今回は「宇宙の中心で愛を叫ぶ」さんの2021年5月15日の記事を紹介します。
「縄文スピリット降臨は人を弥生から解放する」2021-05-15
https://ameblo.jp/riyanmichaki/
みなさんこんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。お忙しいところなのは承知なのですが、早速インタビューをさせていただきます。
さて、
――澤野大樹さん、GWも終わり、ひと段落と思いきや、緊急事態宣言は延長され、さらに全国で蔓延防止が拡大していますが、そのあたりからお願いいたします。
「マスクをして大声を出さず、群れを作らず、街の灯りを消し、特に夜は静かに自宅で待機せよ」というのが、トランプ大統領側から出されたメッセージです。これはまさに今がまさに戦中であり戦時下ということを表しています。じつにシリアスで大切なことですね。
このトランプ大統領側から発信された「これまでの幻想を上書きするための幻想」のコンセプトを理解することができれば、今、私たちはどう立ち居振舞うべきかがわかってきます。
この三次元現実世界で、徒党を組んで群れて声高に叫ぶということは、この幻想世界の「現実性」を強化してしまうだけでなく、不本意にもその幻想世界に加担してしまうことになります。
この、「マスクをして大声を出さず、群れを作らず、街の灯りを消し、特に夜は静かに自宅で待機せよ」っていう行動様式は、一般的に、「ソーシャル・ディスタンス」と表現されていますよね。
――はい。
このソーシャル・ディスタンスというものを一瞥(いちべつ)しただけでスルーしてはいけないのです。そもそもこのソーシャル・ディスタンス自体にも多次元的に深い意味が込められていたのです。じつは、ソーシャル・ディスタンスとは「縄文スピリット」そのものなのです。
――といいますと?
縄文時代の縄文人たちは、1万年以上の長きに亘って、戦争をせず、現在の私たちからは
想像もできないレベルでそれこそ「平和」を実現していたわけです。
――確かにそうでした。
その「平和」とは、縄文人たちにとってはあまりにも当たり前のことであって、彼らはその「平和」のことを意識したことすらなかったでしょう。それはたとえば、私たちがオギャーと生まれて日本語を覚えていった中で、「今日本語を勉強してる」だなんて考えたこともなかったでしょ。それと同じ。それくらい縄文人にとって「平和」というものは意識したことすらない当たり前のことだった。
――はい。
彼らは「戦争」を知らなかった。ということは、すなわち、「平和」も当然知らなかったということでしょ。これ、きわめて大事なことです。
――そういうことになりますね。
そんな縄文人が無意識で行っていた行動様式というもの、つまりその「立ち居振る舞い」
というものがあります。それについて私は勝手に「縄文スピリット」と呼んでいます。
――それはどのようなものですか?
縄文スピリットにはいくつかの特徴があります。
●群れない
●徒党を組まない
●主体性なく付和雷同しない
●組織を構築しない
●「所有」という概念がない
●土地の境界が無いだけでなく、精神(心)の境界も存在しない
●上下関係がない(適度な距離感と礼儀はあります)
●主従関係がない
●人懐っこい、お人好し
●まつろわない(服従しない)
●まつろわせない(服従させない)
●相手の立場を尊重する
●もっとも弱き者の心に寄り添う
●「ひとつ」である「宇宙」「ヤハウェ」と「ひとつ」であるという「ひとつ」を無意識かつ自然に体現する
●偶像を崇拝しない
●求められてもいないのに、他者に干渉しない
●求めてもいない他者からの干渉を受けない
●「ハラ」(原=大自然)のしきたりに身を任せ、他者と適度な距離を保つ
●侵略をしない
●恩着せがましい余計なお世話や、ありがた迷惑な行動をしない
●異能を誇らない
●本能に忠実に生きる
●宇宙(己)の流れに沿う
これが「縄文スピリット」です。まあ他にもまだあると思いますが、ザッと挙げてみました。
――現代的に推奨される生き方とはかなり違いますよね。
そうです。いわば「真逆」と言ってもいいですね。この縄文スピリットの真逆が「弥生スピリット」ですからね。そして、この現代社会は「弥生社会」ですからね。こうやって見てみますと、縄文人というのは、現代的な価値観で考えるならば、なんとも弱い存在にも思えますよね。現在の弥生社会においては、このような縄文スピリットの実践者はイジメや排斥の対象となるでしょう。
――とても生き辛いと思います。
だって、明治維新以降の日本は、この「弥生」によって完全支配されたのですからね。でもじつは、この縄文スピリットが本当は一番強いのです。「強い」といいますか、「圧倒的」なのです。縄文人、あるいは縄文スピリットを持つ者は、誰にもまつろわないし、誰もまつろわせない。すごく純粋だし素直だし、宇宙に対して謙虚だった。そして何よりも「正直」だったのです。
――正直に生きる、って、単なる言葉として言うのは簡単ですが、なかなか難しいことですよね。
はい。イギリスのことわざといいますか、言い伝えのようなものがありますね。
一日だけ幸せでいたいなら、床屋に行け
一週間だけ幸せでいたいなら、車を買え
一ヶ月だけ幸せでいたいなら、結婚しろ
一年だけ幸せでいたいなら、家を買え
一生幸せでいたいなら、正直でいることだ
イギリスの言い伝えですから、皮肉が利いていて最高に面白いですよね。でもこれはすごく大事なことを言っています。なんだかんだ言って、最高の幸せというものは、「正直でいること」なのだと言っているところです。正直に生きることには一銭もかかりませんよね。
みんな、財産や資産を形成すれば、幸せになれると信じています。株価が上がったり、ビットコインが値上がりすれば、自分の幸せもそれに比例してどんどん幸福になっていくと信じています。
でもそれは「幻想」なのです。人の幸せとは、ここでいう「正直に生きること」はもちろんのこと、当然、個人差はあるでしょうけどもうひとつ決定的なのが、「健康」です。健康であるから、わがままも言えるのだということです。
つまり、人生最大の幸福とは、健康であり、正直に生きること。もしくは、それに立脚して
展開されるということです。これだけなのですよね。
――正直に生きるとは、どういうことなのでしょうか?
正直に生きるということは本源的な意味においては「本能」に忠実に生きるということです。
その本能の発露を、顕在意識である「理性」によって御しながらもいかに実現させていくか?そしてそれを確かなものとしていかに獲得していくか。そのために理性というものはあるのだ、ということ。
強烈な化け物でもある「本能」というものの特性を知り、その矛先を、理性で制御しつつも、さらにそれをきちんと合法的に実現させていくという作業。まさに、人生とは「エヴァンゲリオン」そのものなのだといえます。
これが出来たときに、人は成熟したオトナとなり、「本能」と「理性」が均衡した状態となるでしょう。
「本能」とは、自律神経であり潜在意識であり多次元領域です。
「理性」とは、「アタマ」で思考する「自我」であり、エゴであり、「私」が「私」だと思い込むその顕在意識のことです。顕在意識とは、三次元の肉の「私」のことです。
それはすなわち、一個の「人」として人格を涵養し、成熟したオトナを確立することができていなければ、いかなる「引き寄せの法則」もじつは機能しないのだということ。そんな人、その辺にいないでしょう。
――正直に生きるということは想像以上に難しいことなのですね。
その通りです。現代において、多くの人は「正直」さを封印して生きていますでしょ。それは諸般の事情から封印せざるを得ないからです。誰も悪くなんかないのです。これがあらゆる病気の原因の本質であるし、幸福になることができないことの根本的な理由なのです。
――縄文時代の人は、そのような「縄文スピリット」、そして「正直に生きる」ということを無意識にやっていたのですね?
そうそう。だから、縄文人は野蛮人なんかじゃない。野蛮だってことは、弥生が嫉妬からそう言ったわけ。「縄文人」は、きわめて精妙な霊性を持った繊細で高解像度の意識を持った人たちだった。
――そのような人たちが伸び伸びと、一切のストレスとは無縁で暮らせた時代が縄文時代だったのですね!夢がふくらみますね!!
そんな縄文時代は、1万6000年も続いたと言われています。でも、通称「弥生」と呼ばれる侵略者が入ってきて、その平和が脅かされました。それが紀元前210年頃かな?つまり縄文時代晩期ですね。秦の始皇帝の遣いとして、この列島に(当時は日本という国名はない)
入ってきた「徐福」たちによって破壊されていった。じつはこの「徐福」らによる「入植」は、「第一次黒船」だったと私には思えてならないですね。
――まさに「開国」を迫られたようなものですね。
そうそう。縄文人たちは、「戦争」も知らなければ、「平和」も知らなかった。だから、
徐福たちに対してもウェルカムしちゃった。「みんなうちにおいでよ!」ってやっちゃった。
――時代の大きな岐路となった瞬間ですね。
そうそう。この列島が、「縄文時代」から「弥生時代」へと移り変わった瞬間だね。でも縄文人たちはだんたん気づいていった。だから、逃げに逃げた。もう手遅れだったけど。逃げたというのは稲作から逃げたのです。そして、最後の最後まで稲作を拒絶して残ったのが、
長野県の諏訪でしょ。
――稲作って何なのでしょうか?
稲作っていうのは「弥生」の象徴であり、バビロンで開発された、農耕大量生産のための「道具」(鉄器など)とセットとなった「侵略セット」なのね。弥生人というのは、いわば、「野菜農耕稲作ナチュラルカバール」というバビロンからの流れだから。
――でも、日本のスピリチュアルのほとんどはナチュラル系ですよ?
野菜と穀物(コメ)を日常的に食べるということは、イギリス産業革命による蒸気機関の発明によるグローバル貿易システムの確立がセットになっているのよ。私たちが毎日普通にパンを食べることができるのは、イギリス産業革命による蒸気機関の発明と、脱穀の機械化によるもの。縄文人はそんなものは食べてなかった。
――「ナチュラル」という概念も視点ひとつで、大きく変わっていきますね。
そのとおりです。「ナチュラル」というのは大自然――、つまり「ハラ」(原)のことです。
「ハラ」とは「ムラ」(村)の対義語です。ということは、人間においても「ハラ」はあるの。人間にとっての「ハラ」とは、本能が欲する基本に忠実に生きるということなのよ。
――人類は草食ですか?肉食ですか?
人類は完全に100%「肉食」です。人類の本当の食事とは、動物の「骨髄液」です。つまり現代で言えば、トンコツスープであり、テールスープのことです。あるいは、鶏白湯ラーメンの「麺抜き」であり水炊きです。または、「アクアパッツァ」であり「トリッパ」であり、「ベイビーバックリブ」です。まあ無数にありますよ。いわゆる「マタギ料理」ですよ。私はこの料理のことを「マタギの気まぐれ野営汁」って呼んでます。
これが人類の本来の本能に立脚した本当の「食事」です。人類の本能に基づいた本当の食事が、本当の本能の覚醒に呼応するのだということです。
――でも現代スピリチュアルでは肉食を禁忌としますよね?
そのような通念を醸成させ惹起(じゃっき)させ伝播したのがバビロン系サタニズムの系譜である『日月神示』ですよ。これはバビロンのカバールから受け継がれた「魔伝」なのですよ。つまり、人類のその本源的な本能に対して抗(あらが)った「己」というもの(ヤハウェに対する反逆)を前景化させたままいかなる「自己実現」も「引き寄せ」も、あってはならないし、いや、私が言わずとも、そもそもあり得ない話なのだということです。
――あ、澤野さん、それはまたアメブロじゃ無理なヤツですよね?
あ、はい。そうそう。無理無理。つい言い過ぎちゃう。では話題を元に戻しましょう。
縄文人は、狩猟採集ですよ。まさに「ハンター」です。今日、獲物がとれなければ、明日は飢え確定ですね。そして、いつイノシシに突撃されて死ぬかもわからない。常に死と隣り合わせ。生きるか死ぬかの瞬間瞬間が一か八かの勝負。それが毎日。生と死の瀬戸際を生きた。
だからこそ、「生」の尊さを理解していた。だから目は輝き、意識は鋭敏に研ぎ澄まされていた。だからゆえ、「異界」である山に、剥き出しの自分のまま、入っていけるだけの
霊力を持っていたわけね。
――すごいことですね!
つまり、縄文人たちというのは、本能と理性が、きちんと均衡していた。今を生きる私たちなんかより遥かに高い霊性を持っていた。
――たしかに、縄文土器の中でも特に凄い「火焔土器」を見れば、そのパッションは感じ取れます。
縄文土器っていうのは「食器」じゃないのよね。あれは「芸術品」、アートなの。燃え上がり湧き立つ本能の咆哮なの。機能性とか合理性とか、収納性とかコスパとかそんな弥生の製品基準なんかにまったく関与されていない純粋な情熱なのですよ。
――現代は「コストパフォーマンス」がモノを言う時代ですから、そういった縄文土器の凄さというものはなかなか理解されにくくなっているかもしれませんね。
本当にそう思いますよ。たとえば、ドイツのノイシュヴァンシュタイン城なんかも、コスト計算なんかしてたら絶対に建っていなかったですよね。最初から採算度外視。コストパフォーマンスで物事を判断する世の中では、本当に高品質のものはできないのです。
――かつての音楽にしても絵画にしても彫刻にしても、コストを考慮して創作された名作なんてないですもんね。
潤沢な資金と、ふんだんな時間と、それを自由自在に生かすことの出来る「天才」が存在して、さらにそれを心の底から認めてサポートする人がいて初めて「名作」というものは生まれるわけ。でもその条件が整ったからといって、必ずしも名作が生まれるわけじゃない。それら名作が生まれたのは、すべて、本当に「奇跡」です。
――様々な芸術的な縄文土器が生まれたのも奇跡だったのですね。
そうそう。でもね。弥生たちが続々と侵略してきて、その芸術性は失われてしまった。縄文人たちは弥生に侵略されて、ただの「食器」としての無機質な単なる「モノ」を作ることを強制されてしまった。
――縄文人たちの声なき声が聞こえてきそうですね。
しかし、そんな縄文人の命を脅かすような存在が現れたのであれば、彼らは、
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ 以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
として、全生命を懸けて抵抗し、戦ったのです。これは「教育勅語」の一節ですけどね。
教育勅語が良いと言っているわけじゃありませんよ。縄文人が生命を懸けて尽くしたのは、
偶像崇拝、現人神に対してではありません。それは、「天壤無窮ノ皇運」(てんじょうむきゅうのこううん)のためではありません。
「ひとつ」である「宇宙」とは「ひとつ」である「己自身」なのだから「己」が戦う時というのは、宇宙の存亡に関わる時なのだ、ということですよ。
宇宙が破壊されるということは、己が破壊されてしまうということ。だから、縄文人が
戦わなきゃならない時とは、もう、よほどの危機であり、よほどの喫緊の事態だったのだ
ということです。そして、その壮絶な侵略の上に、現在の私たちのこの社会というものが存在しているのだということ。
だから、私たちは、かつてこの東北縄文日高見蝦夷の大地を守るために侵略者である大和朝廷、坂上田村麻呂軍と戦い、命を落とした本当の戦士、本当の国士がいたことを忘れちゃダメよ。彼らは、本当にこの列島、この故郷のために全生命を懸けて戦った。
この列島のこの大地には、かつて命を懸けて戦った縄文の戦士たちのその赤い血が今でも
染みて流れているのだということを、忘れちゃいけないんだよね。
それを無自覚にスルーして、「先祖供養」とかいって、身近なお墓参りだけして形式だけやって満足してもじつはダメなんだよね。
――澤野さん、ありがとうございました。ありがとうございます。最後に大事なことをひとつだけ。今回のコロナ騒動で現れた「ソーシャル・ディスタンス」によってもたらされた
「新しい生活様式」のこの社会を、みなさんはどう感じますか?ということです。
「非常に窮屈で辛くストレス」「こんな強制された社会ふざけるな!」と感じますか?
それとも、「最高に快適」と感じますか?
これ、めちゃくちゃ巨大なことを炙り出しているのですよ。「コロナ」は、これまでずっと人々を雁字搦めにしてきた弥生スピリットからじつは解放したのですよ。
――うわあ!これはちょっと、まさに椅子から転げ落ちる話です。
わかりますよね?
――わかりますわかります!
鳥肌が立って、さらに背筋がゾーッてなりますでしょ。まさに「戦慄を覚える」とは
このことだと思います。そして、その戦慄こそが、新しい「スタートライン」となります。
――これまでの自分の人生に戦慄を覚えるほどの衝撃を感じて、ようやくうっすらと見えてくる「向こう側」があるのですね。
そうです。そしてこれが「五次元チェス」なのですよ。その全貌は常人では到底理解できないし計り知れない。しかしそれを常人の思考範囲によって解釈していこうとする私たちのその「思い上がった心」がこの「コロナ」という現象によってアラハバかれようとしているのです。
つまり、「カバールDS掃討作戦」は、じつはまったく他人事ではない。世界最終戦争は、
私たちの心の中で起きているのです。私たちの心を侵略し、憑依してきたものの存在に私たち自身が気づき、そしてそれをアラハバくのです。
これからさらに楽しい人生になっていきますね!ありがとうございました。(澤野大樹)
――そうですね!改めてありがとうございました!
出典:国宝・火焔型土器はアートか?~縄文文化を探る旅 |
『縄文スピリット』とはソーシャルディスタンスそのもの。私たちは元々、『縄文スピリット』としてありたいと願い本来ならば普段から意識してきたはず。
本音で生きる、も 正直に生きる、も 自分勝手に生きる、ということではありません。
「ねっぱぐな」「よげしゃべるな」「いづだかんだばやめぐな」「わんつかおぢづげ」
このソーシャルディスタンス津軽弁は、縄文スピリットそのものを表現しているといえます。『マスクをして静かに待機』ですよ。ちなみに「うっせーわ!」は「しゃすね!」と訳します。
世の中は、新型コロナによって、変革を余儀なくされるレベルにきています。
さて、次回仙台講演会は第36章。まさに666章ですね。
★2021年5月16日(日) 仙台天命塾 講演会 第36章★
【タイトル】『上書きされる幻想』
【序文】
さあ記念すべき「第36章」(666)となります。日本政府は新型コロナの「実数」と「本質」を知っています。しかし出せない、言えない。このコロナによって各地に緊急事態宣言を出し、その幻想のホログラムの中ででも、“彼ら”は己の悲願である東京五輪2020を開催したい。どうしても開催したい。しかしそれは許されない。
本当のことは言ってはならないのだから。「今までこれまであなたたちはその幻想でその社会を150年間維持してきたのでしょ?ならば、これも幻想ではないですか。
幻想を駆使してきた者が幻想を拒否するとはどういうことですか?
己がやってきたことで、己のフィナーレを飾る。とても素晴らしいことではないですか?」
――というわけで、
5月16日(日)の仙台天命塾「第36章」は、まさにドンピシャなタイミングとなります。
もう「満席」となっておりますが、ぜひお楽しみに!(澤野大樹)