今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年06月07日の記事を紹介します。
「心を洗う挨拶」
今日は小林正観さんのお話をご紹介します。
相手の反応に左右されず、自分の心を律し、あいさつをすることは、
とても良い心の訓練であり、心を清浄化し、徳を積むことにつながるというお話です。
・世の中がどのように変わろうと、
・神々による、建て替えが起ころうと
・天変地異が起ころうと
・次元が変わろうと、
最後は、平凡な一般の私たちにとって、心が浄化されているかどうか?
それだけが問われるからです。
それは、今生きている間の幸せも、肉体を脱いで天に帰った後の幸せも、
全てがそこにかかっているからです。
<引用開始> 引用元
『中陰の花』で芥川賞を受賞された玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんは、臨済宗のお寺の僧侶でもあります。
その宗久さんが、天竜寺で修行をしていたときの話です。
毎朝宗久さんが廊下の拭き掃除をしていると、庭先から「おはようございます」と、
にこやかな笑顔で挨拶をされる作務衣(さむえ)姿の方がおられました。
宗久さんは、当初はこの方がいったい何者なのかわからず、
ただ、毎朝爽やかな笑顔で挨拶されるので、
とても感じのいい人だとは思っていたそうです。
後でわかったのですが、この方が天竜寺の貫長(かんちょう・最高位の方)でした。
この貫長さんは、毎朝決まった時間に天竜寺近くを散歩されていたそうです。
そのときに毎日出会う人がいました。
その人に対して、貫長さんは毎日同じように
「おはようございます」と挨拶をして会釈をなさいました。
しかし、声をかけられた人は、無視をして一切返事をすることがなかったといいます。
しかし貫長さんは、相手の笑顔や挨拶が返って来ようが来るまいが関係なく、
毎朝笑顔で「おはようございます」と言い続けたのだそうです。
三年経ったある日のこと。
いつものように「おはようございます」と笑顔で挨拶した貫長さんに対して、
その人はついに「おはようございます」と声を発しました。
そして、言い終わった後に、「ごめんなさいっ」と、がばっとひれ伏したというのです。
この人の心の中に何があったのか推測するすべはありません。
推測することも無意味なことでしょう。
何があったのかということは大した問題ではなく、
大切なのは、かたくなに挨拶を拒み続け、視線を交わすことさえしなかった人に対して、
一ヵ月や二ヵ月ではなく、三年もの間、
笑顔で「おはようございます」と言い続けた人が世の中にいる、という事実です。
その結果として、そのかたくなに人を拒み続けた人が、
ついに心を開き、涙ながらに「ごめんなさい」と謝ったというのです。
貫長さんは、返事をしなかったことを責めていたわけではありません。
ただ自らの生き方として、相手がどういう態度であろうと関係なく
「おはようございます」と言い続けた、ということに徹した、ということだと思います。
「これほど自分が挨拶をしているのに、
返事をしないとは何事だ」と言うのは簡単でしょうし、一般的な反応かもしれません。
しかし、それは挨拶している意味がありません。
挨拶をすることで結局ケンカを売っているのでは、何にもならないでしょう。
その人に「おはようございます」と声をかけることは、
貫長さんの側からすると「自分の勝手」ということであったのかもしれません。
自分が行として、ただそのように毎日を送り、
そういうことに徹し、相手がどのような反応であろうと関係なく
そのように生きる、という姿であったのでしょう。
宗久さんが語る貫長さんの姿は、とても爽やかで、清々しいものでした。
<引用終了>
私たちは、相手から善意を受ければ、
無意識に善意を返す・・ という「好意の返報性」を持っています。
それと同じく、全く反対に、相手から、悪意や無視といった態度をとられると
無意識に、同じものを返してしまいます。
ですが、この天竜寺の貫長(かんちょう・最高位の方)さんは、違っていました。
相手から例え、何年も何年も、無視され、悪意を返されようと、
自分の心にまで、悪を入れず、心を汚すことなく、ぶれることなく、
毎日毎日、善意を施しました。
これは、相当難しいことです。
・自分の心を律する必要があります。
・相手の態度に左右されないという強い心が必要です。
そしてどんな時も、相手に、自分の中の最上のもの
・愛
・優しさ
・いたわり
・思いやり
・深い共感
・笑顔
を向け続けるという訓練になります。
このように、私たちは、日々の暮らしの中において
神様が置いてくださったこの環境の中において
心を、清め、神様のような心になる訓練をすることができます。
自分の身近な周りの方々に、
いつも、笑顔と優しさを伝えていきたいものですね。