今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最新の内容を紹介します。
1419 2024.07.17 ~ 1427 2024.07.27 (前日の続き)
<法華経は湧喜(ゆうき)を与えてくれるお経>
・自分が自分であることを肯定(その宇宙的存在意義、価値)させてくれる。
・いのちの旅路は永い。勝負は今生だけでは決まらないと教えてくれる。
・誰でも、最終的には、必ずゴールインできる(成長して仏になれる)のだと教えてくれる。
<大敬の法華経の読み方>
・セクト(教団)の教学で読まない。
・全巻(28章)を、一日に0.5章~1章ずつ音読する。
・白文(はくぶん、漢文のまま)で読む。
・法華経は「神話」。「法華経遺伝子(骨太に生きる遺伝子)」を潜在意識に届けておけば、イザという時に発動してくれる。
<法華経は、俗っぽいお経>
・華厳経との比較。
『華厳経』は「聖なるものを目指すお経」
『法華経』は、「イノチの全体性を目指すお経」
・『華厳経』もいのちの一体性を説く(「因陀羅珠網(インドラしゅもう)」の喩え)、「一即多(いちそくた)」。
・『法華経』のいのちの一体性の教えは智顗(ちぎ)大師の「一念三千(いちねんさんぜん)」で示される。
・『華厳経』は、仏性(ぶっしょう、仏になる可能性)があるのだから、悪界を離れて「仏界」に行こうよと誘う(聖なるものを目指せ)。
・『法華経』は、私達の心に「仏界」もあるけれど、「悪界」もある。その全部(仏もヒトラーも)を我が事であると認め、受け入れ、許し、抱擁できる人(仏)になろう(全体性を目指せ)と鼓舞してくれる。
<「関わること(愛すること)」の深化>
お釈迦様が菩提樹のもとで「イノチの一体性」の悟りを開かれた→私と地上世界のすべての存在は本来「一体のイノチ」であることが分かったのだから、私はもう、その「一体のイノチ」が実現している高い世界に戻ろうか→21日間のためらい(地上の苦悩する者たちを残して、私だけが安穏な世界に去ってもよいのだろうか?)→いや、やっぱり地上世界に残って、彼らを導いてゆこう。彼ら全員が私のレベルに達するまで導いてゆこう→私の死後も、引き続いて彼らと関わっていこう。魂進化のゴールの日まで一緒に歩んでゆこう。(関わりの深化)→授記(じゅき)を開始。
<授記(じゅき)物語>(法華経の前半は授記対象の拡大を示すドラマ)
・「授記物語」とは、「受け入れ、許し、愛し、抱擁する」ことが出来る対象(一緒にゴールまで歩んでゆこうと、関わってゆく覚悟が決まった対象)の範囲を次第に大きく広げて「魂の全体性」を実現してゆこうというドラマ。
・「授記対象の拡大」:まず、僧団のリーダー弟子達に授記→中堅弟子に授記→まだ悟りを開いていない弟子にも授記→この場で法華経の説法を聞いている者全員に授記→未来に法華経を聞くであろう人たちにも授記→人以外の生ある者たちにも授記→おシャカ様に敵対して、暗殺を謀ったダイバダッタにも授記→女性たちにも授記→最後に、元妻のヤシュダラにも「授記」を与えて「授記物語」は終わった。
<多宝塔の出現>
・多宝塔が地の底から湧き上がりそびえる。中に多宝仏がいらっしゃる。この仏は「現在から未来に向かうという誓い」を立てた仏。
・釈迦仏が宇宙に分散している自らの分身たちを全員集める(イノチの全体性回復を象徴するドラマ)→多宝塔の扉が開く→多宝仏と釈迦仏が並座(並んですわる)→これで、釈迦仏が「死後も、ゴールの日まで生あるものたちの進化の歩みに関わり続けてゆく」というシステムが完成した。
<地涌(ぢゆう)の菩薩の出現>
私(釈迦仏)は何千年という昔から、この菩薩たちを指導してきた。過去に現れた聖者、また未来に現れる聖者たちも、実はすべて「私」だったのだと宣言する(イノチの永遠性)。
<「妙法蓮華経」という経題の意味>
(経題現代訳)大宇宙に咲いた色とりどりの花々である「個々のいのちたち」は、実は分離・孤立しているのではなく、「連帯する、一体のいのち」なのであるということを教え、不要な花など一つもない、それぞれの花は、その花だけが果たせる独自の役割と使命を担っていて、精一杯美しく輝いて咲き誇っているのだという「いのちの実相」を教える経典。
以下の賢治さんのコトバに「法華経のハート」が語りつくされている。
○ 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。
○ 新たな時代は世界が「一」の意識になり生物となる方向にある。
(農民芸術概論綱要』より)(完)
1414 2024.07.12 ~ 1418 2024.07.16
『不動智神妙録(ふどうち しんみょうろく)』より
この書は、沢庵禅師(たくわん ぜんじ)が、柳生新陰流、将軍家剣道指南役 柳生宗矩(むねのり)に出された書簡を記録したもの。
○ 諸仏不動智(しょぶつ ぶどうち)
右にも、左にも、十方八方へ、心は動きたいように動きながら、ちっとも(どこにも)止まらない心を、不動智といいます。
○ 千手観音(せんじゅ かんのん)
たとえば、弓を取る手に心が止まってしまえば、残りの九百九十九の手はみな役に立ちません。どの一箇所にも、心を止めないからこそ、どの手もみな役に立つのです。
○ 初心にかえる
至極のレベルに達しますと、手・足・身(カラダ)が勝手にはたらいて、心の工夫は一切必要ないという境地になるものです。
○ 心ありて守るとなけれど小山田(おやまだ)に、いたづらならぬかかしなりけり (鎌倉 仏国国師の歌)
○ 間髪(かんぱつ)を容れず、石火之機(せっかのき)
たとえば「右衛門!」と呼びかけると、とっさに「はい!」答えるのを<不動智(ふどうち)>と言います。「右衛門!」と呼びかけられて、『何の用だろうか?』などと思案して,その後に返答する心を<住地煩悩(じゅうち ぼんのう)>というのです。
(註)「住地煩悩」:サラサラ流せずに、どこかに意識がへばりついてしまって、自由が効かなくなってしまう境地。
○ 何処(どこ)に置こうぞ。
(心を)右の手に置けば、右の手に心を取られて、身の用が欠けてしまいます。心を眼に置けば、眼に取られて、身の用が欠けてしまいます。右の足に心を置けば、右の足に心を取られて、身の用が欠けてしまいます。どこであっても、一箇所に心を置けば、その他の方向の用は皆欠けてしまいます。そうであれば、心をどこに置けばいいのでしょう。
その答え。「どこにも心を置かねば、我身いっぱいに心が行きわたりて、全体に延びひろがってあるので、手が必要な時は、(思わず)手がはたらき、足が必要な時は、(思わず)足がはたらき、目が必要な時は、(思わず)目が役に立ち、その必要な所々、時々、場合場合の用に叶って適切にはたらけるのです。(完)