登米市南方町にある第10番札所興福寺は天台宗のお寺で十一面観世音菩薩が祀られています。
寺伝によると、この大嶽観音堂は大同2年(807)坂上田村麻呂の創建です。「坂上田村麻呂が奥州平定の戦いでの戦死者の遺骸を7か所に分散埋葬し、その場所に観音堂を建立したと伝えられている。その一つが大嶽観音堂であり、箟岳観音、長谷観音、富山観音、牧山観音、小迫観音、鱒渕観音と合わせて、奥州七観音と呼ばれています。」
私が当初調べた奥州7観音はこの大嶽観音でなく清水観音でしたが果たして如何なのでしょうか。しかしながらこの大嶽観音は開山以来、修験の道場として栄えてきたお寺で伊達藩の崇敬も受けて、観音堂の仁王門も立派です。観音堂外側の板面には、中国から伝わった古今の二十四孝物語が六枚、彫り込まれ、その欄干には、十二支が彫られて、堂の方位が示されています。この二十四孝物語は江戸時代寺子屋で日常生活のしつけの教科書として使われていたもので。
お堂の前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「拙きを送るは忍び無き故、ただただ伺いました。
大きなる拡がりに、大いなる思いを乗せ来る響きを受け、これより遥かへの道開きましょうぞ。全てを預け行きます。」12:21
午前の巡りをほぼ予定の時間に終えることが出来、昼食は直ぐ近く、迫町佐沼のお蕎麦屋さんです。豪華な天ざるとお稲荷さんを美味しく頂きました。お店は繁盛店で次から次とお客さんの来るのですが、私達の予約を受けてくれありがたいことです。
午後の最初は第24番札所の登米市中田町、天台宗の長谷寺です。ここも奥州7観音と言われていて立派な長谷観音堂には十一面観世音菩薩が祀られています。しかし少しうらぶれた感じは否めません。あまりお参りがないのかもしれません。縁起などは以下です。
「長谷観音の創始の歴史は古く、天平宝字六年(762)に陸奥守・藤原恵美朝獦が山頂に笏を納めこの地の発展を誓願し、神護景雲二年(768)、釈勝道上人が世尊山法誓寺を建立しました。延暦20年(801)に坂上田村麻呂が奥州平定に出陣するにあたって、大和国初瀬山長谷寺に戦勝祈願し、勝利することが出来たが、大同二年(807)この山に初瀬山長谷寺を勧請して、長谷観音院と号しました。陸奥国7ヶ所に建立された観音堂のひとつであり、藤原清衡や葛西清重らの帰依により長く栄えました。1557年天台宗から修験道に改宗。天正18年(1590)、豊臣秀吉により葛西家の領地没収の後、次第に衰退の一途をたどりはじめ、数坊がキリスタン信仰をしたとの理由で伊達政宗の家臣に堂塔を焼かれ衰退の一途をたどりました。」
観音堂を参拝する頃には曇り空から太陽が輝き出して、光を降り注ぎ始めました。今朝の車中でのお言葉にあったように、「本日、新たなるを出だして参る。新たなると成りたれば」、その印として「ゆるゆる晴れる」を確認出来ました。驚きです。と言うことは、中山さんを通して現われの存在は「大いなる真の伝えなり」の証明となります。
長谷観音堂前にある遮那桜の木に向かってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「出でませ、出でませ、この時に。
古きこの地にありたる、大きなる働き致す門ありたり。この門より出で来る暖かき風は、この地を緩め、豊なるへと変え行きたり。今ここに無きは真に口惜しきぞ。我れただただ、ここにありて守り来て、春を告げ行くばかり。
大いなるこの地を皆々にて、再びの地と成し行かれませ。お頼み申すなり。
光を受けて守り行く。大いなる光、今注がれて嬉しきなり。」13:53
次は第14番札所の大慈寺です。登米市東和町にある曹洞宗のお寺で聖観世音菩薩が祀られています。以下の様な記載がありました。
「この寺は,開山以来たびたび災害に遭って、堂塔をはじめ多くの寺宝を失い、寺の由緒について詳しく分からないそうですが、平泉藤原秀衡が開創したと伝えられている。当初は天台宗で、諏訪森大慈寺と号し、藤原氏隆盛の時代は栄えたが、藤原氏滅亡(1189)とともに衰退し、やがて廃寺同様になりました。
永享元年(1429)に奥州市水沢区黒石にある曹洞宗東北大本山正法寺4世の中山良用和尚が自らの隠居寺として入山し、天台宗を曹洞宗に改めて再興、山号も現在の法輪山大慈寺としました。」
秋葉権現の前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「この度、参りたこの機会、逃さず皆々共々に、大きく広きへ羽ばたきて、進み行く事。
これよりの新しきへこの地を進める事なり。
お~。生まれ出でませ、それぞれの真の思い、出だしませ。」14:30
2016年3月21日月曜日
2016年3月19日土曜日
590「観音8」2016.3.18
奥州3観音の最後は涌谷町の箟岳にある第9番札所箟峯寺の箟岳観音です。天台宗のお寺で十一面観世音菩薩が祀られています。縁起などは以下の紹介があります。
「宝亀元年(770)、鎮守府将軍大伴駿河麻呂の草創と伝えられ坂上田村麻呂がこの地に堂宇を創建したといわれています。古くは霧岳山正福寺と称していましたが、嘉祥2年(849)に円仁が中興、無夷山箟峯寺と改め、以後天台宗に属するようになりました。殺生禁断・女人禁制の聖地、また奥州鎮護の祈願所として南北朝時代には葛西・大崎の両氏、江戸時代には仙台伊達藩の崇敬を受けていました。往時は21坊をもつ大寺でしたが時代の推移、また二度の火災により衰えていましたが、二代藩主伊達忠宗によって再興されました。」
次に興味深い記述は、奥州3観音の祀られた処の地形的な意味です。以下、その部分を転載、紹介します。
「地学団体研究会仙台支部編『新版 仙台の地学(東北教育図書株式会社)』に掲載された長谷弘太郎さん作製の「縄文時代早期の海岸線」の図を見る限り、牡鹿半島はまるっきり島であったようで、いわば北上山地と牡鹿半島を分断する入り江が後の北上川河口――追波湾(おっぱわん)――であると言ってもよさそうです。また、この図を見ていると北上川――日高見川――の流路、及び迫川――伊治川――や江合川――荒雄川――が入り乱れる現在の宮城県北部の広大な湿地帯は、縄文時代早期にはどうやら広大な“入り江”つまり“海”であったと言ってよさそうです。
遠田郡涌谷町の篦岳(ののだけ)は、そんな入り江に突き出た岬の突端であったと言ってよく、この丘陵の頂上からはほぼ360度なんの障害もなく平野部を見渡せます。
なるほどこの広大な平野と当地を代表する大河を管掌するには絶好の拠点であったのかもしれません。
初夏など少し湿度の高い時期に、急激に気温が下がってくると北上川から湯気のような霧が立ちこめてまいります。かつて私がこの地を初めて訪れたときまさにそのような季節で、北上川に沿って立ち昇る雲海があたかも“白龍の通り道”といった趣きで、それとは裏腹に澄み切った夕焼けの空と北上山地の山容とのコントラストはまさに山紫水明と呼ぶにふさわしい光景となっておりました。
奥州三観音の一つ、篦岳(ののだけ)観音はそのような地に祀られたのです。
蝦夷の巣窟を「無夷山」と名付けたところには痛々しさすら感じますが、町史はこの記述にあるアンバランスな建築物について次のように語ります。
「元禄の堂宇は「随地勢之高低、柱長短不均」とあるが、これは田村麻呂将軍が賊赤頭高丸と悪路王を誅し、首は京に送り胴を岡の上に埋めたが、その際死者の屍体も埋めて塚を築きその上に観音堂を建てたといわれ、その塚の高低にしたがって建てたので柱の長さが皆違っているのだといわれている。嘉永年間再建の時、地均しをして建てようとしたところ怪我人が続出して、やむ得ずもとの形にして建てたと伝えられている。」
おそらく屍の塚の上に観音堂を建てたのは事実でしょう。奥州三観音にはなんらかの封印の術が施されているようにも見受けられます。
かつて、地図を見ていて思わずはっとさせられたことがありました。 奥州三観音の各々の位置関係は、かなり見事な正三角形を成しております。偶然かもしれませんが、各々の角度もかなり正確に60度です。それは考え過ぎだとしても、篦岳の観音堂下の塚の高低は、それなりの怨霊化の力関係の強弱に基づいていたとは考えられそうです。だとすれば“地均しをする”ということは、“その上下関係を無視する”ということに他ならないでしょうから、それは確かに不遜な許されない行為だったことでしょう。
ところで、この篦岳観音はよほどこの地で大切にされていたのだなあと思わせられることがあります。天正15年(1587)という戦国時代の真っただ中にあって、本来摩擦が絶えなかったであろう隣接する当地の2大勢力葛西氏と大崎氏が、なんと仲良く折半で堂宇再建の寄進をしていたことが具体的な記録として残っているのです。
葛西氏も大崎氏も本来鎌倉武士であり、奥州藤原氏滅亡の上に繁栄をみた大名です。奥州三観音に祀られている観音様は、本来このエリアの先住民族を供養するものであったことは間違いありませんから、葛西氏、大崎氏共、その部分についての多少の後ろめたさという共通の感情は代々継承していたのではないでしょうか。」
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/23699138.html
以上奥州3観音と言われる富山、牧山、箆寺はこの地の要所であり、蝦夷達の聖地でもり、坂上に代表される大和朝廷の権力により抹殺、占領され怨霊を封印されたところです。ですから一際、3観音として観音菩薩におすがりしたのでしょう。
本堂前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「あ~。ありがとうございます。これよりも、共々、共に参り行きます。
響きてありますこの身の中の大きなる鈴の音と成りて、隅々へ伝わりました。
光を大きく成し行きて、皆々様方、伺い知りて、共に旅立ちましょう。」11:34
「宝亀元年(770)、鎮守府将軍大伴駿河麻呂の草創と伝えられ坂上田村麻呂がこの地に堂宇を創建したといわれています。古くは霧岳山正福寺と称していましたが、嘉祥2年(849)に円仁が中興、無夷山箟峯寺と改め、以後天台宗に属するようになりました。殺生禁断・女人禁制の聖地、また奥州鎮護の祈願所として南北朝時代には葛西・大崎の両氏、江戸時代には仙台伊達藩の崇敬を受けていました。往時は21坊をもつ大寺でしたが時代の推移、また二度の火災により衰えていましたが、二代藩主伊達忠宗によって再興されました。」
次に興味深い記述は、奥州3観音の祀られた処の地形的な意味です。以下、その部分を転載、紹介します。
「地学団体研究会仙台支部編『新版 仙台の地学(東北教育図書株式会社)』に掲載された長谷弘太郎さん作製の「縄文時代早期の海岸線」の図を見る限り、牡鹿半島はまるっきり島であったようで、いわば北上山地と牡鹿半島を分断する入り江が後の北上川河口――追波湾(おっぱわん)――であると言ってもよさそうです。また、この図を見ていると北上川――日高見川――の流路、及び迫川――伊治川――や江合川――荒雄川――が入り乱れる現在の宮城県北部の広大な湿地帯は、縄文時代早期にはどうやら広大な“入り江”つまり“海”であったと言ってよさそうです。
遠田郡涌谷町の篦岳(ののだけ)は、そんな入り江に突き出た岬の突端であったと言ってよく、この丘陵の頂上からはほぼ360度なんの障害もなく平野部を見渡せます。
なるほどこの広大な平野と当地を代表する大河を管掌するには絶好の拠点であったのかもしれません。
初夏など少し湿度の高い時期に、急激に気温が下がってくると北上川から湯気のような霧が立ちこめてまいります。かつて私がこの地を初めて訪れたときまさにそのような季節で、北上川に沿って立ち昇る雲海があたかも“白龍の通り道”といった趣きで、それとは裏腹に澄み切った夕焼けの空と北上山地の山容とのコントラストはまさに山紫水明と呼ぶにふさわしい光景となっておりました。
奥州三観音の一つ、篦岳(ののだけ)観音はそのような地に祀られたのです。
蝦夷の巣窟を「無夷山」と名付けたところには痛々しさすら感じますが、町史はこの記述にあるアンバランスな建築物について次のように語ります。
「元禄の堂宇は「随地勢之高低、柱長短不均」とあるが、これは田村麻呂将軍が賊赤頭高丸と悪路王を誅し、首は京に送り胴を岡の上に埋めたが、その際死者の屍体も埋めて塚を築きその上に観音堂を建てたといわれ、その塚の高低にしたがって建てたので柱の長さが皆違っているのだといわれている。嘉永年間再建の時、地均しをして建てようとしたところ怪我人が続出して、やむ得ずもとの形にして建てたと伝えられている。」
おそらく屍の塚の上に観音堂を建てたのは事実でしょう。奥州三観音にはなんらかの封印の術が施されているようにも見受けられます。
かつて、地図を見ていて思わずはっとさせられたことがありました。 奥州三観音の各々の位置関係は、かなり見事な正三角形を成しております。偶然かもしれませんが、各々の角度もかなり正確に60度です。それは考え過ぎだとしても、篦岳の観音堂下の塚の高低は、それなりの怨霊化の力関係の強弱に基づいていたとは考えられそうです。だとすれば“地均しをする”ということは、“その上下関係を無視する”ということに他ならないでしょうから、それは確かに不遜な許されない行為だったことでしょう。
ところで、この篦岳観音はよほどこの地で大切にされていたのだなあと思わせられることがあります。天正15年(1587)という戦国時代の真っただ中にあって、本来摩擦が絶えなかったであろう隣接する当地の2大勢力葛西氏と大崎氏が、なんと仲良く折半で堂宇再建の寄進をしていたことが具体的な記録として残っているのです。
葛西氏も大崎氏も本来鎌倉武士であり、奥州藤原氏滅亡の上に繁栄をみた大名です。奥州三観音に祀られている観音様は、本来このエリアの先住民族を供養するものであったことは間違いありませんから、葛西氏、大崎氏共、その部分についての多少の後ろめたさという共通の感情は代々継承していたのではないでしょうか。」
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/23699138.html
以上奥州3観音と言われる富山、牧山、箆寺はこの地の要所であり、蝦夷達の聖地でもり、坂上に代表される大和朝廷の権力により抹殺、占領され怨霊を封印されたところです。ですから一際、3観音として観音菩薩におすがりしたのでしょう。
本堂前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「あ~。ありがとうございます。これよりも、共々、共に参り行きます。
響きてありますこの身の中の大きなる鈴の音と成りて、隅々へ伝わりました。
光を大きく成し行きて、皆々様方、伺い知りて、共に旅立ちましょう。」11:34
2016年3月18日金曜日
589「観音7」2016.3.17
石巻市内は5年前の東日本大震災の被害を受けていますが、かなり片付き、すっきりしましたが、まだまだそこかしこは復興半ばでの様子です。市内を抜け第8番札所、牧山観音のある牧山に上りました。
牧山観音についても以下の記載を一部割愛して紹介します。
「この都市の繁栄の歴史については、東北地方第一の大河“「北上川」の河口”という地勢を無視しては語れません。江戸時代以前の北上川のメインルートは、岩手県から南下して宮城県に入ってしばらくすると、桃生郡を大きく迂回して石巻へ向かわず大きく左折して三陸の荒海へと注ぎ出るものでした。
厳密に言えばかつての登米(とめ)から桃生(ものう)あたりの平野部は、栗原(くりはら)方面から流れてくる迫川(はさまがわ)などで入り乱れ湿地帯の様相を呈していたようで、大雨が降ろうものならば一気に湖が出来あがるようなありさまだったと思われます。
現在のようにある程度この河口はどこそこの川であると言えるようになったのは、やはり独眼竜伊達政宗の功績なのです。領土拡大路線の野心を捨て去った後の政宗は、自領内の経済力を高めるべく、新田開拓と奥州米の流通に力を注ぎました。その結果領土を拡大せずとも62万石の領国で100万石以上の米を生み出すにまで至ったわけですが、その際に必ず乗り越えなければならなかったのが流路の入り乱れるそれらの大河の制御でした。
政宗は、関ヶ原の負け大将「毛利輝元(もうりてるもと)」の家臣「川村孫兵衛重吉(かわむらまごべえしげよし)」が浪人の身に甘んじているのを、これ幸いとばかりに伊達の家臣として召抱えました。このあたり、政宗の人物眼は素晴らしいものであったと驚かされます。
天下の趨勢が定まってからの仙台藩は、職を失った武闘派の再就職先として荒れ地開拓を奨励していたようです。未開の荒れ地を開拓すれば、それが自領になるというのですから誰しもが必死で開拓したことでしょう。そのような中で孫兵衛が携わったのはどちらかと言えば公共事業的な河川流路の大改修でした。孫兵衛は眠れる才能をフルに発揮し、現代にまで残るような河川の流路形態の基礎を築きあげました。このとき、大河北上川の河口港は石巻と定まりました。この河口港は、政宗の一大経済政策である“買米”を生きたものにするための最重要拠点となり、結局は北上川ばかりか、貞山運河などの利用によって、もうひとつの大河阿武隈川(あぶくまがわ)とを連絡させ、仙台藩のみならず隣接藩の収穫物をも大都市“江戸”に出荷するネットワークが機能し始めていたのです。
ところで、このイシノマキという地名にはいろいろ想像させられます。
『日本書紀』に仁徳天皇55年に蝦夷(えみし)が叛いたという記事があります。その際天皇は上毛野田道将軍を遣わして討たせようとしたのですが、逆に反撃にあい田道は「伊峙の水門(いじのみなと)」で戦死してしまいます。石巻はその伊峙の水門の推定地の一つとなっております。
前述のとおり、石巻は北上川の河口であるのと同時に、迫川の河口でもありました。迫川の上流には栗原郡――現栗原市――があるわけですが、そのあたりにはかつて大和朝廷前線基地である伊治(いじ・これはり・これはる)城がありました。この伊治城を何と読むのかは識者の間でも諸説あるようです。有力なのはコレハルあるいはコレハリで、それがクリハラの語源――あるいはその逆でクリハラが語源――と考えられておりますが、付近に伊豆沼(いずぬま)という湖沼があることから、イジ――伊豆から派生――も未だ十分に有力なのです。
さて、川の河口の名称は上流の地名にあやかることが多いと言いますし、迫川も上流部において伊治川――伊豆川――と呼ばれていたようでもあるので、つまり石巻にあるその河口も伊治の水門と呼ばれたのでしょう。
石巻の「イシ」の語源はそのあたりで間違いないのでしょうが、それでは「マキ」は一体何に由来するのでしょう。
このエリアで奥州三観音の一つがあるとされる「牧山(まぎやま)」は、一説には「魔鬼山」であるとも言われております。そもそもmakiyamaと呼ばずmagiyamaと濁っているところに、ヤマト言葉以前からのなんらかの意味があったと考えるべきでしょう。
もちろんそれは当地の訛りと言えば訛りなのですが、それが標準語に変質させられることもなく、あくまでkiではなくgiと濁った状態がそのまま維持されているところになにか強いこだわりのようなものを感じざるを得ません。
『石巻市史』には、この牧山にある「梅溪寺」の縁起として次のように書いてあります。
――引用――
市の東部海抜二五〇米の牧山頂眺望絶佳、幽邃の地にあり、延略(ママ)の昔坂上田村麿が夷賊征服後東奥鎮護のため、陣中護持の聖観音を祀った霊場にして、山中に田村麿将軍一
千年供養塔がある。観音は奥州三観音の一といわれ、三十三礼所巡礼第八番に、たのめただ湊の船に法のみち大悲のみたねここにまき山。弘仁七年、聖観音を本尊として、天台宗梅谷寺を建立、魔鬼山を牧山と改称した。~以下省略~
つまり、牧山は弘仁七年以前やはり魔鬼山と呼ばれていたようです。ここに出てくる「延鎮」とはおそらく田村麻呂の崇敬が厚かった京都清水寺の開祖と言われる法相の高僧「延鎮」のことと思われるので、天台の高僧というのは誤りでしょう。
それはともかく、賊首の妻「魔鬼女」が気になります。この地はこの魔鬼女を供養する霊地だというのです。おそらくマギと呼ばれる一族がこの地にはいたのでしょう。そして例によって夷賊につけられる鬼の称号をここでも当て字されているようです。それにしても魔鬼とはなんともおどろおどろしい漢字を当てはめたものです。
石巻の地名由来はもしかしたら「伊治の魔鬼」から始まっているのではないでしょうか。」
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/23593999.html
第8番札所梅渓寺は曹洞宗のお寺で聖観世音菩薩が祀られています。神社奥の輪塔を囲んであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「旅立ち行かれよ。古きを捨て、軽きと成られて舞い上がり、大空駆けて遥かなる道へ。
おれ~、ら~・・。(拍手)あ~。」10:02
多くの御魂が過去を思い、怨念を捨て軽くなり浄化、昇天して行ったようです。ありがたき、嬉しきことです。
牧山観音についても以下の記載を一部割愛して紹介します。
「この都市の繁栄の歴史については、東北地方第一の大河“「北上川」の河口”という地勢を無視しては語れません。江戸時代以前の北上川のメインルートは、岩手県から南下して宮城県に入ってしばらくすると、桃生郡を大きく迂回して石巻へ向かわず大きく左折して三陸の荒海へと注ぎ出るものでした。
厳密に言えばかつての登米(とめ)から桃生(ものう)あたりの平野部は、栗原(くりはら)方面から流れてくる迫川(はさまがわ)などで入り乱れ湿地帯の様相を呈していたようで、大雨が降ろうものならば一気に湖が出来あがるようなありさまだったと思われます。
現在のようにある程度この河口はどこそこの川であると言えるようになったのは、やはり独眼竜伊達政宗の功績なのです。領土拡大路線の野心を捨て去った後の政宗は、自領内の経済力を高めるべく、新田開拓と奥州米の流通に力を注ぎました。その結果領土を拡大せずとも62万石の領国で100万石以上の米を生み出すにまで至ったわけですが、その際に必ず乗り越えなければならなかったのが流路の入り乱れるそれらの大河の制御でした。
政宗は、関ヶ原の負け大将「毛利輝元(もうりてるもと)」の家臣「川村孫兵衛重吉(かわむらまごべえしげよし)」が浪人の身に甘んじているのを、これ幸いとばかりに伊達の家臣として召抱えました。このあたり、政宗の人物眼は素晴らしいものであったと驚かされます。
天下の趨勢が定まってからの仙台藩は、職を失った武闘派の再就職先として荒れ地開拓を奨励していたようです。未開の荒れ地を開拓すれば、それが自領になるというのですから誰しもが必死で開拓したことでしょう。そのような中で孫兵衛が携わったのはどちらかと言えば公共事業的な河川流路の大改修でした。孫兵衛は眠れる才能をフルに発揮し、現代にまで残るような河川の流路形態の基礎を築きあげました。このとき、大河北上川の河口港は石巻と定まりました。この河口港は、政宗の一大経済政策である“買米”を生きたものにするための最重要拠点となり、結局は北上川ばかりか、貞山運河などの利用によって、もうひとつの大河阿武隈川(あぶくまがわ)とを連絡させ、仙台藩のみならず隣接藩の収穫物をも大都市“江戸”に出荷するネットワークが機能し始めていたのです。
ところで、このイシノマキという地名にはいろいろ想像させられます。
『日本書紀』に仁徳天皇55年に蝦夷(えみし)が叛いたという記事があります。その際天皇は上毛野田道将軍を遣わして討たせようとしたのですが、逆に反撃にあい田道は「伊峙の水門(いじのみなと)」で戦死してしまいます。石巻はその伊峙の水門の推定地の一つとなっております。
前述のとおり、石巻は北上川の河口であるのと同時に、迫川の河口でもありました。迫川の上流には栗原郡――現栗原市――があるわけですが、そのあたりにはかつて大和朝廷前線基地である伊治(いじ・これはり・これはる)城がありました。この伊治城を何と読むのかは識者の間でも諸説あるようです。有力なのはコレハルあるいはコレハリで、それがクリハラの語源――あるいはその逆でクリハラが語源――と考えられておりますが、付近に伊豆沼(いずぬま)という湖沼があることから、イジ――伊豆から派生――も未だ十分に有力なのです。
さて、川の河口の名称は上流の地名にあやかることが多いと言いますし、迫川も上流部において伊治川――伊豆川――と呼ばれていたようでもあるので、つまり石巻にあるその河口も伊治の水門と呼ばれたのでしょう。
石巻の「イシ」の語源はそのあたりで間違いないのでしょうが、それでは「マキ」は一体何に由来するのでしょう。
このエリアで奥州三観音の一つがあるとされる「牧山(まぎやま)」は、一説には「魔鬼山」であるとも言われております。そもそもmakiyamaと呼ばずmagiyamaと濁っているところに、ヤマト言葉以前からのなんらかの意味があったと考えるべきでしょう。
もちろんそれは当地の訛りと言えば訛りなのですが、それが標準語に変質させられることもなく、あくまでkiではなくgiと濁った状態がそのまま維持されているところになにか強いこだわりのようなものを感じざるを得ません。
『石巻市史』には、この牧山にある「梅溪寺」の縁起として次のように書いてあります。
――引用――
市の東部海抜二五〇米の牧山頂眺望絶佳、幽邃の地にあり、延略(ママ)の昔坂上田村麿が夷賊征服後東奥鎮護のため、陣中護持の聖観音を祀った霊場にして、山中に田村麿将軍一
千年供養塔がある。観音は奥州三観音の一といわれ、三十三礼所巡礼第八番に、たのめただ湊の船に法のみち大悲のみたねここにまき山。弘仁七年、聖観音を本尊として、天台宗梅谷寺を建立、魔鬼山を牧山と改称した。~以下省略~
つまり、牧山は弘仁七年以前やはり魔鬼山と呼ばれていたようです。ここに出てくる「延鎮」とはおそらく田村麻呂の崇敬が厚かった京都清水寺の開祖と言われる法相の高僧「延鎮」のことと思われるので、天台の高僧というのは誤りでしょう。
それはともかく、賊首の妻「魔鬼女」が気になります。この地はこの魔鬼女を供養する霊地だというのです。おそらくマギと呼ばれる一族がこの地にはいたのでしょう。そして例によって夷賊につけられる鬼の称号をここでも当て字されているようです。それにしても魔鬼とはなんともおどろおどろしい漢字を当てはめたものです。
石巻の地名由来はもしかしたら「伊治の魔鬼」から始まっているのではないでしょうか。」
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/23593999.html
第8番札所梅渓寺は曹洞宗のお寺で聖観世音菩薩が祀られています。神社奥の輪塔を囲んであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「旅立ち行かれよ。古きを捨て、軽きと成られて舞い上がり、大空駆けて遥かなる道へ。
おれ~、ら~・・。(拍手)あ~。」10:02
588「観音6」2016.3.16
3月6日、33観音巡りの2日目の朝を迎えました。曇りで部屋からの松島の景色も重く雲に覆われています。6時からの露天風呂は格別です。皆さんもすっきりとして朝食会場に勢ぞろいです。美味しく頂き8時の出発まで寛ぎタイム。中山さんは昨晩の皆さんへのお言葉を清書してくださるとのことで、ありがたいことです。
今日の巡りの初めは33観音の中でも奥州3観音と言われる富山観音、牧山観音、箆岳観音を午前中に巡ります。午後からは奥州7観音といわれる午前の3観音の残りの4観音の、清水寺、長谷寺、華足寺、大勝寺、その他を巡りますので33観音の中でも重要視される観音巡りになります。
奥州3観音は坂上田村麻呂に所縁のところで、征服した蝦夷の遺体を埋めた地で鎮魂、封印されて観音様をお祀りした、と言われています。
最初に松島町にある第7番札所大仰寺の富山観音です。富山の山頂にあり、臨済宗のお寺で 千手観世音菩薩がお祀りされています。富山は標高116mほどの松島湾の北に位置する山でその眺望は素晴らしく、松島四大観として有名です。しかし今日は生憎の曇りで全くその天下の絶景を見る事はできません。
ここは伊達様と所縁が深く興味深い歴史があります。以下にその内容を引用します。
「山頂の観音堂は坂上田村麻呂が大同年間に慈覚大師円仁作の観音を安置したものというのですが、はて、私の頭の中の年表に基づくならば田村麻呂と円仁が同時代にこの地を舞台にしていたと考えるにはかなりのギャップがあります。
田村麻呂がアテルイやモレを降伏させたのは延暦21年(801)であり、伝承にある大同年間とは西暦でいうところの806年から810年までの年号です。この頃は、慈覚大師円仁などまだ歴史の表舞台には存在せず、むしろその師である伝教大師最澄や、そのライバル弘法大師空海が帰朝していよいよ平安仏教旋風を巻き起こし始めた時代です。円仁が入唐して密教を究めて帰朝したのは承和14年(847)のことですから、富山観音が田村麻呂によって安置されたものと信じるならば、円仁の作であるというセンはほぼあり得ないと断定してよさそうです。
あるいは田村麻呂が安置したという伝承が偽りなのでしょうか。しかし私は田村麻呂については少なくともなんらかの真実があったのではないか、と考えております。
それは、現存するこの観音堂は伊達政宗の長女である「五郎八(いろは)姫」、すなわち天麟院が山口重如なる人物に命じて修理させたものである、と夢庵の『松島記』にあり、しかもその天麟院が並々ならぬ思いで取り組んでいたフシがあるからです。
天麟院の命令で山口重如が観音堂の修理にとりかかる際、周囲には大木が多かったようです。これではせっかくの眺望を妨げるという理由で、重如はそれを伐採しようとしたのだそうです。
このとき天麟院は厳しくさとしました。伐採を決して許さなかったのです。なにやら天麟院のこの観音堂にかける強い思いが伝わってまいります。
それが何故田村麻呂の信憑性につながるかというと、天麟院の母親、すなわち政宗の正室である愛姫(めごひめ)が三春――現福島県――の田村家の女であり、三春田村家とは代々坂上田村麻呂を始祖と仰ぐ一族であり、それを信じるなら天麟院は田村麻呂の裔孫ということになり、それ故にこの観音堂にかける思いが強かったのではないか、と考えることも出来ると思うからです。
ちなみに、天麟院すなわち五郎八姫といえば、政宗の最後の野心の切り札でもありました。
彼女は、徳川家康の6男松平忠輝に嫁いでおりましたが、やがて大坂の陣で豊臣家が滅びて以降、事実上抜きんでた実力者となってしまった政宗が、舅として徳川家の執権と化す可能性を徳川家は恐れたのでしょうか、忠輝は改易され、五郎八姫も離縁され政宗のもとに返されました。
そもそも、大名同士の婚姻を禁止した豊臣秀吉の御法度を破ってまで実現された徳川家康の息子と伊達政宗の娘の政略結婚でありましたが、五郎八姫はそれでも忠輝を愛してやまなかったようで、出戻りとなった以降も新たに夫を持つことはなく、天麟院と名乗る尼として生涯を閉じました。
富山にはこの天麟院の逸話以外にも、かつてはやはり霊地としてそれなりに一級品であったことを思わせる話があります。
『松島町誌』によれば、寛文年中山頂すぐ下の「富春山 大仰寺」という寺に、瑞巌寺の僧「洞水」が十年不帰の誓いを立ててひそかに入山していたのだそうです。
松島湾においてそのような行に最もふさわしい霊地といえば、真っ先に思い浮かぶのは雄島である気もするのですが、とにかく、この洞水という僧は何故か富山を選択しました。
「“ひそかに”入山した」と伝わっている部分が気になっておりますが、残念ながらそれ以上の情報は得ておりませんのでなんとも言えません。
いずれ、それが秘されなければならない理由が、入山そのものにあるのか、それとも富山という場所にあるのかはとても気なっております。お気付きのとおり、なにしろこの山の名前は“トミ”ヤマなのです。
さて、その大仰寺には、明治天皇や大正天皇が東北地方を御巡幸されたときにご休憩所とされた「紫雲閣」があります。陛下ははたしてどのような基準で立ち寄り地を選定されていたのでしょうか。
おそらく単なる偶然なのでしょうが、天皇陛下が立ち寄られたという場所には往々にして私の好奇心を刺激するキーワードが多いのも事実です。
ところで、奥州三観音全てに言えることなのですが、これらの地には各々エミシの酋長の首を埋めたものというような伝承があります。
ちなみに富山の場合、大竹丸――大嶽丸――という酋長の首を埋めたところとも伝えられております。」
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/23450323.html
観音堂の前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「さあ、さあ皆々様方、参りましょうぞ。これより始まる極楽浄土。
皆々、その身の中へと作り、しっかり頂て、変わらずに、大きなる峠を越し行きて、開けば晴れて、真のあなた様、嬉しき、嬉しき、嬉しきなり。いざ、いざ参りましょう。」8:55
富山を下り石巻市の牧山に向かいます。その車中に以下のお言葉がありました。
「必ず、必ず、きっと、きっと、この身と共々参りて致すは、大いなる真の伝えなり。
響きたるこの身は、本日、新たなるを出だして参る。
新たなると成りたれば、ゆるゆる、晴れるや。」9:14
お言葉によると今日、新たなるを出だすとあり、新たになればゆるゆる晴れるとあります。
果たした如何成るのでしょうか。楽しみに車を進めました。
今日の巡りの初めは33観音の中でも奥州3観音と言われる富山観音、牧山観音、箆岳観音を午前中に巡ります。午後からは奥州7観音といわれる午前の3観音の残りの4観音の、清水寺、長谷寺、華足寺、大勝寺、その他を巡りますので33観音の中でも重要視される観音巡りになります。
奥州3観音は坂上田村麻呂に所縁のところで、征服した蝦夷の遺体を埋めた地で鎮魂、封印されて観音様をお祀りした、と言われています。
最初に松島町にある第7番札所大仰寺の富山観音です。富山の山頂にあり、臨済宗のお寺で 千手観世音菩薩がお祀りされています。富山は標高116mほどの松島湾の北に位置する山でその眺望は素晴らしく、松島四大観として有名です。しかし今日は生憎の曇りで全くその天下の絶景を見る事はできません。
ここは伊達様と所縁が深く興味深い歴史があります。以下にその内容を引用します。
「山頂の観音堂は坂上田村麻呂が大同年間に慈覚大師円仁作の観音を安置したものというのですが、はて、私の頭の中の年表に基づくならば田村麻呂と円仁が同時代にこの地を舞台にしていたと考えるにはかなりのギャップがあります。
田村麻呂がアテルイやモレを降伏させたのは延暦21年(801)であり、伝承にある大同年間とは西暦でいうところの806年から810年までの年号です。この頃は、慈覚大師円仁などまだ歴史の表舞台には存在せず、むしろその師である伝教大師最澄や、そのライバル弘法大師空海が帰朝していよいよ平安仏教旋風を巻き起こし始めた時代です。円仁が入唐して密教を究めて帰朝したのは承和14年(847)のことですから、富山観音が田村麻呂によって安置されたものと信じるならば、円仁の作であるというセンはほぼあり得ないと断定してよさそうです。
あるいは田村麻呂が安置したという伝承が偽りなのでしょうか。しかし私は田村麻呂については少なくともなんらかの真実があったのではないか、と考えております。
それは、現存するこの観音堂は伊達政宗の長女である「五郎八(いろは)姫」、すなわち天麟院が山口重如なる人物に命じて修理させたものである、と夢庵の『松島記』にあり、しかもその天麟院が並々ならぬ思いで取り組んでいたフシがあるからです。
天麟院の命令で山口重如が観音堂の修理にとりかかる際、周囲には大木が多かったようです。これではせっかくの眺望を妨げるという理由で、重如はそれを伐採しようとしたのだそうです。
このとき天麟院は厳しくさとしました。伐採を決して許さなかったのです。なにやら天麟院のこの観音堂にかける強い思いが伝わってまいります。
それが何故田村麻呂の信憑性につながるかというと、天麟院の母親、すなわち政宗の正室である愛姫(めごひめ)が三春――現福島県――の田村家の女であり、三春田村家とは代々坂上田村麻呂を始祖と仰ぐ一族であり、それを信じるなら天麟院は田村麻呂の裔孫ということになり、それ故にこの観音堂にかける思いが強かったのではないか、と考えることも出来ると思うからです。
ちなみに、天麟院すなわち五郎八姫といえば、政宗の最後の野心の切り札でもありました。
彼女は、徳川家康の6男松平忠輝に嫁いでおりましたが、やがて大坂の陣で豊臣家が滅びて以降、事実上抜きんでた実力者となってしまった政宗が、舅として徳川家の執権と化す可能性を徳川家は恐れたのでしょうか、忠輝は改易され、五郎八姫も離縁され政宗のもとに返されました。
そもそも、大名同士の婚姻を禁止した豊臣秀吉の御法度を破ってまで実現された徳川家康の息子と伊達政宗の娘の政略結婚でありましたが、五郎八姫はそれでも忠輝を愛してやまなかったようで、出戻りとなった以降も新たに夫を持つことはなく、天麟院と名乗る尼として生涯を閉じました。
富山にはこの天麟院の逸話以外にも、かつてはやはり霊地としてそれなりに一級品であったことを思わせる話があります。
『松島町誌』によれば、寛文年中山頂すぐ下の「富春山 大仰寺」という寺に、瑞巌寺の僧「洞水」が十年不帰の誓いを立ててひそかに入山していたのだそうです。
松島湾においてそのような行に最もふさわしい霊地といえば、真っ先に思い浮かぶのは雄島である気もするのですが、とにかく、この洞水という僧は何故か富山を選択しました。
「“ひそかに”入山した」と伝わっている部分が気になっておりますが、残念ながらそれ以上の情報は得ておりませんのでなんとも言えません。
いずれ、それが秘されなければならない理由が、入山そのものにあるのか、それとも富山という場所にあるのかはとても気なっております。お気付きのとおり、なにしろこの山の名前は“トミ”ヤマなのです。
さて、その大仰寺には、明治天皇や大正天皇が東北地方を御巡幸されたときにご休憩所とされた「紫雲閣」があります。陛下ははたしてどのような基準で立ち寄り地を選定されていたのでしょうか。
おそらく単なる偶然なのでしょうが、天皇陛下が立ち寄られたという場所には往々にして私の好奇心を刺激するキーワードが多いのも事実です。
ところで、奥州三観音全てに言えることなのですが、これらの地には各々エミシの酋長の首を埋めたものというような伝承があります。
ちなみに富山の場合、大竹丸――大嶽丸――という酋長の首を埋めたところとも伝えられております。」
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/23450323.html
観音堂の前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「さあ、さあ皆々様方、参りましょうぞ。これより始まる極楽浄土。
皆々、その身の中へと作り、しっかり頂て、変わらずに、大きなる峠を越し行きて、開けば晴れて、真のあなた様、嬉しき、嬉しき、嬉しきなり。いざ、いざ参りましょう。」8:55
富山を下り石巻市の牧山に向かいます。その車中に以下のお言葉がありました。
「必ず、必ず、きっと、きっと、この身と共々参りて致すは、大いなる真の伝えなり。
響きたるこの身は、本日、新たなるを出だして参る。
新たなると成りたれば、ゆるゆる、晴れるや。」9:14
お言葉によると今日、新たなるを出だすとあり、新たになればゆるゆる晴れるとあります。
果たした如何成るのでしょうか。楽しみに車を進めました。
2016年3月13日日曜日
587「観音5」2016.3.13
宿は五大堂から5分程で、松島海岸の福浦島を目の前に見る高台にあり、素晴らしいロケーションです。温泉も心地良く、露天風呂でも松島湾を見ながら話が弾んで長湯を楽しみました。
海の幸に舌鼓を打ち、お酒も美味しく頂きました。
2次会は全員集合で、皆さんで歓談してお酒も飲み、程良く打ち解けた後、中山さんの特別配慮で質問コーナーにして下さいました。一人一人中山さんと向き合って、質問のある方は質問に御答え下さり、お任せの方は座ると中山さんから必要なお言葉を拝受いただける流れです。
内容が凄く濃く、お言葉に皆さん深く納得していました。皆さんの内容を共にシェアしながら己を頂ける貴重な気付きの機会です。何人かの方のお言葉を紹介します。
・Iさん:「私が無いは、ここに無し。何も無し。現われると思うは私有り。無しは無し。無しから有りを見る面白さ。有りから無しは楽しみが無し。どれを取ってもあなたの自由。大いに、行きつ、戻りつ楽しみなされ。」
・Yさん:「それを知り行く真の思いは何ですか。この音の元を知りて、あなたが何を定めますか。例えば、この地で伝われる地獄の音と知りたれば、あなたは如何が致すや。困りて、揺れて、暫しの不安が起こります。それは嬉しき事成る哉。しっかりと立つ為に、今の事を覚えて下され。」
・Oさん:「あなたが思う時は、短きを望むか、長いを望むか、その身の思い次第。定めておれば、如何様にも成ります。瞬時に変わるが、この地に起こり来ること、ただただ待ちたれば、何万年も変わらず。定めたる思い強ければ、現わるること早き。但し、その時、その身はその事、全て委ねよ。あわ歌は何も無し故、全てあり。あなた様の思いの中ぞ。ただただ申すはこの事なり。現われ出でるは、あなたの思い。」
・Wさん:「鶴が飛び行く。その地より参りたそなたのその地へ参る。北の大きな島に向かうはあなたの大きなる仕事ぞ。鶴は晴れやかに、開きて、北を向かえ、ひとつと成すが、嬉しきぞ。続けなされよ、今よりも。」
・Kさん:「離れ行く大いなるこの身を伝え行く故、あなたが定めませ。
離れ来るこの身は大いなる過ち為し来たりた。光の術を如何に人に伝え、ここに新たなる人、作り行くかを疎かに致したり。思い出でたる小手先に走り、その為の事ごとを皆々にさせ来るは過ちを大きく致したり。この事、我はこの地にて、気付かざりし。
あなた様にはこれを知りたる上で判断なさりませ。」
・Tさん:「この身が永きにわたりて申し来るは、古きは流して、消し去り、忘れ、一切無しで、区別、差別無し。新しき、嬉しきの全き新しきへ参る想い、定めたれば、全ては預かり、共々参る。」
最後に私がお任せで拝受を頂きましたが、その時のお言葉です。
「さても嬉しき事なるなり。愛する大きなるは、如何なるやをその身に据え行き、奥深く拡げ行き、伝えて参るは嬉しきなり。」
そして全員が終わって全体へのお言葉です。
「この地にありて思う事、紐解き、明らかに成し行く。
今迄は、それぞれ激しき動きの事ぞ。その時々の思いを写すもの変わらず。
ひたすらを知りて、戻りて、成し行くが大事なり。
これより参るこの地には、随所に大きな壁があり、越え行く方々、皆々定めなり。
本に大きな事成れど、この地を守る事と知り、越え行き、遥かな道、開かれませ。
この2つ有りて揃えば、大きなる事ごと整いて、順次進みて心配無し。
まずもって、この身を頂く方々にあり。ひたすらお頼み申すなり。」
ありがたき時間を中山さんから頂き幸運なことでした。気付き得て、更なる己が本分、お役を果たさせ頂く自覚が果たして如何ほどか各自が問われる道です。午前を向かえ安らかな眠りに就きました。
海の幸に舌鼓を打ち、お酒も美味しく頂きました。
2次会は全員集合で、皆さんで歓談してお酒も飲み、程良く打ち解けた後、中山さんの特別配慮で質問コーナーにして下さいました。一人一人中山さんと向き合って、質問のある方は質問に御答え下さり、お任せの方は座ると中山さんから必要なお言葉を拝受いただける流れです。
内容が凄く濃く、お言葉に皆さん深く納得していました。皆さんの内容を共にシェアしながら己を頂ける貴重な気付きの機会です。何人かの方のお言葉を紹介します。
・Iさん:「私が無いは、ここに無し。何も無し。現われると思うは私有り。無しは無し。無しから有りを見る面白さ。有りから無しは楽しみが無し。どれを取ってもあなたの自由。大いに、行きつ、戻りつ楽しみなされ。」
・Yさん:「それを知り行く真の思いは何ですか。この音の元を知りて、あなたが何を定めますか。例えば、この地で伝われる地獄の音と知りたれば、あなたは如何が致すや。困りて、揺れて、暫しの不安が起こります。それは嬉しき事成る哉。しっかりと立つ為に、今の事を覚えて下され。」
・Oさん:「あなたが思う時は、短きを望むか、長いを望むか、その身の思い次第。定めておれば、如何様にも成ります。瞬時に変わるが、この地に起こり来ること、ただただ待ちたれば、何万年も変わらず。定めたる思い強ければ、現わるること早き。但し、その時、その身はその事、全て委ねよ。あわ歌は何も無し故、全てあり。あなた様の思いの中ぞ。ただただ申すはこの事なり。現われ出でるは、あなたの思い。」
・Wさん:「鶴が飛び行く。その地より参りたそなたのその地へ参る。北の大きな島に向かうはあなたの大きなる仕事ぞ。鶴は晴れやかに、開きて、北を向かえ、ひとつと成すが、嬉しきぞ。続けなされよ、今よりも。」
・Kさん:「離れ行く大いなるこの身を伝え行く故、あなたが定めませ。
離れ来るこの身は大いなる過ち為し来たりた。光の術を如何に人に伝え、ここに新たなる人、作り行くかを疎かに致したり。思い出でたる小手先に走り、その為の事ごとを皆々にさせ来るは過ちを大きく致したり。この事、我はこの地にて、気付かざりし。
あなた様にはこれを知りたる上で判断なさりませ。」
・Tさん:「この身が永きにわたりて申し来るは、古きは流して、消し去り、忘れ、一切無しで、区別、差別無し。新しき、嬉しきの全き新しきへ参る想い、定めたれば、全ては預かり、共々参る。」
最後に私がお任せで拝受を頂きましたが、その時のお言葉です。
「さても嬉しき事なるなり。愛する大きなるは、如何なるやをその身に据え行き、奥深く拡げ行き、伝えて参るは嬉しきなり。」
そして全員が終わって全体へのお言葉です。
「この地にありて思う事、紐解き、明らかに成し行く。
今迄は、それぞれ激しき動きの事ぞ。その時々の思いを写すもの変わらず。
ひたすらを知りて、戻りて、成し行くが大事なり。
これより参るこの地には、随所に大きな壁があり、越え行く方々、皆々定めなり。
本に大きな事成れど、この地を守る事と知り、越え行き、遥かな道、開かれませ。
この2つ有りて揃えば、大きなる事ごと整いて、順次進みて心配無し。
まずもって、この身を頂く方々にあり。ひたすらお頼み申すなり。」
ありがたき時間を中山さんから頂き幸運なことでした。気付き得て、更なる己が本分、お役を果たさせ頂く自覚が果たして如何ほどか各自が問われる道です。午前を向かえ安らかな眠りに就きました。
586「観音4」2016.3.12
第11番札所天王寺は福島市飯坂町にある臨済宗のお寺で、聖観世音菩薩をお祀りしています。観音堂であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「かく申す、この身、大いなるあわ歌持ち来たりたり。
ここに皆々共、響き、光を送りました。
大いなる皆、ここにて亡くなりて、この場、離れず、ただただ守らんと致す方々。
これよりは大きな、元なる光降り来て、全てを受けて参る故、この時、ここ離れ、大きなる広きへ参りませ。歌は大きく成り響き、この地を包む光と共に参られよ。」15:18
特別霊場3の医王寺は同じ飯坂町で5分程の近くです。特別霊場で特に観音菩薩をお祀りしているのでは無いのですが、由緒ある真言宗の大きなお寺です。
お寺は826年に開基され、本堂には大日如来がお祀りされています。しかし奥の院薬師堂には弘法大師御作の薬師如来をお祀りして、鯖野のお役師様と呼ばれて親しまれています。
「薬師如来は別名を大医王仏と呼ばれ、身体の病を癒し、心の無明の世界から衆生を救う御誓願を抱く仏様です。薬師如来のくすりに象徴されるものは、私達が生きるために、必要に応じてこの宇宙という根源から与えられる恵みの教えがあり、生きることの中に、他からの恵みによって生かされている自分が見えてくる。」とあります。
今回は瑠璃光殿の宝物殿の中の金の薬師如来像の前であわ歌を響かせました。室内ですのでその響きがより増して響き合い素晴らしい心地良さです。その時のお言葉です。
「あ~い~う~え~お~。
これより参り行きます。皆々様へと、新たなるを持ち行きて。ふあ~。」15:53
最後は言葉でない舌が絶妙な動きで音を発して続きます。
これで予定の1日目の観音巡りは終了です。16時ですのでこれから宿泊先の宮城県松島へは1時間ほどで到着できます。明日は15時に儀式が予定されていますので可能なら明日朝1番に巡る松島の第6番札所の瑞巌寺に参拝したい旨、提案させて頂きましたところ中山さんから快諾頂きました。瑞巌寺は17時には閉門してしまいます。歌う場所は瑞巌寺の五大堂と決めて、そこを目指して車を進めました。
瑞巌寺は臨済宗の名刹で聖観世音菩薩をお祀りしています。日本三景の松島の瑞巌寺、五大堂は観光名所で多くの参拝客で賑わいます。車は五大堂脇の駐車場に予定通り17時過ぎに到着です。五大堂に渡る橋は17時半で閉鎖されますので、滑り込みセーフです。夕暮れ時で訪れる方も少なく、あわ歌を響かせるには最適です。早々に円陣を成してあわ歌を響かせました。
歌い終わって頂いたお言葉です。
「海へ出ずるは、これより大きなる事ごとあり。
この地も含め、この列島の随所に沸き起こる事となる。
開き行く行く海の底。全てを出だす時至る。
皆々様のこの地を平安に思う力を大きく拡げませ。」17:27
歌っている時にお堂の辺りが明るく感じたので写真をとったのですが、曇り空なのに五大堂には光が注がれているのが分かります。これから海の底から出だされることは日本列島の随所に起きるとのことです。歌い終わって集合写真を撮って17時28分です。閉門丁度に出ることが出来ました。全ては丁度良く配剤して頂き、導き動かして下さっているようです。ありがたきことです。
「かく申す、この身、大いなるあわ歌持ち来たりたり。
ここに皆々共、響き、光を送りました。
大いなる皆、ここにて亡くなりて、この場、離れず、ただただ守らんと致す方々。
これよりは大きな、元なる光降り来て、全てを受けて参る故、この時、ここ離れ、大きなる広きへ参りませ。歌は大きく成り響き、この地を包む光と共に参られよ。」15:18
特別霊場3の医王寺は同じ飯坂町で5分程の近くです。特別霊場で特に観音菩薩をお祀りしているのでは無いのですが、由緒ある真言宗の大きなお寺です。
お寺は826年に開基され、本堂には大日如来がお祀りされています。しかし奥の院薬師堂には弘法大師御作の薬師如来をお祀りして、鯖野のお役師様と呼ばれて親しまれています。
「薬師如来は別名を大医王仏と呼ばれ、身体の病を癒し、心の無明の世界から衆生を救う御誓願を抱く仏様です。薬師如来のくすりに象徴されるものは、私達が生きるために、必要に応じてこの宇宙という根源から与えられる恵みの教えがあり、生きることの中に、他からの恵みによって生かされている自分が見えてくる。」とあります。
今回は瑠璃光殿の宝物殿の中の金の薬師如来像の前であわ歌を響かせました。室内ですのでその響きがより増して響き合い素晴らしい心地良さです。その時のお言葉です。
「あ~い~う~え~お~。
これより参り行きます。皆々様へと、新たなるを持ち行きて。ふあ~。」15:53
最後は言葉でない舌が絶妙な動きで音を発して続きます。
これで予定の1日目の観音巡りは終了です。16時ですのでこれから宿泊先の宮城県松島へは1時間ほどで到着できます。明日は15時に儀式が予定されていますので可能なら明日朝1番に巡る松島の第6番札所の瑞巌寺に参拝したい旨、提案させて頂きましたところ中山さんから快諾頂きました。瑞巌寺は17時には閉門してしまいます。歌う場所は瑞巌寺の五大堂と決めて、そこを目指して車を進めました。
瑞巌寺は臨済宗の名刹で聖観世音菩薩をお祀りしています。日本三景の松島の瑞巌寺、五大堂は観光名所で多くの参拝客で賑わいます。車は五大堂脇の駐車場に予定通り17時過ぎに到着です。五大堂に渡る橋は17時半で閉鎖されますので、滑り込みセーフです。夕暮れ時で訪れる方も少なく、あわ歌を響かせるには最適です。早々に円陣を成してあわ歌を響かせました。
歌い終わって頂いたお言葉です。
「海へ出ずるは、これより大きなる事ごとあり。
この地も含め、この列島の随所に沸き起こる事となる。
開き行く行く海の底。全てを出だす時至る。
皆々様のこの地を平安に思う力を大きく拡げませ。」17:27
歌っている時にお堂の辺りが明るく感じたので写真をとったのですが、曇り空なのに五大堂には光が注がれているのが分かります。これから海の底から出だされることは日本列島の随所に起きるとのことです。歌い終わって集合写真を撮って17時28分です。閉門丁度に出ることが出来ました。全ては丁度良く配剤して頂き、導き動かして下さっているようです。ありがたきことです。
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