2014年8月29日金曜日

341「熊野転生8」2014,8,27

  天河神社は玉置神社からは結構な道のりで、かなり狭い道を進み、2時間程かかりました。大峰山脈の水を集めた天ノ川は九尾ダム湖を過ぎ、天川村で湾曲しますがその辺りに天河神社はあります。


この地を流れる天の川と天空の天の川が呼応して、神秘的なエネルギーを感じるパワースポットとして、スピリチャル系の方々に人気の地で、聖地と言われています。私もこれまで何度も訪れていますが、名称は大峰本宮天河大弁才天社です。その謂れは以下です。

「宗像三女神の一人、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を主祭神とする。芸能の神として知られ、現在も芸能関係の参拝が多い。元の祭神名は弁財天(サラスヴァティー)で、神仏分離により「市杵島姫命」と称するようになったものである。今日でも社名に「弁財天」とついている通り、「弁財天」としても信仰されている。「厳島、竹生島と並ぶ日本三大弁財天のひとつ」と称している。
 室町期の僧英俊による多聞院日記に、「天川開山ハ役行者」と記述がある。天河大辨財天社の草創は飛鳥時代、役行者の大峯開山の際に蔵王権現に先立って勧請され最高峰である弥山(みせん)の鎮守として祀られたのに始まる。弘法大師が高野山の開山に先立って大峯山で修行し、最大の行場が天河神社であった。弘法大師にまつわる遺品が奉納されている。 当社は江戸時代までは琵琶山白飯寺と号し、本尊を弁才天(宇賀神王)としていたが、明治の廃仏毀釈で白飯寺は廃寺となり、本尊の弁才天は市杵嶋姫命と改められた。
 1992年、杜撰な資金計画による社殿改築・境内整備が破綻し、破産宣告を受ける。不動産等が競売にかけられたが買い手がつかず、債権者の債権放棄によって救済された。」

 元々は役行者により開山され弥山の鎮守として弁才天(宇賀神王)を祀っていたのが、明治に市杵嶋姫命改められ今に至っています。外来神としての弁才天は日本の神では瀬織津姫として祀られることもあります。
 宇賀神弁財天、宇賀神については以下の様です。
「中世以降、弁才天は宇賀神(出自不明の蛇神)と習合して、頭上に翁面蛇体の宇賀神をいただく姿の、宇賀弁才天(宇賀神将・宇賀神王とも言われる)が広く信仰されるようになる。弁才天の化身は蛇や龍とされるが、その所説はインド・中国の経典には見られず、それが説かれているのは、日本で撰述された宇賀弁才天の偽経においてである。」
「宇賀神(うがじん)は、日本で中世以降信仰された神である。神名の「宇賀」は、日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するものと一般的には考えられている(仏教語で「財施」を意味する「宇迦耶(うがや)」に由来するという説もある)。
 その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと一様ではない。」

 天河大弁財天社の縁起に以下のものもあります。
「7世紀後半、皇位継承をめぐる争いで窮地にたたされた大海人皇子は、大和朝廷を守護する神々のふるさと吉野を訪れ、勝利を祈願して琴を奏じました。すると、その音に乗って天女が現れ、戦勝の祝福を示しました。この天女は、役行者が弥山山頂に祀ったとされる弥山大神でした。これに力を得た皇子は、壬申の乱に勝利を収め、即位して天武天皇となります。
 その後、天皇はこの天女の加護に報いるため、弥山の麓に神殿を造営し、「天の安河の宮」とされました。これが天河大辨財天社の始まりだと伝えられており、天川村の名前の由来となったとされています。
 日本の三大弁天のひとつに数えられているこの天河大辨財天社では、中央にその弁才天女、右に熊野権現(本地仏:阿弥陀如来)左に吉野権現(蔵王権現)がお祀りされており、神仏習合の形態を今も残しています。
また、神社は大峯本宮あるいは吉野総社として、大峯修験の要の行場とされ、古来、高僧や修験者たちが集まりました。とくに弘法大師空海の参籠後は、大峯参り、高野詣と併せて多くの人々が訪れるところとなりました。
 水の精である辨財天女は、音楽や芸能の神様としても有名です。京都の観世界による能の奉納が現在も毎年行われ、世阿弥も用いたとされる阿古武尉の面、能楽草創期からの価値の高い能面、能装束が多数奉納されています。江戸時代、放浪の僧円空も大峯の地で修行され、辨財天社にはその傑作とされる「大黒天」も奉納されています。そのお姿は、やさしい笑顔がこころに残る円空の仏像で、やすらぎを語りかけているかのようです。」
 
 この地はかつて南北朝時代に南朝の拠点としても重要な役割を果たしたようです。
「南北朝時代は後醍醐天皇による建武の中興(1333年)の3年間と、吉野に都を構えて以降3代の天皇による57年の歴史を数えます。その3分の2以上の期間は、奥吉野の各地に拠点がおかれました。天川の郷でも川合地区の河合寺が黒木の御所として、また沢原地区の光遍寺、坪内地区の天河大辨財天社についても南朝に組しそれぞれ行宮とされました。なかでも天河大辨財天社の行宮では、宮中さながらの栄華を極めたといわれています。嘉喜門院集に「天授三年七月七日吉野行宮御楽あり、嘉喜門院琵琶を弾じ天皇和歌を詠ず」としるされています。
 天川郷の人々も積極的に加担し、村内の地区ごとに傳御組(おとな組)を組織して忠勤を果たしました。天河郷には十三通の綸旨、令旨が下賜され現存しています。そのなかには天河郷の忠誠を賞でられたものや、その加賞として天河辨財天へ賜った地行地配分のお墨付きなどが含まれています。」

 神殿は巨石、磐座の上にあります。拝殿には神宝の五十鈴の鈴を模した鈴があります。
「五十鈴は正式には神代鈴と申し、数千年前から当社のみに残されている青銅製でつくられたものです。歴史的には、天照大御神が天の岩屋にお隠れになった時に、天之宇受売命がこの五十鈴をつけられた矛をその手に持たれ、大地を踏みしめて聖なる舞を舞い、大神を外にお連れし、再び生きるに値する光の世に戻ったとされ、この鈴の音霊の働きは、非常に大切なものであることがうかがえます。
 この五十鈴の特徴的な三つの球形の鈴は、それぞれ「いくむすび(生魂)」「たるむすび(足魂)」「たまめむすび(玉留魂)」という魂の進化にとって重要な三つの魂の状態(みむすびの精神)をあらわしています。」



 この立派な神殿等の建築にあたり杜撰(ずさん)な資金計画で倒産したとありますが、いろいろなスピリチャル系の世界では聖地として紹介されています。だんだんにかつてのエネルギーが失われてきているのかもしれません。看板に何やら不思議な言霊の記されたものがありました。女性の参拝客も多くイベントもあるようで人気は衰えていないようです。


 前に来た時にあった鳥居近くの茶店が無くなっていました。そこでかき氷を食べようと期待していたのですが些か残念でした。
 あるブログによると以下のように記されていました。
「奈良の天河神社~玉置神社~那智の大滝が、地図上では一直線に並びます。このラインは、昔から修験道の重要なポイントでもありました。
 私が昔に受けた啓示によりますと、この直線ラインをそのまま太平洋に向けて延ばした先に、幻の巨大な大陸が海上に存在したとの事でした。」
 そうかと思って地図で3点を結んでみたのですが、果たして直線には成りません。天河神社~玉置神社の延長線上には潮岬です。どうでも良いことですけど、これまた残念なことです。
 
 次は向かうのは吉野の金峯山寺です。ここは先にふれた役行者所縁の地です。





「大和の国 、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域でした。この金峯山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得されます。この姿を桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀されます。これが金峯山寺の開創と伝えられています。
 明治7年(1874年)、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり復職神勤しますが、同19年(1886年)に天台宗末の仏寺として復興。昭和23年(1948年)には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗が立宗し、その総本山として今日に至っています。山号は国軸山、宇宙の中心の山という意味を号しています。」

 仙台市にある慈眼寺の塩沼亮潤大阿闍梨はこの大峯山において、一日四十八キロを歩く「大峯千日回峰行」と九日間飲まず・食べず・寝ず・横にならずの『四無行』を満行しておられます。塩沼亮潤大阿闍梨は平成3年から大峯千日回峰行に入行し平成11年に満行し、吉野山金峯山寺1300年の歴史で役行者以来2人目となる大行を成されています。
 私もご縁を頂きかつて何度も慈眼寺の護摩祈祷の参加させて頂いていました。今はとても有名になり沢山の方々が参加されますがその当時はまだ少なく、護摩法話を伺ったり個人的に時間を頂いたりしていました。その流れで2007年9月9日仙台テンメイの発足総会の時、記念講話をして頂きました。
 雨がまた降り出し、山門前の茶店で柿の葉鮨と葛うどんを頂きましたが、美味しく大満足です。柿の葉鮨も自家製でなかなかな風味があり、駅などで売っているのと別物です。流石に本場は違うと思いました。
 
 予定の主なる目的地を巡る事が出来て旅も終盤です。少し時間に余裕があったので吉野神社と石舞台古墳を巡り、奈良駅でレンタカーを戻して岐路に着きました。思い残すとしたら串本、潮岬ですが次回の楽しみとして、今回の熊野巡りで十分でした。次回ブログで少しまとめて熊野転生を終わる予定です。




2014年8月24日日曜日

340「熊野転生7」2014,8,22

 熊野本宮大社旧社地・大斎原(おおゆのはら)は雨が上がっての朝の気は清々しく爽やかです。日本一高い、高さ33,9mの大鳥居をくぐり、足元の水たまりを気にしながら散策しました。既に参拝の方々がおられますがほぼ独占状態です。








2000年以上も前に如何にしてこの中州に祀られていたのか。果たしてどれほどの民がこの山奥の地に住んでいたのか。その生業、営みは如何に為されていたのか。
 神が舞い降りたと言われる聖地は、やがて11000坪の敷地に社殿等が作られ、江戸時代まで橋も無く川を渡って参拝したと言います。現在の本宮大社は500m程離れてありますが、そちらよりも心地良い処です。
 3つの川の流れが合流する中州ならではの浄化力でしょう。社も無く、とてもクリーンなエネルギーで気持ちが良いです。果たして、今は神が居られないのか、何らかの依り代が残っているのか分かりませんが、洪水で流されたことで、形姿にこだわる人為が無しとされ、更に人々の願いの残渣も無しとされ、神が降臨した最初の姿に復元されたようにも思います。自然力は凄いと思います。現在の異常気象も人為を浄化する自然のエネルギーでしょう。それこそが神の顕現でもありそうです。


 この熊野本宮大社を一つの頂点として、5か所を結ぶ綺麗な五芒星がある事が知られています。その地点は、熊野本宮大社・伊勢神宮内宮・伊弉諾神宮・元伊勢 外宮豊受大神社と伊吹山です。そしてそれら星の中心に奈良の平城京であるのです。
 果たして偶然に出来たものなのか、はたまた意図として作られたものなのか分かりませんが、平城京を守る為に5つの拠点を設定して結界を作ったとも考えられています。2000年以上も前にこのようなレイラインを作る事が出来ていたとしたら驚きです。当時は相当な測量技術があり、それは神の力、自然の力を頂き活かす方法として用いられていたのでしょうか。
 しかし平城京は思いのほか早く遷都してしまいました。710年元明天皇により藤原京から遷都され、途中、難波京等に遷り、再度平城京に戻り、最終的に桓武天皇が784年に長岡京に移されるまで70年余りです。


 更に驚くことは熊野本宮大社から、五芒星の中心にある平城京に線を引き延長して行くと、伊勢神宮内宮と伊弉諾神宮の各点を結ぶ線との交点に飛鳥京があり、平城京を越えて更にその先の交点に平安京があるのです。その線は若狭湾に伸びますがその線上に若狭彦神社、若狭姫神社があるのです。
 更に元伊勢と伊吹山を結ぶ線の延長上に出雲大社と富士山があるのです。一体、この様な仕掛けを出来る存在はどのような方なのか、この仕掛けに仕組まれた意図は何なのか、その効果は如何なのか、ますます謎が深まります。このレイラインは、古代のロマンと言うにはあまりにも桁外れな、凄い技術力、摩訶不思議な力を感じてしまします。
 レイライン(ley line)とは、1921年にイギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスが提唱した概念で、古代の遺跡などが直線的に並ぶように建造されているとき、その描くラインのことです。
http://www.ley-line.net/gobou/gobou01.html「近畿の五芒星を巡る」
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1042「秦氏の謎を解く」


 「近畿地方の相互に関連する聖地を結ぶと現われる五芒星。五角形の一辺は約110kmでそれに内接する五芒星の一辺は約180km。
 五角形の上辺は、「御来光の道」の一部を成し、五芒星の中心では、富士山‐伊弉諾神社、出雲大社‐伊勢内宮を結んだそれぞれ約350kmのライン、そして熊野本宮‐明日香京‐平城京‐平安京ラインが交差する。いったい、誰がこんな「設計図」を引いたのか?」http://www.ley-line.net/motoise/motoise_08.html「浮かび上がる五芒星の謎」

 仙台の城下を作る時に伊達正宗が陰陽五行説に基づいて五芒星と六芒星で結界を張った事は有名ですが、その効力が失われるのが2036年とかと言われています。その真偽は解りませんが後20年程先で、もう直ぐです。果たして熊野本宮を頂点にする近畿の五芒星の効力は如何なのでしょうか。

 熊野本宮と東北の繋がりには以下があります。
「養老二年(七一八)、瀬織津姫神が「熊野本宮神」としてエミシの地に上陸したところが唐桑[からくわ]半島(宮城県唐桑町)とされる。同半島(舞根地区)には、その名も瀬織津姫神社が現在も鎮座している。
 熊野本宮神は、この唐桑半島から、室根[むろね]山(八九五㍍)へとまつられるが、しかし、現在の室根神社の本宮神は伊弉冉[いざなみ]命とされ、養老時代にやってきたとされる瀬織津姫の神名はここにはみられない。
 大野東人は鎮守府将軍として宮城県多賀城にあって、中央政権に服しない蝦夷(関東以北に住んでいた先住民)征討の任についていました。
 しかし、蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征服することができなかったので、神の加護を頼ろうと、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願出ました。
 東北地方の国土開発に関心の深かった元正天皇はこの願いを入れ、蝦夷降伏の祈願所として東北の地に熊野神の分霊を祀ることを紀伊の国造や県主に命じました。・・・
 瀬織津姫神は熊野・那智においては、那智大滝に象徴されるが、かつては滝神としての祭祀がなされていた。しかし、この室根神社の伝承では、さらに「熊野本宮神」でもあったことになる。これは、一見突拍子もない伝承にみえるかもしれないが、瀬織津姫神が熊野本宮神でもあったことは、ほかにもすでに事例がみられることである。・・・
 瀬織津姫神を、蝦夷征服の祈願神という、中央サイドからみた「ご利益神」の側面だけでとらえられるならば、瀬織津姫神は熊野本宮神としてそのまま室根山にまつられつづけてしかるべきで、しかし、山上に至ると瀬織津姫の名は消えるという事実をどう考えるべきであろうか。瀬織津姫神を、「エミシ征服の祈願神」と単純にみなすには無理があるのかもしれない。
 熊野から、この東北・唐桑半島の地への遠征航海には、そこには瀬織津姫神の流罪=配流のイメージも喚起されてくる。なぜなら、熊野本宮も那智も、その後、祭祀の表面から、この熊野の本源神を消去しているからである。」

 記紀が成立する前の事ですので、瀬織津姫神は熊野本宮神であったとの関係が読み取れます。唐桑の瀬織津姫神社や室根山の室根神社は何度か参拝していますが、東北には瀬織津姫神をお祀りするところが多いです。早池峰神社には御祭神として祀られていて、特に岩手県遠野市には深い繋がりがありそうです。遠野の地は10月4,5日に中山博さん達とじっくり巡る予定です。
 興味のある方は以下のサイトを読んでみてください。
http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/kumanosin.html「熊野大神の原像」

 次の目的地は熊野三山の奥宮と言われる玉置神社です。十津川に沿った国道168号を上流に向かいます。途中、明媚な景色、瀧が随所に見られます。


国道から離れて十津川の橋を渡り、玉置山へ向かうカーブの続く山道を登って行くとようやく到着です。

 玉置山は標高1076mでその山頂近くに玉置神社は鎮座しています。


 霧のようにガスがかかった境内を鳥居から10分ほど歩いて行くと樹齢3000年と言われる巨大な神代杉に遭遇します。神気漂う森には随所に杉の巨木が林立しています。拝殿には参拝者が思った以上に沢山です。エネルギースポットとして人気なのでしょう。






 この地の修験道は開祖の役行者によってはじめられたと言われ、熊野本宮大社と吉野を結ぶ大峰奥駈道は全行程約170kmで、すべてが険しい山岳地帯にある厳しいものです。ここ玉置神社は大峰奥駈道の靡(なびき)のひとつで奥駈修験の参籠宿だったようです。

 玉置神社に付いては以下の通りです。
「玉置神社は近年まで陸の孤島と呼ばれていた大峰山系の南端、奈良県吉野郡十津川村の霊峰玉置山(標高1076.4m)の山頂直下に鎮座。 この地は古来より,熊野の地であって、佐野命が熊野に上陸した後、八咫烏に先導され大和に入る際、この霊峰玉置山で兵を休め神宝を鎮めて勝利を祈ったと言い伝えられており, 熊野信仰の奥之宮として皇族の行幸や宗教指導者、修験者、霊能者が数多く参籠修行した重要な神体山でもある。
 神武天皇東遷以前から磐座信仰の地として崇められていたと思われ、日本最古の神社説もある。 近くの杉の木の根元には白い玉砂利が敷きつめられ、そのなかにわずかばかり地表に顔を出した丸い石がある。 この石がご神体で、この石は地中にどれだけ埋もれているのかわからないほど大きいといわれている。この石が玉置神社の始まりである。
 神武東征の折、玉置山で兵を休めた佐野命は、この石の上に神宝を置いて勝利を祈った。その後、 第十代崇神天皇が紀元前37年に玉置山に行幸し、その4年後に玉置神社が造営されたと伝えられている。
 祭神  国常立尊、伊邪那岐尊、伊邪那美尊、天照大神、神日本磐余彦尊」
詳しくは以下をご覧ください。
http://www.ne.jp/asahi/network/tamaki-yama/tamaki-j.html
http://www.geocities.jp/flow_and_stock/jisya-kinki/tamakikumano.html
 
 これで熊野三山、玉置神社を巡り終えて次の目的地は天河神社です。

2014年8月22日金曜日

339「熊野転生6」2014,8,17

 熊野本宮大社はかなり強い雨ですので流石に参拝者は少ないです。参拝して本宮の道路向かいに出来たビジターセンターを見学しました。大斎原(おおゆのはら)はこの土砂降りの雨では難しいと諦めました。

 熊野本宮大社のご祭神は家都美御子大神(けつみこのおおかみ)で別名、熊野坐大神(くまぬにますおおかみ)で素戔嗚尊/須佐之男命(すさのおのみこと)のことです。
 由緒は以下の通りです。
「「熊野権現垂迹縁起」によれば、家都美御子大神(熊野坐大神)は唐の天台山から飛来したとされており、須佐之男命とも同一ともされるが、定かではない。また、『帝王編年記』 によれば、崇神天皇65年(紀元前33年)に創建されたとも伝えられている。また、祭神においては、太陽の使いとされる八咫烏(ヤタガラス)を神使とすることから太陽神であるという説や、中州に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説など諸説入り乱れており、謎が多いのも事実である。また、明治22年までは、大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる現在の社地から5分程度歩いたところに鎮座していたとされる。それが、大洪水によって流されてしまったことで、現在地に遷座されたという。」






 由緒によると唐の天台山から飛来した神でとあります。いささか気になります。
 更に以下のようにも記されています。
「神武天皇御東征以前には既に御鎮座になったと云われており、崇神天皇六十五年に社殿が創建されたと「神社縁起」「帝王編年記」「皇年代略記」等に記載されている。
熊野大神を斎きまつったのは熊野連、尾張連であるが、この氏族は饒速日命の子、高倉下の子孫である。その四世の熊野連大阿斗足尼は、成務天皇の御代に熊野国造に任ぜられ、 代々大神に奉仕し、江戸時代末までに及んだ。本宮大社は熊野三山の首座として熊野信仰の総本山として仰がれている。
 主祭神は家津美御子大神(スサノオ命)で、古史によれば、はじめ海原を治めていたが、出雲の国島根の簸の川上に降り、 八岐大蛇を退治され、天叢雲剣を得て天照大神に献上し、遠く大陸をも治めたとある。
 紀伊続風土記に「大神大御身の御毛を抜いて種々の木を生じ給い、其の八十木種の生まれる山を熊野とも木野とも言えるより、 熊野奇霊御木野命(くまのくしみけぬ=家津美御子大神と同意)と称え奉るべし。」とある。植林を全国に奨め、木の国の名、熊野の称はここよりおこった。特に造船の技術を教えられ、貿易を開かれたので古代に海外へという思想があった。舟玉大神と仰がれる。」

「紀伊国熊野に関する限り、固有名詞として考えた場合、出雲国熊野の名が移された可能性がある。
 出雲熊野大社の社伝では、熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとする。おそらく、歴史的にもこれが事実であろう。

 一方、紀伊熊野神社は、早くから仏教と習合して栄え、修験道の修行の地となった。延喜式神名帳には、熊野坐神社(熊野本宮大社)と熊野速玉大社があって熊野那智大社がない。当時、那智は神社でなく修行場と見なされていたからと考えられている。
 
 実際、太母神イザナミの神陵は「出雲と伯岐(ははき)の境なる比婆の山」にあると『古事記』は伝える。一方、『日本書紀』一書第五は「イザナミ尊、火神を生む時に灼かれて神退去(カムサ)りましぬ。故、紀伊國の熊野の有馬村に葬(ハフ)りまつる。土俗(クニヒト)、此の神の魂を祭るに、花の時には亦花を以て祭る。又、鼓吹幡旗(ツツミ・フエ・ハタ)を用(モチヒ)て、歌ひ舞ひて祭る」と異伝を伝える。この記事の場所は和歌山県熊野市有馬町にある通称『花の窟』(はなのいわや)とされており、巨岩の下の窟が墓陵だという。
 これは、元々あった縄文時代以来の巨岩信仰に、民団の移動に伴うイザナミ信仰が重なったものであろう。神道学上、巨岩はしばしば磐座(いわくら)と呼ばれ、神の宿るところとされた。

 熊野地域では、他に、熊野速玉大社の摂社・神倉神社に例が見られる。同社は新宮市中心市街地北西部にある千穂ヶ峯の支ピーク・神倉山(かんのくらやま、かみくらさん、120m)に鎮座し、境内外縁は直ちに断崖絶壁になっている。神体は神倉山山上にある巨岩・ゴトビキ岩である。明らかな磐座信仰だ。ゴトビキとはヒキガエルの新宮方言で、遠くから見るとゴトビキに見えるからという。
 さらに言えば、磐座が信仰されたのは、やはり交通の目印になったからではあるまいか。神倉神社のある千穂ヶ峯は熊野川河口付近に位置し、明らかな《標山》(しめやま)である。神倉神社の東、現在の新宮市中心部の平野は弥生時代にはまだ一面の海であった。熊野新宮大社はその北方、熊野川を望む山裾にあり、今は失われた潟港に臨んでいたと思われる。
 なお、熊野那智大社の神体は那智大滝そのものである。この滝は那智山中腹にかかるが、それだけでなく、実のところ、はるか海上から白く遠望できる。那智勝浦に入港する際の極めて重要な《標》(しめ)となったのである。ここでも「信仰の対象=交通の目印」という(ある意味では身も蓋もない)図式が成立している。」

 熊野速玉大社は巨石が、那智大社は瀧がご祭神ですが、熊野本宮大社のご祭神は自然神ではなく唐の天台山から飛来した神、スサノオ命です。
 元々は熊野川・音無川・岩田川の三つの川が合流する中州の大斎原(おおゆのはら)に鎮座していました。明治22年の大洪水で流失して現在地に遷座されていますが、かつて本宮は大斎原に現在の8倍の規模で祀られていていました。
「精進潔斎を眼目としていた熊野詣で、その道中において、音無川は本宮に臨む最後の垢離場(こりば)にあたります。そのため、かつては熊野詣といえば音無川が連想されるほど、名を知られた川でした。参詣者は、音無川を徒渉し、足下を濡らして宝前に額づき、夜になってあらためて参拝奉幣するのが作法でした。また、本宮・新宮・那智と熊野三山を巡拝し、再び本宮に戻り、それから帰路につくというのが一般的な熊野詣の順路でした。」

 明治22年の大洪水は、明治に入ってからの急激な森林伐採が上流の十津川で大水害を呼び起こしたと言われています。しかし明治22年は明治憲法が制定された年でその事と関連付ける表記もありました。
「明治二十二年という年は、ちょうど明治憲法が発布された年です。この憲法を見られた天照皇大御神様が、「この憲法は亡国憲法であるから、直ちに水に流しなさい」というメッセージを込めて、この地に大洪水を起こしたのです。しかし、時の明治政府は、憲法を変えようとはせず、翌年に「教育勅語」を発布することによって乗り切ろうとしました。
「教育勅語と明治憲法」は、「アメとムチ」の関係にあります。「教育勅語」だけ見ると、民のことを第一に考えた政府なのかと思ってしまいますが、実はそうではありませんでした。その内情は、欧米の武器商人に魂まで乗っ取られた政府だったのです。その後、大陸への侵略戦争を経て、文字通り「亡国」となってしまったことは、言うまでもありません。」
「熊野本宮大社の謎」
http://shinseido24.blog.fc2.com/blog-date-201404.html
「熊野本宮大社旧社地・大斎原」
http://www.mikumano.net/meguri/oyunohara.html

 熊野では太陽の使いとされる八咫烏の姿がそこかしこで見られます。神武東征では八咫烏の熊野から大和の橿原までの道先案内が功を奏して大和に攻め入る事が出来ました。
 八咫烏神社由緒書によると
「土地の豪族の武角身命が、黒い衣をまとって木から木へと飛び移りながら神武天皇をご案内した。天皇はその姿をごらんになって、〈八咫烏〉という称号をおつけになった。
『八咫烏神社』のご祭神はこの武角身命である。
 その子孫は賀茂県主である。当神社の絵様には〈三足烏〉を使っている。」


 詳しくは「八咫烏の足は果たして三本か」を読んでみてください。
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yatagarasu.htm
 三本足の八咫烏のマークは日本サッカー協会のマークになっています。三本足のカラスについてはいろいろ意見がるようですが日本中にこのマークは馴染んでいます。
 八咫烏の案内で大和に進軍した神武天皇は、再び長髄彦(ナガスネヒコ)と相対します。ここでも苦戦をしますが、この時、金色の霊鵄が神武天皇の弓に止まり、その体から発する光で長髄彦の兵たちの目がくらみ、神武軍が勝利することができたそうです。この霊鵄のことを「金鵄(きんし)」と言います。

「では、なぜ、神武天皇は、奈良を攻めるために、熊野に迂回したのかです。水銀の生産・交易を抑えていたのは、神武天皇の血縁関係のものですが、紀ノ川沿いは抑えられていたことになります。一方、熊野・吉野は、ユダヤ人の血が入った山岳行者の地盤ですから、山は深いですが、援助を受けることができたのだと思います。」

 当時の熊野の状況については以下のように記されています。
「ここで、注目すべきは熊野には三つの勢力が存在したことである。
 ひとつめは、丹敷戸畔を中心とした土蜘蛛と呼ばれた先住民である。土蜘蛛は東征軍に服従せず、神武に敵対した。けっきょく滅ぼされたのだから、中心勢力にはなりえなかったが、縄文時代からの狩猟・漁労民族だったのではないか、と推測される。古事記に大きな熊が出現して、天皇軍を失神させたとある。熊をトーテムとする先住民、例えばアイヌ民族のような先住民を想定しても間違いではあるまい。手足が長く背が低い身体的特徴からもアイヌ民族が土蜘蛛に近い。
 ふたつめは、高倉下を中心とした物部系の渡来民である。物部氏は、ニギハヤヒを祖先とするが、日本書紀では初代の支配者と記述されている。ニギハヤヒの支配権を神武が奪い、二代目の支配者となった。政治権力が物部系から神武系に移動した事実を表現したのが、神武東征神話の核心である。高倉下が奉げたふつのみたまは物部氏の宝の剣で、石上
神宮に納められている。それを差し出したのだから、降伏したのである。物部氏が大和政権の大連として、軍事面の支配を振るったことから重用を前提としての降伏だったのだろう。高倉下の子孫の大阿刀足尼が、熊野の国造として熊野地方を支配したことから考えても、高倉下は熊野地方の支配者だったといえる。新宮市熊野川町の赤木川流域に高倉神社が点在しているが、その神体は丸い岩である。私は、高倉下は鉱山開発と金属鋳造に関わる氏族だったと考えている。
 みっつめは、ヤタガラスであるが、私は大烏をトーテムとした山民を想定している。ヤタガラスは日臣命、すなわち大伴氏との関係が深い勢力である。 山で狩猟生活をしていた十津川付近の山民が、その弓矢の能力と偵察能力を買われて、大伴氏の軍事力として支配下に入ったのではないか。大伴氏の支配が弱まった後は、熊野三党として熊野三山の支配下に入った。鈴木、宇井、榎本の三党で、ヤタガラスの三本足は、熊野三党をあらわしているといわれている。ヤタガラスは、中世には熊野速玉の烏文字に描かれ、平成にはサッカーの日本代表のシンボルマークになって、全国的に有名になった。 以上のような先住民に対して、朝鮮半島から渡来してきた渡来人の存在が、神武伝説の原型になったと考えられる。」
 「神武と呼ばれた渡来人とヤタガラス」http://www.apolohal.jp/st2-7.htm

 雨が激しく降り続きますので今日の巡りは終わりにして龍神温泉へ向かいました。ゆっくり休んで明日に備えます。翌朝は幸運にも雨があがりました。予定の高野山は取りやめて昨日訪れる予定だった玉置神社からスタートです。しかし再度予定を変更して熊野本宮大社旧社地・大斎原へ向かいました。

2014年8月14日木曜日

338「熊野転生5」2014,8,13

 次に向かうは熊野那智大社です。雨の中、新宮から20キロほど南下します。那智の大滝が御神体ですが、その謂われについて以下の様です。

「熊野那智大社社伝に「神武天皇が熊野灘から那智の海岸“にしきうら”に御上陸されたとき、那智の山に光が輝くのをみて、この大瀧をさぐり当てられ、神としておまつりになり、その御守護のもとは、八咫烏の導きによって無事大和へお入りになった」と記録されております。
 命の根源である水が豊富にあふれ落ちる「那智大瀧」を、この熊野に住む原住民の人々も神武天皇御東征以前からすでに神として奉祀されていたとも伝えられていますが、いずれにいたしましても古代からこの大瀧を「神」としてあがめ、そこに国づくりの神である「大巳貴命」(大国主命)をまつり、また、親神さまである「夫須美神」(伊弉冉尊)をおまつりしていたのであります。
 その社殿を、お瀧からほど近く、しかも見晴しのよい現在の社地にお移ししたのは仁徳天皇五年(三一七年)と伝えられています。この時、大瀧を「別宮飛瀧大神」とし、新しい社殿には「夫須美大神」を中心に、国づくりに御縁の深い十二柱の神々をおまつりしました。 やがて仏教が伝来し、役小角を始租とする修験道がおこり、古来の神々と仏とを併せてまつる、いわゆる神仏習合の信仰が行なわれるようになりました。
 その後、「蟻の熊野詣」といわれる程に全国から沢山の人々が熊野を目指すことになるのですが、中でも、皇室の尊崇厚く、延喜七年(九〇七年)十月、宇多上皇の御幸をはじめとして、後白河法皇は三十四回、後鳥羽上皇は二十九回もご参詣の旅を重ねられ、また花山法皇は千日(三年間)の瀧籠りをなされたと記録されております。」

 神武天皇が那智の山に光が輝くのを見てこの大瀧を探り当てたと言いますが、熊野は神武天皇再生の地だと言われています。
「熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社ー3つを合わせて熊野三山という。
 大社というのは神社の格、社格のことで、その規模によって大社・中社・小社に振り分けられてきた。また、古くは規模でなく、祭神に与えられた神階に応じてランクが決められていた。要するに熊野三山は、いずれもほぼ最高ランクの神社ということになる。
 では何故、熊野にその高位の神社が3つも置かれているのであろうか?
 先ず、社が鎮座する熊野という場所について見てみると、紀伊半島のこの山地一帯は、神武天皇東征の時代からずっと、第一級の聖地とされ続けている。
 その理由は、初代・神武天皇が45歳時、日向を出発して軍を東へと向けることになった。所謂「神武東征」だ。瀬戸内海を順調に船団で進んだ神武軍は、白肩津(しらかたのつ:現在の大阪府東大阪市)から上陸した。神武軍は連戦連勝の儘、生駒山を越えていよいよ大和へ入ろうとした。ところがこの時、ナガスネヒコの迎撃を受け、敗走してしまう。負け知らずの神武天皇は、ここで敗戦要因を冷静に分析、その結果要因を見出す「自分は太陽の神の御子にもかかわらず、太陽が昇る方角に向かって戦いを進めたからだ」と分析すると、海路で紀伊半島を迂回し、太陽を背に向けて戦うことができるルートを模索した。そして熊野から上陸することを決断する。神武天皇の決断に従って熊野から上陸する神武軍、しかし熊野での進軍は決して楽なものではなかった。途中、熊野村で神の化身の熊と出遭い、意識を失ってしまったのだ。

 この時、熊野のタカクラジが太刀をもって現れ、その霊威によって神武は目を覚ます。そして神武天皇はタカクラジから太刀を受け取ると、敵をことごとく制圧していった。そして本格的に進軍を再開する。慣れない山中の険しい道も、現れた八咫烏の案内で切り抜けると、目的地大和へ到着した。無事、宿敵ナガスネヒコを討ち倒すのである。

 この熊野進軍で興味深いのは、神武天皇が熊野村で神の化身の熊と出遭い、意識を失い、タカクラジから受け取った太刀所謂剣の霊威所謂霊力によって息を吹き返す点である。早い話、これは神武天皇が死と再生を繰り返したことに他ならない。神武天皇は熊野で一度、死んでしまったのであり、そして熊野の神の霊力で、再生を成し遂げたのである。そうであれば、神武天皇は最早、昔のような神武天皇ではなかろう。高天原の子孫ではあるが、同時に熊野の霊威の顕れでもある。要するに天孫の力と熊野の神の霊威を併せ持った存在となった。そう考えれば、熊野が大和朝廷と天皇家にとって特別な場所とされたのは自然の流れであろう。

 ちなみに熊野はとりわけ本地垂迹説の影響が強かった場所で、神道のみならず仏教、修験道などが複雑に入り組み合った宗教的な聖地を形成してきた場所でもある。そうした聖地の中でも古代信仰の痕跡も垣間見ることができる。

 ナガスネヒコについても考えてみたい。実はナガスネヒコには、縄文時代の手長足長の神、という顔もある。手長足長というのは、移動が速いということのようだ。これは急速に移動する嵐からイメージされた神で、要するに嵐のような大災害を引き起こす手足の長い神である。おそらく、神武天皇がやってくる前に祀られていた神なのであろう。そのナガスネヒコは、大和で滅ぼされた。ところが後に、東北でナガスネヒコの末裔と称する一族が現れる。津軽の豪族、安東氏である。彼らの祖先を、ナガスネヒコの兄神アビヒコだとした。東北と言えば、長い間、朝廷から「まつろわぬ民」の地とされてきた場所でもある。根強い反朝廷の戦いが続けられ、何度も軍が派遣されていた。その朝廷軍と闘い続けたのが、安東氏だった。

 縄文遺跡の本場であった東北で、このようにナガスネヒコに連なる人々が活動していたことは興味深い。おそらくはそれは、縄文の直系の神であり、宗教形式もより自然的な本来の自然崇拝としての「神道」に近いものだったに違いなかったであろう。と同時に、神武天皇によって滅ぼされたナガスネヒコに、同じように朝廷に対抗した東北豪族たちがシンパシーを抱いていたとしても全く不思議な事ではなかっただろう。」

 那智の滝を右手に見ながら那智大社下のお店の駐車場に車を入れて参道の階段を登ります。雨のためか参拝客はあまり多くありません。参道沿いのお店も開店休業です。まず熊野那智大社を参拝しました。




 拝殿脇に樹齢800年の大楠があり、平重盛の手植えとか。秀衡桜は奥州藤原秀衡が熊野権現の分御魂を頂きに参詣した時に奥州から持参した山桜です。
 本殿の奥に青岸渡寺があります。西国三十三番札所の第一札所です。境内の三重塔の奥に那智の大瀧が綺麗に見えます。最高のビューポイントです。



 熊野那智大社は那智の大瀧を神聖視する原始信仰に始まるため、社殿の創建は他の二社、熊野本宮、速玉神社より後です。那智山の奥にある妙法山に登るための禊祓の地だった那智滝が聖地化し、夫須美神伊(邪那美神)が勧請されて当社が滝本で創建されたとも言われています。今回は別宮飛瀧神社には参拝せずに通り過ぎましたが、駐車場には沢山の方々がいました。
 熊野古道として有名な大門坂は2キロほどで那智大社に登ることが出来ます。苔むした石段と杉木立の樹木が古道の雰囲気で人気のポイントです。登り口にバスが止まって雨の中散策を楽しんでいるようです。

「熊野信仰の中心となる熊野三山 (本宮・新官・那智の大社)が歴史の上に名を 高めてくるのは、平安の中期から鎌倉時代の 後半にかけて頻繁に行われた「熊野御幸」に よってである。
 当時、俗化した既成宗教に飽き足らなくな った皇族や貴族たちは、厳しい山岳信仰に現 世の救いを求めた。熊野の神は大自然であっ た。
 熊野をこの世の十方浄上の地と感じた皇族、 貴族たちが、聖地へのあこがれを掻き立てながら現世極楽にいたる険しい山谷を踏みのぼってきたのである。
 古い記録によると、延喜7年(907)字多 天皇から始まった熊野御幸は、弘安4年 (1281)の亀山上皇まで百回を越えたと言わ れ、その上、これらの御幸は千ちかくの人馬 を従え、 1日の食料16石におよんだという。
 熊野信仰とは、難行苦行の同義語にほかな らない。熊野とは地の涯、隈野(くまの)で あり、那智は難地(なち)の謂れでもあろう。
 しかし、苦行であるからこそ一切の罪業が 消滅するという信仰にもなり得たのだ。
 熊野詣の旅は、時代につれて武士階級、庶 民へと広がっていった。それは、すさまじい ばかりの信仰ぶりであった。江戸中期の享保 元年(1716)田辺の旅宿に泊まった参詣人は 6日間に4,776人、1日平均800人というおび ただしい人の数である。とすれば「蟻の熊野 詣」という形容も大げさではない。それにしても、なんという山また山の道を昔の人々は 歩いたのであろう。
 そんな地の涯の熊野三山が、今日では想像 できないくらい熱狂的な信仰をあつめたのは、 熊野権現(浄不浄をとわず、貴賤にかかわらず、男女をとわず)に受け入れてくれる神であったからだ。
 その信仰は、当時の人々の心を激しく揺り動かし、蟻の熊野詣といわれるほどの庶民男 女の群れが、はるかな山河を踏み越えて聖地、 熊野にむかった。」

 熊野信仰の中心の那智大社の古道をどのような思いで巡れているのか、時代の隔世がありそうです。
 雨はどんどん激しく降ってきます次の目的地の熊野本宮大社をめざしました。本宮までは50キロ程です、新宮に戻り熊野川に沿って川上に向かいます。

2014年8月13日水曜日

337「熊野転生4」2014,8,11

 神内神社から新宮に戻りいよいよ熊野三山の一つ熊野速玉神社に向かいます。
 熊野の名は日本人であれば聞きなれた名ですがその謂れに付いてはあまり知られていません。出雲にも祀られる熊野の神とはいったい如何なる存在なのでしょうか。

 熊野を調べると以下の表記があります。
「紀伊半島南部一帯をいい,現在の和歌山,三重,奈良の3県にまたがる。紀伊国牟婁(むろ)郡(明治初年に東西南北の4郡に分割)がほとんどであるが,大和国吉野郡南部を含めることもあった。クマノとは霊魂の籠(こも)る地との意味があるらしく,早く《日本書紀》神代巻に,伊弉冉(いざなみ)尊が火神を生むとき灼(や)かれて死んだので,紀伊国の熊野に葬ったとある。やがてこの地に熊野三山と称される霊場が開かれると,神秘的な伝承が数多く発生し,死者の霊は遠隔の地からもこの熊野へ行くものだとか,熊野へ行けば死者の霊に会えるとかの信仰を生んだ(熊野信仰)。」
 
 更に調べてみると以下がありました。
「熊野という地名は「隈の処」という語源から発していると言われていますが、だとすれば、ここは奥深い処、神秘の漂う処ということになります。また「クマ」は「カミ」と同じ語で、「神の野」に通じる地名ということにもなります。」

「熊野は「汚穢・隈の所」の意。 =ミクマノ(穢隈野)。
 一般名詞としても、固有名詞としても使われる。固有地名としてのオリジナルのクマノは、神倉山 (和歌山県新宮市磐盾) の麓の地と思われる。
 ソサノヲはイサナミが生理中の交わりで孕んだので、その汚穢・隈がソサノヲに宿って大いなる隈となる。イサナミは我が身の汚穢が原因であると責任を感じ、「隈の宮」となってその隈を身に受けようとした。そのイサナミの最期の場所がクマノ(隈野)。イサナミは「隈の神」と贈り名される。」
「「みくまの」の「み」は「ゑ(穢)・おゑ(汚穢)」の意で、「くま(隈)と同じ意味である。だから「みくまの(穢隈野)」は「くまの(隈野)」を強調した言い方に過ぎない。」

「くま(隈)は、二神(イザナギ・イザナミ)は紀州にやって来て末の男子ソサノヲを生むが、その生れ付きは粗暴・狂乱の体で世の隈となっていた。「くま(隈)」は「くも(雲)」と同源で、「翳り・曇り」の意であり、「世の隈」とは「世を翳らすもの・世を暗くするもの」という意である。世の隈であるソサノヲが生まれた所だから「くまの (隈野)」という。」
「「隈野」の意味は、
1.世の隈ソサノヲの生まれた地。
2.隈の宮となってソサノヲの隈から民を守った「隈の神」の最期の地。
3.災厄をもたらす「隈の神」の地。
こうした意味を併せ持つ。
 これは、はじめは紀州熊野の固有地名だったが、後に「災いの地」という普通名詞になるのである。
 紀州熊野の神社は、「隈の神」のイサナミを祭った社なのだと思われる。現在のように3社となったのは後世のことで、はじめは「熊野速玉大社」だけだったようだ。
 ここに祭る「熊野速玉大神」は、玉置神社の由緒によればイサナミである。「熊野夫須美大神」は、イザナミを斎く御杖代となったアマテルの子のクマノクスヒであり、「家津御子大神」はソサノヲである。
 この社はもともとは神倉山にあったという。ホツマには「隈野の宮」は海上の船から見える場所に在ったことが記されていて、そのことからも神倉神社が元祖の「隈野の宮」であったことが推察される。
 出雲の熊野大社はそれとは異なり、汚穢隈の実体であるソサノヲを祭る」
 詳しくは以下の「ホツマツタエのおもしろ記事 熊野」を参照ください。
 http://divinehuman.blog.fc2.com/blog-entry-72.html

 熊野の地はまた以下の様でもあります。
「現在では和歌山県西・東牟婁郡、三重県南・北牟婁郡を指して熊野と呼ばれています
が、玉置山は牟婁岳と呼ばれていた頃もあり、玉置山以南が熊野の地でした。牟婁とは
土に掘られた穴のことで、熊野では古代の人々は牟婁に暮らしていたといわれます。
 玉置山の南には約1400万年前、マグマ上昇に伴う熊野酸性岩類という鉱物資源を産出する地層があり、鉱山坑道が牟婁という地名に結びついた可能性も否定できません。
牟婁とは「土に掘られた穴」のことで、古代の人が牟婁に住んでいたのが由来のようです。」

 更に牟婁と熊野に付いて以下の表記もあります。
「孝徳天皇(596~654年)のころ、熊野は熊野国として紀伊国の外にあったのを、紀伊国の牟婁郡に編入されたとある。当時の役人の感覚では牟婁と熊野は同じ意であったらしい。
 神が隠れ籠れるところを「神奈備のミムロ(御室)」と表記されることから、牟婁は室―ムロに由来しているようだ。
 熊野は『紀伊続風土記』によると「熊は隈であり籠るという意味、この地は山川幽谷、樹木鬱蒼だから熊野と名づけた」と説明されている。
 隈野と御室はどちらも「隠れ、籠もる」意味なのだ。
 神が隠れ籠るところを「死者の霊の籠もるところ」ともしている。『日本書紀』などで死ぬことを「隠れる」と表し、『万葉集』ではこのような性格の場所を隠国(コモリク)と呼んでいる。
 熊野の周辺、特に南側の太平洋沿岸の、キラキラ輝く開放的な光景が生のシンボルだとすれば熊野の森の黒色は死そのものだ。神と死生に縁の深い熊野になぜわざわざ行くのか。
 じつは、古代の日本人にとって死は忌まわしいものではなかった。「隠国」という言葉にいみじくも象徴されるように、死は一時的に隠れることであり、将来生に変貌することが約束されていると確信していた。
 熊野詣は「疑似の死」と考えるのがいい。「隠国」であると万人が認める熊野に行く、つまり「疑似の死」を体験することで「よく死ぬ」経験を積んでおくということ。それが熊野信仰の柱になっていた。」

  長々と熊野に付いて引用して紹介しましたが如何でしょうか。
 熊野速玉神社は雨の中、観光バスが乗り付けていて沢山の参拝客でした。神社の祭神、縁起は以下です。
「熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神とする。創建年代は不詳である。熊野速玉大神は、熊野速玉大社では伊邪那岐神とされ、熊野本宮大社では同じ神名で日本書紀に登場する速玉之男(はやたまのを)とされる。また、この速玉之男神の名から神社名がつけられたといわれる。熊野夫須美大神は伊邪那美神とされる。もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれる。神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮とも呼ぶ。」





 境内には国の天然記念物の梛(ナギ)の大樹があります。高さ20m、幹周り6m、推定樹齢1,000年、でナギとしては国内最大です。平治元年(1159年)社殿の落成において熊野三山造営奉行であった平重盛の手植と伝えられるものです。ナギは凪に通じることからナギの実を束ねたものやナギの枝を護符にすると言います。ナギの木は、熊野杉や天台烏薬とともに新宮市の「市の木」に指定されています。


 元々は神倉山に神々が降臨し磐座に祀られていたのが景行天皇55年に現在地に新宮として祀られたようです。
「日本書紀には、神武天皇が神倉に登拝されたことが記されています。悠久の古より人々から畏れ崇められてきた神倉山には、初め社殿はなく、自然を畏怖し崇める自然信仰、原始信仰の中心であったと思われます。また、ここから弥生時代中期の銅鐸の破片も発見されています。」
 熊野詣で、熊野信仰について神社のHPに以下のように記されてあります。
「自然信仰を原点に神社神道へと展開していく熊野信仰は、六世紀に仏教が伝わると早くから神仏習合が進み、「熊野権現信仰」が全国に広まっていきます。「権現」とは、神が権り(仮)に姿を仏に変え、衆生を救うために現れるという意味で、過去・現在・未来を救う霊場として熊野は人々に受け入れられていきます。
 さらに、強者弱者、地位や善悪、信不信を問わず、別け隔てなく救いを垂れる神仏として崇敬され、人々は難行を覚悟で、熊野をめざし、「蟻の熊野詣で」の諺も生まれました。
 熊野古道は、滅罪と救いを求めて難行を続ける人々がつけた命の道です。険しい山路を越えてやっとのことで宝前に辿り着いた人々は、皆涙に咽んだといいます。そして、熊野の神にお仕えする私達の祖先は、たとえ参詣者のわらじが雨で濡れていてもそのまま温かく拝殿に迎え入れたそうです。
 美しい感激の涙で心が洗われ、自分本来の姿を取り戻す旅・・・。熊野は生きる力を、もう一度受け取りに来るところなのです。命がけの旅は、私達が生まれた時に持っていたはずの純真なこころと姿を取り戻す試練の旅でもあったのでしょう。
 難行苦行の果てにあるもの・・・それは、迷わず人生の再出発を踏み出すための勇気と覚悟の加護にほかなりません。熊野速玉大社が「甦りの地」といわれる本意は、正にここにあります。」

 神倉山は速玉神社の後ろにあり、神倉神社への参道は南の方へ車で5分位の処にあります。かなり狭い道を進み、小川を超えると直ぐに山門があります。正面に猿田彦神社&神倉三宝荒神社があります。社殿左手に滝が流れています。





 左に赤い鳥居がありその先が急峻な自然石の石段があります。御祭神は高倉下命と天照大神です。毎年2月6日に行われる御燈祭は勇壮な火祭りとして有名です。
「神倉神社は、熊野速玉大社の摂社である。新宮市中心市街地北西部にある千穂ヶ峯の支ピーク、神倉山(かんのくらやま、かみくらさん、標高120メートル)に鎮座し、境内外縁はただちに断崖絶壁になっている。山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない。
 山上にはゴトビキ岩(「琴引岩」とも。ゴトビキとはヒキガエルをあらわす新宮の方言)と呼ばれる巨岩がご神体として祀られている。この岩の根元を支える袈裟岩と言われる岩の周辺には経塚が発見されており、平安時代の経筒が多数発掘され、そのさらに下層からは銅鐸片や滑石製模造品が出土していることから、神倉神社の起源は磐座信仰から発したと考えられている。
 神倉神社の歴史的な創建年代は128年頃と考えられているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。『古事記』『日本書紀』によれば、神倉山は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であるという。このとき、天照大神の子孫の高倉下命は、神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。しかし、「熊野権現御垂迹縁起」(『長寛勘文』所収)には神剣と神倉山を結びつける記述はないことから、天磐盾を神倉山と結びつける所説は鎌倉時代以降に現れたものと考えられている。」
 今回の巡りでは是非ともコトビキ岩を拝したいと思ってきたのですが、雨で538段の石段が何とも不安なのです。手すりも無く、下りてくる参拝者も雨でずぶぬれで足元をかなり注意しています。天気の良い時でも参拝にあたっての転倒の危険の注意が記されていますが、今回は普通の靴で来てしまったので靴底が滑りやすくなっています。途中まで登ったのですが、危険を感じ、潔く中断して下りましたが、少しビビリました。これもまた次回参拝の口実に成りました。
 熊野根本大権現、神倉神社 http://www.mikumano.net/meguri/kamikura.html