2024年3月9日土曜日

3361「青空ひろば」2024.3.9

今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最新記事を紹介します。


1244 2024.02.29 ~ 1246 2024.03.02

Q.神前で個人的なお願いをしてはいけないという方がいるのですが?

A。祈りの究極は、「み心のままに」だというのは確かです。私も少しずつ、そんな心境に近づいていて、そんな心境になると、「神さまの意志の流れ」というものが肌で感じられるようになります。

そうすると、その「神流」に浮かんで運んでもらえるようになります。ちょっとの努力で、最大効果があがるような行動が出来るようになります。人生の関門が現れるたびに、次々自動ドアとなって開いてゆくような感じになります。フロー感覚といったり、スムージング効果といったりするそうです。私は「神流楽(かんながら)」といっています。

しかし、人は家族のこと、仕事のこと、人間関係のことなど、悩みが尽きませんし、そんな悩みを解決して下さいとお願いすることを神さまは許してくださっています。ですから、遠慮なく、どんなドロドロした願いでもいいから、神様に頼ってください。祈り、祈り、ひたすら祈るうちに、次第に心が澄み、最後は、「み心のままに」と、少しでも思えるようになった時、その願いは叶うのです。

ユリ・ゲラーのスプーン曲げの研究家によると、ゲラーが「曲げよう、曲げよう」と強く念じている間は曲がらなくて、念じるのをやめて気を抜いた瞬間からスプーンは曲がり始めるのだそうです。そこまでゆくと、後は気を散らして別のことをしていても、スプーンは自動的に曲がり続けるのだそうです。(完)


1240 2024.02.25  ~ 1243 2024.02.28 

Q.「今・ココ」にイノチを落ち着かせるにはどうすればいいですか?

A.「アタマ(頭)」は「今・ココ」から漂い出してフラフラしがちですが、「カラダ(身体)」は、決して「今・ココ」から離れることはありません。ですから、「カラダ」に戻る工夫をすればいいわけです。

よく相撲の力士や水泳の選手が最後の仕切り(スタートの直前)に、「カラダ」をバシバシたたいたりしますが、これも、不安や弱気に意識がフラフラしがちなのを、「カラダ」への強めの刺激で意識を「今・ココ」に引き戻しているのです。思いの雑音が消えて、意識が「今・ココ」にあつまって、目標に向って全力投球出来るようになったら、その人は最高のパフォーマンスで行動できます。

あなたも、自分なりの「カラダ刺激」を考えて、不安やイライラの気持ちが強くなったなあと気づいたら、その動作をやってみて下さい。

 私の教え子は、テスト中に時々、右手の二本指で左の手首をトントンたたいていて、「何をしているの?」と尋ねると、「こうするとミスが少なくなるのです」と言っていました。ちなみにこの生徒は東大に進学しました。

ラグビーの五郎丸選手の、キック前の一連のルーチィンワークが話題になりましたね。これは、メンタルトレーナーと相談して順序だけでなく各動作の秒数まで決まっているのだそうです。このルーチィンワークに意識を集めることによって、無心状態に戻れるようにしているわけですね。(完)


1228 2024.02.13  ~ 1239 2024.02.24 (前日の続き)

サッカーワールドカップの日本の戦いは終わりました(1998年フランス大会のこと)。記者会見における選手たちの笑顔を見れて嬉しく思いました。

それに、岡田監督ご苦労様でした。修羅道(しゅらどう,勝負の世界)に生きるというのは、なかなかに厳しいことですね。徹底的に非難されて、今度は手のひら返したように名監督と賞賛されて・・・。

でも、泣いても笑っても、岡田は岡田だ。オカダでオーケーだ、ということなんですね。

浮いている時も、沈んでいる時も、私はいつも私自身なんですからね。

一の目が出ても、六の目が出ても、サイコロはサイコロなんです。どんな目が出ようとも、どんな目に会おうと、サイコロの本体自身は揺るぎなくサイコロなんです(私は私,I am that I am. I am here.)。そこに落ち着かなければ、本当の安心はありません。

サイコロころころ/転がって/ほら一だ/ほら六だ

うれしい目/ひどい目 でも、それは目じゃない/君は目じゃない

君はほら/いつでもサイコロ/どこでもサイコウ


『断碑(だんぴ)、古路(ころ)に横(よこ)たう』という禅語があります。古びた、苔むした石碑の断片が路傍に横たわっているのです。すっかり破壊されて破片化してしまっているし、苔むしてもいるので、もう文字は読めないんですね。だから、まったく値打ちがないようにみえます。

しかし、そのように見るのは、それは表面的な『アタマの見方』なんですね。

永遠無限からの見方、奥ゆかしい『いのちの見方』はまた別です。苔むして、文字が読めなくなればなるほど、侘び寂びてしみじみと美しいということがありますね。

なぜそんなものが美しいのかというと、断片となり、摩滅すればするほど、作品の全体像が判然せず、刻まれた文章も読めないので、そうであればこそ、『石』という本体だけが、現象のあれこれの姿、文字に誤魔化されることなく、はっきりと見えてくるということがあるからです。

実は、私は川井信一先生の石像が大好きなのです。どこが気に入っているのかというと、川井先生の作品では、『石』という素材が生かされているからです。

仏を彫っても、地蔵を彫っても、仏や地蔵が厚かましくしゃしゃり出て、本体の『石』を消し去って、殺してしまっているということがないのです。

川井先生は、そういう『石』という本質を失わないようにしながら、仏や、人や、石灯篭など・・・、さまざまなものをしっかり表現してくださっています。だから、作品に永久(とわ)な感じがするのですね。 


さて、岡田ジャパンの話にもどって、はじめ岡田監督には、日本代表チームはこうあるべきだという全体像、そのためにはこうあるべきだという戦略があったでしょう。

先ほどの、石の例えで言うと、立派な石像が出来上がっていて(これがあるべき姿)、それには見事な文章が刻まれていた(これが戦略)わけです。

でも、実際に試してみたら、それはまったく通用しませんでした。これまで培ってきた自信はものの見事に粉砕され、つまり、立派な石像は粉砕されてしまって、岡田ジャパンはちっぽけな断片にすぎないということになってしまいました。

もうこんな断片にすぎなくなったら、はじめ立てていた戦略の立派な文章も全く読めなくなって、戦うたびに、更に混迷を深めることになってしまいました。

そうなった時、はじめて監督と選手たちは、真剣に話し合って、ちっぽけな断片にすぎないという、『等身大』の自分たちの実像を認めあい、弱い自分たちという現実を受け入れることが出来ました。これがとても大きかったのですね。つまりは、小さな石ころであるという現実をうけいれて、理想像を放棄し、石の表面の文字(戦略)を消し去ることができたのです(まず、黒板の文字をきれいに消さなければ、次の文字は書けません)。

さて、では次は「そんな弱い、小さな石ころにすぎない自分たちがどう戦うのか」という話になったのです。

そうして、今の自分たちに出来る、最善の戦略の文章を、その石の表面に刻むことができたのですね。これが、今回のワールドカップの勝因でした。

弱い自分たちなんだという現実を、強がり言っていないで素直に受け入れ、こうでなければならないという理想をすっかり放棄して、カラッポになった時、そんな謙虚な者たちには、必ず天の援けがやってくるのです。


『人がいらないと捨てた石の断片が、世界を支える土台石になった』

(聖書より)  (完)