今回はIn Deepさんの2022年11月15日の記事を紹介します。
医師から一般の人々まですべてを貫く「医療の宗教化」は、医療教育でのマインドコントロールから始まる。そしてその歴史 - In Deep
医師から一般の人々まですべてを貫く「医療の宗教化」は、医療教育でのマインドコントロールから始まる。そしてその歴史
新しい宗教の中で
前回の記事では、最近、やや無力感の渦中にあるというようなことにふれさせていただきました。
この無力感の原因は、別に社会体制云々とか、戦争がどうだとか、あるいは、この世の終わりがどうだとか、そういうこととは関係ありません。人がいつかは必ず亡くなるように、物理的なこの世もいつかは必ず終わるわけであり、それが明日か 50億年後かがわからないだけのことです。
無気力の原因はひたすら、
「あまりにも多くの人々が、意味の無い理不尽に服従している現実」
にあります。
権威やディープステートなどの「上」のほうからの圧力に絶望しているのではなく、「それに素直に追随する人たち」に少し疲れています。
この3年間の成り行きを見れば、ディープステート等というものは実に頭の悪い脳死集団であることは明白であるわけで、もはや恐れるような存在ではないことを示し続けている時期でもありました(悪魔そのものは別ですが)。
それらの勢力が破れることは、戦争を含めてかなり明白ではあるのですけれど、では、それらの勢力が破れて「この世から消滅した」後どうなるか。
戦前の映画監督の伊丹万作さんが昭和46年に述べていた以下と同じだと思われます。
(伊丹万作『戦争責任者の問題』より)
> 「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。 (indeep.jp)
また「新たな(ものに見える)支配階層が出てくるだけ」だと思われます。
そして必ず、再び支配には「健康」が使用されるはずです。
後述しますが、世界は何百年もその医療支配のために邁進してきました。
2020年に世界中でコロナによるロックダウンが始まり、日本でも緊急事態宣言という名の準ロックダウンが始まった頃、「なぜこんな医療戒厳令が許される?」とは思いました。
まるで感染予防と関係のないさまざまな理不尽(マスクとか消毒とか社会的距離とか)を準強制される中で「意味のないことに尽くさなければならないのなら、単に悪い宗教だろ」だと思っていました。
[記事] 「健康という宗教」が世界中に拡大する中で強行された医療戒厳令。今や、医療と健康概念は神であり宗教となっているという現実 In Deep 2020年10月5日
この医療戒厳令という表現からは、「医療システムそのものが悪い」というような響きにも聞こえるかもしれないですが、そういうことではないです。
少なくとも、お医者様の問題ではない。
ではなぜ、日本でも、あるいは他の国でも、あの戒厳令政策に大部分の医師たちまでもが従い、ましてや、ワクチンさえ多くの医師たちが奨励したのか。
ほんの少し合理的に考えればわかるようなことに対して、なぜあのようなことになったのか?少し前に、マインドコントロールについて書いたことがあります。
[記事] マインドコントロールを増大させるもの In Deep 2022年11月9日
このマインドコントロールという響きからは、何となく一般の人々に対してのもののように感じられるかもしれないですが、「医師に対しても同じ」だということにも気づきます。
お医者様は、基本的には全員が大学の医学部を卒業してから医師になりますが、
「医学部というのは、軍隊でいう軍人養成システムになっている」という大きな現実があります。もちろん、そのことを批判しようとしているわけでも当然ありません。
つまり、多くのお医者様方は、悪意からあのようなことを述べたり、おこなっているのではなく、「それ以外の方法論を教わっていない」という部分が強そうです。
熱が出たら解熱剤、ガンに対しては抗ガン剤、感染症の予防にはワクチン。
そうならざるを得ない。これは、そのお医者様が良い人だとか素晴らしい人物だということとは関係のないことであり、現代医療者の養成所で訓練を受けた人々は、教わったことに従うしかないという現実があります。
先ほどのマインドコントロールの記事では、
「マインドコントロールは、時間の経過と共に自己暗示が加わる催眠状態となるため、その催眠を解くことが大変に難しい」
と書かせていただいていますが、大多数のお医者様たちも同じだと考えざるを得ません。
マインドコントロールが解かれるとき
もちろん、世界中のお医者様には、その呪縛や催眠から解けた方々がたくさんいらっしゃいます。その方々は、どのようにそこに至ったのか。
たとえば、アメリカの小児科の医師であったロバート・メンデルソン (1926-1988年)さんという方がいます。現代医学を非常に厳しく糾弾していた方で、原題が『医療異端者の告白』という著作を 40年くらい前に出しています。これは、邦題で「こうして医者は嘘をつく」として日本語で出版されていますが、原題のほうが好きですので、そちらでご紹介しています。
この方は「現代医学は悪しき宗教」だと著作の最初で述べていました。
2017年の以下の記事でご紹介したことがあります。
[記事] 「現代医学は悪しき宗教」と40年前に述べた異端医師の懺悔
In Deep 2017年2月26日
しかし、このメンデルソン医師もまた、「若い時には、現代医療を本気で信仰していた」のです。
この著作『医療異端者の告白』の最初の章である「告白」という、普通の本でいう「はじめに」というような部分ですが、そこに、メンデルソン医師がどのように宗教の呪縛から解放され、暗示から目覚めたのかの経緯が書かれています。少し抜粋します。
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ロバート・メンデルソン『医療異端者の告白』より抜粋
私は現代医学を信じない。いうなれば、医学界の異端者である。本書を書いたのは、一人でも多くの人に現代医学の呪縛から逃れてほしいと願うからだ。とはいえ、私は最初から異端者だったわけではない。それどころか、かつては現代医学を心から信じていた。
医学生だったころ、ジエチルスチルベストロールという合成ホルモンの研究が周囲で行われていたが、私は深く考える努力を怠っていた。現代医学を信じ切っていたからだ。
この薬を妊娠中に服用した女性から生まれた子どもたちのあいだに、20年ほど経って膣がんや女性器障害が多発することになるとは、誰が予想していただろうか。
研修医だったころ、未熟児に対して酸素療法が行われていたが、私はそのときも疑いを抱かなかった。最新の医療設備を誇る病院でこの治療を受けた低出生体重児の約9割に弱視や失明という重度の視覚障害が発生していたにもかかわらず、である。
一方、医療水準が劣る近くの病院では、この病気(未熟児網膜症)の発症率は1割以下だった。
この差について医学部の教授たちに質問すると、「設備の乏しい病院では正しい診断法がわからないのだ」という答えが返ってきた。私は教授たちを信じた。
未熟児網膜症の原因が高濃度酸素の投与であることがわかったのは、それから1、2年後のことだった。……私はそれでも現代医学を信じつづけた。
その後、私は研究グループに加わり、科学論文の作成に取り組んだ。テーマは「未熟児の呼吸疾患に対するテラマイシンの使用」だった。私たちは論文の中で「この薬には副作用がない」と主張した。当然だろう。副作用が現れる前に論文を書いたからだ。
じつをいうと、テラマイシンだけでなくすべての抗生物質が未熟児の呼吸疾患にあまり効果がないばかりか、テラマイシンを含めてどのテトラサイクリン系抗生物質も数千人の子どもの歯を黄緑色に変色させ、骨にテトラサイクリンの沈着物を形成することを確認している。
私はなおも現代医学を信じつづけた。
私は扁桃腺、胸腺、リンパ節の病気には放射線治療が有効だと信じていた。実際、教授たちは「放射線の照射はむろん危険だが、この程度の線量ならまったく無害だ」と言っていた。
私はその言葉を信じた。
しかしその後、「まったく無害」な線量でも、10年から 20年後には甲状腺に腫瘍を発生させるおそれがあることが判明する。
数年後、現代医学がまいた種を刈り取る時期が到来した。そのとき、かつて放射線で治療した患者たちのことが脳裏に浮かんだ。その中の何人かが甲状腺に腫瘍を患って戻ってくるのではないか。その思いにさいなまれた。
なぜ私に頼るのか。あなたたちをこんな目に遭わせたというのに。
私はもう現代医学を信じない。
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ちょっと長い抜粋になりましたが、何度も何度も自分が学校で教わった、あるいは病院で教わった医学的確信が「むしろ悪いほうにばかりいっている」ことが繰り返されても、
「何度でも信仰を信じ続ける」
ことが繰り返された後に、「自分は、今まで医者としてあまりに多くの被害を患者さんたちに与えていたことに気づいた」とき、それはもう何度も何度も、しかも数多くの子どもたちに多大なダメージを与え続ける中で、「ようやく気づいた」のでした。
「なぜ私に頼るのか。あなたたちをこんな目に遭わせたというのに」
というのが、「告白」です。懺悔の部分です。
その後、メンデルソン医師は、医師でありながら現代医療を批判し続け、強固な「現代医学界の異端」として知られるようになり、その一方で、小児科の開業医として、数多くの子供たちを救い続けて人生を終えました。
このように「気づく」ためには、もちろん根底に「良心」が必要です。
マインドコントロールが深い場合は、「自分は悪いことをしている。しかし、それでもこれは医療的に正しいんだ」という無意識からの訴えが、その良心を抑え続けますが、「良心が逆転したとき」、精神が解放される道筋が示されます。
あるいは、日本の医学者で、胸腺ではない場所で作られる T細胞 (胸腺外分化T細胞)の発見などで世界的に著名だった安保徹さんの体験も似ています。安保徹さんは現代医学の多くの部分を承認できないという部分で、メンデルソン医師同様、日本の「異端」でした。
安保徹さんが、医師の石原結實氏(著作)と対談した際に以下の安保さんの発言が出てきます。
安保徹さんと石原結實医師の対談より
東北大学を卒業した後、青森の県立中央病院で2年間、内科の研修医をやりました。「父のように患者さんを治し、世のため人のために尽くそう」と理想に燃えていました。
でも、夢は無残に打ち砕かれました。私が勤務していた間、15人のガン患者さんを担当しましたが、一生懸命に手を尽くしても、次々に亡くなっていくのです。生還率はゼロでした。
ほどほど治る患者さんも混じっている環境なら、「たまに亡くなるなら仕方ない」と割り切ることもできるのですが、15人が 15人とも、バタバタと亡くなっていく。強い抗ガン剤を使う結果、あっという間に弱っていくのです。
あまりにも、みんながみんな、具合が悪くなって死んでいくので、「ああ、これはダメだ」と思いました。
自分の無能力にさいなまされ、患者さんへの慰めの言葉も見つからないような状況で、私は絶望し、最後には無気力になってしまいました。
「こんなことを続けて、本当に病人を救えるのだろうか?」と、現代医学に疑問を抱いたのはそのときです。
同じような体験をかつてされた、あるいは現在されている医師の方は数多くいらっしゃると思います。つまり、
> 一生懸命に手を尽くしても、次々に亡くなっていくのです。
という部分です。
医学部では「これで治る」と教わった方法で患者さんたちと向きあった若き安保さんが直面した現実でした。
安保さんの場合は、これ一発で「良心が勝った」のだと思われます。15人の死を前にして。
もちろん実際には、メンデルソン医師や安保さんのようになる医師の方の方が少ないのが現実ですが、それはお医者様の良心の問題ではなく、
「マインドコントロールが深い、あるいは暗示が強いため、そこから抜け出すのが不可能な状態」になっているだけだと思われます (悪意のある医師も少しはいらっしゃるでしょうけれど、全体としては良い人たちが多いはずです)。
これはおそらく、多くの方の場合で一生抜け出すことができないと思われます。
くどいようですが、これはそのお医者様の良心や精神や性格とは関係のないことです。どれだけ良い人であるかということではないです。
もちろんお医者様が良い人であることは素晴らしいことですが、それは「正確な治療」と関係するものでもありません。
どのような人であっても、正しい知見へのアクセスを遮られた学習と教唆の中に長くいた場合、普通はなかなか抜けだせないです。
現代医療でのマインドコントロールの歴史はとても長い上に、ずいぶんと昔から「医療と健康で社会の人々をコントロールする」方針が貫かれていますから、この社会の「最大の教育統制は医療者向けに構築されている」と思われます。
医療の規定が現在のようになったのは、180年くらい前の 19世紀のようです。
1832年に英国医師会が設立され、1847年に米国医師会が設立された頃からのようです。
ユースタス・マリンズさんという…まあ、いわゆる陰謀論系と呼ばれる著作を多く書かれている方の『医療殺戮』 (原題は「注射での大量殺戮」)という著作には、医学界が、それまでのホメオパシーから、対症療法等が中心のアロパシーに変わっていったことについて以下のように書かれています。
アロパシー医学 vs ホメオパシー医学
設立当初から米国医師会は、アロパシー医学(対症療法、病気の症状を押さえることを主眼に置いた医学で、現代医学の中心的な治療法)を治療の基本とした。
アロパシーは公認の医科大学で訓練を受けた医師が行う治療で、外科手術と投薬に極端に依存する治療法であった。
…そして、医学界が指定する治療法、あるいは標準的で正式な治療法に従わない医学は、どのような医学に対しても、敵意をあらわした。
19世紀の医学校では、「ホメオパシー」医学(同種(同毒)療法、健康な人に疾患を起こさせる薬物をごく少量投与する治療法)のほうが広く普及していたが、アロパシー学派はホメオバシーに対して強力な敵対活動を始めた。
MURDER BY INFECTION
この頃から、現代医学の学派は他の信念に基づく医学を「排除」し始めたということのようです。この構図は宗教戦争とも似ています。
このような方向に進むよりさらに以前、今から 500年以上前に、英国のヘンリー八世の署名で制定された「1511年法」というものがあり、この頃から、「国が制定する免許を持った医師だけが医療を許可される」という方向が決定付けられたようです。
日本はずいぶんと後になってからだったかもしれないですが、結局は全世界が「統一された医学の方向に組み入れられた」のが現代です。そして、世界中の医師が白衣を着て君臨し……と書いていて、ふと、「白衣ってそもそも何だ?」と以前思ったことを思い出します。
そういえば、先ほどのアメリカのメンデルソン医師の著作の中で印象深かったのは、メンデルソン医師が小児科医として診療していた際には、「一度も白衣を着なかった」と述べており、つまり、社会の同じような年齢の男性たちと同じように背広を着て、診察に臨んでいたようです。
白衣の呪縛
この「白衣」というものを医師が着用する理由については、いろいろと説明されているのかもしれないですが、「基本的には特に合理的な意味は見出させない」ことも事実です。
メンデルソン医師は、「白衣は、医師の権威の象徴である」と明言していましたけれど、だからこそ、自らは着用しなかったようですが、実際、日本においても、精神科医や神経内科医も含めて、医師と名のつく方々はほとんどの方が白衣を着て診療、治療してらっしゃると思います。(私の人生で、普段着で診療していた医師の方を見たのは 2名だけです)
この問題もまた、医師の方々が医学生時代に、「なぜ医師が白衣を着用するのか」ということに関しての、医学的な正当な理由というものを教わっていたのかどうかということも気になります。
もちろん、なぜ白衣を着るのかということは医学校で教わることなのなのかもしれないですが、しかし、議論に至れば、「無意味」であることがわかってしまう。
何しろ、お医者様になる方々はその多くが大変に優秀な方々であるわけですから、合理、合理と突きつめていけば、白衣だけではないですが、「医療の常識の多くが崩壊してしまう」という可能性もあるわけで、少なくとも「白衣着用についての議論」はされていないように思います。
ふと、常にピエロの格好をして子供たちの治療にあたっていたアメリカのパッチ・アダムス医師などのことを思い出します。
パッチ・アダムス医師も極めて優秀な人物だったのですが、その理念である「笑いで人を治す」という行為が大学の医学部上層部から咎められ、退学について争う学校裁判にまで発展します。パッチ・アダムス医師については、ずいぶん前にブログで書かせていただいたことがあります。
話が逸れましたが、この、「着用するものと医師の権威」というのもまた、数百年前から医療界にはあったもののようで、これもまた異端中の異端の医師といえる 16世紀の医師パラケルスス (1493年 - 1541年)は、当時の医師たちに対して、批判的な以下の言葉を残しています。
これは、1908年に、ルドルフ・シュタイナーが講義で述べたパラケルススの言葉です。
パラケルススの言葉より
南欧の医者たち、モンペリエ、サレルノ、パリの医者たちは栄光にあこがれ、人を軽蔑したいと思っている。それなのに、医者たち自身は何も、ものを知らないし、何もできやしない。これはおかしいんじゃないか。
医者のおしゃべりな口も、豪奢な服装も、患者をごまかす技術にすぎない。浣腸したり、下剤をかけたり。
それでも死んでしまったら、あらゆる手段を尽くしたんだから仕方ない。医者たちは偉大な解剖学に通じているという。それなのに、酒石が歯に引っ掛かっているのを見落とす始末。
医者は、何を解剖し、何を見ているのか。
医者は、糞尿と付き合うけれど、目が二つしかないので、目の前の体がよく見えない。ドイツの医者は一生懸命、カッコウみたいに覗く。
そうやって、いろんなものを見るけれど、昔のほうがかえってよく見えていた。糞尿と腐肉に囲まれて窒息しそうだ。医者が患者を連れていくのは、葬儀場だ。
パラケルススは、異端中の異端でしたが、述べたことはわりと的確だったと思います。
> 「医者が患者を連れていくのは、葬儀場だ」
というのは、どこかの時代に通じる響きではありますが、まあしかし、わりとこういう状況はかなりの昔からあったと。
いずれにしましても、長く続く現代医学の理念は強固に構築されていまして、ここを「疑う」というのは難しいことかと思います。医師自身がそれを固く信じ続ける。
当然、医師にかかる私たち一般の人々もそれを信じ続ける。
ここに「相互の信頼に基づく宗教」が成立する要素が存在しているわけで、これが、現代医療システムの特徴でもあります。
ほっといても治るような発熱や風邪に薬を与えることで、むしろ状況を悪化させたりしていても、それでも、医師も患者も「疑わない」。
[記事] 子どもがみんな解熱剤でやられてしまう In Deep 2022年8月27日
中世のヨーロッパで「神などは存在しない」と叫べば火刑に処されたのと同様に、現代医療の根幹である対症療法を否定すれば、火刑……にはならないでしょうけれど、家計には響くかもしれません(粋なダジャレはいいから)。
なお、最初のほうにも書きましたけれど、今回のことは、決して医療体制やお医者様に対しての批判的な文言ではありません。
マインドコントロールや暗示から(医師・患者共に)ここから抜けだせる可能性がきわめて低い以上は、私たち「病院にかかるほうの考え方」が重要だという話です。
考えてみる、というような。
「なぜ私は血圧を下げる薬を飲んでいるのか」
「なぜ私はコレステロールを下げる薬を飲んでいるのか」
「なぜ私は抗うつ剤を飲んでいるのか」
それぞれ有効な理由がご自分で見出させたのなら、それでいいのだと思います。
いかなる薬もそれ自体が責められるものではありません。すべての薬に作用そのものはあります。それが自身に必要な作用かどうかという判断は、最終的にはご自身にしかできないような気もします。
私自身は病院に行かなくなって、ずいぶん経ちますけれど、それは何年も偶然行く必要がなかったからであるだけで、必要であるならもちろん病院に行きます。
まあしかし、私には「憧れの死亡年齢」というのがありまして、私の好きな人たち、たとえば、安保徹さんとか、シュタイナーさんとか、野口晴哉さんとか、みんなほぼ 65歳で亡くなっているんですよ。私でいうと、あと 5年くらいなんです。
何だか長くなっている上に、収集がつかなくなってきました。
医師の問題ではなく、「一般の人たちの考え方の問題」ということについて今から 100年以上前にルドルフ・シュタイナーが述べていまして、その部分を抜粋して締めさせていただきます。『病気と治療』という著作に収められています。ここでシュタイナーさんは、将来的に医学の権威がますます拡大する可能性についてもふれています。
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講義「病気の本質」 (1908年)より ルドルフ・シュタイナー
一般に人間は、病気になってはじめて病気のことを気にかけるものです。そして、病気になったとき、なによりも病気が治ることに関心を持ちます。
病気が治ることが問題なのであって、「どのように」癒されるかということはどうでもいいと思っています。現代人の多くはそのように考えています。
今日では、宗教より医学の領域に、権威への信仰が見られます。医学的な権威者の有する権限は大きく、将来さらに大きくなっていくでしょう。
このような現状は、一般人に責任がないとはいえません。病気で苦しんでいないと、このようなことについて真剣に考えないからです。
医学的な権威者がさまざまな事柄、たとえば子供の教育や学校生活について語るのを、人々は平静に聞いています。その背後にどのような事柄が存在するのかを、気にかけていないのです。
病院がどのような法律によって作られるかというようなことを、人々は傍観しています。
人々は、そのようなことに真剣なまなざしを向けようとしません。
通常の唯物論的な医学では治らない人々も、なぜそうなのかを深く考えず、ただ治るかどうかを気にしています。
神秘的な治療法に頼る人々も、なぜそうかを深く考えず、ただ治るかどうかを気にしています。
…単に利己主義的な治癒への欲求だけではなく、病気と治療に関して、その深い原因を認識し、その認識を広めることが、ほんとうの精神運動の課題です。
今日のような唯物論の時代には、病気についての教義が唯物論的な思考方法の大きな影響を受けています。ある方法を特別のものだとすると、道を誤ります。
また、自然科学的な基盤に基づいており、さまざまな点で有効でありながら、唯物論的な理論を付加されたものを、単に批判すると、道を誤ります。
すべてを心理治療に抱合しようとすると、大きな偏りに陥ります。
人間は複雑な存在であり、人間に関するものはすべて、その複雑さと関係するということを、なによりも明らかにしなければなりません。
人間が単に肉体からなる存在であると見るなら、治療をすることは不可能になります。健康と病気は、肉体だけに関することではなく、人間の心と精神にも関係しています。