2021年6月30日水曜日

2378「七夕のお願い」2021.6.30

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年06月26日「順番待ちの地球」と

2021年06月27日「七夕のお願い」の2つの記事を紹介します。


「順番待ちの地球」


複数のレインボーチルドレンのお話では私たちは、この地球で肉体を持っている時だけ

「感情」を感じ、経験することができるのだそうです。 

つまり、感情とは肉体に付随するものと言うことです。

感情とはものごとや対象に対して抱く気持ちのこと。

喜び、悲しみ、怒り、諦め、驚き、嫌悪、恐怖などがあります。

私たちは、天国つまり感情の無い世界から、この地球に魂が転生してきました。 

その前は、オリオンとかシリウスとか、プレアデスとか、どこか別の星団に居たのかもしれません。

この地球の3次元世界、つまり物質的な次元の世界で、肉体を持つと同時に、それに付随して「感情」を経験することになります。

私達魂は、肉体をまとい、感情を経験することで、魂にとって一気に沢山の経験値を積むことができます。ですので地球転生希望者は、物凄く沢山いるのだとか。 

中でも、日本での転生待ちの魂は群を抜いて多いそうです。 

それは、どうしてかと言うと日本語固有の「ありがとう」という言霊があるからです。 

「ありがとう」の言霊を発すると、その人の固有振動数が、グンと上昇するのだそうです。 

つまり、その瞬間、神様に近づける・・と言うことです。

そして、各魂が、どのような事を経験したいかによって、この地球での体験があらかじめ決められます。 

・生きる、死ぬ

・健康、病気

・富む時、貧困の時

・出会い、分かれ

・苦しみ、楽しみ

・悲しみ、喜び

これらは、全て、したい経験のための単なる舞台装置でしかありません。 

その舞台に没頭し、それによって味わう「感情」を経験するためのものです。

ですから、いろんな人との出会いや、別れいろんな逆境 順境も、地球での一時の間の経験に美しい色どりを添えてくれるものです。

そのことによって、魂は傷つかないし、天に戻れば、その意味もしっかりと理解することができます。

今 目の前に 現れてくれている人との

・喜怒哀楽

・憎しみ、蔑み、意地悪

・愛、友情

いろんなドラマを演じなければ、大変もったいないことになります。

天に戻った時、これら全ての経験が良いことも悪いことも、私たちの永遠の魂にとっては

ダイヤモンドのように貴重な体験となるからです。 

人生に設定してきた様々な出来事、事件それらを通じ、私たちの魂は磨かれ輝きを増します。

そしてありがとう、この言霊は、全ての出来事に美しき神々の息吹を吹き込んでくれます。

どのように

・苦しく

・悲しく

・辛く

・悔しい 

環境に置かれようと、神々はしっかりと側で見てくださっています。 

そういう時こそ、是非「ありがとう」の言霊を使ってみてください。

その瞬間、ご自身の波動が一気に上がり新しい展開が開けてくるはずです。

  


「七夕のお願い」


毎年この季節に掲載している記事をご紹介します。

もうすぐ七夕。

今日は子供たちの美しい心のお話です。

美しいものを見たり、聞いたり、触れたりした時に、私達の心のどこかで共鳴が起こります。

そして同じように、醜いものを見たり、聞いたり、考えたりと心に入れてしまうと、その逆もあります。

人間の心は何処までも、高みに登る事も出来れば、何処までも、闇に沈むこともできます。

出来れば、私達の心の波長を

 真 善 美に合わせておきたいものですね。


それが、一番自然であり、苦しまなくて済みます。幸せになる一番の近道だからです。。

でも、落ち込んでも大丈夫です。それも結局は、予定調和に至る道ですから・・

私たちの内に居らっしゃる神様は、決して見捨てたりしません。

何時も傍らにおられます。

 

さて、始めます


知的障害の兄を持つ小学1年生の男子児童のお話。

入学式の日、その児童の席のとなりに、小児麻痺で左腕が不自由な同級生の男子児童が座りました。最初の体育のときでした。 

手が不自由な小児麻痺の児童は、着替えるのに30分もかかってしまいました。

時間がかかっても、先生は、何も言わずこの子を放っておくことにしました。

でも、二度目の体育の時間には、この子も他の子といっしょにきちんと並んで待っていました。 

「どうしてだろう?」不思議に思った先生は、次の体育の前の休み時間に、そっと教室の外から見ていました。

すると、隣の児童が、一生懸命に手の不自由な子が着替えるのを手伝ってあげていたのです。

そして、その子が着替え終わると、二人で校庭に元気よく駆け出していったのです。

先生は、やはり何も言わずに見守ることにしました。

七夕の日のことです。ちょうど授業参観日でした。


先生は子どもたちに願い事を書かせて、それを教室の笹に下げておきました。

お母さんたちが集まったところで、先生は、一枚一枚、短冊を読んできました。

一年生ですから、

「あのおもちゃかってちょうだい」

「おこずかいちょうだい」 

「まんが本がほしい」 

というようなことが書いてありました。 

その中に一枚だけ、こう書かれていました。

「かみさま、ぼくのとなりの子のうでをなおしてあげてください」

あの世話をしていた、児童が書いたものでした。

先生は、この一途な祈りを読むともう我慢できなくなって、あの体育の時間のことを、

お母さんたちに話しました。

小児麻痺の子のお母さんは、

「子どもがどんなに教室で、不自由しているのだろう」

「迷惑をかけているのだろう」

「申し訳ないことをしてしまった」

と悩みながらと教室に入れずに 廊下からじっと様子を見ていました。

が、先生の話を聞いたとき、突然、廊下から飛び込んできました。

教室に入るなり、ぺったりを床に座り、この児童の首にしがみついて絶叫しました。

「坊や、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう。ありがとう、ありがとう、ありがとう。・・・・」 

その声がいつまでも教室に響き渡ったそうです。

 

人を思いやる気持ちって、本当に美しいですね。





2021年6月29日火曜日

2377「生まれて来た訳」2021.6.29

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年06月22日の記事を紹介します。


「生まれて来た訳」

今日は「生まれて来た訳」ということで、生まれる前の中間世記憶を持っている子供たちのお話からご紹介します。

※先ほど間違えて、数日前の記事を再投稿してしまいました。ごめんなさい。削除しました。


この事実を知ることで、

・生命の神秘、

・神さまの深い愛、

・そして人間として生まれてきた奇跡

を思い出すことができます。

・私たち大人も、

・善人も悪人も、

・私が嫌いな人も、

・私のことを嫌いな人も・・

みな等しく、この愛の光の下から生まれてきたのです。

決して表面的な一面だけの見方で、人を嫌ったり、差別したり、切り捨てたり・・

そんなことはもうできなくなります。私たちはみな等しく  神の子供であるからです。

まず産婦人科医・医学博士の池川明さんの著書 

「ママ、生まれる前から大好きだよ! -胎内記憶といのちの不思議」から少しご紹介します。

<転載開始> 転載元 


りゅうのすけくん(6歳)

「空を飛んで世界中を探して、いちばんママがよかったの。

さみしそうだったし、ぼくが来たらさみしくないかな、と思ったから。

ぼくが生まれたら、ママは喜んでくれたよ。

ほかにも、ひとりかふたり、「ママにしようかな」と思った人がいたよ。

でも、その人にはもう子どもがいたので、れいやくん(弟)と相談して、やめたの。

ママがお花見をしていたとき、羽のある小さな蜂になって、

飛び込みながらみんなを見ていて、ママの口に入ったんだよ。」


たかゆきくん(6歳)

「子どもたちは雲の上で、ずっと列みたいに並んでいる。

遊んではいないけれど、ふつうに歩いていたりする。

病気の子で生まれるか、元気な子で生まれるかっていうのを、

絶対に決めなくちゃ、生まれられないから。

元気で生まれるか病気で生まれるかを決めるのは、自分。

自分でお母さんを決めて、元気な子で生まれるって決めたら元気な子に生まれるし、

病気の子に生まれるってなったら、病気で生まれる。

神さまは、雲の上の、また上の教会にいて、元気に生まれるか生まれないかを

子どもたちに聞いたり、生まれた後の人(=死んで雲の上に戻ってきた人)には、

よいことをしたか悪いことをしたか聞いたりする。

悪いことをしたら、そこでまた生まれてよいことをしなくちゃいけないけれど、

よいことをした人はほめてもらって、ちょっとのあいだ、行きたいところに行かせてもらえる。」<転載終了>


そして、もうひとつ池川先生のお話をご紹介します。

<転載開始> 転載元

人はなぜ、生まれてくるのでしょうか?

これを子どもたちに聞くと、「人の役に立つため」、

とりわけ「家族を幸せにするため」という答えが多いです。

臨死体験をされた方々の複数の証言によると、死後、閻魔様(えんまさま)の前で聞かれるのは、次の2つのことだけだとも言います。

1. 陰徳(いんとく)を積んだか?(人知れず、他人の役に立ったか?)

2. 自分の人生を楽しんだか?

であるにも関わらず、私たちが「生きているのがつらい」と感じることが多いのは、なぜでしょうか?

私が、多くの子どもたちから集めたお話から解釈するに、たぶん、

自分がつらい思いをして、それを乗りこえたときに、魂はそれを楽しいと喜ぶ。

そしてつらい思いをしたからこそ、

同じようにつらい思いをしている人の役に立つことができる」からだろう、と思います。

つまり、ずっと幸せかつ平穏に過ごしているだけの人は、他人の心に寄りそえないし、 

魂も、実は「それで楽しい」とは思わないようなのです。

つらさのただ中にある人は、実は、同じようなつらさを経験したことのある人の助言しか、真剣には聞かないものです。

なので、そのためにもつらい経験をする必要がある、苦労する必要があるのかな、とも思います。

実は、子どもたちに聞いた、空の上で暮らす魂の日常は、すごく穏やかで、平和で、幸せなのだそうです。

着るものにも、食べるものにも困らない世界で、食べようと思えば、いくらでも食べられて、

ダイエットの必要もない、すごく良いところなのだそうです。

ですので、この世に生まれてくる魂たちは、“非日常”を求めて…

まさにアミューズメントパークに来るような感覚で、この世に生まれてくるようなのです。


楽園から楽園に移動しても“非日常”は感じられないので…

それでこの世は、制限が多く、つらいことも多い世界なのでしょう。

また、空の上と、この世とでは、どうも時間の流れも違うようです。

空の上は時間がすごくゆっくり流れていて、地上は速いのです。

私たちの100年と、赤ちゃんとして過ごした数週間とか数日間は、あちらの世界に戻るとそう変わらない、と多くの子が証言しています。

空の上では、時間という概念がないのだけれど、あえて言うと、時間がものすごくゆっくり流れている、と。だから地上に生まれて来ると、魂の成長が、空の上にいるときよりも、はるかに早まるのだそうです。いわば、この世は、魂レベルの促成栽培地なのです。

空の上では、小学校1年~6年までに千年かかるのに、地上では6年で済むとか、そういった感覚で考えていただけると良さそうです。

ですから、お得なのです。だから、みんな、地上に来たがるわけです。

ですから、「早く魂を成長させたいな」という人が優先的に生まれて来ているとも言えます

(実際は、そうした成長とは無関係に、この地上に、ただただ多くの刺激や体験を求めに来ている魂も少なくないようですが)。

<転載終了>


時間の概念が無いにせよ、私たちの人生100年分の経験は、天の世界の、たった数日から数週間なのだそうです。

それだけ私たち人間の人生は、辛いことや苦しいこと、楽しいことや嬉しいことの繰り返しで沢山の感情を味わえるのですね。

そのような経験をしながら、私たちは魂磨きの旅を、ここ地球で行っています。

お金があり余り、わがままが許され、贅沢三昧の生活では、魂にとっては何の進歩もないのかもしれません。

たぶん、天に帰った時に「つまらない人生だった」となるのかもしれません。

中間世の記憶を持つ子供たちが言うように、私たちは生まれる前に、病気や人生の様々な出来事を、全部神さまと相談して決めてから生まれてきました。

今の置かれている環境に、もしかしたら不満がある方もいるかもしれません。

辛い環境かもしれません。ですが、それは全部自分で決めて来たことです。

神さまの承諾も得て来ました。

ですから絶対大丈夫なようにできているんです。安心してくださいね。

もし、少しだけ思い出し、そして安心であることが分かったら、心を「愛」で満たしてみてください。きっとご自分も、家族も、周りの方も、本物の幸せになれますから。





2021年6月28日月曜日

2376「何か問題でも?」 2021.6.28

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年06月24日の記事を紹介します。


「何か問題でも?」

私たちが今世、肉体をまとい、物質的な地球に生まれて来たのには意味があります。

 

魂を進化させる

これは全ての生命体や、その他の被造物が同じ目的を持っています。 

自分では何もせず、神々に頼り、願い、すがって叶うものではありません。 

かえって、その「依存の心」は、魂を弱らせ、神々から離れてしまう方向性を持っています。


 また、 

・お金のために人を陥れたり

・地位に固執したり

・プライド高く人を見下したり

・嫉妬心から人の足を引っ張ったり

つまり、心を汚して、真っ黒くしていては 

魂は重く 未来は今の心と同じく、黒く汚いものになることでしょう。

良きことも、悪しきことも自分のしたことと同じことが倍になって、自分に帰ってきます。


 派手さも無く、地味なことなのですが、自分の心をピュアで綺麗に保つこと

 周りの方々に、愛と思いやりを持って接すること 

これこそが、魂の美しさを保ち肉体を脱いだ後も、真っすぐに神々の所へ行くための王道です。

 ピュアな美しい心でいるには日々の

・思い

・考え

・言葉

・行動 

を良く制御する必要があります。 

一朝一夕にはできませんが、失敗したら反省し、また軌道を戻す。。 

その繰り返しで、いつの間にか意識せずともに心の中の罪や穢れが 払われて

人々や神々に愛される 美しい心となります。


 それでは今日も

・神々に愛される美しい心を保つために・・

・そして本当の幸せをつかむために・・

・心の中の神々と直接対話できるように・・・

書きたいと思います。

ご自分の心が整理されていないゆえに、自分自らが、悩みや苦しみ、不幸をかき集め 

幸せになりたいのに、無意識のうちに、それを拒否してあえて、自ら進んで不幸な人生を送ってしまう・・そんな方向けの記事です。

過去に書いたこともありますが、加筆して掲載します。 

もう読んだよって方は、スルーなさってください。 

小林正観さんのお話です。テーマは「で、何が問題なの?」です。 

正観さんはブッダの説いた真理を、今の言葉で、解り易く、そして実行しやすく説いて下さいます。

<引用開始> →引用元HP


あるところで、一泊二日の泊まり込みの旅行がありました。

数十人の人が泊まり込み、夜を徹してしゃべり、翌朝も一緒に朝食を食べました。

朝食の時、隣にご夫婦が座っていました。私の顔を見るなり、その奥さんが話しかけてきました。

「質問してよろしいですか」「どうぞ」

「実は私の子供なんですが…」というふうに話をし始めました。

私は、そこで両手でバツを作りながら、にっと笑って「ブー」と言いました。

実は、その前夜に数十人でお茶会をやったときに、何十人もの人から同じような質問を受けていたのです。

その質問とは「自分以外の人間を自分の思いどおりにするにはどうすればよいか」

というものでした。質問している人は、それぞれ全部、状況が違います。

自分の思いどおりにしたいその対象は、 

・子供であったり、

・親であったり、

・夫であったり、

・妻であったり、

・職場の同僚であったり

はするのですが、結局は、自分を取り巻いている人間関係のなかで、気に入らない人を

「自分の思いどおりにしたい」というのが悩み相談のほとんどでした。

それを昨夜のうちに何回も何回もくり返し言っていたのです。

「また、自分以外のことの質問なんですね、実は…自分の質問のようにご本人は思っているでしょうけど、結局は自分の思いどおりにしたいということですよね」

と言いました。

一分ほどこの方が黙っていました。また口を開きました。

「職場にですねえ…私にすごくつらく当たる上司がいるんです」。

私はまた笑ってしまって、手でバツを作って「ブー」と言いました。

私は、次のような話を続けたのです。

ほとんど笑顔がない状態で、そのように行く先々で、家庭の中で、職場で、あるいは友人の中で、 いつもいつも『これが問題だ、問題だ』と言い続けてきたのではありませんか。

もし、私があなたの上司であったならば、あなたの顔を見たら、 

『これが問題だ、これが問題だ』と言っているあなたに対して、自分に近づいてこないように、より厳しく、より冷たい言葉を投げかけるのではないでしょうか。

『私のそばに寄ってくるな』という意志や作用が明らかに働くと思います。

『問題だ、問題だ』というふうに問題をわざわざ熊手で集めてくるのをやめにしませんか」

と言いました。

「こんな楽しいことがあってね、

こんな嬉しいことがあってね、

こんな幸せなことが実はあったのよね、

こんなおもしろい話に出会ったのよね、

つい最近読んだ本がものすごくおもしろい本だった」

そういうように笑顔で話す人がいたら、その人の周りには人が集まると思います。

その人の口から出てくる言葉が

・嬉しい

・楽しい

・幸せ

・愛してる

・大好き

・ありがとう

・ついてる

(この七つを、「七福神」ならぬ「祝福神」と名づけました)。

そういう喜びの言葉、幸せな言葉というものが外に出てきたら、それを喜ぶ人たちがたくさんいます。

「問題だ、問題だ」と問題点を探し出すよりも、受け容れることで自分が楽になるのです。

そして、受け容れることでさらに、そこに喜びを感じ、幸せを感じ、さらに感謝を感じる 

ことができたならば、その一つひとつの言葉に人々は癒されて、明るい気持ちになり、

その人の周りに皆さんが寄ってきます。

そして、周りの人みんなが笑顔になり、笑顔の集団が出き上がります。

<引用終了>


よくよく悩み事を分析して見ると、ほとんどが

・自分以外の人間を、自分の思いどおりにするにはどうすればよいか? 

・自分が思っているように、自分が気にいるように、相手に行動してもらうにはどうしたらよいか?

などのようですね。

ですがブッダが般若心経で伝えてくれたように、

周りに起きて来る現象を全て肯定して受け入れてしまうそのほうが良いかもしれません。

悩みが悩みで無くなりますから。 

人が

・自分の思い通りに行動しない、

・時間を守らない

・ずうずうしい

・自分の価値観にそぐわないことをしている、、

そんなことでイライラするのはやめましょう。

スーパーの障害者用駐車場に、我が物顔で駐車しようとする人に腹を立てるのはやめましょう(笑)

人には人の心があります。それに従った住む世界があります。

私たちは、他人の心を推し量ることはできません。 

私たちが集中しなければならないこと、それは、他人のことではありません。

まさに私たち自身の 心の在り方だけだからです。

悪い情報を、ムリにかき集め毒を周りにまき散らすよりも、明るく楽しい情報を周りに笑顔で発信していたほうがどんなに幸せになれることでしょうか? 

きっと、ご自分でも驚くほど運命が好転していくことと思います。


2021年6月27日日曜日

2375「二極化する地球」2021.6.27

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年06月25日の記事を紹介します。


「二極化する地球」

今、日本を含め世界では、急速な勢いで、「建て替え」(立て直しのための破壊)が進んでいます。

創造、維持、破壊の宇宙神 ブラフマー、ビシュヌ、シヴァ

今まさに、ブラフマーが活躍するために、シヴァの破壊が行われています。

でもそれは、夜明けが近い証拠。

今日は以前書いた記事ですが、今の時代をまさに言い当てていますので、加筆修正して掲載します。

但し、不思議系のお話です。眉唾ものですので、興味のない方はスルーなさってください。 


霊的な巨人であった出口王仁三郎は、数々の予言を残しましたが、それらがことごとく的中しています。 

私たち人間は、変化の渦中で生活していると、世の中の変化には、少しは気付くかもしれませんが、その裏にある、神々の意図まで考えをめぐらすことはできないものです。

ですが世の中は、着実に神々の計画通り動いています。 

神々の方法は、下記の2つで成り立っています。

・立替え そして 

・立直し です。

立替えは、神々による破壊、立直しは、破壊しつくされた世界を人間の力で作り直していく作業です。

そして神々の計画は、概ね30年を区切りとして行われています。

王仁三郎が予言を残してから、神々の区切りである30年刻みで、様々に世界・日本は変化してきましたが、2010年からの30年は、人間の精神性に関する立替え・立直しと言われています。

2011年の東北大震災。それがスタートでした。

神々による「人間の精神性の復活」のための破壊(建て替え)が始まりました。

精神性の復活とは心の美しさ、愛や思いやり、やさしさを大切にする社会のことです。

嫉妬や妬みなど、憎しみとは、真逆の世界です。

ここで、以前発表された一つの論文の一部をご紹介します。

船瀬図書館の記事に載った池田整治さんの記事です。かなり飛んでいるお話です。 

私は真偽のほどはわかりません。ですが池田さんは、尊敬しています。 

詳しくは、元記事にあたってください。 

<引用開始> 引用元

 

伝説によれば、宇宙文明の仲間入りをする「弥勒の世」は3段階で達成されます。

まず123(ひふみ)の段階で、中心に最高霊の「スメラミコト」が降臨。

具体的には1945年8月15日、敗戦で天皇陛下が軍服を脱いだ時。

次に345(みよいず)の段階で、国造り。今は、まさにミロクの世に相応しい社会、

組織作りの時なのです。にもかかわらず、植民地体制で日本人の覚醒が封印されています。

そして、最期の567(みろく) = コロナ の10年間でいっきにミロクの世が完成する。その始まりが実は、2020年。だから、新たな天皇陛下の御代となるとも言えます。

問題は、2020年からのミロクの時代には、それに相応しい霊格を持った人でないと住めないという現実です。

具体的には、愛の度数が800以上のひと(霊人)。ちなみに、キリストや仏陀で1000ぐらいと言われています。

では、それ以下の人はどうなるのか?ズバリ、大峠で淘汰されます。

要は、地球自体が5次元の星になるので、もう地球に転生して生まれ変わりはできない、とのことです。

要は、これから始まる地震、噴火、あるいはポールシフト等は、800以下の人々を淘汰するための、ガイア自身の最期の「決断」とも言えます。

つまり、このままエゴの増大する世界金融支配体制などに任せていたら、ガイアのシステム自身が終焉を迎えてしまうから…。

状況によれば、全人類が一度「泥」に覆われるかも知れない。

その時に、高次元の宇宙の仲間が、使える魂を拾い上げる「宇宙艦隊」も既に地球の周りで待機している…逆に、皆が高いレベルなら、自然現象の天変地異も最小限の被害で終わる、ということも言えます。

<引用終了>

 

ここに書かれている

>全人類が一度「泥」に覆われるかも知れない。 

とは、今まさに起こっている、コロナウイルスのパンデミックかもしれませんね。

あまり不思議系の派手なものは、私のブログでは、載せないようにしているのですが、

今日は、愛する母のために、地獄の様子を細かく描写した「往生要集」( おうじょうようしゅう)をまとめあげた平安中期の天台宗の僧、源信(げんしん)の願いと同じ気持ちで載せました。 

綺麗ごとばかりでなく、清濁併せ飲んだうえで、泥にまみれても、それでも本当の幸せを得るため、実利の道を進むためです。 

池田さんは「淘汰」という厳しい言葉を使っていらっしゃいますが、要するに、各自の魂の嗜好性によって類は友を呼ぶの法則通り地球の波動が上がれば、波動の合わなくなった人は、別の星に移動して行く、生まれ変わっていく、自分の好み、波長に合った世界(星)に移動して行く。

そういう意味だと思います。

神様の目から見れば、上も下も良いも悪いもないからです。


皆さん、心の準備はできていますか?

優しさや、愛は与えれば与えるほど、自分の中に溢れてくるものです。 

決して与えることで枯渇してしまい、自分が損をすることではありません。

その行為は、美しいエネルギーの循環を起こし、人々を幸せにしながら、再び自分に、何倍にもなって戻ってきます。 また美しい心の逆の、黒い心も人間は持つことができます。

小林正観さんの「自己顕示と嫉妬」というお話によれば・・・

 

人間は、そもそも「たいしたものでない」のに、成長していくにつれて、心の中に次の「3つの感情」が芽生えてきます。

・自己顕示欲

・復讐心

・嫉妬

これらはすべて「マイナスのエネルギー」であり、神様から嫌われる性質です。

自分のことを「たいしたものだ」と認識したいと思うから、「自己顕示欲」が湧いてきます。

みんなが自分のことを「たいした人だと認めるべきだ」と思っているから、そうならないときに、「嫉妬」が芽生えます。

他の人がちやほやされているのを見て、「どうして自分にはそうしないのか」という思いが、「嫉妬」です。

また、人から何か気に入らないことをされたとき、

それを「5倍、6倍にして徹底的に嫌がらせをしてやるぞ」と思う気持ちが、「復讐心」です。


 <抜粋終わり>

  

私たちの未来の現実は今の私たちの心の状態が作り出します。 

何処かの誰かが、私たちのために幸せを運んでくるのではありません。 

私たちの今の心の状態は、未来の現実と、肉体を脱いだ死後の世界までも決めてしまいます。

心とは、それほど大切なもlのです。

どうか今目の前に居らっしゃる方に、笑顔と優しさと、愛を向けてみて下さい。

きっとブッダの言った、3千年王国の到来に私たちも貢献できるはずですから。


  




2021年6月26日土曜日

2374「信じて祈ること」2021.6.26

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年06月21日の記事を紹介します。


「信じて祈ること」

今日は夏至、1年で一番日の長い日。陽の日です。 

今日の早朝の神の山にある天空農園です。





太陽がものすごく大きく、神秘的です。まさに神の山の畑です。 

ここは竹之高地不動社の裏手の山のてっぺん。

今日の夏至の日、新嘗祭(にいなめさい)ではありませんが、神々の恵みに感謝して、お酒や塩、お米、水、果物などをお供えしてきました。 

山の神、大山祇命(おおやまつみのみこと)、そしてお不動様に感謝の気持ちを伝えてきました。ご寄付くださった皆様に感謝申し上げます。

さて今日は、斎藤一人さんの次の言葉をご紹介します。

<引用開始>

 

もし身近な人が苦しんでいるとしても過剰に心配しなくて大丈夫

 それよりも信じてあげること 

「今、神様の愛によって、全てがうまく行っています」と祈ってあげると良いですね。

祈りっていうのは愛だから


<引用終了>

 

私たちは誰もが、神様の分け御霊を頂いた生命体です。 

全ての生命体には神様の与えてくださった役割として、 

・他の役に立つこと

・他と調和して

・宇宙の生成発展に寄与して、それを維持すること 

と言う役割があります。 

その大きな役割の中で生命の進化の過程で、今人間として生まれて来て 

動植物含め、全生命体の調和の調整という役割が与えられています。 

そして自らの魂も進化させるためにこの3次元地球に肉体を頂いて、今生きています。 

その目的を果たすために、いろいろな舞台が用意されています。 

それは、一人一人全部違います。交わる部分もあります。 

深く交わる部分は、家族や恋人、友人などの役回りかもしれません。 

ですが、私たちは、他の誰かの人生に決して介入することはできません。 

例え親子、家族であっても・・


人それぞれの魂の目的が違いますし、その方法論も違います。

「良かれ」と思っても、決して自分の思い通りに人を動かすことはできません。

でも心配することはありません。 

全ての人は、それぞれが、神様と約束し、この地上に降りて来ました。 

私たちがそうであるように、その人も、常に神様に守られています。 

人間の情の部分からすれば、親なんだから・・・家族なんだから・・・ 

と、どうしても、自分の価値観で口酸っぱくとも、アドバイスしたくなりますし、 

思いが伝わらなければ、怒ったりもしたくなります。 

ましては、生死が関わるとなれば、なおさらです。 

ですが、たとえ家族であろうと、その魂の目的や、魂の欲求を無理やり変えることはできません。

別個の魂だからです。 

彼らは彼らなりに、今回の人間の人生をかけて、、この方法ではうまくいかない。

そんな学びを一所懸命、苦しみ、悲しみながら命がけで学んでいる最中かもしれません。 

神さまの目から見たら、肉体の生死はあまり関係ないようです。 

永遠の魂の方を見ているからです。 

必要があれば、今回の人生の教訓を直ぐに生まれ変わって、次の人生のステップに生かしていくことでしょう。 

その時は、もう、親子関係などなく赤の他人としての人生を歩むかもしれません。 

先ほどご紹介した一人さんの言葉には、このような意味があります。

感情は、生きて肉体を持つ間にしか生まれません。 

私達今生きている人間にとっては少し薄情(情が足りない)に思えるかもしれませんが、 

きっと、一人さんの仰っていることは真実だと思います。 

情の目で見れば「かわいそう」な出来事かもしれませんが 

彼らの魂は、その過程を楽しんでいるかもしれません。

何者も、どんなことをしても魂に傷をつけることはできないのですから。 

一人さんの言うようにそれよりも信じてあげること

「今、神様の愛によって、全てがうまく行っています」と祈ってあげると

きっとこちらの方が魂的には本質的で良いことに思います。 

彼らが計画してきた、この地上での苦しい、悲しい経験が、その目的を達成することで役に立つのであれば、周りの親しい人々は、信じて祈ってあげる事 

彼らの心願が成就することを祈ってあげることが本当の愛かもしれません。

晴れて彼らの心願が成就した時 その魂の目的は達成されたのですから、その手段だった

彼らの悲しみ、苦しみも、記憶の遥か彼方に消えてなくなってしまうことでしょう。

その時こそ、生まれて来た時に持っていた本来の魂の輝き、神々の光が現れてくる時です。



2021年6月25日金曜日

2373「それしか起きなかった」2021.6.25

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年06月20日記事を紹介します。


「それしか起きなかった」

私たちは、よく後悔します。

・あの時、こうしておけばよかった

・あの時、あんなことをしなければよかった

・あの時、別の道を選べばよかった

それは、今の状況が不満で、不安で納得できない時に、過去のことを悔んでしまいます。

今が幸せいっぱいだったら、後悔などしません。

ですが、その後悔は、神さまの仕組みから見たら、少し違うようです。

さて、今日も、読んでくださる方に、勇気と安心を、感じていただきたくて書いています。

もし勇気が湧いた心、安心した心が得られたら、周りのご家族に、笑顔を向けて下さったら、とっても嬉しいです。

今日は、「人生のシナリオは、決まっている」というテーマなのですが、小林正観さんの講演会の話し言葉の文章が公開されており、とても分かりやすく、心に響くものだったので

ご紹介させていただきます。

<転載開始> 転載元  


一応、簡単な結論を言っておきますと、どうも人間の未来というのは確定的に 決まっているらしい。

私たちは学校教育で、「為せば成る、為さねばならぬ 何事も・・・」、 努力が足りないからできないんだ、自分が目標を持って必死な思いでやれば必ずそういうふうになるんだ。

というふうに教わってきたんですけど、どうもそうじゃないみたいですね。

努力をしてもしなくても同じ結果になるのか、っていうとそれはまたちょっと違うんですけど。

その人が生まれ育った家庭環境で、努力を続けてその通りになるっていう、そういう シナリオを書いて生まれてくる人がいれば、家庭環境によってはまったく努力をしないっていうシナリオを書いて生まれてくる人もいます。

努力をしたらこうなるというシナリオを 書いているか、努力をしないでこうなるという結果を書いているか、というどっちかである。 

すなわち 生まれた瞬間に、もう死ぬときが決まっている、ということです。


 死ぬときが決まっているということは、生まれてから、死ぬまでのシナリオが全部決まっている。

今は過去の集積である  ある投げかけや、動きや行為行動をしなければ、次の動き、行為行動にはならないということ。

自分の 投げかけたものが倍になって宇宙から返ってくる  という法則があります。 

投げかけたものとは 

・優しい言葉

・勇気の出る言葉

・思いやりのある言葉

・お互いさま、お陰さまの心

・笑顔

その逆に、

・罵詈雑言

・悪口

・疑心暗鬼の心

・自分さえ良ければの心

・憎しみ

様々ありますね。 

その人の今の現実を見たときに、みなさんは過去の姿を推定することができますね。

超能力ではなくて、現在の現象を見ていると、過去の現象を、読みとることができます。  

そして、現状を見ると、過去が推定できますね。現状を見ると、未来が推定できますね。  

そういうふうに因果関係が作られています。

過去の言動を見れば、今の自分が見えてくるし、

今の自分を見れば、未来の自分を予言できます。  

投げかけたものが倍になって宇宙から返ってくるという、この法則を知るということもまた、生まれる前にシナリオとして準備されていた。 

こういう因果関係を知るというのもシナリオなんですね。 

今日この因果関係を知って、「ついに分かったぞ」という人もいるわけです。 

そうか、 そういうことで自分の人生は成り立ってきたのか、じゃあこれから自分の人生を 

誠実に正直に生きていこうと 決めたときに人生は一転するんです。 


 それじゃ、そう決心したことで昨日までの人生とまったく変わったじゃないか?

シナリオが変わったじゃないか?

ということになるけれども、変わるっていうのは、本人がそう思っているだけで、実は宇宙的にそのシナリオ、つまり、その時、変わる決心をすることも、そのようにシナリオが書かれていただけなんです。  

私はしゃべる立場で、2月9日に皆さんの前でしゃべらなくちゃいけないってことになっていて、吹田の会場でこういう話を聞くはめになっていたというのも、みなさんのシナリオなんです。 

自分が気が付かずに投げかけてきた事の集積として、そういう状況に囲まれているだけです。面白いですよ、その因果関係というものが分かってくると、じゃ今日からこうすれば いいじゃないっていうのが自分の中で分かってきます。

人間のすごく生きやすい 生き方というのを一言で言っておきますと、

誠実に生きるということです。


 馬鹿正直に、愚鈍にっていう言い方もあるんですけど。

これが王道です。 自分の投げかけた結果として、現在がある。今投げかけている結果としての未来があるっていう ことが分かってくると、過去と現在と未来がドミノ倒しのように

一列に因果関係で並んでいるということが分かるんです。

そう考えると、そのドミノ倒しの因果関係の結果として ある時に死を迎える。

ということは、その通過時点であるひとつひとつのことも全部予定通りである

という結論になってしまうんですね。 


 未来的なものというのが、自分が生まれたときから死ぬときまで、過去のことも含めて

未来的なことも含めて、全部シナリオが 書かれているらしいと思ったら、もう過去のことについて何を悔やむ必要もないんです。

人生は今をどう捉えるかの訓練である 

過去のそのときに選んだ選択は、全部シナリオ通りであり、最善のベストの選択であった。

皆さんには受け入れにくい話かも知れませんけど、自分が書いたシナリオで現象が どうも全部起きてくるみたいです。

だから、過去のことについて悔いたり後悔をしたりする意味がない

ということを一応皆さんに言っておきます。

過去のどんなことも、あの時ああすれば

 「ああできたらよかったのに」っていうことは一切ない。

全部そのとおりになっていた、それしか起きなかった、そこしか選択の道はなかった。

そして全部自分がシナリオを書いて 出てきたんだっていうことが解ると、未来的にこんなことが起きるんじゃないか、こんなことが起きたらどうしようって心配することは無意味

だということを申し上げておきます。

今、この瞬間から皆さんは自分の人生に、なんの心配も懸念も持つ必要はありません。 

全部自分がシナリオを書いた。

そしてそのひとつひとつの事件について、自分がどう捉えるかの訓練を今生(こんじょう=この世)でやっている。

捉える訓練の70年、80年なんです。解りますか?  

だから目の前に楽しい思いをして楽しかったというのは、人生の達人からすると初級なんです。

そして、普通に目が見えること、呼吸ができるというような、誰もが喜ばないような、当たり前のことに喜べるようになった人を人生の達人の中級者といいます。

そして、病気だとか 事故だとか、いろんなトラブルだとか艱難辛苦(かんなんしんく=人生でぶつかる困難や苦労) だとか いうようなことに対して、さらにそこに手を合わせて嬉しい幸せ、ありがとうと言える人を人生の達人の上級者と呼びます。 

私たちは自分の人生を自分でシナリオを書いてきているんですよ。その目の前に起きてきた現象についてどう反応し、 どう評価するかってことを死ぬまでにやっていく。

死ぬときまでにこういう話を聞かないで、 つまらないとか悔しいとか、頭にきたとか言いながら死んでいく人がたくさんいるんです。

人口の99.999999%はこういう話を永久に聞かないまま死んでいくんですね。  

過去も未来もない、あるのは今だけ、今日寝て起きたら、いつですか?  

今日寝て起きたら明日って答える人が けっこう多いんですけど。

今日寝て起きたら今日。 今日なんです。

明日って永久に来ません。 実は明日という日は永久に存在しないんですよ。

私たちは、長い時間経過の中で、 明日も明後日も生きているように思うけれども、実は今という時間しか生きていないんです。

四次元的な話をしますけど、私たちの目の前には過去も未来も存在していません。

存在しているのは現在、今この瞬間 瞬間の刹那だけ その刹那の連続しかない。 

だから未来を心配することは無意味だ、過去のことを心配し、悔いることも無意味だということです。

そんな暇があったら、今目の前にいる人を大事にしなさい、ということだけなんです。

人生はものすごくシンプルで、過去のことを心配する、悔やむ。未来のことを 一所懸命どうやって正しい道を選択しようかっていう人は、正しい道を模索しているのかも 知れないけど、そういう生き方ではなくて、今、目の前の事と人を大事にしてゆけばよい。

私たちが考えることは念を入れて生きるっていうことなんです。 

念という文字は、「今」の「心」と書きます。

念じなさい、念じなさい、そうすれば未来は自分の思うとおりになりますと、 自己啓発セミナーなどは教えるんですけど、念じることによって未来が自分の思い通りに なりますかってことは、この念という言葉の中にはまったく存在しません。

なぜそれが言い切れるかっていうと、今の心としか書いていないからです。今、目の前の事と人を大事にすること、それが念を入れるってことです。 簡単なことなんです。

だからさっき言った過去のことの集積として現在がある、その現在が自分にとって 心地よくないのであれば、それを評価論として悔いる暇に、そんなエネルギーと時間と暇があったら、輝く未来をつくるために今、目の前の事と人を大事にする。

私たちは人生をどう生きていくかってことについて、ああだこうだ考えることは全然ない。

今、目の前の事を大事にし、目の前の人を大事にする、それの積み重ねだけ。

それしか私たちはできないということです。それ以外に過去に参加することはできない、

昨日の人を抱きしめることはできない。明日来る女性のことを抱きしめられない。

今、目の前にいるひとだけを抱きしめることができる。 

そういうことです。 人生がこれほどシンプルで楽であることを分かってしまうと、なんにもエネルギーを とられる必要がないから、目の前の事と人とを大事にしていけばいい。

今の心とは、今目の前の人を大事にし、目の前の事を大事にすることです。 


 学校教育の中でも、「がんばれがんばれ、未来を自分の力でつくりあげなさい」って 教えられるけれども、未来のことは考えなくていい、未来のことを考えて心配している暇があったら、今目の前の人と事を大事にするだけ。  

私たちの目の前にある人生というのは、今しかないんですね。

<転載終了>


凄く力強い、勇気が出る言葉ですね。ブッダも同じことを仰っています。

縁起の法則や、刹那の説明に出てきます。

もし、心に響いたら、時々思い出してみてください。

投げかけたものが倍になって宇宙から返ってくること・・

温かい言葉を投げかければ、温かな言葉をかけられます。

笑顔を向ければ笑顔が帰ってきます。親切にすれば、親切にされます。

傲慢な態度を取れば、傲慢な態度で返されます。


 今、現在の態度、行動を変えれば、必ず未来が変わってきます。

今目の前の人、物を大切に、誠実に生きるということが、一番大切なこと・・


2021年6月24日木曜日

2372「絶対なんとかなる!」2021.6.24

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年06月19日の記事を紹介します。


「絶対、なんとかなる!」

私たちは、生きている間、都合よく、良いことばかりが起きて、不幸や悲しみを知らず、

喜びの中で死を迎えたいと思っています。

ですが、それが、本当に永遠の生命「魂」にとって、幸せなことでしょうか?

あの世と、この世の価値観は逆転しているといわれています。 

・この世での苦労

・報われなかった苦労

・誰にも尊敬されない仕事 

など、私たちは目にもくれないし、時には軽蔑したりしますが、あの世の価値観では、それこそが宝の山なのだそうです。 

それでは、今日は斎藤一人さんの言葉をご紹介します。

<引用開始> 引用元 


一人さんはね、昔から、こんなことをずっと考えていたんです。

天は、どういう人の味方をするんだろう?

神様は、どんな人間にチャンスをくれるんだろうか? って。

で、わかったんです。

いばっているヤツ、人のあげ足を取るヤツは、神様にも嫌われるよね。

反対に、心が豊かな人…優しい人とか、笑顔の素敵な人って、神様にも周りの人にも好かれる。

だから私は、このルールに従って生きてきました。

そして、ものすごい成功を手にしたんだよね。

心の豊かさって、太陽みたいなもの。


  そっちへ向かっていけばいいんです。

例えば、東京から大阪に向かいながら北海道に着くことはないように、明るくて暖かいほうへ進んで不幸になることはないんだ。

人をねたむとか、あせってイライラするとか、そういうのは貧しさの表れだよ。

心が貧しくなっているの。

貧しい心は、豊かな心とは真逆だから、現実にますます貧しくなってしまいます。

それよりも、人にいいことがあったら、「おめでとう」って言ってあげたり、どんなに小さなことでも、今ある自分の幸せに感謝したり、できることからすればいいんです。

心が豊かになれば、現実の豊かさもついてくるの。

だから苦しみは消えていくし、お金だってたくさん入ってくるようになるよ。

大丈夫、必ずなんとかなりますからね。


また、お子さんがいるかたは、いつもこんなメッセージを伝えてあげてください。

生きているといろんなことがあるけれど、なにが起きても、絶対なんとかなるからね。

心配しなくて大丈夫だよ

テストの点数が悪くてもいいの。悲観することはありません。

本当ですかって、じゃあお母さんが子どもの頃、テストで100点ばっかり取っていたクラスメイトがどれだけ出世したか見てごらん(笑)。

学校の成績がいいかどうかなんて、将来の幸せにはあまり関係がないんです。

もちろん、勉強が好きな子だったら、勉強が幸せにつながる場合もあるけれど、勉強が嫌いな子に無理やりさせたって、よけい勉強が嫌いになるだけだよね。

人生はなんとかなるから、好きなことやりな。

親御さんがそう言ってあげると、子どもはキラキラ輝き始めるんです。

なんとかなるって信じてる子は、好きなことに夢中になれる。

罪悪感なしに、好きなことに没頭できるんだよね。

そうすると、好きなことでうまく人生を切り開いていっちゃうの。

すごく幸せな人生を送れるんです。

親御さん自身も、そういう姿勢をお子さんに見せてあげてください。親の口癖が「なんとかなる」っていう家の子は、絶対になんとかなると思えるようになります。

<引用終了>

 

一人さんが仰るには、

・心が豊かな人

・優しい人

・笑顔が素敵な人

・今ある小さな小さな幸せを、見つけ感謝する人

このような人は、だんだんと心が美しく、豊かになり現実の豊かさもついてくるのだそうです。

人は時に、生まれる前に立てた計画の通り、人生の半ばで、挫折や、苦労、悲しみ、苦しみ、憎しみそんなものを感じる出来事が起こるかもしれません。

ですが、何が起ころうと、絶対に大丈夫なように、運命は定められています。

生まれる前に、神様と立てた自分の人生設計に「破滅の道」を組み込んで、生まれてくるわけがないからです。

そうであれば、嫌いなことを、無理やり、努力し続けてやるよりも自分の好きなこと、楽しいこと、心が喜ぶことをニコニコ笑顔でして行くほうが、どんなに良いことでしょう。

人生で、苦しい時期もありますが、その環境の中でも、神様を信じ、笑顔と感謝でいれば

きっと人生の目的に合致した道が、必ず開けてくることでしょう。

その時になって、振り返ってみればあの時の、あの苦しみ、悲しみの経験があったからこそ、

今の場所に立つことができたと。

本当の意味での感謝の気持ちが沸き起こり

苦労も、悲しみも、記憶のかなたに消えて行ってしまうことでしょう。

絶対、なんとかなる!

一人さんが仰ることは、きっと本当のことであり、私たちの心に、勇気を与え、

生きる希望をもたらしてくれるものだと思います。

どうか、お幸せに・・



 



2021年6月23日水曜日

2371「青空ひろば」2021.6.23

 今回は立花大敬さんのワンディーメッセージ「青空ひろば」から最近の記事を紹介します。


358 2021.06.15 

もしあなたが<今・ココ・我が身>に落ち着けず、過去や未来や他の場所にフラフラ漂っているとすれば、あなたが住んでいる部屋や家の中も、きっと雑然として乱れているはずです。

あなたが住まう部屋や家は、あなたの魂の状態の「うつし」だからです。

ですから、部屋や家のなかを丁寧に清掃したり整理整頓すると、あなたの魂も整理整頓されて、遊離していた断片の魂もあなたの中の、ふさわしい居場所に復帰することができるようになります。私は、この「整理整頓法」は、自分が自分に落ち着くための、とても有効な精神技法だと思います。


359 2021.06.16 

魂(意識)が過去に分離すると、「後悔」や「怒り」や「自己否定」の念に魂を奪われ、その魂の断片が「今・ココ・自身」の戻って来れなくなります。

魂(意識)が未来に漂うと、「不安」や「恐怖」や「あせり」に魂を奪われ、「今・ココ・自身」に戻って来れなくなります。

魂(意識)が憎んでいる他者や世界に固着して、そこから眼をそらすことが出来なくなると、あなた自身の負の想念を世界や他人に鏡のように映し出して、あなたを敵意を持って取り囲んでいるかのような被害妄想に襲われます。

つまり、人の魂が時間的に過去や未来に、空間的に世界や他人に漂い出すと不幸になり、「今・ココ・自身」にしっかり鎮まると、神としての本来の自分が発動して、生きがいのある幸せな人生を送ることが出来るようになるのです。

そうなれた時に宿る神さまを「アメ(大宇宙)のミナカヌシ(中心者)」といいます。

つまり、過去や未来や世界や他者に魂がフラフラこびり付かなければ、その「今・ココ・自身」が、大宇宙の中心となり、あなたはこの宇宙の主宰者となるのです。


360 2021.06.19 

アップル社の創始者の一人、スティーブン・ポール・ジョブズ氏がスタンフォード大学の卒業式で行った有名な講演の要約です。

人生を正しく生きることは、先を見通せない「点(これが「今・ココ・自身」ですね)」を精一杯生きることなのだ。

私たちには、人生のこれから先がちっとも見通せず、それらの「点」が未来にどう結実するかなんて分かるはずがない!

しかし、その「点」、「点」をしっかり生きていれば、やがてその「点」と「点」が有機的につながってきて、ついにすべての「点」が、「今」の成果につながってくることが分かるだろう。

だから自分を信じて、「今・ココ・自身」の出会いを精一杯生きてゆけば、それでいいんだと卒業して、社会に巣立ってゆこうとしている学生たちにアドバイスしておられるのです。


361 2021.06.20 

ジョブズさんは、自身のこんな例をあげておられます。

ジョブズさんは、両親の経済状態が苦しくなって大学を中退する決心をしました。そうなった時、大学の講義がとても面白くなったと言うのです。

もう単位のことなんか気にする必要がなくなったので、面白そうな講義だけを選んで受けていたら18ケ月も大学に居続けることになってしまったそうです。

友達の部屋の床に寝て、食事は何キロも歩いて、無料提供してくれるヒンズー教の寺院に行かねばならなかったそうなのですが…。

それらの授業のうちの一つに「カリグラフィー(英語の書道、筆法)」がありました。

なぜかその授業が面白くて、英語のさまざまな書体の習字をひたすら繰り返したそうです。

しかし、それが自分の将来にどう生きてくるのかなんて、まったく分からなかったのですが…。

後年、父親のガレージで友達と会社を立ち上げて、パソコンを製作することになった時、その「カリグラフィー」の知識が生きてきて、当時としては画期的な、沢山の書体を取り揃え、文字間隔なども調節できるパソコンが完成しました。

無関係のように見えていた「点」と「点」が見事に結ばれたわけですね。

自分には、自分の人生の全体が見通すことが出来ないはずなのに、どうしてジョブズさんは、このように「点」と「点」を結ぶことができたのでしょうか。

それは、人生のわずか一瞬の「点」をおろそかにせず、過去や未来や世界や他者に魂を奪われず、その一点、一点に「我がいのちの全体重」をしっかり載せて生きて来られたからなのだと思います。

私たちには、人生を見通すことはできませんが、「今・ココ・自身」をしっかり生きていれば、あたかも人生全体を見通していたかのような人生を送れることになるということです。

なぜそうなるのかといえば、あなたの「今・ココ・自身」の上には、常に神様がいらっしゃって(「最高次元のあなた」がいらっしゃると言ってもよい)、その神がすべての時と場所を一目でご覧になっていて、点と点をつないで下さるからです。この神さまを「高見結び(タカミムスビ)の神」と言います。


353 2021.06.09

人の意念にはいのちが宿るのです。

「いのち」とは「意の霊(ち)」で、人が「意」を注いだモノには必ず「いのち」がこもります。

伊勢の遷宮では日本人全員の崇敬と協力したいという純粋な意念が伊勢の神さまに集中するので、その強い意念が伊勢の神さまの「いのち」を二十年に一度、復活させ増幅させることになるのです。つまり、「人によって神の威力が増す」ということがあるのです。

それに、伊勢神宮では、膨大な日々の祈りの行事が定められた作法通りに、心をこめて執り行われています。神官の方たちのそのような敬虔な取り組みの積み重ねも神さまの威力を増す作用となっているのです。


354 2021.06.10 

福岡に小さな神社があります。そこに参拝したとき、霊感を持つある方が「この神社は栄えますよ」とおっしゃいました。

理由を尋ねると、「この神社の神域の波動はとても清浄です。これは、日々の掃除をよっぽど丁寧に心をこめて行わないと、こんなに清らかな波動の神域を保つことはできません。神域がこんな状態なのですから、神前での日々のお勤めもきっと丁寧に滞りなく行われているはずです。そんなであれば、「神力」が増して参拝する人も増えるだろうし、その参拝する多くの人たちの敬虔な意念もさらに「神さまの威力」を増幅させて、ますます人が集まるようになってくるものですよ」とおっしゃいました。

薄汚くさびれた神社の神さまは、たとえ神さまがまだいらっしゃっても、世話する神官もいないし、参拝の人も集まらないしでますます神力が弱くなってゆくものです。そのうち、嫌気がさした神さまは出て行かれます。

そして、薄汚い波動にふさわしい低級霊たちが集まって住むことになるので、そんな神社に参拝すると、ますます運が悪くなってしまいます。

「神さまの威力は、その半分は人の崇敬の念が作り上げてゆくものだ」ということを忘れないようにしましょう


351 2021.06.07 

スエーデンボルグによると、天界には3段階のレベルの世界があって、それぞれの世界に神殿があり、下の世界ほど神殿は堅固で飾りが多く輝かしい「石造り」だそうです。その重厚さと壮麗さを下の天界の住人達は喜び、他のグループの人をその豪華さでひれ伏させようという「勝ち負けの精神」がまだその世界の住人たちには残存しているわけですね。

しかし、上の天界にゆくほど、神殿の造りは軽やかになってゆき、最高天界では、神殿は簡素にすらみえる「木造り」だったと報告しています。低い天界の住人の波動は「石」にふさわしく、高い天界の住人の波動は「木」にふさわしいのだそうです。

この記事を読んだとき、私は『これは伊勢神宮のことじゃないか!』と驚きました。伊勢神宮は最高天界にある神殿の、地上界における「うつし(移し、映し)」なのですね。ですから、伊勢神宮にお参りすると、最高天界の神々にあなたの祈りが届くのです。


352 2021.06.08 

スウェーデンボルグによると、天界と地上界は「相応」の関係があって、天界のあらゆる善きものに相当する「うつし(映し・写し・移し)」のモノが必ず地上界にもあるそうです(ですから、古人は現世のことを「うつし世」と言いました)。

たとえば、地上界の素晴らしい芸術作品は、天上界のそれの「うつし」なのです。

もちろん、天上界にある原作品は、地上界のそれの何万倍もの美しさなのですけれど…。しかし、その二つは「相応」の関係にあって霊的につながっているので、地上界の作品を鑑賞すると、天上界の原作品の波動にもアクセスできるので、鑑賞者の心境次第では、地上界の作品を通して、それに相応する天上界の、何万倍もの素晴らしい作品の「美」を体験することもできるのです。


345 2021.06.01 

伊勢神宮に参拝して新生して以来、何か「大きな流れ」に浮かんで運ばれていっているような感じ(フロー感覚)が、私には常にあります。

それは『こっちに進みなさい』という神のご意志がつくりだしている流れであると思います。

その流れに逆らわず、身を任せて浮かんで運ばれて行けば、驚くほどスムースに事が運び、ピタッピタッとタイミングよく事が解決してゆくのです。

無理・無駄な努力が必要なくなり、心身ともにとても楽になって、最小限の労力で最大限の成果が上がるようになります。

私はこの状態を「神流楽(かんながら)」と呼んでいます。


348 2021.06.04 

<こうすれば願いが叶う>

どうすれば、「神流楽」の状態で生きることができるのでしょうか。思いつくままに箇条書きにしてみました。

(1)神さまと親しくなりましょう。

神社に何度も参拝したり、祝詞を称えたり、古事記を音読したりして、そのひびきに耳を澄ませていると、次第にあなたの心が清められ、神さまの波動を感受しやすくなります。そうすると、神さまは、コトバやイメージ(インスピレーション)を使ってあなたがこれから歩むべき道を教えてくださったり、あるいは外側から「ハッピー・ハプニング(予想外のしあわせな出来事、セレンディピティのこと)」にあなたが出会うように仕向けて下さって、あなたが神の望む方向に自然に進んでゆけるようにして下さいます。

(2)神社参拝では一連の作法を丁寧に行いましょう。

鳥居をくぐる際の礼からはじまって、手水所で手と口をすすぎ、神前での礼と拍手の回数や順序など…、それらの作法(ルーティンワーク)は伝統に従って心をこめて行いましょう。

無心に作法してゆくと、心の乱れが次第におさまって、神さまの波動を感受しやすくなります。そうして、あなたの頑な心がほどけて、神の波動を受け入れることが出来ようになり、その神の波動に共鳴してあなたの心もまた振動するようになったら、もうしめたものです。

あなたの心の振動があなたが住む世界を生み出すのですから、神さまの思し召しの通りの世界環境があなたのまわりに出来始めます。そうして、あなたに無理・無駄なくいのちの可能性を開発してゆけるような、生きがいがある、しあわせな人生が展開しはじめるのです。

(3)眼が釣りあがっているような、絶対に叶えてもらわねばならないと思い詰めているような余裕のない願いは、その思い入れが強すぎる間は叶いません。

もちろん、人は弱いもので、神様はどんな願いを持ち込んで参拝してもいいよとお許しになりますが、参拝を繰り返すうちに、次第に心が静まって『私にはどうなるのが一番いいことなのか結局のところ分かりません。もう神さまに一切をお任せします、御心のままになさってください』という「手放し」の心境に多少でもなれた時にはじめて願いが叶うものなのです。


347 2021.06.03

<チョキ・グー・パー>

ジャンケン大会に参加する機会がありました。その時に、『チョキ→グー→パーの順に出せ』というインスピレーションがやってきて、その指令の通り、機械的に順繰りに出していったら、勝ち続けてついに優勝して商品をもらったということがありました。

なぜ優勝出来たのか考えてみると、『ああ、これは「思いの実現法」についてのメッセージなんだなあ』と気づきました。

まず、「チョキ」で、チョキチョキと過去を切り取ります。思いが実現出来ないのは、過去の失敗体験やつらい経験などに対する「負の感情」が足を引っ張ってゴールまで行かせないという事が多いのです。そのような「負の想念」をチョキチョキと切り取ります。

そして、「グー」で、しっかり目標を握り締めます。集中過程ですね。

最後に、「パー」と手放してやります。 

「グー」の過程は出来るけれど、この「パー」と手放す、忘れることが出来ないと、想いは現実化できません。真面目に努力しているのに、なかなか思うように事が運ばないという方は、この「パー」と手放す、気を逸らせるという事がヘタなのです。


344 2021.05.31

何のために生きていますか。

「自分さえよければそれでいい」という小さな枠の中で生きていると、その枠組みの中のわずかな能力しか使えません。

「自分だけ」という枠組みを超えて、「出来るだけ多くの人をしあわせにしたい」という大きな志を持てば、その大きな志の枠組みの内側に含まれる人たちをしあわせにするために必要なたくさんの能力はすべてあなたのものとして使えるようになります。


340 2021.05.26 

いのちの道行きには、いろんな風景があります。

すばらしい高みにのぼって、神のごとき視界を得る時もあれば、ミミズのごとく大地に這いずりまわって、泥だらけになる時もあります。

それら全部を含めて“自分”なんです。

ある状態の自分を認めて、ある状態の自分を否定するということになれば、自分を半分に切断するということになってしまいます。そうなると“自分”が出血多量で死んでしまいます。

この自分も、あの自分も、全部ひっくるめて、“自分”なのですから、そのすべての自分を認め、許し、受け入れてゆくことが大切なのです。


338 2021.05.24 

『自分をゆるし、人をゆるし…』という五井先生の言葉がありますね。

“許す”とは、“ゆるく”することです。

心をゆるくし、体をゆるくしてゆくと、自然に自分や人が許せるようになってきます。

難しいことを考えたり、工夫したりしないで、ただ坐禅という姿勢をとりさえすれば、勝手に身も心もほどけてきて、自分も人も世界も許せるようになるのですから、本当にありがたいことです。それに他の行法のような副作用はありませんし…。

しかし、目をつり上げてする坐禅は、副作用が生じることがあるので、要注意です。なで肩の、垂れ目の、微笑みの坐禅を目指してください。


337 2021.05.23

身と心をほどくのに一番有効なのは“坐禅”です。

私は坐禅の時、何かに集中したりしません。ただ、何となく坐っているだけです。

心の結ぼれをほどこう、こだわりをやめようとしても、できるもんじゃありません。

そういう努力がますます心の結ぼれを増してしまいます。

ですから、私は坐禅の時は、坐禅という姿勢の力を信じて、ただ坐っています。

坐禅という姿勢は、心をほどき、体をほどく、一番適切な姿勢なんです。

だからこそ、人類は五、六千年も昔から坐禅してきました。

どんな雑念、妄念が次々現れても、それにはかまわず、ただ坐禅という姿勢を信じて、その姿勢に身を任せて坐っておればいいのです。

すこしずつ、すこ~しずつ、心はおだやかになり、身心がほどけてきます。


336 2021.05.22 

人生のいろんな出会い。

その出会いを、いやだと吐き出したり、ガツガツ、まる飲みこみにしないようにしましょう。

しっかり受け入れ、しっかり噛みしめましょう。

味わいが出てくるまで、その出会いから逃げ出さずに、力をこめて噛みしめましょう。

どんな固い出会いでも、どんなにがい出会いでも、噛みに噛んでゆけば、

かならず、いつの日かとろ~り、とろけて味が出てきます。

うまい、うまいと納得して、無理なく腹におさまる日が来ます。

そうすれば、それをエネルギーにして、きっと次の新しい出会いへとスタート出来るのです。


335 2021.05.21 

よく「幼いころの体験のトラウマで、こんな行動をとってしまいます」とか、「前世のこんな因縁で…」とかいう、“いいわけ”をする人がいます。

こんなのはみんなウソです。“今”、この人がひっかかりを作り、コダワリを捨てないから、そのひっかかりやコダワリ通りの現実を創り出しているだけです。

ついでに、そのひっかかりやコダワリにふさわしい過去や前世を引き寄せて“納得”しているだけです。

ですから、“今”を変えると現実はただちに変わります。

心のひっかかりやコダワリを水に流せば、仏(ホドケ)の智慧がただちにはたらきはじめます。


334 2021.05.20 

肉体が古くなればなるほど、能力が衰えれば衰えるほど、わがイノチの本質の“若々しさ”がはっきり観えてきます。

それこそが、私の本当のイノチであり、やがて、肉体という古くなった衣装を脱いで、そのどこまでも若々しく、光いっぱいの世界に、ついに帰ってゆくことになるんだとハッキリして来るのです。


332 2021.05.18

あなたのイノチは何と素晴らしいんでしょう。

どんなことがあってもくじけず、再び前進をはじめる。

そんなたくましく、若々しいあなたのイノチの姿を讃嘆し、礼拝します。

あなたのイノチの運びは何と美しいんでしょう。

あなたにはあなただけのイノチの運び道があります。

その運び道通りにイノチを運べた時、あなたの人生は、最高の美の表現となるのです。


331 2021.05.17

私はお話しをする時も、文章を書く時も、効果を期待したりしません。

ただお話しするだけ…

お話ししたシリから言葉は消えてゆきます。

あとには、ただ青い空が広がっているだけ…

そんなお話しをし、文章を書きたいと願っています。




2021年6月22日火曜日

2370「試練の時」2021.6.22

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年06月17日「子供が教えてくれた」

と2021年06月18日「試練の時」の2つの記事を紹介します。


「子供が教えてくれた」


今日のお話は、以前ご紹介したこともありますが、最近読者登録くださった皆さんの中にも、

同じようなことで苦しんだり、悩んでいらっしゃる方がいる様でしたので加筆して掲載します。 

小林正観さんが、悟った瞬間と言っても良いお話かもしれません。

日常の何気ない生活の中や、絶望のさ中と思われる時に、神様の導きが行われることがよくあります。神様の奇跡は、決してサーカスのように鳴り物入りで、耳目を集め起きることではないと思います。日常の何気ない生活の中にこそ、神様の様々な奇跡が行われています。

正観さんは、ブッダや、空海の弟子の時もあったそうです。

<引用開始>


30歳のとき結婚しました。結婚後3年間は子供ができませんでした。

33歳のとき、子供を授かりました。

なかなかできなかった子供なので、よろこびの「慶」を命名しようと心待ちに待っていました。

7月14日(パリ祭の日)、その子が生まれました。知恵遅れの障害児でした。 

別室に呼ばれて、私は医師からこのように宣告されることになります。

「この子は先天的な障害児です。手術によっても、薬によっても、リハビリによっても治ることはありません。この子は生まれなかったものと思ってください」・・・。

目の前が真っ白になりました。

「目の前が真っ暗になる」という表現はよく使われますが、実際に体験した者の立場で言うと、真っ黒になるのではなく、真っ白になるようです。

真っ白になった風景が徐々に薄れていき、目の前に再びその宣告をした医師が見えたときは、その医師を含む部屋中の風景がモノクロになっていました。白黒だけのグラデーションの世界です。

それから半年間、私は色の付いていないモノクロの風景を見ることになりました。

一番困ったのは、天気がわからないことでした。

窓の外を眺めても、晴れているのか(空が青色なのか)、曇りなのか、雨なのか、見ただけではわからないのです。季節感もなくなり、花の色、緑の色、木の肌の色、そして人の顔色なども全くわかりません。

半年ほどたった1月16日は休刊日でしたので、私は15日に届いた膨大な付録の部分を読んでいたのです。その記事の一つに、このようなものがありました。

── 新生児の600人に1人は、障害を持つ子供が生まれる。

あなた方も20歳になって、将来結婚をするであろうから、その生まれる子供に障害児が生まれてくる可能性もある。そういうこともあるのだ、ということを知っておきなさい── 

というようなとても短いコラムでした。このコラムを真剣に受け止めた人は少なかったと思います。ただ、私にとっては、この小さなコラムが救いでした。こう思ったのです。


「慶子ちゃん、うちに生まれてきてよかったね。600人に1人、障害児として生まれてくるのであれば、慶子ちゃんは、どこかの家を選んで必ず生まれなければならなかった。

そのときに、小林家の両親を選んだというのは、ものすごく良い選択をしたと思う。

私は障害がある子をいじめたり差別をしたりはしないし、

私の妻もやさしい人だから、いじめたり差別をしたりはしない。

慶子ちゃんは、そういう両親を選んで生まれてきたんだね」

とそう思った瞬間に、半年前に失っていた「色」が戻りました。

風景に色が付いたのです。瞬間の出来事でした。 

半年間、私は苦しんでいました。悩んでいました。なぜなら、生まれた子供を受け入れることができなかったからです。

しかし、そのとき、目の前に乗り越えるべき大きな障害や障壁が立ちふさがっていると思っていたものが、実は 幻 であったということに気が付いたのでした。

私自身が障害や障壁だと思っていた大きなものは、私の認識だけの問題 だったのです。

私が「慶子ちゃん、よかったね」と思えた瞬間に、その問題は消滅していました。

努力や苦労をして乗り越えたのではなく、乗り越えなければならないと思っていた障害や障壁が、その1月16日の瞬間に消滅したのです。

乗り越えたのではありません。乗り越える必要がない状態になったのでした。

生まれてからわずか半年後に、この慶子は私に大きなことを教えてくれました。

悩み・苦しみというのは、実はその目の前の現象を否定し、受け入れないところから生じているのだということを。

私たちが目の前の現象について悩んだり、苦しんだりしているときは、それを受け入れていないということなのです。否定をしているということにほかなりません。

<引用終了>

 

小林正観さんは、この障害を持つお嬢さんの誕生によって、大きな気付きを受け取りました。

まるで神様からの贈り物ですね。ですが正観さんでさえ、その悟りまでに半年を要しました。

苦しみの原因は、それを受け入れていないと言う事。受入さえすれば、一瞬でそれは苦しみではなくなると言う事、これこそが、ブッダの説いた「般若心経」の真髄です。

悩み、苦しみの種に見えた現実を

・受け入れた瞬間、

・感謝できた瞬間

それは、恵みの種に変わったのでした。

この気づきによって、悟りによってどれだけ多くの方が、正観さんの著作や、講演を通じ救われたことでしょうか? 

慶子ちゃんの誕生によって、絶望の淵にまで落とされていた正観さん、そして半年後の悟り、

そしてそれが開花して、何十万人もの多くの人の心の救いに繋がりました。

それは、全て慶子ちゃんの誕生から始まりました。


  慶子ちゃんが生まれなければ、後に、これほどまでに多くの人の心が救われることはなかったのです。

 


「試練の時」

今朝の天空農園です。 

雲海がかかり、神秘的。まさに神の山の畑です。ここは竹之高地不動社の裏手の山のてっぺんです。

夏至の日には、新嘗祭(にいなめさい)ではありませんが、早朝に神々の恵みに感謝して、お酒や塩、お米、水、果物などをお供えする予定です。

今年も、木花咲耶姫コノハナサクヤ姫の父で伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子。 

山をつかさどる神、大山祇命(おおやまつみのみこと)が現れてくださったことがあるからです。


さて、世の中が大きく変わり、一人一人の心が大切にされる美しい星に生まれ変わろうとしている今、ご自身も試練の時を迎えている方も多くいらっしゃいます。

そして、そこから抜け出すのが、なかなか大変な方もいらっしゃいます。

でもその解決法も心の在り方を説いたブッダの般若心経の中に答えがあります。

同じ現象でも、捉え方次第・・・  

悪くとるのか、良くとるのか、、はたまた感謝を持って受け取るのか。。

自分のこの人生のシナリオは、全部、自分自身で決めて生まれて来た。

従って、私を悩ませる人、悪く言う人、騙す人・・・

全部自分が、その役をその方にお願いしてきました。

さて、身近な例を一つ・・・


「人生はシナリオ(映画)」という考え方で人生の難局を乗り切った方がいます。ロック歌手の矢沢永吉さんです。

20数年前、矢沢さんは身内の詐欺に遭って30億円以上の借金を背負わされました。

矢沢永吉「信じろよ、自分を」

しばらく酒を飲んで落ち込んでいたそうですが、ある日ふと気付かれたそうです。

「これは映画だと思えばいいやって」

「生活保護受けて苦労して広島から夜汽車に乗って上京し、やがて世紀のロックンローラーになる役さ」ってね。 悪くないよね。

「途中詐欺に遭ったりいろいろあるけどまあ楽しんでこいと生まれてきた」

そう考えることにしたそうです。

その後ライブをやりまくって本当に30億円を完済します。凄いですね。

矢沢さんの「リストラされたって、借金を背負ったってそれは役だと思え」という言葉は迫力を感じます。

人生には大なり小なり「まさか」ってことが必ずあります。 

失敗や事故、病気、またはだまされたり裏切られたり。

そして生きている限りいろいろな問題を抱えます。

そんなとき「これは俺の役だ」「人生はシナリオ(映画)だ」と思うと気持ちが楽になり、

いろいろな知恵や行動力が生まれてくるのかもしれません。

あとは目の前の与えられた役を一生懸命こなすだけです。

生きている最中(役をこなしている時)は、解らないかもしれません。

ですが、肉体を去って故郷に帰る時、私たちはきっと思うはずです。

あの時、あんな大変なことがあったから、私の人生はパンチの効いた素晴らしい体験になった。

そして思います。

あぁ、あれは、あの方に頼んでやってもらったことだった。

私の人生劇場を素晴らしいものにするために、汚れ役を引き受けて下さってありがとう。。。

ありがとう、、 私の人生劇場に登場して下さった、

沢山の人達、ありがとう って


2021年6月21日月曜日

2369「地球の旅」2021.6.21

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年06月15日「地球の旅」と2021年06月16日「個性的な魂たち」の2つの記事を紹介します。


「地球の旅」


クラリオン星から転生してきた小学校4年生の久松奏拓(ひさまつ・そうた)君

彼は、生まれる前の記憶や、故郷の星クラリオン星のこと、神様のことなどを明確に覚えたまま、ここ地球に転生してきました。 

地球人の意識レベルを一気に上げるために最近はこういった星の子供たちが増えてきたようです。


生まれる前の記憶を持つ、沢山の子供たちと同様に彼もこう言います。

・障害を持って生まれてくる。将来の障害を計画して生まれてくること

・それは凄い幸運なこと、喜ばしいこと

・障害を持って生まれてくる確率の方が大分低い

・障害という大変な経験をすることで、物事をいろんな角度から見れるようになったり

・他の人にはできない学びが一杯ある

・わざわざ、その苦労を分かって、それを魂的に楽しむために生まれて来た 

この今世で経験すること、会う人、別れる人、出来事は全て神様と生まれる前に計画してきたことなのだそうです。 

そしてこうも言います。 

生まれる前に立ててきた計画は、生まれた後に、変えることはできない。 

これがどういうことかと言えば、例え自分で経験がしてみたくて立てた計画 

・病気、貧困

・裏切り

・窃盗、殺人

・成功、失敗

・出会い、別れ、死別 

このような経験が、辛くて、苦しくて、、やっぱり計画を変更したい・・ 

そう思っても途中で変更することはできない。投げ出すことはできない。

そういった意味になります。

肉体ではなく、私たちの魂は、永遠に存在する生命体であります。

この魂にとっては、

・生きるも、死ぬも

・殺すも、殺されるも 

人間が思うほど、大きな出来事ではないようです。

魂にとって死はないのですから、一つの経験にしか過ぎないということです。

そのことによって、魂が曇ることもないし傷つくこともない。

だから、魂は、いろんな体験をしてみたいと思うようです。 

その行為を神様も良いとか悪いとか、決してジャッジしません。

このことは、今生まれてきている沢山の高い意識を持ったまま生まれて来ている子供たち共通の認識のようです。

魂にとっては、時間と言う概念さえもありませんから、長い期間とか、短い期間と言うことさえありません。


源信が『往生要集』の中で紹介した地獄のありさまも、魂にとっては、肉体があった時の延長の一つであり、意識がまだ肉体に縛られたまま、信念体系領域に縛られている間に死後、経験する一時の出来事であるのでしょう。

魂が肉体を脱ぐことで、だんだんと肉体に付随していた感情や、信念となってしまった意識が薄れるに従って、徐々に魂としての本来の状態に戻り、どんな出来事も、どんな大きな感情の波も、魂を傷つけることはできない。。

単に魂にとって、未知の領域を経験しただけ。。 

そう気づいてくるのでしょう。

私たちが、今経験している出来事は、色んな感情を伴い、私たちに、まるで襲い掛かってくるかのようです。それは、苦しかったり、辛かったり、悲しかったりするかもしれません。 

ですが、生きている間は逃げることはできません。計画を変更することはできません。

今感じている感情こそ、私たちの本来の姿、魂が、経験して見たくて、その出来事を、自分の人生のタイムラインに埋め込んできた出来事です。

そこには、良いこととか、悪いこととかの区別はありません。

ただ辛く苦しい経験からは、より大きな果実が実ります。魂の飛躍的な向上が見込まれます。

何も辛く苦しいことの起こらない単に平和で、楽しいだけの人生からは、魂にとっては、あまり身になる経験は得ることができません。

ある程度、進化した魂にしか、辛く苦しい経験は与えられません。 

今苦しい経験をなさっている方も、どうぞ勇気を持ってください。

神さまに見込まれたのですから。 

そしてその辛く苦しい経験こそが、私たちの魂を高みに連れて行ってくれるものです。

泣いたり笑ったり、苦しんだり楽しんだりしながら、この宇宙で、唯一感情を味わうことのできる地球の旅を楽しみたいものですね。

 


「個性的な魂たち」


人の気持ちをおもんばかる。想像する。

共感することは、私たち人間にとって本当に大切なことです。

目の前の人は

・何に泣いているのか

・何に苦しんでいるのか

・何に喜んでいるのか 

何千年、何万年も人間と一緒に傍らで過ごしてきた犬や、猫たちにも「共感力」と言うものが存在し、飼い主が、

・悲しんでいる時

・喜んでいる時

・怒っている時

を察知して、寄り添ってくれます。

彼らは人間から発するオーラ(エネルギー)や、瞳から発せられるエネルギーに感応して、気持ちを察するようです。


人の心を感じることは、幾多の生死を繰り返し経験を積み成熟した魂にとって本当に大切なことです。


イエスの黄金律と言われる言葉に

自分がして欲しいと思うことを、相手の方にして差し上げなさい。

この言葉も、相手の心・気持ちを想像する力、感じる能力が成熟してこないとできないことです。

相手の気持ちや都合や立場を何も考えず、自分のやりたいことだけを主張し、押し通そうとすることは、イエスのこの言葉に逆行しています。

永遠の魂に取って、その経てきた経験や、歴史、出身星、内宇宙、外宇宙か? などの違いや、人間として、どれだけ生まれ変わり、経験を積んできたのか?

そのようなことも、この人間の気持ちの感受性に影響します。 

イエスの黄金律は、この地球に置いて、円滑な人間関係、魂の成長にとって必要だから説かれていることですが、そのようなことを目的に地球に生まれて来たわけではない魂にとってはそんなことはどうでもよい話。 

ただ単純に「地球での経験」をしたいだけです。

ですので、どちらが良いとか、悪いとかジャッジすることはできませんが、人間関係の摩擦、すれ違い、誤解、疑心暗鬼、これらには差が出るようです。

出身星団に関しても

プレアデスやシリウス、オリオンなどでも、性格の違いがはっきりと分かれるようです。

また地球での転生が多い方でも、

・動物的な魂の要素の多い方

・植物的な魂の要素の多い方

・人間としての転生回数の多い方、少ない方 

などもいらっしゃり、その魂の特性も、くっきりと分かれるようです。 

魂の経験の方法、順番、時期、期間の長さ、目的などは、全て個人の自由ですから、 そこに優劣はありません。好みの違いだけです。 

ですので、クラリオン星から直接地球に転生してきた高い知性を持つ小学校4年生の久松奏拓(ひさまつ・そうた)君が言うように

好きや嫌いは、あって当たり前、それは単純に波動の違いであって、 

良いとか悪いとか・・高いとか低いとか・・そういう違いは一切ない。 

そういうことのようです。

玉石混合、いろんなレベルの魂の混在する地球、そこでの経験は、辛いことも多いのですが、

もちろん楽しいこともたくさんあります。 

大切なのは、 

・互いの違いを認めること、許すこと

・批判しない事

・拒絶しない事

もし自分と異なる波動であれば、自分の中に受け入れて、無理に合わせようとしなくともよいのです。 

自分を責める必要はありません。

逆に相手に取ったら、自分の言動も、同じように受け取られているのですから。

お互い様です。 


でも 

人間関係の摩擦、すれ違い、誤解、疑心暗鬼、これらが起きた時、どうしたらよいか?

空海が教えてくださった文殊菩薩の知恵には、 

議論はするな 

要するに、意見の相違があったとしても例え議論して、自分の主張を押し通しても、結局は相手の心は納得していないし、変えることはできない。

かえって、相手の心に恨みを残してしまう。だから議論はせず、静かに立ち去れ・・ 

と言うことになります。

 

またブッダは、こう仰っています。 

悪口や虚言を受けた時です。

・反論しない

・心の中に入れない。受け取らない

そうすると、受け取らない、悪口や虚言のエネルギーは、結局発した人のところに戻って、自分に降りかかるだけ。

反論しない事は、負けたことではない。 

そう仰って、実際に実行されています。

 

もしかしたら役に立つかもしれません。頭の片隅にでも置いておいて、損はないかもしれません。

また誰かの悪口を、こそこそ隠れて、他の誰かに伝えることは、自らが相手の方の仏心を見ずして、鬼心しか見ていないということと、更に、善意の誰か(告げ口した相手)に疑心暗鬼の毒を盛ったと同じこと。二重の罪(包身)に繋がります。 

自分が見ている鬼心を、善意の誰かに押し付ける行為です。 

これは神さまの心とは程遠いものです。

 

美しい心は、住む世界さえ、美しいものに変えてしまいます。 

どんな時も、相手の内に仏心を見つけ、感謝の心で、人とのお付き合いをしたいものですね。

  

最後、良寛さんのお話です。

 

相手の悪い面(鬼心)を見ても「気にしない」

更に進んで「気にならない」

更に進化の進んだ人は、「気づかない」 

つまり、自分の意識にすら上りません。

 

大愚であった良寛さんは、きっとこの境地まで達していたかもしれません。

心がピュアで、子供のままの心

人を疑うことを知らない心

純真な瞳

周りにそんな人はいませんか? 

きっと見つかると思います。愚か者に見えるかもしれませんが、もっとも神に近い存在です。

 




2021年6月20日日曜日

2368「病原環境説」2021.6.20


 今回は小澤博樹先生のブログから2017年7月23日「天下分け目の大論争」の記事を紹介します。現代医学の抱える根本問題で現在のコロナ騒動、ワクチンを考える基本的視点になるかと思います。


「天下分け目の大論争」

https://kozawaiin.wordpress.com/2017/07/23/%e5%a4%a9%e4%b8%8b%e5%88%86%e3%81%91%e7%9b%ae%e3%81%ae%e5%a4%a7%e8%ab%96%e4%ba%89/


19世紀のヨーロッパで巻き起こったある医学論争について紹介する。この論争の結末が現代医学における診断や治療法に大きな影響を与えたからだ。

太古の昔から多くの人々は伝染病がなぜ起こるのかという疑問を持ち続けていた。伝染病や感染症に微生物が関係していることが分かったのは、オランダのアントニー・ファン・レーウェンクック(1632~1723)、科学者が歴史上はじめて顕微鏡を発明し、微生物の観察が可能になった1683年以後である。彼は「微生物学の父」と称されていた。1680年にはロンドン王立協会会員となっている。

欧米では、病気は明らかに伝染病であると信じる人々と、疫病は環境の変化、身体内部の乱れによって起こるとする人々との間に論争が起こった。この論争は18世紀に最高潮に達していた。

19世紀に入って、フランスのルイ・パスツール(1822~1895)、生化学者、細菌学者は発酵や腐敗現象はすべて微生物の増殖によるものであることを証明した。また、炭疽菌や結核菌、コレラ菌などを発見したドイツのロベルト・コッホ(1843~1910)、医師、細菌学者は微生物が病気の原因であることを証明するための方法を確立している。彼ら2人は「近代細菌学の開祖」とされている。

日本でも彼らの考え方に賛同して研究を進めた人物がいる。野口英世(1876~1928)細菌学者はアメリカの大学、ロックフェラー医学研究所などに在籍している。黄熱病の研究中ガーナで死亡。

北里柴三郎(1853~1931)医学者、細菌学者はドイツベルリン大学へ留学し、ペスト菌や破傷風の治療法を発見している。


「細菌説」(病原病原体説)、つまり感染症の原因はすべて病原菌にあり、その病原菌を殺せば、感染症は治るとする考え方を提唱したのがパスツールとコッホに代表される医者たちであり、彼らはこの説を1880年代初頭に唱え、西洋医学の基本的な考え方のひとつとして定着させていった。そして現在も現代医学において、この考え方が定説となっている。ただ、当時の彼らは人間の持つ免疫機能についての正しい知見は得られていなかった。しかし、パスツールが死期を迎えた時、「私の細菌学説は間違いであった。細菌を取り巻く環境こそが病気に影響するのだ。」と述懐したと伝えられている。これは次に述べる病原環境説を肯定するものであったが、時すでに遅く「細菌説」は世間に流布されていた。

パスツールの理論と真っ向から対立したのがフランスの医師、化学者、薬学者のアントワーヌ・ベシャン(1816~1908)らによって提唱された環境説(病原環境説)と言う考え方である。その名のとうり病気の原因は環境(体内環境や生活環境)にあるというものである。

ベシャンの他にもドイツの衛生学者、化学者、マックス・フォン・ペッテンコーフェル(1818~1901)とロシアの微生物学者、動物学者イリヤ・イリイチ・メチニコフ(1845~1916)もほぼ同様の趣旨の理論を展開している。


ベシャンは、病気は人体を構成する細胞の中に存在する微生物に起因するとしている。細胞内に生息する微生物は正常時では人体の新陳代謝を助ける機能があるが、人体の健康状態が悪化するとその微生物も病的になる。そして人が死んだり、けがをすると人体を分解する働きを促進する。人体の体内環境の悪化が病気の原因となるのである。

ベシァンはこの細胞内微生物のことをマイクロザイマス(小発酵体)と名付けた。

現代ではフランス系カナダ人の生物学者ガストン・ネサン(1924~)もこの細胞内微生物を発見し、ソマチッドと命名している。

人体の体内環境が酸化し悪化したために免疫機能が低下し病気になるのであり、外敵であるバイ菌が人体内に侵入し感染を起こすのではないということだ。人体の体内環境が悪化したためにバイ菌と呼ばれる微生物が繁殖し、発症させるが、発症の主たる原因はあくまで体内環境の悪化にある。

ペッテンコーフェルとメチニコフは、パスツールの学説に反対し、それを証明するため、学会の会場で人間の死体から培養された大量のコレラ菌を飲んでみせたが、コレラを発症することはなかった。

ペッテンコーフェルとメチニコフが公衆の面前で行ったコレラ菌を飲むという大胆な行為は、このベシャンの学説を彼らが支持していたからである。

なぜパスツールは「病気の原因は外から体内に侵入した細菌である」と言えたのか。それはベシャンが顕微鏡下で体内に微生物が存在する事を発見していたからに他ならない。パスツールは、自分の説を理論固めするために、ベシャンの発見を利用して病気の原因となる細菌は体外から侵入したのだと言い張っただけなのである。


二つの説は、一時的拮抗していた。しかし論争は細菌説派の勝利に終わった。だからこそ、パスツールやコッホは、学校の教科書にも紹介され、子供でも知っているのである。これらの二つの学説のうちどちらが正しいか。西洋医学にとらわれていない第三者的な目から見れば、環境説の方が正しく、細菌説は間違っていると考えるのが妥当である。

環境説が細菌説に敗れたのは、ひとつには「細菌が原因だ」と言った方がよりセンセーショナルであったからだ。そしてまた、病気を細菌のせいにすれば人間の責任ではなくなり、気が楽だという面もある。しかし、一番の理由は、当時その分野を支配管理していた権力者の判断によるものだ。ここにあげた微生物学者や医師、研究者らは大学や研究施設で研究実験を行いその成果を出す。その成果はこれらの施設を管理統轄する権力者たちのもとに集められ、自分たちにとって利益をもたらすものは何かを判断するのである。

そして「細菌説」が選ばれた。「細菌説」を正しいものとすれば、人間の敵である細菌を皆殺しにする薬、抗生物質を使うことができ、金儲けができる。表向きは、金儲けの為ではなく、人間(民衆)を守るためだとうそぶく事が出来る。抗生物質がたとえ人間にとって有害なものであったとしてもだ。


「細菌説」を選んでしまった結果が抗生物質や抗ウィルス剤、予防接種など有害薬の乱用であり、薬剤耐性菌の出現や、ウィルスの変異により強い毒性をもった新しいウィルスの出現などである。この弊害はこれまでも今後も続いていくことであろう。毎年数万人の患者が院内感染という医原病で殺されている。まさに、陰謀である。

抗癌剤や放射線療法、向精神薬、すべての化学薬品はこの陰謀によって今も生産し続けられ人間に投与され続けている。

真実を知らされず医科大学で教えられた。ウソの理論を受け入れ操り人形のごとく、黙々と末端で働く医師や医療関係者たち、そしてだまされ、骨の髄までしぼりとられる患者たち。これが悲しい現実の世界なのである。

もしも、当時の西洋医学が「環境説」を支持していれば現代医学の治療概念は現在のものとは大きく異なったものになっていただろう。そして今日これほどまでの間違いをおこしてはいなかったであろう。「環境説」の方が正しいということは次にあげる例から、全くの門外漢であっても推察できるはずである。


結核という病気の場合、結核菌が肺の中に見いだされるのは確かな事実だ。これは「細菌説」の言うとうりだ。そしてこれに抗生物質を投与すれば、結核菌は抑制されることも事実である。だから結核は結核菌が原因だとされている。しかし、そこにはもっと大切な事実が見落とされている。それは、多くの健常な人々の肺の中にも結核菌が存在しているのにもかかわらず結核症を発症していないという事実だ

結核を発症するのはほんの1%前後ぐらいでしかない。もし腸内に結核菌が存在し、それが人々を100%発病させるのなら結核菌こそが結核の原因だと言える。しかし、わずか1%となれば、それは結核発症の真の原因ではなく、単に可能性としか言えない。それも確率の低い可能性だ。結核も他の感染症も免疫機能が良好で生命力、抵抗力の強い健康体であるのなら、あるいは言い方を変えれば、人体の体内環境が良好に保たれているのなら、結核菌と他の病原体もそこでは繁殖できないし発症もしない。これは環境説を持ち出さないかぎり説明不可能である。また反対に結核の予防注射BCGを接種すればするほど、結核を発症しやすくなることも理解できるであろう。BCGの接種によって人の体内環境は荒廃し、免疫機能も低下するからである。また結核症であるという診断をつけるためにツベルクリン反応をしたり、胸のレントゲン撮影をすることも免疫機能を低下させるためなおさら結核を発症させるリスクは高まる。


牛や羊、ヤギなどの草食動物の腸内には、病原性大腸菌O-157が普通に生息している。これらの動物に抗生物質や他の化学薬品を投与すればする程O-157は増殖する。

これらの薬品によって彼ら家畜の体内環境が汚染されるからである。そしてこれら家畜の肉を人が食した時、食中毒をおこす。

1990年浦和市の幼稚園でおきた病原性大腸菌O-157食中毒事件では、2名の死者を出している。しかしこの時、感染者の30%は全く無症状、60%が下痢のみだった。感染者の10%が溶血性尿毒症候群を合併している。堺市では約5万人の児童が同じ汚染された給食を食べている。O-157病原性大腸菌はこのうち5500名に見つかった。食べた人の約10%がO-157に感染したのだ。この場合もその内の約10名しか入院しなかった。

岡山県邑久町におけるO-157集団食中毒の際には、中村教授(東京医大の中村明子客員教授)は感染者の「清潔度」のチェックもあわせて行った。感染者の児童のうち、重症になった1割の子供はすべて神経質で「超清潔志向に育てられた子供たちであった」という。

同じメニューの給食を食べても、全く感染しない人、感染しても症状の出ない人(健康保菌者)、軽い下痢ですむ人、合併症で死の淵をさまよう人などさまざまいることがわかる。

この差はどこから生まれてくるのか。つまり、健康な腸内細菌をもっている人の腸の中では、病原菌が増殖しにくいからだ。またO-157はベロ毒素をだして人を死に追いやることもある。ベロ毒素とは人間が抗生物質を乱用したために、赤痢菌からベロ毒素を出す遺伝子をもらい受けたことに起因いている。


以上のように人の体内環境が良好であるのなら感染症は起こらないか、あるいは起こったとしても重症化はしない。反対に人が常日頃、乱れた食生活をしたりワクチンや抗生物質、化学物質、放射性物質、重金属など有害なものを体内に摂取し、体内環境や腸内環境を破壊すれば、それが原因で感染症が成立する。決して、細菌やウィルスなどが原因ではない。つまり、「環境説」が正しいのである。

では、体内環境や腸内環境を調え、免疫機能を正常化あるいは強化するにはどうしたら良いか。それには、食生活を無農薬有機農法産の食材を使った玄米菜食とすることである。

小澤 博樹




2021年6月19日土曜日

2367「何に感謝するのか」 2021.6.19

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年06月14日の記事を紹介します。


「何に感謝するのか」


斎藤一人さんもくどいほど仰っていますが、魂的な視野からいうと、自分に起きるトラブルや問題は「自分の感謝のなさ」を教えてくれるものとして出てきています。。。

そうおっしゃっています。

また神道的には、私たちは「感謝の心」を学ぶために生まれたのだとも言われます。

何故かと言えば、私たちは魂を、進化させ輝かせ、神々に近づこうと、進化の旅を永遠に続けていますが、そのために、人生のタイムラインに沢山の仕掛けイベントを置いておきます。

それらは、喜怒哀楽激しく感情を揺さぶりますが、結局は「感謝の心」を学ぶための仕組みです。

逆のことを言えば、「感謝の心」を得てしまえば、目的は達成されたのですから人生の中に、艱難苦難の起こる必要性は、もうなくなります。従ってそれらは起きないことでしょう。

神様は無駄なことをしないからです。

では、そのような観点から私たち人間の、全ての悩み苦しみに対応できる、共通の解決方法についてのお話です。

神様や自然界、宇宙からのサポートをふんだんに得るためには「感謝」が大切なことなのですが、その具体的な方法を、別の角度からご紹介します。

小林正観さんの著作からです。

<転載開始> 転載元


講演会が終わって、初めて二次会に来たという方が私の右隣に座りました。

そして「質問していいですか?」と私に声をかけてきました。

「実は、今日のお話のように自分はたくさんの幸せを感じ、とても恵まれていて、悩み・苦しみがないのですが、一つだけどうしても超えられない悩みがあります。」

ということでした。

「どんなことですか?」

「実は結婚して十年経つのですけれど、子供ができません。いろいろなことをしているのですが、どうしても子供ができないのです。それだけが悩みで、ずーっと悩んで苦しんでいます。」というお話でした。

「そうですか。結婚して十年経って、子供がほしいを思っているということは、ご主人がとてもいい人で、優しい人なんですよね?」 というふうに問いかけました。

「ほんとうにそうです。とても優しくて、いい夫です」と彼女は答えました。


 「舅姑との関係が悪くて、頭にきて腹を立てるような日々だったら、多分、その家の子供が欲しいとは思わないでしょうから、舅姑との関係のいいのでしょうか?」と、私は問いかけました。

「ほんとうにそうなんです。舅さんも姑さんもとてもいい人で、私は恵まれてほんとうに幸せです」と、彼女は答えました。

「そうですよね」。

親戚の人もみんな、いい人なのではありませんか?」

彼女は答えます。

「ほんとうにそうです。私はほんとうに優しい人たちに囲まれていると思います」という答えでした。

「では、伺いますが、その方たちの一人にでも、手を合わせて感謝をしたことがありますか?自分がどれほど恵まれているかということに、手を合わせて感謝をしたことがありますか?」と聞きました。


 「え?」と小さく声を発した彼女は、わーっと涙を流し、二十分ほど泣き続けました。

私は、その泣いている彼女の耳にこういう言葉を伝えました。

「もし私が神さまだったならば、あなたのその唯一のお願いごと、頼みごとを、絶対聞かないと堅く決意したかもしれない。そして、もし私が神さまの友人であったならば、神さまがこの人のいうことを聞いてあげようと思ってやってきたときに、神さまの目の前に立ちふさがって、この人のいうことを聞いてはいけないと邪魔をするかもしれません」

というふうに申し上げました。


なぜなら、子供ができないことばかりを挙げ連ねて、実はそれ以外に、自分がどれほど恵まれているかということに感謝をしていないのではないのですか。

もし、自分がどれほど恵まれているかということに気が付いたならば、恵まれてないその一点を悩み・苦しみだといって挙げつらうのではなくて、来る日も来る日も、自分が恵まれていることに手を合わせて感謝をしているのではないでしょうか。

そういうことに全然感謝をしないで、ただひたすら、

「これが足りないから、これをよこせ」

「あれが足りないから、あれをよこせ」

と言い続けている人には、神は微笑まないような気がするのです。

自分の思い通りになったら感謝するけれど、思い通りにならない状態では、感謝をしない、

というのはほんとうの感謝ではないのかもしれません。

恵まれているもののほうに目を据えて感謝をする。足りないものだけを挙げつらねて

「神さま、これをください」というのは、ほんとうは、神さまや宇宙に対する冒涜なのかもしれません。

この話にも後日談があります。一年ぶりに彼女が私の前に現れました。

「相談したときに言われたことはショックでした。でも、そのショックは「確かにそう・・・」と思え、体中にしみ込みました。なんと、私は今、妊娠七か月なのです・・・」


みんなの猛烈な拍手。受け入れて「感謝」することを始めたら、なんと授かった・・・

奇蹟はあちこちで起きるのです。

<転載終了>


ここでもやはりポイントは「置かれた場所で咲きなさい」と同じことです。 

何か足りない、何かが無いから不幸だ。と無いもの、与えられていないものに不平不満を言うのではなく、今与えられているものに感謝すること、自分が置かれた環境に感謝すること。

足るを知ること・・それが大切なんだよと教えてくださっています。

私たちを、今の環境に置いて下さったのは神様です。

そしてそれは、私たちが生まれる前に、神様と私たち自身が一緒に決めてきた環境です。

これを摂理と言います。 

苦しくて辛い環境も、決して私たちを苦しめるためだけに神様が用意して下さったわけではありません。その辛い環境、悩み多き環境を経験することで、私たちの魂を引き上げようとしてくださっているからです。

ですので、その悩みは決して永遠に続くものではありません。 破滅への道ではありません。

どうか安心なさってください。そして、置かれた環境、周りに居てくださる方々に感謝してみてください。笑顔を向けてみてください。きっと、それが幸せになるための答えですから。