今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年07月05日の記事を紹介します。
「与えることから始まる」
今日はマザーテレサと、ブッダのお話をご紹介します。
幸せになるためのコツについてです。
まずは、マザーテレサ。
財団法人富士福祉事業団 理事長 枝見太朗さんのお話です。
<引用開始> 引用元
マザー・テレサは50年近く「貧しい人と共に生きる」という活動を続け、
それが評価されてノーベル平和賞を受賞しました。
僕は約15年間、彼女と一緒に仕事をしたのですが、
常に目の前にいる人、本当に最も身近な人を助けていました。
「お砂糖坊やの捧げ物」という有名なエピソードがあります。
マザーの孤児たちの施設「シシュ・ババン(聖なる子どもの家)」に、
ある時、裕福そうな夫婦が3歳くらいの坊やを連れて見学に来られました。
そのお父さんが「一番足りないものは何ですか?」と聞くと、
マザーは「子どもたちが食事をする時のお砂糖です」と答えました。
家に帰った坊やは、次の日から毎日のお茶の時間に、
自分の飲む紅茶に入れるお砂糖を、その分だけ小さなビンに入れていきました。
そして再びその家族が施設を訪れた時、
坊やはお砂糖がいっぱい溜まったビンをマザーにプレゼントしました。
マザーは大喜びでした。
すでにそのお父さんから大量の砂糖を寄付してもらっていたのですが、
「お父さんからいただいたお砂糖も大変嬉しかったけど、
私はこの小さなビンに入ったお砂糖が何倍も嬉しい」と言っていました。
それからマザーは、
「あの小さな子どもが施設の子どもたちの痛みを共に分かち合って、
自分が我慢をして溜めたお砂糖は、何トンものお砂糖よりも重いものです」と
修道会でよくお話をしていました。
この「お砂糖坊や」の視点は、「持てる者が、持てない者へ」ではなく、
「共にその痛みを分かち合うことの必要性」を言っているのだと思います。
日本では「ボランティア活動=奉仕活動」と理解されています。
でもボランティア活動は、実は奉仕活動とは意味が違うんです。
それは「持てる者が持てない者へ、力の強い者が力の弱い者に施す」感覚ということです。
そんな「奉仕活動」に象徴されるような考え方が
日本の福祉の発展を大きく妨げてきたのではないかと私は思っているんですね。
「お金のある人が寄付をすればいい」と思っていると、
寄付をもらいにいく時にどうしても企業やお金持ちの家に行ってしまいます。
ところがマザーはそうじゃないと言うのです。
「貧しい人、貧しさを知っている人たちから、
少しずつでいいから、その痛みを分かち合ってもらえるような
寄付の集め方をしてごらんなさい」と。
<引用終了>
このマザーテレサの教えてくださったことは、ブッダの教えの、「托鉢」と同じものです。
托鉢とは、笠をかぶったお坊さんが、家々を回ったり、道路の脇に立ち、
手に鉢をもって、その中にお布施を頂くというものです。
ブッダは、托鉢に向かう弟子たちに、こう言いました。
お金持ちの家ではなく、貧しい人たちの家を回って、托鉢をしてきなさいと。
弟子たちは、驚きました。
「お金持ちの家から、お布施を頂くのではないのですか?」
ブッダは弟子たちに、こう言ったそうです。
貧しい人たちというのは、今まで、自分が貧しいと思って、
他人に対して、施しをしてこなかった人たちである。
それ故に、貧しさから抜け出すことができずにいる。
だから私たちが布施をいただきに行くのは、このような貧しい人たちを、
その貧しさから救ってあげるためなのだから、貧しい人の家を回って来なさい。
托鉢に金額は関係ありません。
これも宇宙の法則
与えるものが、受け取るもの
と同じです。
貧しさから抜け出す最初の一歩は、まず他人が喜ぶことを
自分から、先にすることなのかもしれません。
だから托鉢は、お坊様たちが自分たちで食べるものを
もらうために行う行為ではありません
与えるものが受け取るもの
この言葉が意味することはひとつ。
全ては、
自分が与えることから始まるということ。
これは、財産だけでなく、健康や、幸せもそうかもしれません。
・健康でない時
・いじめにあっている時
・家族で病気の方がいる時
・経済的に苦しい時
人は、自分が幸せではないと思って、
他人に対して、笑顔や、やさしさ、思いやりを施してこなかったかもしれませんね。。
ですが、これを機会に、ちょっとだけ決意を新たにして、
・不平不満、愚痴、悪口を口にせず
・人の幸福を喜び
・人の悲しみに、ともに涙し
・日々の糧を与えてくださる神々に感謝し
・苦しみや、悲しみの出来事を起こし、魂を磨こうとしてくださる神々に感謝し
・ともに、笑い、泣いてくれる家族や友に感謝し
一日を過ごしてみませんか
きっと運命が良い方向に向かって回転していくと思います。