2021年5月11日火曜日

2328「愛が無ければ」2021.5.11

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年05月05日「神さまの作った仕組み

と2021年05月06日「愛が無ければ」の記事を紹介します。


「神さまの作った仕組み」

私たち生きている人間にとって、

・美味しいもの食べたり

・高級な洋服着たり

・外車に乗ったり

・大きな家に住んだり

それも楽しいことかもしれません。ですが、その何万倍もの楽しいことがあります。

それは、誰かと一緒に笑いあえること。それと比べたら物質的な喜びなど、たかが知れています。

そして、さらに・・・

・自分が存在することで

・自分の行いで、

・自分の言葉で

誰かが  

・元気付けられ

・喜び

・共に笑ってくれたなら

それは、何ものにも変えることができない宝石のような、至上の喜びとなります。それが人間、生きとし生けるもの、全ての生命体、神々が創造した者たち、全ての本性だからです。

自分の存在が、誰かの喜びとなる。これ以上の喜びはありません。

人はだれでも、

・いじわるをする人も

・陰口をたたく人も

本当は、本当の心はみんな優しい・・・そんな人でも、自分の心の中の良き部分、仏心を見つめられたら、仏心が必ず顔を出します。

きっかけは、感謝の「ありがとう」の言葉。本当は、みんな優しくしたいんです。それが人の本性だから。

これと同じことが宇宙空間や、人体中の小宇宙で起こっています。 

全ての臓器、器官、メッセージ物質、リンパ、神経伝達物質などは自分が自分がと自己主張することなく、全て、周囲のために調和して働き、人体全体を維持します。

私たち個人は、みんなの幸せのために存在しています。みんなで調和して、協力して進化発展しています。これが、神様が作った仕組みの根本です。

大宇宙のマクロの中にも、人体の中のミクロの中にも、同じ仕組みが、働いています。

私たち人間も、素直に、その流れに身を任せれば、宇宙の一員として、宇宙の進化発展に貢献する者となります。



「愛が無ければ」


今日は「愛を込める」ということで、マザーテレサの語った言葉を、渡辺和子さんが、紹介くださっています。

自分の心に愛が無ければ、どんなに立派なことをしようと、無に等しいです。 

自分の心を整えずして(浄化せずして)どんなにお金を払って人に何かをしてもらおうと、

何の役にも立ちません。

感謝の心を持たず、どんなに沢山の神社仏閣を回ろうと神々が振り向くことはないでしょう。

心に、恨み、嫉妬、ねたみの心を抱いたまま人当たりの良い綺麗な言葉を使おうと、

人の心に響くことはないでしょう。

私たちが、誰かのために行った行為や、言葉かけ、思いやり、それらは全て、私たちの内なる神さまに直通で届いています。それらは宇宙を巡り巡って、何倍にもなって、私たちの元に帰ってきます。私たちの未来の姿は、私たちの今の心や、行いにかかっています。 

<転載開始> 転載元

 

マザー・テレサの修道会のお仕事の一つに、貧しい人たちへの炊き出しがあります。日本なら、さしづめ、おにぎりとお味噌汁、外国ならパンとスープを、列を作って並んでいる空腹を抱えた人達に渡してあげるお仕事です。

夕方、仕事を終えて修道院に戻ってくるシスター達をねぎらいながら、マザーはお尋ねになります。

「スープボウルを渡す時に、ほほえみかけ、言葉がけするのを忘れなかったでしょうね。

手にふれて、ぬくもりを伝えましたか」 

この問いかけは、仕事は、ただすればよいのではない。その仕事には愛が伴っていなければいけないことへの忠告でした。

マザーの次の言葉も、それを裏書きしています。 

「私達の仕事は、福祉事業ではありません。私達にとって大切なのは、群衆ではなく、一人ひとりの魂なのです」

朝から何も食べていない一人ひとりは、同時に、朝から誰からも「人間扱い」されていなかった人たちだったのです。仕事は、ロボットでもします。シスター達よりも、むしろ効率的に手早く仕事をするかも知れません。

しかし、ロボットにできないこと、それは、ボウルを受け取る一人ひとりの魂と向き合い、

その魂に潤いを与え、生きていていいのだという確信を与えることでした。 

シスター達のほほえみ、言葉がけ、ぬくもりは、相手がその日受けた、唯一の人間らしい扱いとなったことでしょう。

忙しさは、その字のごとく、人々の心を亡ぼし、慌ただしさは心を荒らす可能性を持っています。ギスギスした社会、イライラした人の心は、渇き切っていて、潤いを求めています。

私達も日々の小さなことに愛をこめることによってお互いの間に潤いをもたらしたいものです。


  <転載終了>

このマザーの問いかけが示すように、マザーの仕事は単なる福祉事業ではなく、愛の行為でした。虐げられた人々に、笑顔と優しさを届け、人間としての尊厳を、思い出させてくれました。神さまに愛されていることを、思い出させてくれました。

シスターたちの配るスープはお役所が福祉の一端として配るスープと、その中身は同じだったかもしれません。でも受けとった人は、そのスープによって体と同時に心も温められたのでした。

頬笑みを添える時、受けとる人はもはや憐れみの対象ではなく、微笑まれるにふさわしい、

尊厳を備えた1人の人間になるのです。

私達は生きている間に何か大きなことをなすことが 大切なのではなく、小さな事に どれだけ愛を込めて「今」 この瞬間を生きるているか? そんなことが 大切なのかもしれませんね。

コリント人への第一の手紙にこう書いてあります。

たとえ私が人の異言や、御使いの異言で話しても、(人目を惹く、霊的な感覚を披露しても・・・)愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとえ私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、

また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、

  

愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がないなら、何の役にも立ちません。

愛は寛容であり、愛は親切です。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

どんなに小さく見えることであっても、一つ一つの行いに「愛」を込めたいものですね。

私たちの目の前には様々なものが現れ 消えて行きます。 

・嬉しいこと、楽しいこと

・つらいこと、悲しいこと

・人との出会い、別れ

そして、それらのことに、良いも悪いもないと言われます。 

その事に、 「良いことだ」 とレッテルを張り、喜ぶことも「悪いことだ」 とレッテルを張り、悲しむことも、全部私たちが、私たちの心で決めています。

もし、どんな辛く苦しく見える出来事にも

・良いことが来た

・チャンスが来た

と その出来事を、喜び感謝して受け取るならば、例え「悪いこと」に見える出来事も、

私たちの心が感謝の波動に包まれて、その後、どんな幸運に化けてしまうことでしょう。 

想像もつきません。本当は、それほどワクワクすることなのです。

逆に、どんなに「嬉しいこと」に見える出来事も、私たちの心が、ひねくれ悲観的になっていれば、その後、どんどん、辛く苦しい出来事に変化していくことでしょう。

何故なら、私たちは 物質地球に住んでいますが、全ては、私たちの心が作り出している世界だからです。

私たちの心次第で、私たちの住む世界は、天国にも地獄にも変化します。その事を 2,500年前にインドでブッダが教えてくださいました。

三蔵法師が、インドから持ち帰り般若心経 として私たちに伝えてくださいました。

 


私たちの心こそ、見える世界、見えない世界を包括してしまうほど、偉大で巨大な世界です。

小さなことに愛を込める。このことは、世界に平和と調和をもたらし、私たち自身をも、天国に住む者に変えてくれる行為です。