2024年6月8日土曜日

3452「私たちの秘められた力」2024.6.8

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年05月25日「私たちの秘められた力」と2024年05月27日「喜びの世界への帰還」の2つの記事を紹介いします。


「私たちの秘められた力」


今日は、私たち人間が持っている本来の力について書こうと思います。 

その本当の力を知ることにより、その本当の力を使いこなし、目の前の辛く、苦しく見える経験を、勇気と笑顔で、乗り越えて行って頂きたいからです。

返って、その逆境を自分の魂の糧として幸せへの、飛躍のバネとして頂きたいからです。 

この力については、ある邪悪な意図を持って昔から私たち人類に隠されて来ました。 

それは、私たちを無知と恐怖に縛り付けていた方が、彼らにとって都合が良いからです。 

 

さて、マザーテレサは、毎日何百回も、彼女の内なる神さまに対し、下記の祈りを繰り返していたそうです。

私の心の中におられるイエスよ、

あなたの優しい愛を信じます。

あなたを愛しています。

マザーも、自分の心の中の神さまを信じていたのですね。

何時も祈りを通じ、内なる神さまとお話していたのですね。

私たち人間は、本来、神さまと同じ能力を持つと言われています。

今はこの地球という時間・空間に縛られていますが、本来の私たちの意識は

途方もない能力を持っています。

私たちはあえて、この制約の星と言われる「3次元の地球」に来ていますが、

それは、ここでしか味わえない濃密な経験をするためです。 

それは喜び、悲しみ、楽しみ、苦しみなど様々な経験です。

本来私たちは、「上にあるが如く、下にかくある」と言われるように、 元居た上の世界のように、意識によってあらゆるものを作り出し、変えて行く能力を持っています。 

意識の力により、対象となるものにパワー(エネルギー)を与えることもできます。

そして、私たちが意識を向けない限り、つまりパワーを与えない状態が続くと、そのものの力は衰え、いつしか消滅してしまいます。

逆のことを言えば、意識する限り、その意識の強さ、そして回数が多いほど、対象に対し、大きなパワーを与えていることになります。

これが神社仏閣や、神さまゆかりの地のパワーの源泉でもあります。

もともとの神さまの神聖なパワーと、私たち生きている人間たちの、継続的な祈りのパワーによって、その場の力が維持され、強力になっていきます。

ですから、マザーが毎日何百回も、内なる神さまに対して語りかけていたということは、

それだけ、内なる神さまに大きな愛のパワーを、人間側である、マザーが与えていたということになります。

その結果、マザーの中の神さまは、大きな愛の力を持つに至りました。

そしてもう内側だけでは収まりきらず、多くの愛の光を、マザーの肉体を通して放射していたことでしょう。

その見えない愛の光を感知した多くの人たちが、見えない糸により引き寄せられ、より大きな愛のパワーが生まれてきました。

このように私たちの意識には大きな力があります。

私たちは見た目だけのちっぽけな肉体だけの存在ではありません。

神さまに愛されて、神さまの能力を分けて頂き、この世に生まれてきました。 

そして全ては繋がっています。

マザーはこうも仰っています。

あなたの身体中の一個一個の細胞に、世界中を照らし出すほどのパワーが潜んでいるのです。

神様はあなたが生まれた日に、そのパワーをそこに吹き込んでくれました。

そして、あなたが考えうる限りの愛の思いが、さんさんと光を発し、この世界を照らし出し、

そしてこの地球を、よりよい場所に変えていくのです。

 

それだけあなたはパワフルなんです。

それほどに、あなたは愛に満ちているのです。

私たちは、自分自身を卑下することなく、嫌うことなく、内なる神さまと、

生まれる時に神さまから頂いた、その息吹を信じて生きていきたいですね。

どんな人にも内側に神さまがいらっしゃいます。

その神さまは、私たちが意識を向けるたび、話しかけるたびにパワーを増していきます。

そして、周りの人たちの内に居らっしゃる神さまと同調する力も大きくなります。

動物、植物、鉱物、構築物、機械、自然現象の中に、居らっしゃる神さまと同調する力も強くなります。

それこそが、サポートオブネーチャー(自然界の協力)と言われる、全宇宙が味方になってくれる瞬間です。

まずは、自分の内なる神さまを 

・信じること、

・愛すること、

・話しかけてみること・・

そこから始まります。

皆様もどうぞ、内に居らっしゃる神さまに、話しかけてみてください。 

必ず答えは返ってきます。 

それは直截的な言葉の閃きであったり、

後に人の口を介して語られたり、 

もしくは笑い声、川の流れ、風などの外応として示されるかもしれません。

愛すれば愛するほど、答えてくださいます。

 



「喜びの世界への帰還」


死とは、私たち平凡な人々にとって一大事なことです。 

身近な人であれば、悲しみ、時によっては、「ああしてあげればよかった」と、

一生後悔を背負って生きていくかもしれません。 

ですが、臨死体験を経験された方のお話や、生まれる前の記憶を持つ子供たちの話を聞けば、

死とは、それほど深刻なことではなく、元居た場所に、また帰るだけ。 

肉体がある時よりも、はるかに長い時を過ごしている本来の場所に戻るだけ・・ のようです。

ですので、あまり深刻なお話にはなりません。 

また他の星団から直接地球に転生し、その記憶を持ったまま生まれて来た

レインボーチルドレンのお話では、どうしても疑問があって、分からない時には、

元居た星団に残している自分自身の本体と通信し、その答えを得ることもあるとのこと・・ 

これの意味するところは、私たちの魂は、物理的などこの地点(宇宙)及び、多次元に同時に存在できるということです。 

また、光よりも早く通信できるということ。 

量子力学の電子の蓋然性と同じです。 

本人が意識をフォーカスさせているところに強く出ます。 

つまり、肉体を持つ時は、強く肉体に意識を向けているために、自分自身が神々と同じく

多次元的な存在だとは気づかないけれど、本来、魂は、肉体を超えて生き、存在する・・

と言うことだと思います。

そういった観点から、今日は、聖心女子大学教授、シスターの鈴木秀子さんのお話をご紹介します。 

鈴木さんの臨死体験にまつわるお話で、亡くなった方のために「喜ぶ」という内容です。 

<引用開始> 引用元

  

≪臨死体験で変わったこと≫

司会者―臨死体験をした後、何か変わったことは?

誰かがなくなったときに、家族は泣いてますよね、亡くなったときに、

あの人はあの素晴らしい世界へ行ったんだから、その人のために喜ぶ。 

家族は悲しいから家族のためには祈りますけれども、亡くなった人のためには

喜びを感じるようになりました。 

それがとても大きなことですね。 

司会者――あちらの世界が素晴らしい世界だから、

(患者が)病気で苦しんでいらして、厳しい状態の時にも、

「安心なさってください」という言葉が説得力を持つんでしょうか?

(死がまじかに迫っている人たちに)私は手を当てたまま、本当に神様の愛が伝わって

私を通ってその方に伝わり、神様の愛が循環しているような、臨死体験で味わった

無条件の愛の中にいる安らぎというか、安心感というか、そういうものをもう一度、再現している幸せを感じます。

司会者――なぜ臨死体験の幸福感が再現されるのですか?

つらい人とか、もう死が控えている苦しい苦しい人はもう見栄とか、体面をつくろうことができない。 

いのちのギリギリまで迫られているから、その人の“ありのまま”をさらけ出しているわけです。 

だから私はその人たちから刺激を受けて、自分も飾ることなく、 

その人たちから自分の“ありのまま”を引き出されて、そうすると、お互いに一体感が浮かんでくるんですね。

  

もう死ぬ前の人間が一番望むのは“愛”だけですよ。 

だから自分も愛を溢れさせるし、愛を受け止める。

だから病人をお見舞いに伺うのは大きな喜びであり、恵みであり、癒しを与えてもらう瞬間でもあるんですね。 

司会者――最後に、これからの目標は?

一つ大きな目標があるんです。

年を取るにつれて全部、どんどん、昨日までできたことが、今日はできなくなる。失われてゆく。 

じゃあ、自分が最後の最後まですることは何だろうかと考えたときに、

気づいたことは、息を吸うことと吐くことじゃありません?   

だから、息を吸うことと吐くことは死の瞬間までするから、これを使わない方法はないと思ったんです。 

・吸うときに感謝を込めて吸い、

・吐く息に神を讃美する。 

感謝、讃美という思いを込めて、吸ったり吐いたりする特訓を自分にしているんです。 

<引用終了>

   

鈴木秀子さんは臨死体験をしてから後、不思議な力に突き動かされて

病院などに、死に行く人々を訪ね歩く活動をされています。 

そこでは、ただ 

・同調

・肯定 

・息を合わせる 

・寄り添うこと 

それしか行われませんが、2人の間に神聖な結びつきが生まれ、神々のエネルギーが循環するのだそうです。  

その結果、死を待つ人々の心は、愛に満たされ、穏やかな気持ちで、神さまに抱かれて行くのだそうです。 

派手さはありませんが、それこそが、まさに神々のやり方です。

愛の交流を通じ、心を救って行くのです。 

イエスも同じことをなさいました。




2024年6月7日金曜日

3451「青空ひろば」2024.6.7

今回は立花大敬さんの「ワンディー・メッセージ「青空ひろば」」から最新の内容を紹介します。


1304 2024.05.19  ~ 1317 2024.06.02 

Q.神様はなぜ人を援助してくださるのでしょう?

A.

人が進化成長するためには、神の導きが必要です。また、神がさらに進化成長するためには、人の成長が必要なのです。

どういうことかというと、本当は、イノチはひとつしかなくて、神と人は別々の存在ではなくて一体のイノチなのです。だから、人の進化が遅れているということは、神にとっては、自分の成長が後れているということなのです。

だから、神自身がさらに進化成長するためには、人が成長することがどうしても必要なのだということになるのです。だから、神様は人を援助し、導かざるを得ないのです。

だから、神様は、私たちを援助したくてウズウズしておられます。神様は人に頼って欲しくてしょうがないのです。

<人が神を生む>ということがあります。


川手文治郎さんの事跡がその実例です。

「祟り神、疫病神」であった金神さまが、川手文治郎さんの実意丁寧な信仰によって「情に厚い、面倒見のよい、頼りになる神」に変身してしまいました。

<人が神を生む>というのは、日本独特の神観だと思います。

古事記では、人である「イザナギ・イザナミ」がまず「国土」を生み、次に神々を生みだした(「人」→「国土」→「神」)と書かれています。

つまり、日本という繊細で美しい「国土」は、日本民族という「人」の心が生み出したものなのです。

「いのち」とは「意の霊(ち)」です。   

人の「意」が集まるところ、人の「意」が注がれるモノや場所に「いのち」が宿ります。

たとえば、ある方が心を込めて、敬いと感謝の「意」を注いで、丁寧に掃除されたトイレには、善念が宿ってイノチを持ち、「トイレの神様」として発動し始めます。

そのトイレを使用する人はなぜか心が落ち着き、元気を回復したり、しあわせの訪れがあったりするようになるのです。

また、弟子が、尊敬と謙虚な気持ちで師の教えを受けようとすると、その弟子の誠実さが師を高め、師がもっていた個人性の限界をも突破させて、師の最高の神性を引き出すという場合もあるのです。

道元禅師は、「<弟子>の形で現れる仏様もいらっしゃるのだよ」と語っておられます。

逆に、負の意念が繰り返し与えられたモノやヒトには、その負の意念が定着して、いのちを持ち、負の意志を持って働き始める、そんな場合もあるので要注意です。そのモノと関わる人を次々不幸にしてしまうような働きをするのです。

では、そのような「闇の波動」に影響されないようになるには、どうしたらいいのでしょうか?

(1)心に入っている雑音を出来るだけ減らして、「空」の状態に近づけること。

(2)自分も人も世界も、共に魂の進化過程にあって、これからますます成長し、いい未来が開けてくるんだと、明るい未来を信じること。

(3)自分より、まず人や世界のしあわせを祈ること。

以上のように心がけていれば、「闇の波動」に接触しても、影響を受けないか、あるいは、そもそもそんな「闇の波動」を持つモノや人と縁が出来ることがないのです。


「川手文治郎さんの神様との付き合い方」を勉強しておきましょう。

神信心をしていると、「神のお試し」ということが出てくることがあります。

文治郎さんが、どんな困ったことが起こっても、ひたすら「おかげです。有難うございます」と感謝して受け取ってゆかれているうちに、信仰の対象の祟り神であった金神様の性格がドンドン頼りがいのある、愛の神様に変貌していったのです。

家業の農業においての神様のアドバイスがもらえて、他の農家に比べて収穫がずいぶん増え、篤農家として知られるようになり、あらたに農地も購入出来るまでになりました。このように本業で成功したのですが、その成果さえ手放して、人のために尽くすという宗教家として再出発されたのです。

文治郎さんの日本的霊性発展史上の大きな貢献は、

(1)『神あっての氏子、氏子あっての神、あいよかけよで立ちゆく』

という文治郎さんのコトバでハッキリします。

つまり、「人」と「神」は、実は同じ道をゴール目指して歩む仲間、「」であるのです。

なぜなら、イノチはひとつしかなくて、実は神は人、人は神なので、人が困っているということは、神にとっては、自分が困っていることなのです。だから、困っている人に手を差し伸べずにはいられないのです。

(2)「神」とのお付き合いの仕方の革命

「氏子が神と仲善うする信心ぞ。神を怖れるようにすると信心にならぬ。神に近寄るようにせよ」

文治郎さんが農業をしておられる信者さんに語られたコトバ。

「この作をと思いついたら、それを3月に蒔く時、籾(もみ)を供えて立派にできるように願い、5月に植える時には、よく生い立ちますようにといって願って植え、秋、穂が出たら、立派に実るように願えば、作徳(豊かな収穫)がいただけるからなあ」

つまり、<何かにつけて、しっかり目標を意識化し、言語化して神様にお願いし、頼ってゆけばいい>、という方法論を確立されたのです。

ある人が文治郎さんに「信心はどうしたらできましょうか」と質問しました。

文治郎さんの答え。「信心といっても別に難しいことはない。親にものを言うように、朝、起きたらお礼を申し、その日のことが都合よくいくように願い、よそへ行く時には、行って参りますと言ってお届け申し上げよ。そして、帰って来れば、無事で帰りましたとお礼を言い、夜、寝る時はまた、その日のお礼を申して寝るようにすれば、それで信心となる」と説かれました。


ある人が文治郎さんに、「神様の拝み方が分かりません」と質問しました。

文治郎さんの答え。「神様を拝むのに、この道では別に決まりはない。形より心だ。実意丁寧正直、真一心(まこと いっしん)がかなめだ。

日々この天地に生かしてもらっているお礼を申して、その次に、お互いは凡夫の身であるから、知らず知らずのうちに、この天地にご無礼をしているのが道理だから、それをお断りしおわび申して、それがすんだら、身の上のことを何かと実意をもってお願いさせてもらうがいい」と教えて下さったそうです。(完)


1303 2024.05.18

Q.神様にお願いする際のポイントは?

A.どんな結果が現れても、そのまま『ありがとうございます』と、感謝してお受けするという覚悟が必要。神様に「お任せする」とはそういう覚悟を決めること。

 

1302 2024.05.17 

Q.「しあわせ山」の頂上にいつも坐るにはどうすればいいのでしょう?

A.

(1)自分の力が足りないことを自覚する謙虚さを持つこと。

→大敬は「シモタ・シモタの76年」、失敗だらけの人生だったことを正直に認めます。   

→大敬は「ビクビク弱虫」であることを認める勇気を持てるようになりました。

(2)自分には力が足りないからこそ、自分に代わって神様がやって下さるんだと信じましょう。

→「は」:自分には出来ないからこそ、神様にやって下さるのです。<自力の手引き(てひき)で、他力の手引き(てびき)>


1301 2024.05.16

シャカもイエスも/蹴っ飛ばし/地位も名誉も/蹴飛ばして

オレはオレだと生きてゆけ

ウジウジするな、前をみよ/胸を張り張り、堂々進め

そうすりゃ不思議/やれ不思議

みんなぞろぞろ付いてくる/「待って、待って」と付いてくる

宇宙全部がゾロゾロと


1298 2024.05.11 ~ 1300 2024.05.15

Q.大乗仏教と小乗仏教の違いを教えてください。

A.小乗の目標は「灰身滅智(けしんめっち)」です。身を灰にし、頭の智慧をなくしてしまうことなのです。つまり、この世(空虚・幻想)は厭うべきもので、サッサと離れるべきものだとするのです。だから、小乗仏教は、世俗と関わりすぎて、この世からの脱出が遅くならないように、独身主義、出家主義なのです。

それに対して、大乗の教えは「仏性」を説きます。

仏性とは「イノチの火種」のことです。その「火種」の性質は、

① いのちをより高く、広く進化させてゆこうとする根源意志であり、

② いのちの進化の最終ゴール(仏)を設定し、そこに向かって人を誘導してゆく磁針であり、

③ その最終ゴールに向かって前進するために、進化向上に必要な環境を、「火種」の燃料として、次々引き寄せるもの

 それらの性質を持つものが「仏性」で、大乗仏教では、その「仏性」こそが、私たちのイノチの本質だとするのです。

どんな事がやってきても、それは自分のイノチの本質である仏性(イノチの「火種」)が、さらなる進化向上のためにどうしても必要だと引き寄せて来たもの(燃料)なのだから、やって来た課題から眼を逸らさず、しっかり直面して、本腰で関わってゆくことにすれば、その「覚悟の今」にこそ悟りはあるのです。

だから、百丈禅師は、「<仏性>を知りたければ、<時節因縁>を見なさい」とおっしゃっているのです。(完)



2024年6月6日木曜日

3450「怒る人々」2024.6.6

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年05月24日の記事を紹介します。


「怒る人々」


夜が明ける前の闇が、最も暗いと言われます。

今までの嘘が全て明らかにされてしまう水亀座の時代に入り

今までの思考方法の残骸にしがみつく人々と

新しい精神性の復活の時代を生きようとする人々と

今はまさに最後のせめぎあいのような、夜明け前の暗さなのかもしれません。

・心の大切さ、周りの人々との調和を一番に考える人と

・自分さえよければ、お金さえあれば。。 

自分さえよければ。。。の人々は、変わってしまった時代の流れに沿いませんし、

自分の心の内の良心が、常にシクシクと痛んでいますから、余裕がありません。 

人を非難し、貶め、中傷し、デスることで無意識にマウンティングし、

相対的に自分の地位や環境を安泰にしようとします。 

そして、常に心に怒りを抱えています。 

常に、怒りを振りかざし、ちょっとしたことで、正義感の隠れ蓑をまとい、怒りを爆発させます。

社会で何か事件が起これば、自分だけは正義の立場に立ち、その事件の被告を追及し、憎しみをバラまく。 

表面的に見れば、誰しも忌み嫌う事件の加害者、

その人をどんなに憎み、正義の剣を振りかざそうと、誰も文句を言わないことでしょう。 

付和雷同し、煽る人も出てくるでしょう。

誰かを悪とみなし、激しく追及することで、自分自身の留飲も下がることでしょう。

でも、そこには、愛がないのではないでしょうか? 

私たちを作られた神様は、子供たちの誰かが、罪を犯した時や、他人の心身を蹂躙した時、

その人間を憎み、糾弾し、一瞬で地獄に落とすでしょうか?

更正の機会を与えないでしょうか?

二度と許してはくれないでしょうか?

その人を糾弾し、憎しみをぶつけた私たちはたとえ立場が変わろうと、自分だけは決して、

そのような行為を行わない、いつも変わらず、正義の人なのでしょうか? 

たとえ正義の名の下であろうと、人を憎む者は、自分自身を憎む者です。

人を憎む者の心には、憎しみが宿ります。 

その憎しみの種は、だんだんと自分自身の心身や、取り巻く環境に浸透して行きます。 

その結果、環境は、だんだんと憎しみ色に染まり、良くない出来事が続くでしょう。 

小林正観さんがおっしゃるには、憎しみの心が身体に出た場合、関節の疾患として強く表れるそうです。

それでは、今日のお話は「正義感の落とし穴」ということで、まじめな人、一途な人が陥り易い、落とし穴について書きたいと思います。 

小林正観さんの著書よりご紹介します。

<引用開始>


真面目な人ほど、正しさを追い求めてしまいます。

その結果、敵意と憎しみが湧いてくるというように、人間の心が創られているのかもしれません。

社会を四十年観察してきた結果、真面目な人ほど、人生を暗く辛いものにしていることが読み取れてきました。 

心の勉強をしていった結果として、いろいろなことを学び、心正しい人になり、心正しい行動をするようになっていきますが、どの人も九十八点まできたときに陥りやすい罠があります。

ある大きな災害のときのこと。

自分の家や土地すべてを売り払って、数千万のお金を作り、被災地で炊き出しをした

農家の方がいらっしゃいました。

ボランティアで一日三食、合計二千四百食を毎日作り続けました。

この話を聞いた人たちも募金をして、半年ものあいだ、炊き出しを続けることができたそうです。

半年後、仮設住宅などができ、必要がなくなったので、家族のもとへと帰っていきました。

この話を聞き、日本各地の商工会議所などから講演依頼がくるようになりました。

そこで、このような話をされたそうです。

「あまりにも悲惨な状態だったので、家や土地を売り、乗り込んでいきました。

いま聞いている皆さんは、会社があり、社員がいて、預貯金もある。

そういうものを全部売り払って、なぜ同じことをしなかったのですか?」

この方は、心温かくて困った人のためにやっていこうという、神のような心を持った方でしたが、ですが、この一言を言った瞬間、会場はシーンと静まりかえったそうです。

そして、同じ主催者から、二回目の講演を頼まれることはありませんでした。

自分は喜ばれるように生きているのに、周りの人は呼応した生き方をせず、自分勝手に生きている。

「あの人がそう思うのが許せない」という、正義の「敵意」「憎しみ」の小さな芽は、

誰の心の中にも宿っています。

他人を憎む「心」そのものが、争いの種になっています。

 

他人や世の中をどうするかより、自分の中の敵意と憎しみをなくし、太陽のように明るく生きていくこと…。

よい仲間と明るく楽しくいたいのならば、目の前の人に対して 

・自分と同じように振る舞え

・同じ価値観になれ 

と強制するのをやめる。

よい話を聞いて、周りの人にたくさん広めようと思った瞬間、よからぬものが入り込んでいる可能性があり、運とツキが逃げていくようなのです。

人間は、ろくなものでもなくて、大したものでもないと思うことで、心地よい方向にいけるのかもしれません。

<引用終了>

 

本当に、正義感が強く、良いことをしよう、他人の役に立とうと、一所懸命な人、

ある種のストイックな人、修行僧のような人が、非常に陥り易い罠です。

自分は、これだけしているんだ。

どうして貴方は同じようにしようとしない?

自分の価値観を人に押し付け、強制する事・・

どんなに自分が良いと思うことをしようと、それを他人に強制したりしては、何のための良き行動か解りません。 

むしろ神様から遠ざかる行為です。

マザーテレサが仰るように、私達が、誰か人にした事、それは、本当は人ではなく、神様にしたことです。

神様 対 私達のできごとです。

ですから、それを恩に着せることも、自慢する事も、他言する事も必要ありません。

ましては人は、その人に一番適した道のりを、その人のペースで進んでいます。

その人に対して、如何に自分が正しいと思ったことであっても、押し付けては台無しです。

正義感とは、不正を憎み、正義を尊ぶ気持ちのこと。

でも、そこには憎しみの心が潜み、そこには愛や温かさの芽はありません。

正義感の強い人は、周りの人といつか衝突することになります。

自分自身の心身も蝕みます。

その言い分がどんなに正しいことであっても、人には人の、それぞれ事情があり、できることと、できないことがあるからです。

どんなに正しいことであっても、押しつけられたら誰でも嫌になります。

正義感など振りかざさず、自分の主張を「俺が俺が」と言い張らず、自分の生き方が温かく、

明るくキラキラと輝いていて、そこに優しさや、愛を感じる事が出来れば、その後ろ姿に感動し、人は共感して下さいます。

北風と太陽のお話のように。

貴方は、ご自分の主義主張を人に押し付けてはいませんか?

頼まれてもいないのに、人の生き方に口をはさんではいませんか?

人の生き方を、良い悪い、高い低いで測り、ジャッジしていませんか?

その正義感の底に、憎しみの心は潜んでいませんか?


2024年6月5日水曜日

3449「神さまの教える諦めの心」2024.6.5

  今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年05月23日の記事を紹介します。


「神さまの教える諦めの心」


今日は、聖なる諦め、諦めることがゴールであり、スタートであるというお話です。 

このテーマでは、以前から何度も何度も書いていますが、このテーマも、日本神界 高位の魂である山幸彦の魂を持つ、小学生のトキ君の情報とピッタリと一致しているため、このことが、神様の真実であることが推認できます。 

私のブログでは、ブッダやイエス、そして日本人の心に伝わる古の神道を情報ソースとして書いていますが、この6歳の子供が、いくら神様の魂を持つとは言え、同じ内容を語っていることに驚きます。

既に、沢山の神様の魂が、この日本に転生を始めているそうです。 

本当に「精神性復活の時代」夜明けが近づいて来た様です。 

トキ君の情報は以下です。 

約2分くらいから「諦める」についてです。

6歳と幼く語彙が少ないため、5分30秒くらいから違いを身体で表現してくれています。 


トキ君は以下のように話しています。

・諦めるは、ゴールでありスタート

・諦めると、また新たなスタートに立てる

・「諦めない」と言う言葉は、ゴールを自ら遠くへと設定してしまうこと

・諦めた瞬間に心が解放される

・本当に自分がやりたいことであれば、あきらめなくても良いけれど

少しでも嫌な気持ちがあるなら、諦めて新たなスタートに立った方が良い

・諦めると楽になって心が明るくなる

・諦めた瞬間に、どんなことでも出来るようになる

・諦めるということは「それでいいんだよ」って言うこと

・諦めないは「それじゃ、ダメ」って言うこと

・諦めるとは 認めるっていう意味

・出来ない自分を諦める

・出来ない相手を諦める 

また同じようにブッダと神道のエッセンスより

「諦め」について以前書いた記事がありますので、加筆修正して載せたいと思います。 

 

小林正観さんのお話から、

ブッダの悟りと、日本に昔からある神道が驚いたことに全く同じ到達点にたどり着いている、について書こうと思います。 

ブッダは2,500年前に、この世の苦しみ、悲しみの原因は、自分の思いどおりにならないこと、と悟りました。

自分の思いどおりにならないことに対して、

それに逆らって、なんとかしようと するからこそ、人は悩み・苦しむのです。

人の苦しみや悲しみは、外から与えられるものではありません。

苦しい・悲しいと思う心、つまり、人の内(心)から

苦しみや悲しみが発生しているのです。

だから、お釈迦様は、こうおっしゃっています。

「すべて、受け入れなさい」と。

それは、頑張る生き方ではなく、楽に生きる生き方です。

・人に頼って

・人に甘えて

・あるいは人に頼られて

・時には人から甘えられて

自分の思いどおりに、世の中を変えようとしないで、それを受け入れて

こころを楽にして生きてゆくこと。

そして、最高の形は、

「ありがとう」と、感謝することだったのです。

・水を飲めることに「 ありがとう 」

・息ができることに「 ありがとう 」

・食事できることに「 ありがとう 」

・仕事があることに「 ありがとう 」

・家族がいることに「 ありがとう 」

・友達がいることに「 ありがとう 」

・話ができることに「 ありがとう 」

・歩けることに  「 ありがとう 」

・病気でないことに「 ありがとう 」

・生きていることに「 ありがとう 」 

これは、日本に古くから存在していた古神道と同じ結論です。 

感謝の心が神々の恩寵の表れる場となる・・ 

ということです。 

 

 日本の神道には 

・教義も

・教祖

もいません。

だから宗教とは呼ばれません。 

全てのもの、全ての自然現象に神々の意吹きが宿るとして、尊重し、敬う心です。 

このブッダの悟りの神髄に対して、きっと反論のある方もいるかもしれません

だって実際に

・貧困でお金がなく

・病気で、毎日が苦しい

・友人に裏切られた

・職場にいじめが存在する

・世の中には許せない犯罪者がいる

・憎い

・苦しい

・辛い 

自分が辛いのは 

・あいつのせい

・世の中のせい

でもきっとご本人もわかっているはずです。

自分が辛く、苦しいのは

・憎しみの心があるから

・人のせいにしているから 

ブッダは仰いました。

「すべて、受け入れなさい」(そのことを諦めなさい、許しなさい)

自分の心の状態が現実を作ります。

憎しみの心を抱いていては、次から次へと 憎しみの対象が目の前に現れてくることでしょう。 

「これがない、あれもない」と、常に足りない部分ばかりを見ていては、

地獄の餓鬼と同じ心になってしまいます。 

 

そもそも神様は私たちが生きていくうえで、必要なものは全部、準備してくださいました。 

そのうえで、私たちを、その場所に置いてくださいました。 

「置かれた場所で、咲きなさい」と。 

神さまが準備してくださったものは 

・健康や

・お金

・幸運 

それだけではありません。

・苦しみ

・悲しみ

・貧困

・病気 

も一緒に置いてくださいます。 

それは、その状況が、私たちの魂を磨いて、輝かせてくれるからです。

本人が超えられないものは、置かれません。

人よりもつらく、悲しく、苦しい状況は神様に見込まれているからです。 

私たちは、足りないことばかり見つめることをやめ、ゆっくりと、澄んだ心で周りを見渡せば、きっと、本当の幸せを見つけることができるでしょう。

なぜなら、誠の幸せこそ、神様が私たちに一番、渡したいと願っているものだからです。 

幸せは向こうから勝手にやってくる、ものではありません。

すでに自分を、山ほど取り囲んでいるものです。

神様が準備してくれていたものです。

それに、気がつけるかどうか。 

ただそれだけの違いのようです。

そうブッダは、般若心経で教えてくださいました。 

・憎しみの心

・人を蔑む心 

が消えて、お幸せになられますように。


2024年6月4日火曜日

3448「祓い清め」2024.6.4

 今回は「いっぷくさんのありがとう」さんの2024年05月22日の記事を紹介します。


「祓い清め」


先日の「先祖供養ツアー」に参加された方から、今日も一つ、幸せな出来事がありました・・とご報告がありました。

先祖供養は、願いが聞き入れやすくなるというよりも、神さまと親しく繋がりやすくなることで、3次元的な功徳が現れやすいという副次的な効果がもたらされます。

そういえばツアー当日帰りがけ、一部の皆さんを道中にあった妙龍神社にお連れしました。

妙龍神社は過去、下の写真のような龍神さまが現れた

木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)がいらっしゃる神社です。 

以下妙龍神社で撮影したもの

 

さて来月6月は、各地の神社で「茅の輪くぐり」などの祓い清めの行事が行われますが、 

今日は、その「祓い清め」に関する記事です。

感謝の心を持つことこそ、生きている今、幸せになる方法です。

今の状況を何とかしたいのに・・・

もし、それがどういうことか分からず、何をすれば分からないようでしたら、

日本と言う国だけに存在する「ありがとう」という言葉、言霊を、何度も何度も

毎日毎日、朝から晩まで、寝ていても、心の中で結構ですので、唱えてみてください。 

さて、今日の本題です。

 

私たちは神社に行くとよくお祓いやご祈祷をしていただきます。 

この祓い、清めることについて日本の形成外科の草分け的存在である、医師であり、かつ元春日大社宮司、故人 葉室頼昭さんが以下のように説明してくださっています。

<一部引用開始> 引用元 

特に申し上げたいのが、日本人は、人間は自分で生きているのではなく、

すべて神さまの恵みと、祖先の恩によって生かされている

 という感謝の生活を送ってきたということです。

 

 

これは、人間の生きる、素晴らしい真実の道です。

この世の中にはいろいろな、悩みや苦しみ、病気などがありますが、

それらすべては、生かされているという感謝の気持ちを忘れ、

自分の力だけで生きているという「我」の心が原因で現れてきます。

いろいろな悩みが現れるのは、神さまからいただいた、清浄で健康な素晴らしい姿を

覆って包んでしまう、罪(包身 つみ)や、私たちを生かしてくださる神さまの尊い気を

枯らしてしまうような穢(けが)れ(気枯れ)が身についたためだということを、昔の日本人は直感で知っていました。

ですから、これらの罪穢れを祓(はら)い除けば、もとの健康で幸せな姿が現れるとして、 

古来より祓いということを行ってきたのです。

これは、世界に誇るべきことであると私は思います。

今の医学では、病気は存在するものであり、それを撲滅するのが治療だと思われています。

しかし私は、この日本人の罪穢れを祓えば、もとの健康が現れる、という考え方のほうが、真実の医学ではないかと思うのです。

その他にも、素晴らしい特質を挙げていくと、きりがありません。

日本人は古来より、素晴らしい真実の生活を続けてきた世界でも珍しい民族でありますから、これらをひとりでも多くの人が自覚し、日本人の誇りをもって、胸を張って生きてほしいと願っているのです。

<引用終了>

   

私たち人間は、生まれた時には神さまからいただいた、清浄で美しい心をしていました。

生まれる前に、誰もが、神さまから人生の目的や、人生で起こること全て、これらを承認していただいて、生まれることを許され、「行っておいで」と祝福されて、地球に生まれてきたからです。 

ですが、この世に生まれてきた後、制約の多いこの地球で、いろいろな、しがらみ、悪意、陰謀の波にさらされ、何時しか、自我(自分の意志や考え方を言い張って、わがまままこと)に翻弄され、罪、氣枯れで、魂が覆われてしまいます。 

神社などでの、お祓いや、祝詞は、これらを祓い清め

魂の本来の輝きを取り戻すために行われます。 

祓われるのは、悪しきことだけではありません。

良きことも、祓い清められ、

「無」つまり、ニュートラルな状態にしてくれるのだそうです。 

一旦、無の状態になることで、内なる神聖が輝きだし、本来の道(生まれてきた目的)に立ち返り、物事が、スムーズに運ぶようになるのだそうです。

スムーズに運ぶ。。。とは、「安楽な道」だけではありません。 

例えば、自分の生まれてきた目的が、あえて、困難、苦難な状況に身を置くことで、

その中で、 

・投げ出さず

・希望を捨てず

・不平、不満、愚痴、悪口、呪いの言葉を言わず 

・感謝の心を忘れず

・笑顔を絶やさず

そのような魂を輝かせるための訓練の場を、自ら設定して、生まれてくる人もいるからです。

人それぞれ、 

・生まれてきた目的も

・その達成するための道のりも

・必要な時間も 

全て違います。 

自分のことは、おぼろげにわかるかもしれませんが、ましては、他人のことは、分かりません。 

分からないのに、他人の一面だけの姿を切り取って見て、勝手に解釈し、自分のフィルター越しに見て、批判、中傷していては、自分自身の心を曇らせ、闇に置き、一気に運気をどん底にまで引き落としてしまいます。 

であれば、人を批判・非難することなく、そして自分の身に降りかかる運命も、抵抗せず、感謝をもって素直に受け入れ、周りの人に対しては、

・寛容な心

・優しい心

・あたたかな心 

で接して行きたいものですね。

そのような、暖かく、美しい心こそ、 

自分の人生を、暖かく、美しいものにしてくれるからです。



2024年6月3日月曜日

3447「78円の命」2024.6.3

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年05月21日の記事を紹介します。


「78円の命」


2012年当時、小学校6年生だった谷山千華さんが、真っ直ぐな気持ちで作文につづった『78円の命』、胸が張り裂けてしまいそうなほどの想いが込められた作文です。

命の重さ、動物の殺処分について、書かれた作品です。

<引用開始>

78円の命


近所に捨てネコがいる。

そのネコは目がくりっとしていて、しっぽがくるっと曲がっている。

かわいい声をあげていつも私についてくる。

真っ黒なネコだったので、魔女の宅急便から『キキ』と勝手に名付けてかわいがった。

人なつっこい性格からいつの間にか近所の人気者になっていった。

子ネコだったキキも2年たった頃にうれしい出来事があった。

赤ちゃんを産んだのだ。

でもキキは捨てネコだったので、行き場所のない子ネコたちを、近所の鈴木さんが預かってくれた。

毎日のように子ネコを見に行って、まるで自分の飼いネコのようにかわいがった。

ある日、突然子ネコの姿が見えなくなった。

そこで鈴木さんに尋ねてみると、「○○センターに連れて行ったよ」と、うつむきながら言った。

私はうまく聞き取れず、何を言っているか分からなかったが、たぶん新しい飼い主が見つかる所に、連れて行って幸せに暮らせるんだなと思った。

次の日、学校でこのことを友達に話したら「保健所だろ?それ殺されちゃうよ」といった。

私はむきになって言い返した。「そんなはずない。絶対幸せになってるよ」

殺されちゃうという言葉がみょうに心にひっかかり、授業中も保健所の事で頭がいっぱいだった。

 

走って家に帰ると、急いでパソコンの前に座った。

『保健所』で検索するとそこには想像もできない、ざんこくなことがたくさんのっていた。

飼い主から見捨てられた動物は日付ごとにおりに入れられ、そこで3日の間、飼い主をひたすら待ち続けるのだ。

そして飼い主が見つからなかった時には、死が待っている。

10匹単位で小さな穴に押し込められ、二酸化炭素が送り込まれる。

数分もがき、苦しみ、死んだ後はごみのようにすぐに焼かれてしまうのだ。

動物の処分1匹につき78円。

動物の命の価値がたったの78円でしかないように思えて、胸が張りさけそうになった。

そして、とても怖くなった。

残念ながら、友達の話は本当だった。

調べなければ良かったと後悔した。

現実には年間20万匹以上の動物がこんなにも悲しい運命にある事を知り、

さらに大きなショックを受けた。

動物とはいえ、人間がかけがえのない命を勝手にうばってしまってもいいのだろうか。

もちろん人間にも、どうしても動物を育てられない理由があるのは分かっている。 

一体どうすればいいのか分からなくなった。

キキがずっと鳴いている。

大きな声で鳴いている。

いなくなった赤ちゃんを探しているのだろうか。

鳴き叫ぶその声を聞くたびに、パソコンで見た映像が頭に浮かび、いてもたってもいられなくなり、眠れない夜が続いた。

キキのかわいい声も、いつの間にかガラガラ声に変わり、切なくなった。

言葉が分かるなら話をしたい。

私はキキをぎゅっと抱きしめた。

最近キキの姿を見かけなくなった。

もしかしてキキも保健所に連れて行かれたのかと一瞬ひやっとした。

それから1週間後、おなかに包帯を巻いたキキを見かけた。

鈴木さんがこれから赤ちゃんを産めない体に手術をしてくれたのだ。 

私は心から感謝した。

この先キキも赤ちゃんも捨てられずにすむという安心した気持ちと、

鈴木さん家のネコになってしまったんだという、さみしい気持ちとで複雑だった。

正直、とてもうらやましかった。

命を守るのは私が考えるほど簡単なことではない。

かわいいと思うだけでは動物は育てられない。

生き物を飼うということは1つの命にきちんと責任を持つことだ。

おもちゃのように捨ててはいけない。

だから、ちゃんと最期まで育ててやれるという、自信がなければ飼ってはいけない事を学んだ。

今も近所には何匹かの捨てネコがいる。

私はこのネコたちをかわいがってもいいのかどうか、ずっと悩んでいる

<引用終了>

 

・最後まで責任を持って育てる大切さ。

・動物の命の重み。

・殺処分の残酷さ。

小学生が感じた数々の想いが、痛いほど素直に伝わってきます。

同じ命なのに、わずか78円という値段がついてしまった動物たち。

残酷な現実に胸が痛みます。

谷山さんが書いた作文は、愛知県豊橋市の「話し方大会」で最優秀作品に選ばれたそうです。

今では、同市の道徳の授業に使われるなど、多くの子供たちに読まれているそうです。

日本では、毎年10万匹以上も殺処分されている現状があります。

動物を飼われた方なら、お分かりのように彼らは、本当に優しい心を持っています。 

言葉がしゃべれない分人間のように、知能が発達していない分

神さまは、彼らに純粋な心を授けてくださったのでしょう。

その純粋な心が私たちの心を癒してくれます。

その美しい心の波動で、認知症の方や

心を閉ざした方の、心が溶かされるのだそうです。

症状が改善するのだそうです。 

私たち人間側の身勝手でこの純粋な心を、もてあそぶことは許されません。

同じ地球で、同じ時代に、神さまから授かったイノチを持つ者同士 

・暖かな心

・優しい気持ち 

そんな心で接したいものですね。


2024年6月2日日曜日

3446「「民衆の敵は民衆」となってしまった日本」2024.6.2

  今回はIn Deepさんの2024年5月22日の記事を紹介します。


「もはや世界経済フォーラムもWHOも敵ではない。「民衆の敵は民衆」となってしまった日本」

https://indeep.jp/enemy-of-the-people-is-the-people/


日本社会を真に抑圧しているものの正体

世界各地で WHO パンデミック条約への政府単位での拒否や、人々の反対運動などが続いていますけれど、しかし、日本に関しては、「ちょっと状況が異なる」ということがあります。

日本は 7回目とかのコロナワクチン接種を日本独自の判断で行っている。

そんな狂気は WHO さえ一度も言ったことがありません。

つまり、日本の当局が行ってきたワクチン政策は、WHO を超えた愚行となっているわけで、これならむしろ最初から WHO に従っていれば、「まあ、3回ですべて終わった」あたりの話になっていたのかもしれないですが、しかし、「日本の特殊な事情」というのは、そういう政府サイドの無能の話だけでもありません。

政府サイドが無能なのは、どこまで遡ってもどこの国でも同じで、たとえば、2020年12月のアメリカのものですが、

「ワクチン学に無知な6人の米国大統領が大手製薬会社の迅速な実験ワクチンを推進した」

という 1976年の豚インフルエンザワクチンからの流れを書いた記事があります。ゲイリー・コールズ博士という方によるもので、以下はそこからの抜粋です。

アメリカでコロナワクチンの本格的な接種が始まろうとしていた頃です。

「ワクチン学に無知な6人の米国大統領が大手製薬会社の迅速な実験ワクチンを推進した」より

1976年の秋、ジェラルド・フォード政権が推進した新型インフルエンザワクチンは、接種後 48時間以内に数十人のアメリカ人が死亡した。

大量接種プログラムの解明を脅かす国民の不安を和らげるために、ジェラルド・フォード大統領はシャツの袖をまくり上げ、テレビカメラの前で注射を受けた。

この後、4000万人以上が大統領の指示に従った。しかし 2カ月後、キャンペーンは突然中止された。死者が増え、ギランバレー症候群に伴う麻痺など深刻な副作用を訴える被害者が数千人増えたためだ。

今日、バラク・オバマ、ジョージ・W・ブッシュ、ビル・クリントン、そして「ワープ・スピード作戦」のドナルド・トランプ元大統領は、自然な抵抗感を和らげるために、全国テレビでコロナウイルスワクチンの一部または全部を接種することを「勇気を持って」申し出ている。

ワクチン学を一様に読み書きできない元大統領たちが、自分たちの親族や子供、孫たちにも潜在的に危険なワクチンの接種を強制するという命令に喜んで従ったかどうかについては言及されていない。

40年前の 1976年3月24日、ジェラルド・フォード大統領は、ホワイトハウス記者会見室で迅速な豚インフルエンザ予防接種プログラムを発表した。


注射器を持っていたのは、ワクチン学をまったく知らないであろうホワイトハウス内科医ウィリアム・ルカシュ博士で、おそらく、職業生活全体を通して実際にワクチンを接種したことはなかったはずだ。

ワクチンに関するルール 1を忘れないでほしい。ワクチン学に知識のない医療従事者に、あなたの筋肉への注射を決して許可しないでほしい。

globalresearch.ca

現在も同じであり、それがアメリカ大統領であろうと、日本の首相であろうと、中国の元首であろうと、アラブの石油王であろうと、「全員ワクチン学の素人」です。

利権とか、そういう問題はあるだろうにしても、そんなことはどうでもいいことで、金銭がほしい者どもはもらっていればいいだけの話であり、そうではなく、「ワクチン学に関しては完全な素人の集団である」という現実です。

それが政治家というもので、それどころか、衛生管理を推進する…日本なら厚生労働省にしても、一部の人たちを除けば、見事な「ワクチン学の素人集団」です。

まずは、私たち日本人は、そういうグレート・モロン・イディオット団の支配下にあるということを認識しなければ、この 4年間の狂気という名を借りた完全な愚行は理解できません。

 

さらには、日本の場合は社会の特異な状況として、

「周囲との同調」というものが社会を支配します。

上層部がイディオットであり、そのモロン意見が軸となっているのに、テレビをはじめとしたメディアで流されることに、

「多くの人たちはちゃんと従ってしまう」わけです。

「なんで?」

と、2020年からずっと思ってきましたけれど、「結局、ある意味では民衆も、上層部と同等な価値観なんだ」という諦観を持たざるを得ないことが多かったです。

「抑圧されている民衆」という図式でなく、「民衆の総意が社会を抑圧している」という図式です。

作家の山本七平さんの 1973年の著作『ある異常体験者の偏見』に書かれてある以下の 80年前と同じことが、この 4年続いてるのです。

『ある異常体験者の偏見』(1974年)より

…そして、それが世の常識となる。するともうどうにもならない。動かすことも、ゆるがすこともできなくなる。

すると人びとはその不動の常識によりかかっていた方が楽だから、そこで思考を停止し、他に規定された判断をそのまま自分の判断とし、そしてその常識なるものに反対するものは自分の方から排除してしまう。ひどい時には村八分にしてしまう。

従って事実を知っている者はみな沈黙する。

いったんそうなると、もういいも悪いもない。その常識という虚構の上に順次に虚構が積み重ねられていき、しまいにはどんな誇大妄想狂も口にしないようなことを言っても、人びとは何の抵抗もなく受け入れてしまう。

そして、『私の中の日本軍』で山本さんは以下のように書いています。

『私の中の日本軍』(1975年)より

いつもながら同じことがくりかえされる…専門家のデータは無視され、何やらわけのわからぬ全く無根拠の一方的強弁にすべての人が唱和していくという…。なぜそうなるのであろう。不思議である。

ここに「専門家のデータは無視され」とありますが、この 4年間、「本当の知識を持つ人たち」はどうだったかというと、先ほどの『ある異常体験者の偏見』にありますように、

> 従って事実を知っている者はみな沈黙する。

となっていました。

もちろん、このことを非難するようなつもりはまったくありません。

誰にとっても、自己防衛は生存するための最大の案件ですので、専門家たちがだんまりを決め込んだのは、ある意味で当然のことです。

 

結局、大平洋戦争の時から日本人は変わっていないようです。

今後、仮にコロナワクチンについての何らかの「有害性の現実」が公になっていったとした場合、つまり「私たちはだまされていた」と知った後は、次は以下のようになると思われます。

伊丹万作『戦争責任者の問題』(1946年8月)より抜粋

…「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。

戦争責任者の問題

大平洋戦争時も、このコロナの 4年間も、「私たちの上にいたのは、どちらも同じイディオット(でありつつサイコパスでもあり)」という定理を知れば、「自ら知る、学ぶ」ということが、とても大事なことであることがわかります。

もちろん、できる範囲でいいんだと思います。

私だって相変わらず素人だし、ウイルス学も遺伝子学もいろんなことがわかりません。

でも、おそらくできる範囲でいいんですよ。

せめて、コロナワクチンを回避するくらいはそれで成し得る。

あるいは、次にやってくるかもしれない…それが鳥インフルエンザなのは、天然痘なのかは知らないですが(サル痘よりインパクトがあるので、接種希望者が多く出ると思います)、そういう予防医療を回避する意志くらいは持てる。

マスクは絶対にやめようということくらいは理解できる。

消毒もやめようということくらいは理解できる。

それで十分なんじゃないかと。

どれだけ政治や当局の上層部がイディオット的発言を繰り返そうとも、それが空気のように耳から抜けていくくらいにはなれる。

政治家や当局者の頭上から脳みそが転がり落ちているイメージくらいは見ることができる。

みんながみんな自分の頭から床に転げ落ちた脳みそをボールにしてサッカーに興じているような状況の中で、あのコロナの一連は始まったわけですから、そんなゲームに参加しないで生きられる程度にはなれる。

人によっては、脳みそのサイズが小さすぎて、耳から外に脳みそが落ちてしまった人たちもいたかもしれません。あまりに小さくて、本人は落ちたことにさえ気づかない。

あまりに小さくて、サッカーボールにさえできない。

「じゃあ、卓球だ」と、自分の脳から耳を通してこぼれ落ちた脳みそで卓球を始めるようなゲームに参加しなくて済む。

もっと脳みそが小さい政治家の人は、脳みそを六角形に生成して、サイコロにしてチンチロリンを始めるような人たちもいますが、そんな世界に生きなくて済む。

しかし、日本だけではなく、世界全体の人類についても日本ほどの特異な部分は仮にないとしても、それでも大差のない面はあるのかなとも思います。

「悪魔の勝ちだよなあ」

と最近思うことがありますけれど、あるいは、すでに悪魔的思考の人類は、悪魔そのものにもすでに勝っているのかもしれない。

19世紀のセルビアの予言者であるミタール・タラビッチ(1829 - 1899年)という人のクレナムの予言というものをよく思い出します。

そこから一部抜粋して締めさせていただきます。全文は、こちらの記事にあります。

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ミタール・タラビッチ「クレナムの予言」から抜粋

人間の魂は悪魔にのっとられるのではない。もっと悪いものにのっとられるのだ。

その頃の人間の信じているものには真実などいっさいないのに、自分たちの信じる幻想こそが真実だと思い込むのである。

人々はきれいな空気を嫌い、神々しいさわやかさと美しさは、人間が作った上下関係の階層関係の中で見えなくなってしまう。

しかも、これは誰かから強制されてこのようになるわけではない。人間は自分の自由意思からこうしたことを行うのだ。

知識が増大するにつれて、この世の人間たちは互いを愛したり心配したりすることはなくなる。

彼ら相互の憎しみはあまりに大きく、彼らは自分の親戚のことよりも、自分たちのもっている所有物や小物のことを気にかける。

人々は、自分の隣人の人間よりも、自分がもっているいろいろな機械や装置のほうを信頼する。

その時代には、多くの数字が書かれた本を読んだり、あるいは書いたりする者たちが、もっともよく物事を知っていると考えられる。

これらの教育のある者たちは、自分の人生を計算に基づいて送ろうとし、数値の命ずるままに行動する。

こうした人々の中にも悪人と善人が存在する。悪人は悪行を平気で行う。たとえば、空気や水、そして河川や土地を汚染し、このため人々はさまざまな病気で死ぬようになる。

善人で賢いものたちは、数字から導かれた努力にはなんの価値もなく、それはただ世界を破壊するだけであることを悟るようになり、数字に答えを見いだすのではなく、瞑想を通して真実を発見しようとする。

しかし、時はすでに遅い。悪意をもつものたちが全世界を荒らし回っており、膨大な数の人々が死に始めるからである。