今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年06月21日「負けるが勝ち」と
2022年06月22日「七夕のお願い」の2つの記事を紹介します。
「負けるが勝ち」
さて今日は、萩本欽一さんのお話をご紹介します。
「負けるが勝ち」というテーマです。
欽ちゃんは、いつも易しい言葉で、大切なことを、分かりやすく伝えてくれます。
私たちが幸せになるための方法です。
<引用開始> 引用元
「負けるが勝ち」よくこう言いますよね。僕もそう信じています。
でも、なんで負けるほうが勝ちなんだと思いますか?
僕なりの理由はこう。
負けたほうが運がたまるから
誰も必ず人と意見が衝突することがあるけれど、そういうとき「自分のほうが正しい」とか「議論に勝ちたい」って、つい思っちゃいますよね。
でも、そう思ったら負け。
勝とうとすると自分の運が減っていくんです。
カッとなって「てめえ、ばか野郎!」なんて相手に言うと、
それだけで運が10ポイントも減点されちゃう。
「てめえ」でマイナス2ポイント、「ばか野郎」で8ポイントの減点。
売り言葉に買い言葉で1時間も相手を罵っていると、
それだけで2000~3000ポイントも運が減ります。
このマイナス分は、なかなか取り戻せないですよ。
だから言い合いになったときは、自分が正しくないかということより、
運を減らさないことを大事に考えたほうがいいの。
相手が「てめえ、ばか野郎!」と言ってきたら、
「あ~あ、あの人、自分の運を減らしちゃったよ、
その分をこっちがもらっちゃおうかな」と心の中で考えるの。
具体的な方法はどうすればいいかというと、謝っちゃうんです。
「そうか、悪かったね」とか、「ごめん、君の言う通りだよ」って言えばいい。
えっ、そんなの悔しい?
そう、悔しいよね。
自分が謝る場面じゃないのに「悪かったね」なんて言うと、損したような気がする。
でも、そのときあなたには、相手が失った10ポイントの運がたまっています。
気持ちで損をするのと、運が10ポイントたまるのと、
どっちをとるかっていったら、運がたまるほうがいいでしょ?
こうやって少しずつ運のポイントをためていれば、宝くじだって当たるかもしれないしね。
もう一つ大事なのは、自分が一歩引くことによって、相手に嫌われるのを避けられるっていうこと。
人に嫌われないっていうことは、すごく運になるの。
それでまた10ポイントついてくる。
人生って結局、運をどれだけためられるかっていう勝負なんです。
だから、そのほかの勝負で勝とうなんて思わなくていいの。
だからバ~ンと言われても、ぐっとこらえて言い返さない。
負けるが勝ち。
いや、我慢していい言葉を返していくとポイントが
次々に加算されるから「負けるが勝ち、勝ち、勝ち」だね。
勝ち、勝ち、勝ちって、火打石がカチッ、カチッ、カチッと鳴って
火がポッポッポッとつくようで景気もいいでしょ。
今の日本では、運をなくしている人が多いですよね。
これもみんなが怒りっぽくなってることと関係あるんじゃないかな。
これからは相手に一歩譲る人になって、小さな運を少しずつためていきましょう。
<引用終了>
さすが欽ちゃん、良いお話ですね。
・イライラしたり
・モヤモヤしたり
・怒ったり
そうすることで確実に、自分の運気を減らしているのだそうです。
もちろん、私たちは、人の中で暮らしていますから、時には、
イライラしたりするかもしれません。
それは、当たり前のことです。
ですが、そこにいつまでもしがみつかず、直ぐに、別の楽しいことに 頭を切り替えて、
その原因となったものにエネルギーを与えない事。
ずっと、考え続けなければ、その出来事、人に、エネルギーを与えることはありません。
その結果、いつの間にか、記憶のかなたに消え去っていくことでしょう。
心を汚すことを避けることができるでしょう。
また
・楽しいこと
・美しいこと
・優しいこと
そんなもので心を満つことができるでしょう。
心の状態こそが、全ての現実を作り出します。
負けるが勝ち、、、幸せな人生のための 王道かもしれませんね。
「七夕のお願い」
毎年この季節に掲載している記事をご紹介します。
もうすぐ七夕。
今日は子供たちの美しい心のお話です。
美しいものを見たり、聞いたり、触れたりした時に、私達の心のどこかで共鳴が起こります。
そして同じように、醜いものを見たり、聞いたり、考えたりと心に入れてしまうと、その逆もあります。
人間の心は 何処までも、高みに登る事も出来れば、何処までも、闇に沈むこともできます。
出来れば、私達の心の波長を真 善 美に合わせておきたいものですね。
それが、一番自然であり、苦しまなくて済みます。
幸せになる一番の近道だからです。。
でも、落ち込んでも大丈夫です。
それも結局は、予定調和に至る道ですから・・
私たちの内に居らっしゃる神様は、決して見捨てたりしません。
何時も傍らにおられます。
さて、始めます、知的障害の兄を持つ小学1年生の男子児童のお話。
入学式の日、その児童の席のとなりに、
小児麻痺で左腕が不自由な同級生の男子児童が座りました。
最初の体育のときでした。
手が不自由な小児麻痺の児童は、着替えるのに30分もかかってしまいました。
時間がかかっても、先生は、何も言わずこの子を放っておくことにしました。
でも、二度目の体育の時間には、この子も他の子といっしょにきちんと並んで待っていました。
「どうしてだろう?」不思議に思った先生は、次の体育の前の休み時間に、そっと教室の外から見ていました。
すると、隣の児童が、一生懸命に手の不自由な子が着替えるのを手伝ってあげていたのです。
そして、その子が着替え終わると、二人で校庭に元気よく駆け出していったのです。
先生は、やはり何も言わずに見守ることにしました。
七夕の日のことです。
ちょうど授業参観日でした。
先生は子どもたちに願い事を書かせて、それを教室の笹に下げておきました。
お母さんたちが集まったところで、先生は、一枚一枚、短冊を読んできました。
一年生ですから、
「あのおもちゃかってちょうだい」
「おこずかいちょうだい」
「まんが本がほしい」
というようなことが書いてありました。
その中に一枚だけ、こう書かれていました。
「かみさま、ぼくのとなりの子のうでをなおしてあげてください」
あの世話をしていた、児童が書いたものでした。
先生は、この一途な祈りを読むともう我慢できなくなって、あの体育の時間のことを、
お母さんたちに話しました。
小児麻痺の子のお母さんは、
「子どもがどんなに教室で、不自由しているのだろう」
「迷惑をかけているのだろう」
「申し訳ないことをしてしまった」
と悩みながらと教室に入れずに廊下からじっと様子を見ていました。
が、先生の話を聞いたとき、突然、廊下から飛び込んできました。
教室に入るなり、ぺったりを床に座り、この児童の首にしがみついて絶叫しました。
「坊や、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう。ありがとう、ありがとう、ありがとう。・・・・」
その声がいつまでも教室に響き渡ったそうです。
人を思いやる気持ちって、本当に美しいですね。