2016年4月22日金曜日

600「菩薩4」2016,4,20

 2日目の朝も清清しく迎えることが出来ました。すべすべの心地良い温泉の朝風呂を満喫しました。そして7時には取れたて新鮮野菜のヘルシーな朝食を美味しく頂きました。

 いよいよ奥州33観音霊場巡りの最終日スタートです。宿を8時に出発しましたが、宿のおかみさんやスタッフの皆さんが見送りをして下さり、心温まるおもてなしを尽くして頂きありがたい限りです。又来たくなるお宿でした。

 始めに向かうのは平泉町にある特別霊場の開山中尊寺です。世界遺産に指定され有名な奥州藤原時代を代表する聖地です。宿からは10分位であっと言う間に中尊寺の裏の目指す駐車場に到着です。宿は中尊寺の裏座敷、隠れ家的なやすらぎの地でした。
 平泉の浄土思想について以下のように記されています。
「奥州藤原氏、初代藤原清衡の父は、前九年の役の最後の戦い、現盛岡市厨川柵の戦いで敗れて処刑された藤原経清です。藤原経清は官軍でしたが安倍一族、安倍頼良 貞任に味方し、官軍源頼義、義家と戦いました。前九年の役、後三年の役を通じ多くの戦死者を出し地獄を味わいました。清衡はこの戦死者の霊を慰め、且つ平和を願う心から中尊寺を再興し平泉の建設に着手しました。この理想の世界が極楽浄土世界の建設でした。
 清衡は豊富な産金、漆、馬を活用し、中央文化だけではなく、中国文化も取り入れ、平泉文化の礎を築きました。2代基衡は毛越寺、観自在王院の建立に着手し、3代秀衡は基衡の遺志を継いで毛越寺を完成し、さらに無量光院を建立しました。仏教思想の平和浄土のために建設されたのが平泉文化です。
 当時、平清盛は源氏討伐のために秀衡に軍を率いて上洛するように勧誘しましたが秀衡は平和主義者のためにこれに応じませんでした。しかし平和主義者秀衡も息子の泰衡の代に、国家統一主義者、源頼朝の大軍勢の前に敗れることになりました。ここに100年続いた栄華の奥州藤原氏は滅亡しました。時代は貴族の時代から武士の時代に大きく変化していきました。」

 藤原清衡が再興した中尊寺について「中尊寺建立供養願文」があります。その一部を紹介します。
「鐘の音は あらゆる世界に 分けへだてなく 響き渡り みな平等に苦しみを抜き去り 安楽を与える 攻めてきた官軍(都の軍隊)も守った蝦夷も 度重なる戦いで 命を落とした者は 古来幾多あったろうか いや みちのくおいては 人だけではなく けものや鳥や、魚、具も 昔も今もはかりしれないほど犠牲になっている 霊魂は皆 次の世の別な世界に移り去ったが 朽ちた骨は塵となって 今なおこの世に憾みを遺している 鐘の音が大地を動かす毎に 罪なく犠牲になった霊が 安らかな浄土に導かれますように」
 奥州に浄土を願ったその意図が読み解けます。しかしその浄土の世界も100年で潰えてしまいます。

 朝のお寺の境内は清掃作業がなされていて、作務の方々の挨拶が気持ち良いです。参拝客はほとんどいなくて独占状態です。本殿からお参りしました。中尊寺は天台宗のお寺で阿弥陀如来がご本尊です。沢山のお堂が祀られてあり、金色堂を過ぎて奥の白山神社であわ歌を歌うことにしました。






 かたくりの花が綺麗に咲いていて、見晴らしの良い、神社の裏手に丘の上で、皆さんで円をなして響かせました。その時のお言葉です。

「思いの丈をしっかり強く、定めて、響きて、ひとつと成せば、皆々様には備わった大いなるがありて、この地と共に進み行く。晴れて素晴らしき日を向かえましょう。」8:59





 次も平泉町にある特別霊場の毛越寺です。中尊寺と同じく天台宗でご本尊は薬師如来です。毛越寺には白鹿伝説があります。
「寺伝によると嘉祥3年(850)慈覚大師(じかくだいし)が東北巡遊の折、この地にさしかかると一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなりました。
 ふと足元を見ると地面に白鹿の毛が点々と落ちているので、大師は不思議に思いその毛を辿ってゆくと、前方に白鹿がうずくまっていました。大師が近づくと白鹿の姿は霧のなかへ消え、やがてどこからともなく一人の白髪の老人が現れ、「この地は霊地であるから堂宇を建立するなら仏法が広まるであろう」と告げました。
 大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し嘉祥寺(かしょうじ)と名付けました。これは毛越寺の開山にまつわる話です。」
 建立については以下です。
「毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。
 平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。」
 



桜が咲き、美しい回遊式の見事な浄土庭園です。中心は大泉が池でそこを1周しました。あわ歌を響かせたのは巨大な礎石が完存する白鹿伝説の嘉祥寺跡です。そこでのお言葉です。
「すだく多くのものを鎮めて、是より新たなるへ向かうは、遥かなる響きをおいて他に無し。争い鎮め、この地を鎮め、宇宙を鎮めて参る故、皆々それぞれ、その身を鎮めて参られませ。」9:44


2016年4月17日日曜日

599「菩薩3」2016,4,16

 次は一関市花泉から気仙沼市に向かいます。暫くは北上川の川岸を車は進みますが、その豊かな河のエネルギーがこの奥州を実らせた大元の一つです。気仙沼市内に入り昼食をいただきました。気仙沼は漁港として海の幸の宝庫です。豪華な海鮮丼を美味しく頂きました。お店は先の東日本大震災の津波の被害を受け、ほぼ1階が水没したようですが綺麗に復活を遂げていました。人の思い、力は素晴らしいです。

 第三十番札所補陀寺は気仙沼駅の直ぐ裏、山手にあります。曹洞宗の古刹で素晴らしい樅(もみ)の巨木が直ぐに目に入ります。

以下の表記があります。
「寺伝によると補陀寺の開山は寛永2年(890)。元は、天台宗柏華山補陀落寺と称し隆盛を極めたが、平泉の藤原氏の滅亡と共に衰退した。後に、宝亀寺6世周庵文懊和尚が天文3年(1534)再興、曹洞宗補陀寺と号し、中興開山しました。
 平安末期、保安4年(1123)に名取熊野神社を勧請してと伝えられる伝承上の人物名取老女が奥州を巡礼して、創建した三十三箇所の観音堂のひとつといういわれがある。
 平面は珍しい六角形で、一辺の長さ2.47m、屋根は六角錐体、赤瓦葺、内外部朱塗で板天井に墨絵をえがく。堂内の須弥壇上に入母屋造りで、千鳥破風、軒唐破風をつけたこけら葺きの家形逗子がある。 宝暦12年(1762)制作、享和2年(1802)に修理したとの文書がある。気仙大工の作。観音堂の本尊は如意輪観世音菩薩です。恵心僧都の作と伝えられる。」

 如意輪観世音菩薩が祀られる六角堂前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「あ、は、い、お、え、は、あ~。
 捧げて参りた是までは、新たに向かう皆々のものと成り行く。
 その時はそれぞれの思い、真を外せばたちまち無しと成り行くを、しっかりとその身に収めて参りませ。この大きなる時、大切に。」14:02
「その時はそれぞれの思い、真を外せばたちまち無しと成り行く」との厳しきお言葉です。
 次は陸前高田市にある第二十九番札所普門寺です。陸前高田市は津波の被害でほぼ市街地全域が消えてしまいました。震災から5年経つ今も護岸、造成工事が進められています。

その殺伐とした工事の現場を通り過ぎ山手にある曹洞宗の大きなお寺に着きました。まず参道の巨木の杉並木に目を見張ります。



 広大な敷地の奥に観音堂があり、聖観世音菩薩がお祀りされています。観音堂の右脇には三重塔があります。文化6年(1809)岩手県内唯一の塔婆建築の三重塔が建立されたもので、地上より12.5mの高さ、気仙大工の粋を集めたものです。
更に左脇には大仏様があります。享保3年(1718)唐金の大仏建立。高さ5mあり、この時代で、青銅製のこの大きさのものは東北では稀有のものです。
観音堂前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「思い起こされませ。
 この地の大きなる災害を、皆々只ただ悲しみておらるるが、大きなるこの地球の流れを変え来るは、如何なるもの、如何なること、如何なる思いなり哉。
 皆々我良し、振りかざし、この地に向かいた大きな過ちあり。その事知らせて新たなるへ向かう為のこと。
 ここに皆の思い、真を現し、世界に知らしめねば大きなるを又また受ける。急ぎて下され、この響きにて暫しの時を保ち行きて、新しきへ皆々で向かいましょう。」14:59

 お言葉の中に「ここに皆の思い、真を現し、世界に知らしめねば大きなるを又また受ける。急ぎて下され」とあります。ここも厳しいお言葉です。
 このお寺には大震災の慰霊の為に以下のものが祀られています。
「境内、本堂前に五百羅漢があります。これは「未来への記憶プロジェクト」の一環で、被災者を中心とした参加者たちが、彫刻家の指導を受けながら自ら石を彫った羅漢様です。」「安置されている仏像は震災直後、百日目に奉納された千体物、①京都の大文字焼きに送られた高田松原の松が諸事情で230体の仏様に変わり、②それから京都静原小学校の児童の作った焼き物の80体、③中心には松原の松で造られたお地蔵さん2体。」
 私達があわ歌を響かせている時に、女子高生の課外研修でしょうか大勢の方が境内の見学をしていました。

 次は大船渡市の第二十八番札所大善院蛸浦観音です。尾崎半島の付け根にあり、漁港の水産加工場の脇を通って海岸沿いに進むと尾崎神社があります。海岸直ぐの鳥居を登った先に尾崎神社があり、千手観世音菩薩をお祀りする観音堂は神社の右側にあります。


まず尾崎神社の謂れは以下です。
「尾崎神社の草創は延暦2年(783)。養和元年(1181)に鎮守府将軍藤原秀衡より社領2百石を賜り、天正18年(1590)に領主葛西氏が滅びるまで続きました。
 伊達政宗以来代々藩主巡国の際奉幣され、明治維新後に郷社に列し、さらに明治7年(1874)に村社に列しました。」
 この地に観音堂を設置した謂れは以下のようです。
「名取老女旭が奥州に三十三所の札所を設定する旅の途中、この山に祀られた尾崎神社の霊気を感得し、28番札所を設けたといわれています。昔は神仏習合だったため、大善院は尾崎神社と観音堂を併せ護持していたものと考えられます。」観音堂前であわ歌を響かせました。


その時のお言葉です。
「サンタクレメント ハラルリヤ フンタラルリ。
 唱えて回りて、大きなる海を共々ひとつの皆々と繋ぎて、西の大きな過ち正して、是より変え行くことぞ。晴れるや、はらしろ。この海も皆ひとつ。」15:53
 お言葉で「西の大きな過ち正して、是より変え行くことぞ」とあります。

 今日の巡りの最後は一関市大東町にある第二十六番札所の長泉寺です。天台宗のお寺で 千手観世音菩薩がお祀りされています。夕暮れ迫る中、お堂の前であわ歌を響かせました。

その時のお言葉です。
「つまりはこの地の大きなる進みを皆々受けて、共々参らるるや、否やを定め、その上、大きなる宇宙と共なれば、全てを預けて行くことなり。
 起こり来る事、柔らかき、軽きと成りて、共に進めば、大安心の嬉しきなり。このあわ歌歌い、響きて参るはその事なり。」17:13
 ここでもお言葉に厳しいものがあります。
「この地の大きなる進みを皆々受けて、共々参らるるや、否やを定め」と己の決断を迫れらています。
 そして共に参ると定めると「大きなる宇宙と共なれば、全てを預けて行くことなり。起こり来る事、柔らかき、軽きと成りて、共に進めば、大安心の嬉しきなり。」と大安心の嬉しきなるとあります。
 そしてそのことは「このあわ歌歌い、響きて参るはその事なり。」とあります。
 果たして如何ほどの自覚を持つて臨まれているのか、共に響かせているこの場の面々がまず先に問われています。
 
 先ずは無事に1日の巡りを終えることができました。急いで宿に向かいます。宿は平泉の奥、自然の真っ只中にある素晴らしいところです。温泉も素晴らしく、宿の前の畑で栽培した自家製の野菜等地場の命の恵みを美味しく提供して下さいました。楽しく食事を頂き、2次会も盛り上がりましたが、前回のような深い頂には至りませんでした。今だ決断、自覚に至らずでしょうか。



598「菩薩2」2016,4,15

 9日朝7時半に仙台駅に集合し、車2台に11名が分乗して奥州33観音巡りの後半が始まりました。
 最初に向かうのは栗原市金成町有壁にある第二十一番札所観音寺です。曹洞宗のお寺で馬頭観世音菩薩がお祀りされています。前回最後の巡りの栗原市栗駒町の第16番札所清水寺から帰路に着いた高速道路若柳金成インターチェンジで下りてしっかり前回からの続きです。
 有壁の街並みに旧有壁宿本陣跡があり、そこを過ぎて直ぐ左手に観音寺があります。朝の早い時間ですから閑散として凛とした空気の中、観音堂への階段を気持ちよく登ります。お堂は小高い丘の上にあり、見晴らしも良く、風の通りが心地良く、清清しく朝陽に輝く観音堂の扉は開かれていて我々を待っていたようです。この観音堂は別名、水月堂と言われます。

 以下の様な紹介があります。
「開創は大同2年(807)坂上田村麻呂です。三上大明神本地観音を建立し伝教大師を開山とし、別当有壁山円通院と号した、天台宗のお寺でした。一時は24坊を数え、繁栄していましたが、南北朝時代になって廃退してしまいました。
有壁城主菅原帯刀長尚が弘治3年(1557)登米郡永明寺5世澗室守林禅師を開山として再興し、曹洞宗円通山観音寺と号しました。
 観音堂の由緒も坂上田村麻呂の奥州平定にあるようです。蝦夷の遺恨が後日人々の上に禍せぬよう各地に建立した観音堂の一つと伝えられています。」
 お堂の前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「大いなる光をありがたき。
 留まりておる方々、この地で囚われたるもの、この時預けて、大きなるへと参られませ。
 遥かなるへ、遥かなるへ。いざいざ参られませ。」9:08

 次は県境を越え一関市花泉町に向かいます。花泉町はさほど大きな町では無いのですが4つの観音堂が祀られています。
 最初は第十九番札所新山観音堂です。寺名のない在家別当の観音堂で、民家の畑の脇の山道を登ると観音堂が見えてきます。ここには十一面観世音菩薩が祀られていますが、本尊様は他所にあるようです。


 本堂前であわ歌を響かせました。
「受け止められたる哉、この響き。大いなるなり。
 今をさる1760年、この地にて、23人惜しみて亡くなりたるが、力無き姿にて漂いたり。
 今、ここにありたるを出だすぞよ。お~。(拍手)
 本に良き、良き、良きなり。」9:50
 何と1760年前にこの地で23人が亡くなられていて今だ漂っているとのこと。一体何ゆえのことでしょうか。しかしいずれにしてもあわ歌を響かせることで、良き事になったようです。


 第二十番札所徳寿院は直ぐ近くです。曹洞宗の大きなお寺で千手観世音菩薩が祀られています。丁度お葬式が行われていて沢山の車が駐車されて、式の最中で読経、挨拶など聞こえてきます。本道近くにある観音堂で静かにあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。

「晴れ渡りたり、この地、永きて大いにわたりなる地を保ち来て、是よりの新しきへ向かうは皆々様と共なる喜び。なお一層、この地を讃えて嬉しきへ参りましょうぞ。」10:31



 第十七番札所大祥寺は曹洞宗の大きなお寺で古刹として知られ、立派な楼門造りの山門がそれを物語っています。本堂の左手の小高い丘に、西の峰の観音堂と呼ばれるお堂があり、十一面観世音菩薩がお祀りされています。春を告げる花々がそこかしこに見え心地良い所です。




 お堂の前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「少しお話させて頂きます。
 この地にありたる古き時は、この空、この風、この光、流れる水、木々、草々、皆々生き生き、楽しきを送り行きました。大きなる力がある時働き、この地を変え行きました。
 永き時、元へ還るを祈りておりました。本日、この響きを承りて、嬉しき時なり。
 皆様方のこの響き、皆々に届きて、共に嬉しきと成りましょう。」11:03

 中山さんのお言葉が終わって丁度に観音堂の鐘が自然に鳴るではありませんか。皆さんあまりにもそのタイミングに驚きです。風がたまたま吹いたと言うには出来すぎです。今回のお言葉の内容も奥深いものです。明らかに無形の次元と呼応するものがあります。

 花泉町にある4つ目の第十八番札所道慶寺です。しかし道路脇にお祀りされている六角堂に如意輪観世音菩薩が奉戴されています。その謂れは以下のようです。
「六角堂は天平年間(729~749)に茂呂志賀なるものが建立し、この如意輪観世音菩薩を安置したと伝えられる。名前は六角堂ですが方形のお堂でした。一間(1.8m)四面に、二尺(60cm)の濡れ縁をめぐらした小さなお堂です。古くは観音森(元国有地内)に位置してあったが、神仏混合時代に豊隆神社境内地に移転、さらに安永年間現在の別当である皆川家の先祖の夢枕に観音様が立ち「我は神ではない仏である。村人をお守りしたい故、お前の所有地内に移してほしい」とのお告げがあって、現在の場所に移したそうです。六角堂は陸中最古の観音堂です。18番札所を道慶寺と表記しているものがありますが、廃仏毀釈の際に取り壊しを免れるため、便宜上近くの道慶寺所属としましたが、直接関係なく、現在は皆川さん宅で管理しています。」
 お堂の前には花壇が六角に作られています。そこであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「揺るがぬ大きな元より発する響きを受けて、この地へ伝えて、人々がこの地球の全てと共にあるを今一度、しっかりその身のものとして、新たなるへ向かうことなり。多くの諸々、皆々流して参りましょうぞ。」11:35