今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年01月21日の記事を紹介します。
「心を受け取る」
見えない世界に精通し、不思議な能力を持っている。
そのような力に頼ることよりも、自分自身の心の浄化、純化が、どれほど大切なことか。
そちらの方が遥かに永続的で、真の力を発揮することか。
自らの心を清める事、感謝の心で過ごすことが、どれだけ宇宙神を喜ばせ、
大きな助けを引き出すことができるのか。
様々な情報をどのような角度から見ても、結論はそうなります。
力あると吹聴する他人に依存するのではなく、自らの心を洗うこと・・・
では、今日もその最強の方法である心の浄化についてのお話です。
神々による建て替え、
人々による建て直し
今行われている進化の方向性は、一人一人の精神性が大切にされる世界への移行
それは、
・誰か悟った人によって起こされるのではなく
・霊的な力がある人によって起こされるのではなく
・有名な前世を持つ人によって起こされるのではなく
私達一人一人の心の変化によってなされます。
私達の心が、今までまとっていた
・罪(包身)
・穢れ(氣枯れ)
を祓い落し、
本来の輝きを取り戻し、他人や物に依存することなく、自分の力で、しっかりと大地に根を張り、身近な周りの人たちと認め合い、笑い合い、助けい合い、生きていくことで、実現される社会です。
大本の神様からいただいた心・魂にはその力が宿っています。
それでは、今日も心の罪、穢れを祓い、美しい心を取り戻すためのお話です。
今日のお話は「心を受け取る」ということで、ある方の思い出話をご紹介します。
田舎者の父と息子の大学卒業にあたってのお話です。
お父様は田舎者で、また裕福ではありませんでしたが、
まじめで、実直で、子供を心から愛しておられた方でした。
<引用開始> 引用元
三月は卒業式のシーズンである。
卒業式といえば、私には忘れられない父との思い出がある。
私の大学の卒業式に出席するため、それまで天草をほとんど離なれたことのなかった田舎者の父が、一人で博多までやってきたのである。
私は驚いた。父は下宿の私の部屋に泊まった。
卒業式の朝、父は大学の門の前で立ち止まり、じっと門を見つめたまま、しばらく動こうとはしなかった。
学部ごとの謝恩会の席で、父と私は一箱の折り詰め弁当を分け合って食べた。
そして、一合ビンの日本酒を、交互につぎ合って飲んだ。
父は実に嬉しそうであった。
私はその時の父の嬉しそうな顔を、今でも忘れることができない。
卒業式のあとで、私達は親友二人と共に、大濠公園に行った。
親友達とも、その日でお別れであった。
私は公園のベンチに座って、その親友達との別れを惜しんだのであった。
父は少し離れてなぜか寂しそうに、私達を眺めていた。
翌日、父は黙って天草に帰って行った。
しかし、その時の父のなぜか寂しそうな姿が、長い間ずっと、私の心の中から離れなかった。
その父が四年前に亡くなった。
亡くなる一年ほど前に、入院して寝たきりになった父が、ベッドの中で、私の手をしっかりと握って言ったのである。
「お前の卒業式の日あの公園での悔しさは、今でも忘れん。
金がなくて皆にジュースを買って、飲ませることもできんかった。
本当にすまんかったな。
おれは悔しくて、帰りの汽車の中で、涙が止まらんかった」
父は三十数年もの間、その時のことを、悔やみ続けていたのである。
私はその時、八十八歳の父の心の風景をはっきりと見た。
そして、卒業式の日の大濠公園での、あの父の寂しそうな姿を、
三十六年たって、初めて理解できたのであった。
私は仏壇にかざった父の写真を、しみじみと見ながら
「気にするなよ、おやじ」とあらためて呼びかけている。
<引用終了>
お父さんは、息子さんが大学に入学し、とても嬉しかったのでしょうね。
自慢の息子さんですね。
そして「卒業式」
お父さんは、どんなに晴れやかな気持ち、誇らしい気持ちで上京なさったことでしょう。
貧しい農村の暮らしでは、大学に行かせるのにどれだけ苦労したことか、想像に難くありません。
そのお父様が、36年間、ずっと引きづっていた気持ち
晴れやかな門出の日に、
息子が友人たちと別れを惜しんでいるとき、
親として1本のジュースも買ってあげられなかった。。
・その悔しい気持ち、
・情けない気持ち
・息子や、友人たちに、すまない気持ち
胸が締め付けられます。
ですが、ここで、もし状況が異なり
家庭が裕福で、何の苦労も無く、息子さんを大学に通わせることができ、
友人たちの別れの際には、惜しげもなく、高価な飲み物を渡したとしたらどうでしょうか?
きっと、このような、胸を打つ経験はできなかったことでしょう。
このように強い愛情を感じることもなかったでしょう。
息子さんは、深い深い父の愛に、気づくことも感謝する気持ちも起きなかったことでしょう。
魂に刻み付けられる心と心の交流、
地上でしか味わえない、魂の震えを感じることもできなかったことでしょう。
このように、私たち人間は、周りの方々と、日々織りなす経験を通じ、、
時には喜び、時には涙を流しながら、深い深い経験を積んでいます。
もし、何の苦しみも、悲しみも無ければ、地上を離れる時に、
薄っぺらな、心の片隅にも残らない、つまらない人生でしかなくなることでしょう。
きっと、楽な人生ではあったけれど、深く後悔することでしょう。
私たちは、神様に似せて創られました。
この地上で、
・物ではなく、
・幸福だけを選り好みするのではなく、
相手を思いやる美しい温かな心を、受け取るために、 その温かなものを、周りの人々と、循環させるために ここ地球に生まれてきました。