今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年04月17日の「諦めないで、理不尽な時」と2021年04月16日の「不幸は感謝のかくし味」の記事を紹介します。
諦めないで、理不尽な時
今日は「理不尽」のお話です。もしかしたら、それは、大きな大きなチャンスお訪れの時かもしれません。特に、心が清められ、準備ができた人に起こりやすいことです。
皆さんの中には、今現在回りから、ひどい仕打ちを受けたり、理不尽なことをされていらっしゃる方は居られませんか?
そう言う時と言うのは、集中して、厄介なこと、嫌なことが続くものです。もしかしたら、そういう時期は、「リセット」の時期かもしれません。
一旦、今までの人生の方向性について立ち止まり、向きを変えるための思索の時間(考えをめぐらす時間)を持つために、神さまから強制的にリセットがかかっているのかも知れません。それゆえに「理不尽の炎」の中に投げ込まれているのでしょう。
自分の今まで持っていた価値観の大転換を図るため強制的なリセットです。こういう時、その(理不尽に見えて)起きて来る沢山の現象は、自分ではどうしようも無い事、つまり、人間側の問題ではなく、「神様の領域」のことです。
ですので、その事に対して不平、不満、愚痴、ねたみ、そねみ、うらみ、後悔、嫉妬などしないことにこしたことはありません。
ですが、生きている本人にとっては、あまりに辛く、神様に「どうにかして」と思うかもしれませんね。人間ですもの・・・
そういう時は、もう言霊で乗り切るしかありません。ただひたすら、最強の言霊、「ありがとう」を言い続ける・・そうすると不思議と、朝に苦しかった理不尽なことが、夕方には解決しています。全く気にならなくなるのです。
こういう時期は、誰にも訪れるものです。そして、しばらくは続くものです。また翌日には、次の別な理不尽なことが起きてきます。その繰り返し。私も経験がありますので良く分かります。
そんな最中に読んだ小林正観さんの本の一節をご紹介します。
<引用開始>
「理不尽」とは、神様から見込まれたということ。そして「自分が成長しているという証明」。
「理不尽」とは、こちらの側に落ち度がないのに、一方的にひどいことを言われた、されたこと。「だんだんと理不尽度が増していき、それでも文句を言わずにいると、神様は「合格」と判を押してくれるのだそうです。
理不尽度10で文句を言わずにいると、理不尽度20の現象が起き、だんだんと増していって、最後は理不尽度100%の現象が起こります。」
五戒(不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句)を言っているあいだは理不尽なことは起こりません。(まだ、神さまに、成長の時期ではないと思われているからです)
最後の理不尽度100%の現象の時も五戒を言わずに受け入れていくと、神様から合格の判をいただけて、人生がラクに楽しくなってくるのだそうです。理不尽度の高い現象が起きたときは、大きなステップアップが約束されているらしいのです。
ですので、その時に
・文句や愚痴を言わないこと、
・戦わないこと、
・争わないことが
大切らしいのです。
<引用終了>
そう正観さんは仰っています。
正観さんの言う神さまに見込まれた人というのは、きっと五戒(不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句)を思わない、言わない人という意味です。
ですので、多くの人が「神さまに見込まれた人」になります。私の周りにも五戒を守っている人は沢山いらっしゃいます。そして皆さん、お幸せです。
さて理不尽なことが起きると、その人にどのような事が起きるのでしょうか?
まず、一番大きな事は、
・自分の力ではどうする事も出来ないという「あきらめ」(諦観-あきらめ、悟って超然とすること。)
・その結果、鼻っ柱の強かった人のお鼻はポキンと折られます。
・目に見えない大いなる何かの存在を、意識するようになります。
これだけでも大きな魂の成長。意味があることです。
時に人は、自分自身の力を過信し、
・人に迷惑をかけないように生きていきたい
・人の役に立つ人間になりたい
と思います。ですが、病気をしたり、挫折の苦しみを味わうと、
「助け合い」
「お互い様」
こそが本来の人間の生きる道ではないのかと思えてくるのです。
誰一人として他人の世話なしに生きることはできません。
農家の方が作った野菜を、運送業者の方々が運んで下さり、お店の人が販売してくれる。
それらを頂き、それらの生命を頂いて私たちは生きていくことが出来ます。
他の人の世話にならずに、誰一人生きていけません。
ですので、「人に迷惑をかけないように生きていきたい。」というのは、少し傲慢な考え方かもしれませんね。
この染みついた考え方を矯正する為に、今世では病気になったり事故に会ったりと、色々な苦しい事象が自分のタイムラインに埋め込まれることでしょう。
理不尽な出来事。自分ではどうしようもない大きな辛く悲しい出来事にも、きっとそんな意味があるのかもしれません。
何故なら神様は無駄なことは一切なさいませんし、常に私達の真の幸せを考えて下さっているのですから。
外にあるもの、見えるものはすべて自分の心の世界を映し出す鏡。
人は理不尽な体験をすると他人を責めたり、周囲の環境に不満を抱いたりしがち。
でもそれらは皆、私達の心の反映にすぎず、不満の矛先を他人や環境に向けることは見当違いかもしれません。
きっとそんな時は、自分の心を顧みる丁度良い時が訪れたのですね。神様に感謝する時です。
その後に、大きな大きなギフトが用意されているからです。
不幸は感謝のかくし味
連日の怒涛のコロナウイルスの騒動で、色んな所で、いろんな人の人間の本性が、デフォルメされ、わかりやすく 、くっきりと炙り出されています。まざまざと、その人の人間性と、霊性をこれでもかと、世間にさらしています。見ている人たちは、だんだんと、どれが嘘で、どれが真実か気づいてきます。人間の本質を見抜き始めました。
さて今日は「置かれた場所で咲きなさい」の著書で有名な渡辺和子さんの言葉をご紹介します。
不幸は感謝のかくし味 そのような意味のお話です。転載するに当たって、解り易くするために、ところどころ意訳し補足してあります。
<転載開始> 転載元
私どもの大学(ノートルダム清心学園)の正面玄関に、プロテスタントの牧師、河野進さんが書いてくださった、一つの小さな詩がかけられております。
天にまします父よ どんな不幸を吸っても
吐く息は感謝でありますように すべては恵みの呼吸ですから
学生でいるあいだは不幸の息をあまり吸わせないように、先生たちが配慮をいたします。
しかしながら、卒業をして、その正面玄関を背にして出ていけば、その先にある職場、結婚生活、社会には、往々にして思いもかけないような不幸がたくさん漂っている空気が待ち構えています。生きていくためには、その空気を吸わなければなりません。
思わぬ不幸を吸い込んでしまったとしても、それをそのままで、吐き出す人になってほしくない。さらに増幅して、大きな不幸にしてほかの人に吐きかけるような人になってほしくない。それを感謝に変えて吐き出す人、それがある意味で本当に強い人であり、本当に優しい人だと思います。
他の人が吸う空気を汚さない、その強さと、他の人を思いやる優しさを学生たちに身につけて欲しいと願っています。しかしながら、それは決して、簡単なことではありません。
私たちが生きていくうえで、この不幸の息をどうしても吸い込んでしまうとしたら、人のせいにしないで、むしろその不幸を自分の中で感謝に変えていく。
そしてそれは、真珠がつくられていくのと同じプロセスだと私は思うのです。
真珠貝というものは、自分にとってあまり望ましくない異物が入ってきたときに、それをいやがって吐き出してしまわないで、その異物の刺激により分泌される液で、異物そのものを軟らかく、そして固く包んでいきます。それを繰り返し大きくなったものが、真珠になるのです。
同じように、私も自分の生活の中に入り込んでくる異物、不幸を受けとめて、私しかつくれない真珠を自分の一生涯をかけてつくっていきたいと思っています。
苦しいこと、いやなこと、私たちにとってマイナスの価値しか持たないもの、それは必ずしも悪いものではありません。それがなかったら、真珠がつくれないのです。それがなかったら、感謝の息が吐き出せないのです。
そう思うときに、もしかすると、私たちの生活の中にいやなもの、苦しいこと、そういうものがあっても、それを受けとめて自分なりに、自分しかつくれない真珠に変えていける、
そのことを、ありがたいと思って生きなければいけないのかもしれないと思います。
毎日の忙しい生活の中で、私たちが木を切る手を休めて斧を見つめるということは、ふだん気づかない、しかしながら身の回りにたくさん転がっているありがたいものを、ありがたいと気づくゆとりを持つ、ということかもしれないと思います。
<転載終了>
幸運は不幸な顔をしてやってくる。そう言われるように、往々にして、いえ、全ての不幸、苦難、病気、別離は私たちの心を強くしてくれます。たとえ一時、悲嘆の涙にくれようと。
そのような時こそ、神さまは、私たちをいつも以上に気にかけ、見つめてくださっています。
そして、私たちが、涙も枯れ果て、その苦難を受け入れて、前を向いた途端、待っていましたとばかりに、幸せのシャワーを浴びせてくださいます。
それは、神さまの用意してくださった、試練を自分の力で、受け入れることができたからです。そうなれば、その結末が、どちらに進もうと、関係ありません。 どちらであろうと行きつく先は魂の幸せです。
せっかく 神さまが、幸福をくださろうとして、先に不幸に見える出来事を与えてくださっても、そこから目をそらし、何かモノや人に依存し、頼り逃げてばかりいたら、せっかく用意してくださっていた神さまの祝福を受け取ることができません。
泣いても、叫んでも、そして例え運命を呪う言葉を吐こうとも、そんなことは神さまに取ったらどうでもよいことです。「レ・ミゼラブル」はそんな映画です。
神さまが見ていらっしゃるのは、それをちゃんと自分のこことして受け止めたか?
受け入れたか・・・だけです。そんな経験ができるのも、そこが、神さまが私たちを置いて下さった場所だからです。
神さまが私たちを置いて下さった場所では、いろんなことが起こります。笑いあり、涙あり、
現実はドラマチックで、ダイナミックに過ぎて行きます。
そこで私たちは、希望に胸を躍らせたり、時には絶望の淵に沈むかもしれませんが、その醍醐味を味わうために、ここに生まれてきました。
そのような沢山の経験と、感情を味わい、私たちは、もと来た世界に戻ります。形ある物を持って帰ることはできませんが、何物にも代えがたい経験は、持って帰ることができます。
そして神さまの用意してくださった、一見 苦しみに見える経験こそが、私たちの魂を練り上げてくれます。
そしていつか、だれでも、きっとどんな不幸を吸っても、吐く息は感謝でありますように
そうなることができることでしょう。全ての経験を、感謝に変えることができた時、私たちは、もう二度と肉体を持ってこの地球に、生まれる必要はないのかもしれません。
「感謝」という行為こそ、私たち人間が神さまから与えて頂いた、最高の行為です。
皆様が感謝の内に、日々を過ごすことができますように。