今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年06月04日「病気と事故」と2021年06月05日「神さまの承諾」の2つの記事を紹介します。
「病気と事故」
私たちは肉体的な制約のない「意識」だけの世界からこの地球の3次元の世界に生まれてきました。生まれてくる際には、永遠の魂の持っている記憶を全て、いったん白紙にされ、忘れさせられて生まれてきます。
この不自由な物理的な世界で肉体があるがゆえに、霊的な生命体の時には無かった「感情」を味わい、様々な縁ある人々とも、まるで「初めまして」と一から関係を構築していきます。
そして、地球での生活の中には様々な、イベントが埋め込まれています。
楽しいことだけではありません
・別れや死別
・裏切り、意地悪
・憎しみ、嫉妬
・悲しみ、苦しみ
様々な人々の、様々な感情の中で翻弄されながらも、自分なりの花を咲かせようと私たちは懸命に生きていきます。
何故なら、そのような経験はこの地球の3次元の世界、短い一生の間にしか味わえない、
貴重な 魂を磨く機会だからです。
私たちはこの置かれた世界で、この置かれた立場で、どう生きていくか?
それが、問われています。
送り出してくださった神様そして、多くの故郷の星の同胞たちが見守っています。
ですが、そうであるにも関わらず、あまりにも見えない世界、霊の世界、下世話な言葉で言えば「お化けの世界」のみを重要視し過ぎて、実際の目に見える日々の生活、そして身近な周りの人々との優しさや、思いやりの愛の交換を忘れてしまっては本末転倒になってしまうかもしれません。何のために、ここ物質地球に来たのかわかりません。
ここは物質次元の地球です。
さて今日のテーマは「病気と事故」
生まれてくる前に、自分で決めてきたシナリオ通り、人生が進むのであれば、私たちを苦しめる、貧困や病気、事故の意味とは何でしょうか?
世の中に一つも無駄なことはないと言われます。
神さまは決して私たちを苦しめ、悲しませるためだけに、物事を起こすわけではありません。
全ての自分に降りかかる出来事は「空」、すなわちニュートラルである。
そこに良い、悪い。 幸、不幸の色を付けるのは、自分の心である。。
そうブッダは般若心経の中で教えてくださいました。
一般的にいう「不幸」の代表として病気と事故があります。
そして、病気をした人は、「より優しく」なり、事故に遭った人は、「より謙虚に」なります。
「どうして、自分だけが不幸な目に遭わなくちゃならないんだ」と言う人もいれば、
病気や事故のおかげで、心が清められたと、感謝する人もいます。
私たちの日常生活の中の、幸せ、不幸せは、こういうもののとらえ方の違いによって成り立っています。
目の前の現象は、もともとニュートラル(中立)で、なんの意味づけもされていないのに、
私たちが勝手に評価・論評を加えているということです。
すべては自分の私たちの心が決めています。
それでは、ここで小林正観さんのお話をご紹介します。
<引用開始> 引用元
私たちは、20世紀的な価値観から、そろそろ抜け出してよい時期に来ているのではないでしょうか。
20世紀的な価値観とは
・競うこと
・比べること
・争うこと
を基礎とする価値観。
そうではなく、21世紀は、
・競わないこと
・比べないこと
・争わないこと
を基礎とする価値観。そうできないものでしょうか。
それは、戦うことではなく、自分が楽しいと思えるような(この瞬間だけでなく、未来にわたって継続できるような、楽しい) 生き方をするということにほかなりません。
自分の生活の中で
・他人と比べない
・世間と比べない
ということが身についたら、生きることが、どれほど楽になるかわかりません。
今まで、相対評価というのが、人の価値観をずっと形成してきて、それにまったく疑問をはさまないで私たちは生きてきました。
・競争すること、
・比べること、
・争うこと
を教えられてきましたから、「優しさ」をたくさん持っている人ほど、心の奥底で「何かが違う」と叫んでいるわけです。
その心の叫びとは裏腹に、表面の部分では、猛烈に争って、戦って、いい成績を収めたという、その乖離が激しい人ほど、往々にして病気を招くという例が多いように思います。
それは、その人自身が優しいがゆえに、自らが元の姿に戻るためのシナリオを、生まれる前に書いてきているのでしょう。
「自分の力ですべてやってきたんだ」という驕り、高ぶりが強くなったとき、病気という形をとって、本来の謙虚さに立ち戻るシナリオが働くのではないでしょうか。
人は、病気や事故によって、より優しく、より謙虚になり、その結果、競争原理というものを捨て、これまで体験した すべてのことに「ありがとう」と言えるようになるようです。
<引用終了>
今自分の目の前に起きている悩み、苦しみ、偏見、貧困、差別、病気、ケガは、自分にとって何をもたらそうとしているのか?
それを経験することで、私たちの魂は、何を得ることができるのか?
それは、その現象の表面だけの辛さを見て不平不満、愚痴、悪口を言っている間は、決して気づくことがないでしょう。
そこに隠された神様の意図を、感じ取れた時、その現象は、役割を終えて、いつの間にか消滅し、記憶のかなたに消えていくことでしょう。
皆様が内なる神さまに気づき、お幸せになられますように。
「神さまの承諾」
今日は、事故や事件で亡くなってしまう場合も、生まれる前に決めたシナリオ通りの人生なのか?と言うことで、小林正観さんのお話をご紹介します。
また、自分に対しての、意地悪や陰口、揚げ足取りのような理不尽な行動も同じです。
悲惨な犯罪も、理不尽な仕打ちもすべて、神さまの承諾の下で起きている。
つまり事件や戦争、理不尽な出来事などに、敵意や憎しみを抱くことは、「さらなる犯罪を呼ぶだけ」ではないかと言う内容です。
これは、『100%幸せな1%の人々』の本に書いてある内容です。
<転載開始> 転載元
私は学生時代から「唯物論者」なので、神や仏を前提としては、ものを考えていません。
しかしこれまでの研究の成果として、神も仏も、守護霊も精霊も、存在する、のではないかと思うようになりました。
そして、世の中に起きている、どのようなことも、すべて神の承諾のないことは起きない、
という結論に、到達することになりました。
一般の人が言う、「悲惨な」出来事や「不幸な」出来事も、ものすごく大きな「悲劇」というものも、すべて「神の承諾」の下で起きているのではないか、と思うようになったのです。
繰り返して言っておきますが、私は今も唯物論者です。 かなりガチガチの唯物論者であり、
現象がその事実を証明しないかぎり、信じません。
しかし、いろいろな現象を何千、何万と見つめてきた結果、神というものが存在するのではないかと思うようになってきました。
そして、世の中に起きるすべてのことは、私たちの感覚では「良い」とか「悪い」というとらえ方ができたとしても、神の承諾を受けていないものはない、という結論にならざるを得ませんでした。
神が私たちに求めているのは、その現象について、悲惨であるとか不幸であるとか評価・評論をすることではないように思えます。
神が私たちに求めているもの、宇宙が私たちに求めているものは、おそらく次のようなことなのです。
一般的に「ひどい」とか「悲惨だ」と言われる事件が起きた時、その報道を1億人の人がニュースで見たとします。
そして、人々がその犯人について
・ひどい奴だ。
・許せない。
・絶対に死刑にしろ。
・報復をしてもかまわないんだ。
・世界中を探し出して、その人間を殺すべきだ
と言って、敵意と憎しみの塊になったとします。
そのとき、上空から見下ろしていて喜ぶのは誰でしょうか?
それは「悪魔」という存在でしょう。
私たちが、憎しみのエネルギー、恐怖のエネルギーで、心を満たし、汚すことを望む存在です。
「悪魔」は、人々が仲よしで、お互いに笑顔で、となり合った人を助け、温かい空気の中で、ともに生きていく、そういうことを大変に嫌います。
敵意と憎しみのあるところにだけ悪魔は住むことができるからです。
それに対して、
「自分ができることは、まわりにしてさしあげよう」とか
「できるかぎり人に喜ばれる存在になろう」
という心を持っている人間が増えると、悪魔は住むところがなくなって、とても困ります。
ですから、悪魔は、
・多くの人々の敵意や
・憎しみの感情が芽生えるように、
いつも願っています。
1億人の人が、その事件の犯人を許せないと思い、敵意と憎しみをかき立てられたとしたら、
上空で微笑んでいるのは、悪魔という人でしょう。
一方、神という名の存在の方は、大変悲しい思いをしていると思います。
もし逆に、1億人の人がその事件を見聞きして、こう考えたらどうでしょう。
『私』の心の中の敵意や憎しみの延長線上に、この犯罪や出来事が存在する。
『私』が敵意や憎しみを持っていることは、この人たちが、社会に対して、
敵意や憎しみを発散させ、事件を起こしたことと、同じ意味である。
もしこの人たちが、敵意や憎しみを実際に世の中で発散したことについて、自分が否定的に思うのならば(こういうことがあってはならない、あってほしくないと思うのであれば)、
まず自分の心の中から敵意や憎しみを取り去ること
1億人の人が、こういうふうに考えたとき、その出来事が起きたことに大きな、貴重な
意味があったといえます。
多くの人が自分の心の中の、敵意や憎しみを、見つめ直すことができたなら、
「私のメッセージが理解されて嬉しい」と神様はニッコリ微笑むのかもしれません。
<転載終了>
最近は本当に目を覆いたくなるような出来事が、世界中で起こっています。
・人種差別による憎しみの連鎖
・宗教紛争
・親子間の殺人
悲惨な事件や、被害者やそのご家族があまりにもかわいそうな内容であればあるほど、
私たちはその犯人を憎みます。死刑を望む人もいるでしょう。
「罪を憎んで人を憎まず」という耳触りのよい言葉もありますが、やはり「憎しみ」を肯定していますから、そこには神様の要素が全くありません。
立派な人、努力して自分を律している人、まじめな人ほど、
人の不正や怠惰な言動が、許せないかもしれません。
憎しみを抱き続けるかもしれません。
「私はこんなに頑張っているのに、あの人は何?」
でも神様は、はたして、そのようなことを仰るでしょうか?
神様は全ての全てを、受け入れ、寛大な目で見守り、魂が更生する機会を辛抱強く、待っていてくださるのではないでしょうか?
憎しみや、恐怖、疑心暗鬼、貪欲からは同じものしか生まれません。
信頼からは、愛が生まれます。
どんなに過酷な状況であろうと、魂までは傷つけることはできません。
神様が悪魔の存在を許し、その悲惨に見える状況を承諾したのであれば、大きな大きな教訓として、私たちの心を見つめなおすキッカケとして、また大きな犠牲を覚悟で、憎しみの対象となることを承知で、生まれてきてくださった、役割を持った魂たちに対し、「感謝」を持って受け入れたいと思います。
それこそが、神様が人間の、近視眼的な目から見れば、
理不尽に見えることが起こることを許していらっしゃる理由であろうと思います。