今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年01月13日の記事を紹介します。
「現実が変わらぬなら」
悪魔的な心は誰の心の中にも、多かれ少なかれ存在していますが、人間の欲望、自我の心は
宇宙神から自由意志を与えられているために、その心は、神の心にもなれるし、残酷な悪魔の心にもなれます。
自分だけでなく、自分の我欲のために人までも陥れ、その精神を堕落させ、悪魔的なものに
してしまうような人や組織、動きも実際に存在します。
近年は、人間性の劣化が非常に激しく
・自分さえ良ければ
・今さえ良ければ
・お金さえ儲ければ
という人々も増えてきたと言われています。
また恐怖感に縛られて無意識に、そちらの方向へ進もうとする者もいます。
九分九厘、もうだめかと言う時に、神々の大どんでん返しがあるとも言われますが、神々も私たちを助けたくとも、私たち自身の心にその準備が整っていなければ出来ません。
神々でさえも、私たちの自由意志を尊重するからです。
私たちは自分では何もせず、ただ他人や、大きな力に頼り依存してしまうのではなく、
自らの心を純粋にする必要があります。
自らの足で、しっかりと大地に立つ必要があります。
そのためには、一人一人がご自身の中にいらっしゃる神さまと繋がる必要があります。
感謝の気持ちを持つことで、周りの人々と
・思いやりを持って
・お互いの違いを許し
・助け合い
・励まし合い
・笑顔で
・ともに生きていく
必要があります。
その時に、神々の大どんでん返しは
・その心を純粋にした人たち
・依存の心を捨て、自ら進もうという人たち
に対し、大きな恩寵となって降り注がれることでしょう。
心を清め、内なる神々と繋がるということは、今の時代、それほど大切なことだからです。
では、今日は「置かれた場所で咲きなさい」の著書で有名な渡辺和子さんの言葉をご紹介します。
<転載開始> 転載元
女子学生たちと五十年以上接していて気がつくことは、この年頃の人たちの多くが、愛に必要なのは、すばらしい対象に出会うことだと考えていることです。
それも決して間違いではないのですが、その対象が「すばらしさ」を失った時(病気やケガ、挫折)にも、果たして愛し続けることができるかどうか、ここに「愛の本質」が問われています。
・健康だった相手が病気になってしまった時も、
・前途を嘱望(しょくぼう)されていた相手が挫折にあった時にも、
その人を愛し続けることができるかどうかは、私たちが自分の中に、「愛する力」を養い育てているかどうかに、かかっているのです。
ふだんからピアノの練習もせずに、立派なピアノを見つけさえすれば、上手に弾けると思ったり、絵を描く練習もせずに、ひたすら美しい景色を探している人にも似て、ふだんから「愛する」練習をしないで、素敵な人との出会いを待っていては、いけないのです。
愛する力を育てるためには、まず私たちが毎日の生活の中で「当たり前」と考えていることや、人、物を「有り難い」と、感謝の気持ちで受けとめることが大切です。
マイナスの価値しかないと思えることや、不幸、災難、苦しみにさえも意味を見出して、
これまた「有り難い」と感謝できる時、私たちは愛すべきものを随所(ずいしょ)に持ち、
愛し難い人さえも、その人の存在そのものの価値を認める、愛深く幸せな人間になれるのです。
<転載終了>
何か素晴らしいものさえ手に入れれば、きっと自分は幸せになれる。
殆どの人がそう思っています。
安直で、自分では何もせず、おいしい果実だけを得ようとする、依存の心です。
これは、生きていく姿勢そのものに直結しています。
・子供の成績が良ければ、愛する
・子供が不登校になったから、愛さない
・何か手に入れたら、感謝する
・何かしてもらったら、仲良くする
全部が、
・自分の思い通りに人が動けば、愛する
・自分の思い通りに動かなければ、嫌う
・先に何かを得たら、何かする
・自分から、親切や優しさを出すと損をする
そのような意識です。
まるで地獄の亡者のようですね。
そこには、
・自分は礼儀正しく
・言葉きれいで、
・正義の側に立ち
・悪を糾弾しており
・自分は報われるべき存在で
・その権利がある
・大事にされて、あたりまえ
そのような心が底流にあります。
ですがこの地球は、そのようにできてはいません。
生老病死、四苦八苦。
まさに思うようにならないのが、この世の中です。
希望を持って結婚しても、就職しても、子育てをしても、
「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。
「何か素晴らしいものさえ手に入れれば、自分は幸せになれる。」
そのように、他に依存するように考えていた人たちは、そこで挫折し、苦しみにとらわれることでしょう。
愛する家族に対する熱も冷め、もしかしたら苦痛や憎しみの対象に変わるかもしれません。
これらは、人のせいではなく、全て自分の心の持ち方、物事のとらえ方の問題です。
渡辺和子さんは仰います。
「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきても、そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をして欲しいのです。
どうしても咲けない時もあります。
雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。
その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。
次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。
現実が変わらないなら、悩みに対する心の持ちようを変えてみる。
いい出会いにするためには、自分が出会いを大切にして育てなければなりません。
思い通りにならないことを経験した時、心にポッカリ開いた穴から、これまで見えなかったものが見えてくることがあります。
希望には叶わないものもありますが、大切なのは心に希望を持ち続けること。
相手を信頼するのは98%にし、あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておくこと。
「ていねいに生きる」とは、自分に与えられた試練に感謝すること。
私たちは、神さまが置いて下さったこの場所で、たとえ辛く苦しくとも、幸せを見つけることが出来ます。
神さまは、「そこで幸せを見つけるのですよ」と、私たちをその場所に置いて下さいました。
辛い日々は、必ず笑える日につながっています。
目の前の現実は変えられません。
ですが、その起きている現象には、本当は「良い」も「悪い」もないのです。
全てニュートラルの形で現象は起こっています。
そこに「良いこと」とか「悪いこと」と色を付けるのは私たちの心の捉え方だけです。
そして実際は起きている現象全て、私たちの魂の成長のために、目の前に現れてくれています。
私たちが、それに気付き感謝して受け入れた途端、その現象は、もはや役割を終えたわけですから、目の前から消え、記憶のかなたに忘れ去られてしまうでしょう。
私たちの人生はその事の繰り返しです。
ですから、どんなことが目の前に起きても、心配せず、しっかり受け入れて、感謝しニコニコ笑っていれば、それで良いのです。
それがブッダが教えてくださった「般若心経」の真髄です。
ご縁のある方に届きますように。