今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年03月19日の記事を紹介します。
「死後直後の問い」
今日のテーマは、私たちが亡くなった直後の問いについてです。
私たちはこの世界を楽しむために生まれて来たのだそうです。
決して、苦しむためでも、悲しむためでもありません。
・貧困
・リストラ
・離婚
・事故、病気
・別れ、死別
それらは単に生まれる前に自分で決めてきた,この世の舞台装置でしかありません。
その舞台の中で、感情の波にもまれながらも、いかに楽しい人生を送れるか?
今私たちは、そのような中、地上で生活しています。
今日は以前書いた記事ですが、
山幸彦(ニニギノミコトの子 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと))の魂を持つ、小学生の神様トキ君の情報とピッタリと一致しているため、加筆修正して掲載します。
この記事は、産婦人科医の池川明先生のお話からなのですが、全く出所が違うのに神さまの意識を持つ6才の男の子から、全く同じ情報がもたらされるとは驚きと言うか、真実であると判断するしかありません。
このお話の中で、天国のレベル
6と7の間には、大きな隔たりがあるということですが、
6までは、あまり空間的、次元的な移動の自由がない束縛されたコミュニティに属している
7以降は、空間的にも次元的にも移動の自由がありほとんど束縛が無い状態・・
と言うことだと思います。
まずは、池川先生のお話です。
<引用開始> 引用元
臨死体験をされた方々の複数の体験によると、
死後に閻魔様(えんまさま)から聞かれるのは、次の2つのことだけなのだそうです。
・陰徳(いんとく)を積んだか?(人知れず、他人のために役に立ったか?)
・自分の人生を楽しんだか?
池川先生によると、この2つの質問の真意について、
「自分の人生を楽しんだか?」という質問については、
「身勝手に、自分ひとりで快楽を得たか」というものではなく、
「人に感謝され、認められて、自己肯定出来て楽しかったか?」ということではないかと。
そして、「陰徳を積んだか?」という質問においても、
「自分が一生懸命生きていることで、
結果的に知らぬ間に人が助かったか?」ということではないか、と語られています。
この陰徳を積む、という行為の例として、こんなお話が紹介されていました。
(「ぼくが生まれてきたわけ」より 一部抜粋)
ある小学生が、学校から帰るとき、
荷物をたくさんもった同級生とぶつかって、その荷物を落とさせてしまった、と。
その同級生は、同じクラスの子だけれど、ほとんど話したことがない子で、
その小学生は荷物を一緒に拾いながら、「君、どうしたの?」と声をかけた、と。
すると、「家にかえるところだ」と言うので、
ふと、「じゃあ、うちで遊んでいかない?」と誘ったそうなのです。
で、その同級生は家へ来て、テレビゲームをやって帰っていった。
それで、ずっと後になって、荷物を持っていたその子が、誘った子に、
「君はぼくの命を救ってくれたんだ」と言ったそうなのです。
何でかと言うと、あのとき、荷物をたくさん持っていたのは、
自殺しようと思っていたからだ、と。
自分が自殺して、学校の机に自分の荷物が残っていたら、次に座る子が迷惑すると思って、それで全部片付けて、荷物を全部持って帰っているときに、君とぶつかったんだ、と。
君とは話したことがなかったけれど、
君が声をかけてくれて、君とテレビゲームをしたら、楽しかった。
それで死ぬのを踏みとどまったんだ。
この場合、お礼を言われたほうは、助けたっていう意識はないんですよね。
ただ、ぶつかったから荷物を拾ってあげて、ふとゲームに誘った。
おそらく、こういうのが陰徳なんだと思う、と本の中では語られていました。
良かれと思って自分がした行為が、必ずしもその人のためになっているとは限りません。
そのようなことは、世の中によくありますよね。
ここがなかなか難しいところです。
相手を尊重して、よくよく自問自答してから、手を差し伸べるべきかを決めることが重要です。
つまり、人の役に立たなきゃ!と思って、誰かを助けてあげることを目的にするのではなく、
結局は、自分が一生懸命に生きる!
お天道様に恥じない生き方をする!
ということに尽きるのはないか、と池川先生はおっしゃっていました。
<引用終了>
私たちが、この肉体を脱いで、天に帰る時にされる質問は、たった2つ
・陰徳を積んだか?
・自分の人生を楽しんだか?
なのだそうです。
山幸彦の魂を持つトキ君が言うには,閻魔様に質問されるのは2つ
・あなたは人に優しくしましたか? (=陰徳を積んだか? と同じ)
・いっぱいあそびましたか? (=自分の人生を楽しんだか? と同じ)
驚くことに、池川先生と全く同じです。
そうであれば、今の今,生きている間から、そのことを意識して生きていれば、閻魔さまにも、褒めてもらえるかもしれません。
閻魔さまは、よく怖い鬼のように描かれていますが、実際は光そのものの神様だそうです。
また池上先生は、多くの生まれる前の記憶を持つ子供たちのお話から、こうも仰っています。
病気や障害を持った,多くの子どもたちから集めたお話から解釈するに、たぶん、「自分がつらい思いをして、それを乗りこえたときに、魂はそれを“楽しい”と喜ぶ。
そしてつらい思いをしたからこそ、
同じようにつらい思いをしている人の役に立つことができる」からだろう、と思います。
つまり、ずっと幸せかつ平穏に過ごしているだけの人は、他人の心に寄りそえないし、
魂も、実は「それで楽しい」とは思わないようなのです。
つらさのただ中にある人は、
実は、同じようなつらさを経験したことのある人の助言しか、真剣には聞かないものです。
なので、そのためにもつらい経験をする必要がある、苦労する必要があるのかな、とも思います。
実は、子どもたちに聞いた、空の上で暮らす魂の日常は、すごく穏やかで、平和で、幸せなのだそうです。
着るものにも、食べるものにも困らない世界で、食べようと思えば、いくらでも食べられて、
ダイエットの必要もない、すごく良いところなのだそうです。
ですので、この世に生まれてくる魂たちは、“非日常”を求めて…まさにアミューズメントパークに来るような感覚で、この世に生まれてくるようなのです。
楽園から楽園に移動しても“非日常”は感じられないので…
それでこの世は、制限が多く、つらいことも多い世界なのでしょう。
そういった意味では、この制約の星、地球での、病気や障害など、辛く、悲しい経験も、
・陰徳を積んだか?
・自分の人生を楽しんだか?
上記を達成するために、とても重要な環境なのかもしれません。
またもぅ一つ、トキ君の情報として重要なことがあります。
私たちが、「人のために・・」と我慢をして、自分のワクワクを殺し、自己犠牲ばかりしていることを、神さまは「善し」としない・・と言うことです。
私たちは「人のために」、「良かれ」と我慢して自己犠牲を行い、そんな自分を自己賛美をしがちですが、自己犠牲の精神は、地獄行の要素でもあるのだそうです。
私たちが生まれる時、地上で何をするか?
何を楽しんでくるか?
神さまと約束してきます。
神さまも「楽しんでおいで」と送り出してくれました。
そうであるのに・・・
自分の楽しみを我慢し、押し殺し、やりたいこともせずに、地上の人生を終わることを、
神さまは決して 正しいこと とか、良いこととは見てくれないということです。
全く逆の評価を下されます。
私たちは周りの人たちと仲良く助け合い、そして楽しむためにこの地上に降りてきたからです。
私たちが、ニコニコして生きていることが神さまは一番嬉しいからです。
皆さんの心が、どんな時でも、感謝の気持ちで満たされ、神々の恩寵を受け取れますように。