2022年6月28日火曜日

2741「青空ひろば」2022.6.28

今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。


704 2022.06.25 

たとえば、台風をイメージして下さい。 

反時計まわりに気流が渦巻いて、中心の「台風の目」と呼ばれるところがアリますね。 

今、アルといいましたが、よく見ると台風の中心はカラッポで何もナイですね。何もナイのだけれど、その中心のまわりを気流全体がまわっているというのも本当です。 

この「台風の目」にあたるところが「本当の自分(真我)」です。 

でも、その真我は本当はなくて(これが無我)、ナイけれども、全世界の必要が、この渦をつくり出し、台風の目であるあなたという存在を創り出しているわけで、全世界の要請によって、大宇宙全体にバックアップされ、後ろ盾されて、ここにこうして生きている「我」なのですから、宇宙いっぱいの「我」でもあるわけですね。 


703 2022.06.24

ありがたいと 気づいたとき 

ありがたい人生が 開けてきます 

うれしいと 気づいたとき 

うれしい人生が 開けてきます 


700 2022.06.21 ~702 2022.06.23 

秀才と天才の違いを考えてみましょう。 

秀才とは、その人が秀でた能力を持っていて、その持ち前の自分の力量で仕事が出来るという人のことです。 

それに対して天才とは、自分を無くす(無心・無我)ことによって天とつながり、天から必要な能力なり、パワーなりが降りてきて、それらの力を自らの肉体を通して現し出してゆける人のことです。 

秀才は自分の能力で仕事をする人ですから、いつの日か限界に達してそれ以上の仕事が出来なくなりますが、天才は自分の力で仕事をするわけではなく、自分はいつもカラッポで、カラッポだからこそ、必要な時に必要な能力やモノ、人などがいくらでも流れ込んでくるのだから、ガンジス川の河原の砂粒の数を数えつくして尽きるとも、その才能は尽きることがないのです。それで禅の方では『無一物中無尽蔵(むいちもつちゅう むじんぞう)』などという言葉があるわけです。

秀才の道というのは、持って生まれた自分の筋肉、頭脳、性格などの能力で仕事をするわけですから、万人に可能なことではありません。

しかし、天才の道は、自分がやってやろうというわけではなく、その自分というものに愛想が尽きて、自分をやめてしまった時に、天から流れ込んできて、その人の個性にあわせた形で発揮される才能ですから、誰でも使うことができる才能です。

それぞれの人にふさわしい独自の才能が天に用意されていて、自分に頼る生き方さえ止めれば、すぐ天才が降りてくるのです。


696 2022.06.16~699 2022.06.19 

迷いの中に悟りを持ち込もうとする人が、一番始末におえない人です。

いったんチラッと悟りの世界をのぞいたんですね。そして、今、迷いの世界にいるのです。ただそれだけのことなんですが、悟りの境地になれば、もう迷いはないと錯覚していたんですね。 

もともと、「いのち」は流れなんで、括り付けに出来るものはひとつもないのです。 

「悟り」だってそうですね。悟りは何の仕切りもないから「悟り(差取り)」なんで、悟りはカラッポで、どこにも取っ手はありませんから、括り付けには出来ません。 

悟った人でも、もちろん迷います。悟り、迷い、それらを一歩、一歩として、イノチは前進成長してゆくのですから。 

ところが、いったん悟りの世界をのぞいて、今、迷っている人は、『こんなはずじゃない』と思うのです。『ああ、あれが本来の私の姿なんだから、あんな状態に戻らなくちゃ』と足掻くのです。このように、迷いの中に悟りを持ち込もうとするからつらいのです。

『悟りを開いた人が、迷う時はどうですか?』という禅の質問があります。

その答えは、『鏡が砕け散って再び照らさない。花が散ったら、もう枝に戻ることはない』です。

悟りの時は、何だか世界を一目で見る鏡になったような気がしますが、迷いの時は、何事もちっとも見通せません。

鏡が砕け散って照らさなくなりましたが、迷いの時に悟りを持ち込もうとする態度は、またもとの鏡に戻そうと、みみっちく破片をくっつけようとするような態度です。

本当の悟り(大悟)の人は、鏡に未練を残さず、ものの見事に砕け散ってやろうというという心意気、気合いで迷いの時に立ち向かいます。

悟りの時は次々成果が上がって、我が人生に花が咲く時節です。でも、そんな時もやがて去り、花はしなびて落ちてゆきます。そんな時、またあの枝に戻りたいと醜い悪あがきをせずに、思い切って散るに任せる心意気です。それが出来る方が「大悟」の人です。


694 2022.06.14 ~695 2022.06.15

本当に悟った時は、『オレは悟っている』という意識を残しません。 

ちょっとでも悟ったという覚えが残っている間は、まだ本当の悟りではありません。 

こんな例で考えることもできるでしょう。 

目の前に餅があります。この餅は悟りのたとえです。 

目の前に餅がチラチラしている間は、その餅はまだ我がモノとはいえません。 

目の前の餅が見えなくなりました。部屋中すみずみまで捜しても餅は見つかりません。 

『はて、どこに行ってしまったのか』 

ふと気づいたことには、『あっ、そうか。僕が食べちゃったんだっけ』 

目の前に餅がチラチラしなくなって、はじめて餅は我がモノとなったのです。 

そうなったら、もう世界中捜してもどこにも餅はないのですが、餅は私の手や足や、頭の働きやらに姿を変えてはたらき出すことになるのです。 


693 2022.06.13 

私たちは『ウロウロ・オロオロ』、迷いに迷いを重ねてギクシャクとした人生を生きています。 

でも、そういう人生がダメだというわけではありません。それは今のあなたに必要だ、あなたが一層成長するためにはどうしても必要だからと、大宇宙が配慮して、あなたにそのような人生が提供されているのです。ですから、自分を否定したり、卑下したりしてはいけません。堂々と、今出会っている、大宇宙から与えられた課題に取り組んでゆきましょう。 

失敗しても、成功しても、それはどっちでもいいのです。大宇宙があなたに望んでいるのは、逃げ出さず、顔をそむけず、真摯に対応し、立ち向かってゆこうとする姿勢だけです。 

ものの見事にズデンとひっくり返っても、そのソコはあったかい仏様の手の平の上なのです。 


692 2022.06.12 

人間は自由でなければなりません。涙を流したり、笑ったり、腹を立てたり、病気になったり、失敗したり…、そんな自由がなければなりません。 

そうなってはじめて、自分の人生のあらゆる局面を受け入れ、認め、許し、自分が自分であることを、過去から未来まで含めて全面的に肯定できるようになるのです。 

自分を認め、許し、受容できるようになってはじめて他の人を、認め、許し、抱擁できるようになる。そうなってはじめて仏様です。 



悟っている人(悟りにしがみついている人)には迷う自由がありません。

あるところに、悟りを開いた聖者だと自他共に認めている人がいて、その人が病気になったのです。

ところが、悟った人は病気にならないということになっているそうで、それで困ってしまって、こっそり医者に来てもらって治療しているということを聞きました。なんとも窮屈なことですね。病気する自由もないなんてね。


690 2022.06.09

仏様とはどんな方でしょうか? 

仏様は、一度は悟ったのですが、世界中の人が迷いの世界で右往左往しているのに、自分一人超然と悟りの世界で安らいでいるという、そんな独善の態度の誤りに気づいて、そんな悟りを放棄して、悟りの山を下って、ドロンコの迷いの世界の真っ只中に飛び込んでゆく。そんな<あやまち>を再び犯そうと決心出来た人こそが仏様なのです。