今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年09月03日の記事を紹介します。
「今ここ」
今日は「頼まれごとの人生」ということで
般若心経を持ち帰ってくれた、三蔵法師のお話です。
以前書いた記事を加筆、修正してご紹介します。
人間の浅はかな思考、努力よりも、感謝の心を持って、天の動きに身を任せた方が
「生まれて来た本当の目的」にとって、はるかにゴール近くに到達できると言うお話です。
三蔵法師と言えば、西遊記が有名ですね。
また、般若心経をインドから持ち帰り、私たちに届けてくださった方としても有名です。
小林正観さんのお話からご紹介します。
<転載開始> 転載元
7世紀、唐の時代、仏教典を天竺まで取りに行った玄奘三蔵(三蔵法師になる前の名前)は、
往復17年かけ、長安の都へ帰ってきました。
片道1万5千キロの距離を往復17年、行きに15年半、帰りに1年半かかったそうです。
帰りは1年半で帰ってきたのに、なぜ、行きは15年半もかかったのか?
それは、各国の王様の滞在要請を、玄奘がすべて受け入れたからです。
・ここで3ヶ月いてください
・半年いてください
と頼まれた玄奘は、 「はい。わかりました」と言って、
その王国の家臣団、武士達に仏法を説いていたのです。
玄奘の立場からすれば、
天竺にありがたいお経を取りに行く、
という大きな目的があって、旅を始めたわけですから、
いくら王達に頼まれても 「私には使命があるのだから、
あなた方の要求には応えられません」 と断ることもできそうですよね?
でも玄奘は断らなかった。
今、目の前にいる人が、1番大事だという事がわかっていたからです。
「仏法を説いてくれ」と言われて、ここで説かなければ、
“私”が存在する意味がないのではないか。
仏教典を取りに行くというのは、あくまで自分が決めたこと。
旅の途中で、“私”に対して「仏教を説いてくれ」と希望している人が目の前にいる。
その要望に応えないで、何のために私は仏教典を取りにいくというのだろうか。
当時は疫病が流行っていましたから、3ヶ月、半年と滞在している内に、
病気で死んでしまうかもしれない。
しかし、それでもいいと思いながら、その依頼に対しては、
本当に心を込めて応えたのだと思います。
玄奘のとった行動を考えたときに、突然ぽこっと、私(正観さん)の頭の中から
ある言葉が出てきました。(天が教えてくれました)
「玄奘が一人目ではない」
玄奘は、成功した唯一の人であって、それ以前にどうも何人かの人が
天竺に仏教典を取りに行ったらしい。
考えてみればそうですね。
天竺にありがたいお経を取りに行こうとした僧侶は、何十人もいただろうし、
実行に移したと思うのです。
しかし、その人達は、誰一人、長安の都には帰ってこなかった。
どうして誰一人帰ってこなかったのか?
それは、先を急いだからです。
王たちの依頼を断らずに旅先で、仏法を説いていたために、行きは15年半もかかって天竺に着いた玄奘が、帰りは1年半で帰ってこれたのはなぜか?
帰りもこの王達は玄奘を放ってはおかなかったからです。
ものすごい協力体制をしいて、国境毎に兵隊を出して、玄奘を擁護しながら、
次の国境まで運んでいったのです。
国境で次の国の軍隊に申し送って、その王達も馬と兵隊を提供して、次の国境まで擁護して… ということをやっていたのです。
この1万5千キロのすべての王達が、そのように玄奘を守って無事帰国させたのは、
行きの15年半があったからです。
玄奘だけがチャレンジャーではなかった。
玄奘が仏教典を持ち帰り、歴史に名前を残しているのは、行く道のすべての人を
味方にすることができた唯一の人だったからです。
玄奘は、仏教に詳しいだけではなかった。
今、目の前にいる人を大切にする人だった。
玄奘と同じようにチャレンジした僧侶たちは、自分達の崇高な理念のもとに、
目の前の人を大切にするという思想を忘れてしまっていたのかもしれません。
その結果として、帰りは自分だけの力で、砂漠を横断しなければならなかったのだと思います。
玄奘は、お釈迦様の教えが本当に非常に深い部分で分かっていた。
全ての人を大切にして生きていくということは、
自分の人生を助けてもらうということでもあるのです。
皆さんも自分の人生になぞらえて置き換えてみたらどうでしょう。
私達は、自分の力だけで歩いているのではないですよね。
出会う人、巡り会う人、すべての人の力をいただいて、人生を歩いていきます。
人に会うたびに、今できることに全力を傾けて、その人を最も大事な人と思って接していけば、たとえ、今日その人が死んでしまっても受け入れられるものです。
この瞬間に目の前にいる人に
自分の思いを注ぐということをやり始めると、
過去為したことについて、後悔するという気持ちはなくなっていくでしょう。
過去でも、未来でもなく、「今」の自分に出来ることを…
今、自分の目の前にいる人のお役に立てるように、ただやり続けるだけ・・・
<転載終了>
考えさせられる内容です。
私たちはとかく合理性を考えたり、優先度を考えて、物事に優劣をつけがちですが、
ブッダは、
「そんなことを考えずとも、
・今目の前に居る人を大切にし、
・目の前に起こったことに対し、
誠意をもって接すれば良いですよ」と仰っているのです。
だから、私たちの限られた浅はかな知恵で、これはとっても大切なことなのに、
後回しにしてもよいのだろうか?
などと心配しなくても、神様が最適な順序で、人を運んできて下さり、ものを目の前に運んできてくださっているのだから、その時、目の前にあることに集中するだけで良い・・と言うことです。
この真理を三蔵法師は知っていたからこそ、唯一天竺からも戻ってくることができたのです。
そして沢山の味方を得ることができました。
この知恵を知らず、頭でっかちで、○○せねばならない・・
目の前のくだらなく見えることよりも、私には使命がある・・
わたしには、ムリ・・
そう思った人たちは、ことごとく失敗し、命を落としたのでしょう。
これは私たちの日常生活にも当てはまります。
私たちにとって大切なのは、
・今、目の前に居る人
・今、目の前で起こっていること
決して過去の出来事を悔んだり、
未来に起こるだろうことを取り越し苦労することではありません。
仕事でもそうです。
・目の前に来たものから、
・人が運んでくださったこと、
・人からの頼まれごとを
・丁寧に、嫌がらず笑顔で引き受けていく・・
決して経済合理性からくる優先度で動くものではないということです。
神様が万端の準備を行って、人を介して、その出来事を運んでくださったからです。
頭の良い人たちは、こちらが大切な仕事、あちらは何時でも良い仕事と区別するかもしれませんが、神様の視点から見れば、それは少し傲慢に映るのではないかと思います。
神様は、私たちに直観と言う形で知らせをくれることがありますが、その多くは、人の口や、態度、行動を介して、神様の恵みの言葉を下さることが多いようです。
ですから、私たちに投げかけられた言葉は、
・あんな人の言葉だから
・悪口や忠告など聞きたくない
・面倒くさいから
・どうせムリだから
ではなく、どんな言葉も、一旦受け取って考えてみたいものです。
このことこそ、マザーテレサが言った次の言葉の本当の意味です。
最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。
あなたと他の人の間のことであったことは、一度もなかったのです。
私たちが触れ合う人々を通じ、神様は私たちを導いて下さると言うことです。
マザーは、人生において、それが、全てであるとおっしゃっているのです。
今、目の前に居る人はどんな方ですか?
・旦那様ですか?
・奥様ですか?
・お子さんですか?
・会社の人ですか?
・友達ですか?
その方々の言葉に耳を傾けていらっしゃいますか?
真心を尽くし、優しく接していらっしゃいますか?
思いやりを持って、接していますか?
その事こそが、私たちにとって一番大切なことです。
それさえできれば、他のことは全て後からついてきます。
全てがうまくいきます。
いま目の前に居らっしゃる方に、どうぞ優しく、真心をこめて接してください。
そしてその事を通じ、幸せと喜びを共に分かち合ってください。
人生において、それ以上に大切なことは無いのですから。