界ですからね。

波動の上下によって地獄界、幽界、霊界、神界と厳格に分けられています。

死ぬとその者の魂は、自分の波動と同じ波動の場所へ自動的に移動します。

やはり、ここでもありがとうという感謝の言葉が出てきます。

上記を踏まえたうえで、重い障害を持って生まれ、早くに亡くなった娘さんのお話をご覧ください。

「もう読んだよ」という方は、スルーしてくださいね。 

夭逝した、娘さんご本人の口から重い障害を持って生まれたわけを語ってくれています。 

景山民夫さんが書いた「さよならブラックバード」と言う本からのご紹介ですが、これから述べることは事実であるそうです。 

このお話は、お子さんが、お父さんの魂の向上のため、敢えて不自由な身体を選び生まれ、 

そして早すぎる死を通じ、愛する父の魂を向上させるめに協力したお話です。

景山民夫さんが書いた「さよならブラックバード」という本、その後書きに、こんなお話が載っています。

<転載開始> 転載元


僕はいまから八年程前に長女を亡くしました。

彼女は生まれたときから重い障害をもった子供で、18年間の人生の中で一度も自分の力で

ベッドから起き上がることが出来ない生活を送り、そして死にました。

急な死だったために、僕があわてて病院に駆けつけたのは死後一時間ほどしてからでした。

娘は既に冷たくなっていて、18歳にしてはずいぶん小さな体をベッドに横たえていました。

その夜、通夜が営まれ、お棺に入れられて祭壇に安置されている娘の遺体を目にしたとき、

僕はなぜか「あ、もう肉体から魂が抜け出してしまっている」と感じたのです。

ふと祭壇の上の方を見ると、そこに娘がポコンと浮かんでいました。

それは、生前の肉体の姿ではなく、白く光る玉のように僕の目には見えました。

無事にお通夜を終え、僕は翌日の葬儀に備える為に教会の駐車場にあった車に戻りました。

車のエンジンをかけたときに、僕は助手席に死んだ娘がいる事に気がつきました。

さっきと同じ光る球体のようでした。 

「一緒にお家に帰るか」と僕は娘に声をかけました。

彼女は、「うん、一緒に帰る」と答えました。

不思議なことです。

生きているときは、言葉が喋れないために一度も会話をしたことがない彼女と、 

死んだ後ではまるで普通の人と同様に会話ができるのです。

といっても、それは鼓膜を通して伝わってくるものではなく、直接僕の心に語りかけてくる

テレパシーのような通信手段でしたが、それでも意思は完全に通じあっていました。

いろいろなことを語り合いながら、車を運転していくと、途中で雨が降り始めました。 

家に着いたときもまだ雨は降り続いており、彼女は「そうかぁ、雨ってこういうものなんだ」と感激していました。 

ずっと室内で暮らしていた彼女は、雨というものを実体験したことがなかったのです。

その後、娘は(ヘンな話ですが)自分の葬儀にも出席し、しばらく我が家に滞在していました。

その間に「お前は、なんであんな不自由な身体を、選んで生まれてきたの?」

と尋ねたことがあります。 

娘の答えはこうでした。

「他の理由もあるけど、私が生まれる前のパパの心の状態のままだと、パパは弱者に対しての優しさが持てない人になっていたかもしれないの。

それで私は重い障害を持ってパパの娘に生まれたの」

この言葉は僕にとって目からウロコが落ちるようなものでした。

たしかに、思い返してみれば当時の僕にはそういった傾向があったのかもしれません。

やがて娘は「もう天に帰るから」と言って去っていきました。

痛く、辛く、悲しい人生ではあったと思いますが、彼女の一生は無駄でも敗北でもありませんでした。 

敢えて、障害を持つ子として生まれて、僕に思いやりの大切さを気づかせてくれたのですから。

これはすべて本当の話です。

もう一度言います。 

どんな人生でも、無駄や敗北はないのです。 

大切なのは無駄や敗北と見えたことから、何を学び取るか、なのです。

<転載終了>


私も、人の親ですから、子供を早くに亡くす、悲しみ、苦しみ、後悔、張り裂けそうな胸の内。想像に難くありません。

ですが、もし親が、子供の早すぎる死を悔み、何時までも、世を憎み、人を憎み、何時までも、いつまでも運命を呪っていたなら、この子供たちが、敢えて勇気をもって、早くに亡くなることを選んで生まれて来た人生の目的は、どうなってしまうか?  

そう考えてしまいます。 

子供たちが、親のその姿を天国から見てどう思うのか? 

何時までも、私のことを忘れずに、大切に思いそれゆえに憎み苦しんでくれてありがとう。 

そう思うのでしょうか? 

中川さんの仰るように心の波動の上下によって、地獄界、幽界、霊界、神界と厳格に分けられてしまい、その悲しみ、苦しみ、後悔、運命を呪う波長のゆえに、親が自動的に、その世界に引き込まれていくことを、この高貴な魂の子供たちは、喜ぶでしょうか?

中川さんは仰いました。 

死ぬとその者の魂は、自分の波動と同じ波動の場所へ自動的に移動します。 

この子供達の魂は、中川さんの仰る魂の法則、類は友を呼ぶを十分知った上で、生きている私たち お父さん、お母さんを見ています。 

大切な大切な子供たち、その子供たちの喜ぶ笑顔が見たいですね。 

子供たちは何のために生まれて早くに亡くなったのか? 

一番影響を受ける親に何を伝えたかったのか? 

親にどう変化して欲しかったのか? 

それに気づき、お子さんたちが望んだ変化を私達親が、人を社会を恨むことなく成し遂げることができたら、子供たちは天国で本当に幸せを感じることでしょう。