今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最新の記事を紹介します。
1260 2024.03.17
いのちが順当に成長していれば、「ギクシャク、ハラハラ」と「サラサラ、スイスイ」の時期が交互にやってくる。右足・左足、交互の一歩、一歩で前進できるようなものだ。
1261 2024.03.18 ~ 1263 2024.03.20
沢庵禅師が柳生宗矩(むねのり)に与えた書『不動智神妙録(ふどうち しんみょうろく)』より
<不動智>とは、「不動と申しても、石か木のように動かないという意味ではありません。向こうへも、左へも、右へも、十方八方へ、身心が動きたいように動きながら、ちっとも止まらない心を『不動智』といいます。物一目見て、その心を止めないのを不動といいます」
<千手観音>も、「一つの手に心が止まってしまえば、他の手は皆用に立ちません。どの手にも心を止めないから、すべての手が皆用に立つのです」
「とかく、心の置き処はありません。どこであっても、一箇所に心を置いてしまえば、余(ほか)の方への働きが皆欠けてしまいます」
「臍(へそ)の下に押し込めて余所へ心をやらないというは、レベルの低い段階の稽古の位(くらい)です。臍の下に押し込んで余所にやるまいとすれば、やるまいと思う心に、心を取られて、先の用に欠けて、殊の外不自由になってしまいます」
「『では、心をどこに置けばいいのですか』
我(沢庵禅師)答えていわく『どこにも心を置かなければ、心は我身いっぱいに行きわたりて、全体に伸び広がってあるので、手が必要な時は、手の用を叶え、足が必要な時は、足の用を叶え、目が必要な時には、目の用を叶え、その必要な部署に心が行きわたって存在しているので、その時、その時、その場所、その場所の働きに叶うのです』」 (完)
1255 2024.03.11 ~ 1259 2024.03.15
Q.転生は本当にあるのでしょうか?
A.フォン・カラヤンは、魂の不滅、転生を信じていました。自分のいのちの中心には、「素晴らしい音楽を追求・創造してゆきたい」という強く、激しい、揺るぎない意志が存在している。こんなにも強く激しい意志が、肉体がなくなったぐらいで消滅するはずがないではないかと語っておられました。
「魂」というボールの中心点には、いのちの「根本意志」が存在していて、それは『どこまでも、大きくなろう、より高く成長してゆこう』という意志です。この意志はどのいのちにも共有されているので、「共有(根本)意志」ともいいます。その外側の層に、その人が今生で担う「役割意志」の層があります。その二つの意志が、その意志実現のために使用する乗物、「心の体」、「肉の体」を、二つに意志層の外側の層に持っているのです。
地上世界で亡くなると、「肉の体」は消滅しますが、それより内側の三層の魂は残り、地上での生の総括と反省が終わると、次の地上人生のあらすじを描いて、再び「肉の身」をまとって降臨します。さらに学習をすすめ、より高く、より大きく成長するために…。 永遠生命の自覚とは、その根本意志の強さ、激しさ、揺るぎなさに気づくということです。人生にはいろんなことがあります、泣いても笑っても、怒っていても、悲しんでいても、どんな時も魂の「方位磁針」は、「限りない成長進化」を指して不動です。
「好雪片々(こうせつへんぺん)、別処(べっしょ)に落ちず」という禅語があります。雪が降り続いています。雪の一片(ひとひら)、一片、風に任せて取りとめのない、ばらばらの方向に落ちてゆくように見えるけれど、実は、どの一片にも同じ力(重力)が常にはたらいているのです。この重力に相当するのが、「根本(共有)意志」ですね。
人だけでなく、植物にもこの「根本(共有)意志」が、人よりも純粋な形ではたらいています。樹や花と対面して心をかよわせると、魂の永遠性の神秘について教えてくれます。『無門関(むもんかん)』の「庭前柏樹子(ていぜんはくじゅし)」という公案は、この根本(共有)意志をテーマにした問題です。
しかし、地上では自覚できなくても、あっちの世界にゆくと、誰でもそのこと(魂の永遠性)が自明のことなので、今生で悟ってやろうなどとあせる必要はありません。(完)
1250 2024.03.06 ~ 1252 2024.03.08
(方角や風水などに過度に神経質になっている人に)
風水を気にされる前に、もっと大切なことがあります。それは、あなたがいま住んでいらっしゃるお家を愛して、大切に、大切にお世話してあげることです。
そのように、慈しみの念をこめて大切に扱ったモノには愛念がこもり、やがていのちが宿り、今度は、そのモノがあなたを護ってくれるようになります。「トイレの神さま」が、はじめからいらっしゃるわけではなく、丁寧にお世話したトイレには、そのあなたの愛念が籠って、ついにあなたを護る神さまとなるのです。
そのように、モノをお世話してゆくと、『このモノは、ここに置いてあげたほうがいいなあ』、『ここをこう改造してあげるともっと輝くなあ』と自然に分かるようになります。モノが適切な位置を教えてくれます。そうすると、自然に風水の法則に則った配置が整ってゆくのです。
風水の法則をあまり神経質に守ろうとすると、不安の念がドンドン大きくなって、その不安の念が不幸を引き寄せるということがあります。気をつけて下さい。
1253 2024.03.09 ~ 1254 2024.03.10
Q.「イノチ」と「魂」の違いが分かりません。
A.「いのち」は「意の霊」で、「意」は「意識」、「霊」は「霊体」のことで、そのカラダには2種類あって「心の体」と「肉の体」です。「いのち」は、このように三層構造(意識と心体と身体)で、古事記の冒頭の造化三神は、この「いのち」の三層構造を示しています。
しかし、「いのち」という言葉は、構造を示すには都合がいいのですが静的な感じがするので、いのちのダイナミックな作用、転進進化の方向性などを示すには、コロコロ転がる、ドンドン成長し大きくなってゆく「タマ」で象徴した方がいいわけです。そこで、「タマシヒ(魂)」という言葉を使います。「シヒ」は、「進化のゴールをめざす激しい(シ)、霊的エネルギー(ヒ)」のことです。(完)
1247 2024.03.03 ~ 1249 2024.03.05
Q.瞑想と坐禅の違いを教えてください。
A.「瞑想」は、イメージしたり、集中したりする努力があります。その分「アタマ」がはたらいているのです。また、その「アタマ」の努力には合格があったり、不合格があったりします。思うように瞑想出来ないとイライラ自分を責めたり、不合格だと落ち込んだりしがちです。
「坐禅」は、坐禅の姿勢をとってただ坐るだけでいいのです。「カラダ」で坐るので、「アタマ」で坐るのではありません。ですから、「いい坐禅」、「悪い坐禅」という区別はありません。ただ「坐禅」という姿勢をとるだけです。
「坐禅しても雑念だらけで…」とおっしゃる方がいますが、雑念とおっしゃるのは、それがいけないと自分勝手に判断しておられるわけですね。一時間先に起こることも、千メートルで起こっていることもさっぱり分からない程度の、そんな性能が悪い「アタマ」の判断を信用してはいけません。そんなお粗末な「アタマ」をしばらくお休みにして、ただ「カラダ」に任せて坐ろうというのです。
それだけで、不思議なことには心が休まり、日常生活で消耗していたイノチが自然と充電されてゆきます。なぜか人生が好転してゆきます。なぜそうなるのかは分かりませんが、人類は六千年も前から、カラダを坐禅の形に組んで坐ってきました。効果がない姿勢なら今に伝わっているはずがありませんね。(完)