2024年6月2日日曜日

3446「「民衆の敵は民衆」となってしまった日本」2024.6.2

  今回はIn Deepさんの2024年5月22日の記事を紹介します。


「もはや世界経済フォーラムもWHOも敵ではない。「民衆の敵は民衆」となってしまった日本」

https://indeep.jp/enemy-of-the-people-is-the-people/


日本社会を真に抑圧しているものの正体

世界各地で WHO パンデミック条約への政府単位での拒否や、人々の反対運動などが続いていますけれど、しかし、日本に関しては、「ちょっと状況が異なる」ということがあります。

日本は 7回目とかのコロナワクチン接種を日本独自の判断で行っている。

そんな狂気は WHO さえ一度も言ったことがありません。

つまり、日本の当局が行ってきたワクチン政策は、WHO を超えた愚行となっているわけで、これならむしろ最初から WHO に従っていれば、「まあ、3回ですべて終わった」あたりの話になっていたのかもしれないですが、しかし、「日本の特殊な事情」というのは、そういう政府サイドの無能の話だけでもありません。

政府サイドが無能なのは、どこまで遡ってもどこの国でも同じで、たとえば、2020年12月のアメリカのものですが、

「ワクチン学に無知な6人の米国大統領が大手製薬会社の迅速な実験ワクチンを推進した」

という 1976年の豚インフルエンザワクチンからの流れを書いた記事があります。ゲイリー・コールズ博士という方によるもので、以下はそこからの抜粋です。

アメリカでコロナワクチンの本格的な接種が始まろうとしていた頃です。

「ワクチン学に無知な6人の米国大統領が大手製薬会社の迅速な実験ワクチンを推進した」より

1976年の秋、ジェラルド・フォード政権が推進した新型インフルエンザワクチンは、接種後 48時間以内に数十人のアメリカ人が死亡した。

大量接種プログラムの解明を脅かす国民の不安を和らげるために、ジェラルド・フォード大統領はシャツの袖をまくり上げ、テレビカメラの前で注射を受けた。

この後、4000万人以上が大統領の指示に従った。しかし 2カ月後、キャンペーンは突然中止された。死者が増え、ギランバレー症候群に伴う麻痺など深刻な副作用を訴える被害者が数千人増えたためだ。

今日、バラク・オバマ、ジョージ・W・ブッシュ、ビル・クリントン、そして「ワープ・スピード作戦」のドナルド・トランプ元大統領は、自然な抵抗感を和らげるために、全国テレビでコロナウイルスワクチンの一部または全部を接種することを「勇気を持って」申し出ている。

ワクチン学を一様に読み書きできない元大統領たちが、自分たちの親族や子供、孫たちにも潜在的に危険なワクチンの接種を強制するという命令に喜んで従ったかどうかについては言及されていない。

40年前の 1976年3月24日、ジェラルド・フォード大統領は、ホワイトハウス記者会見室で迅速な豚インフルエンザ予防接種プログラムを発表した。


注射器を持っていたのは、ワクチン学をまったく知らないであろうホワイトハウス内科医ウィリアム・ルカシュ博士で、おそらく、職業生活全体を通して実際にワクチンを接種したことはなかったはずだ。

ワクチンに関するルール 1を忘れないでほしい。ワクチン学に知識のない医療従事者に、あなたの筋肉への注射を決して許可しないでほしい。

globalresearch.ca

現在も同じであり、それがアメリカ大統領であろうと、日本の首相であろうと、中国の元首であろうと、アラブの石油王であろうと、「全員ワクチン学の素人」です。

利権とか、そういう問題はあるだろうにしても、そんなことはどうでもいいことで、金銭がほしい者どもはもらっていればいいだけの話であり、そうではなく、「ワクチン学に関しては完全な素人の集団である」という現実です。

それが政治家というもので、それどころか、衛生管理を推進する…日本なら厚生労働省にしても、一部の人たちを除けば、見事な「ワクチン学の素人集団」です。

まずは、私たち日本人は、そういうグレート・モロン・イディオット団の支配下にあるということを認識しなければ、この 4年間の狂気という名を借りた完全な愚行は理解できません。

 

さらには、日本の場合は社会の特異な状況として

「周囲との同調」というものが社会を支配します。

上層部がイディオットであり、そのモロン意見が軸となっているのに、テレビをはじめとしたメディアで流されることに、

「多くの人たちはちゃんと従ってしまう」わけです。

「なんで?」

と、2020年からずっと思ってきましたけれど、「結局、ある意味では民衆も、上層部と同等な価値観なんだ」という諦観を持たざるを得ないことが多かったです。

「抑圧されている民衆」という図式でなく、「民衆の総意が社会を抑圧している」という図式です。

作家の山本七平さんの 1973年の著作『ある異常体験者の偏見』に書かれてある以下の 80年前と同じことが、この 4年続いてるのです。

『ある異常体験者の偏見』(1974年)より

…そして、それが世の常識となる。するともうどうにもならない。動かすことも、ゆるがすこともできなくなる。

すると人びとはその不動の常識によりかかっていた方が楽だから、そこで思考を停止し、他に規定された判断をそのまま自分の判断とし、そしてその常識なるものに反対するものは自分の方から排除してしまう。ひどい時には村八分にしてしまう。

従って事実を知っている者はみな沈黙する。

いったんそうなると、もういいも悪いもない。その常識という虚構の上に順次に虚構が積み重ねられていき、しまいにはどんな誇大妄想狂も口にしないようなことを言っても、人びとは何の抵抗もなく受け入れてしまう。

そして、『私の中の日本軍』で山本さんは以下のように書いています。

『私の中の日本軍』(1975年)より

いつもながら同じことがくりかえされる…専門家のデータは無視され、何やらわけのわからぬ全く無根拠の一方的強弁にすべての人が唱和していくという…。なぜそうなるのであろう。不思議である。

ここに「専門家のデータは無視され」とありますが、この 4年間、「本当の知識を持つ人たち」はどうだったかというと、先ほどの『ある異常体験者の偏見』にありますように、

> 従って事実を知っている者はみな沈黙する。

となっていました。

もちろん、このことを非難するようなつもりはまったくありません。

誰にとっても、自己防衛は生存するための最大の案件ですので、専門家たちがだんまりを決め込んだのは、ある意味で当然のことです。

 

結局、大平洋戦争の時から日本人は変わっていないようです

今後、仮にコロナワクチンについての何らかの「有害性の現実」が公になっていったとした場合、つまり「私たちはだまされていた」と知った後は、次は以下のようになると思われます。

伊丹万作『戦争責任者の問題』(1946年8月)より抜粋

…「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。

戦争責任者の問題

大平洋戦争時も、このコロナの 4年間も、「私たちの上にいたのは、どちらも同じイディオット(でありつつサイコパスでもあり)」という定理を知れば、「自ら知る、学ぶ」ということが、とても大事なことであることがわかります。

もちろん、できる範囲でいいんだと思います。

私だって相変わらず素人だし、ウイルス学も遺伝子学もいろんなことがわかりません。

でも、おそらくできる範囲でいいんですよ。

せめて、コロナワクチンを回避するくらいはそれで成し得る。

あるいは、次にやってくるかもしれない…それが鳥インフルエンザなのは、天然痘なのかは知らないですが(サル痘よりインパクトがあるので、接種希望者が多く出ると思います)、そういう予防医療を回避する意志くらいは持てる。

マスクは絶対にやめようということくらいは理解できる。

消毒もやめようということくらいは理解できる。

それで十分なんじゃないかと。

どれだけ政治や当局の上層部がイディオット的発言を繰り返そうとも、それが空気のように耳から抜けていくくらいにはなれる。

政治家や当局者の頭上から脳みそが転がり落ちているイメージくらいは見ることができる。

みんながみんな自分の頭から床に転げ落ちた脳みそをボールにしてサッカーに興じているような状況の中で、あのコロナの一連は始まったわけですから、そんなゲームに参加しないで生きられる程度にはなれる。

人によっては、脳みそのサイズが小さすぎて、耳から外に脳みそが落ちてしまった人たちもいたかもしれません。あまりに小さくて、本人は落ちたことにさえ気づかない。

あまりに小さくて、サッカーボールにさえできない。

「じゃあ、卓球だ」と、自分の脳から耳を通してこぼれ落ちた脳みそで卓球を始めるようなゲームに参加しなくて済む。

もっと脳みそが小さい政治家の人は、脳みそを六角形に生成して、サイコロにしてチンチロリンを始めるような人たちもいますが、そんな世界に生きなくて済む。

しかし、日本だけではなく、世界全体の人類についても日本ほどの特異な部分は仮にないとしても、それでも大差のない面はあるのかなとも思います。

「悪魔の勝ちだよなあ」

と最近思うことがありますけれど、あるいは、すでに悪魔的思考の人類は、悪魔そのものにもすでに勝っているのかもしれない。

19世紀のセルビアの予言者であるミタール・タラビッチ(1829 - 1899年)という人のクレナムの予言というものをよく思い出します。

そこから一部抜粋して締めさせていただきます。全文は、こちらの記事にあります。

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ミタール・タラビッチ「クレナムの予言」から抜粋

人間の魂は悪魔にのっとられるのではない。もっと悪いものにのっとられるのだ。

その頃の人間の信じているものには真実などいっさいないのに、自分たちの信じる幻想こそが真実だと思い込むのである。

人々はきれいな空気を嫌い、神々しいさわやかさと美しさは、人間が作った上下関係の階層関係の中で見えなくなってしまう。

しかも、これは誰かから強制されてこのようになるわけではない。人間は自分の自由意思からこうしたことを行うのだ。

知識が増大するにつれて、この世の人間たちは互いを愛したり心配したりすることはなくなる。

彼ら相互の憎しみはあまりに大きく、彼らは自分の親戚のことよりも、自分たちのもっている所有物や小物のことを気にかける。

人々は、自分の隣人の人間よりも、自分がもっているいろいろな機械や装置のほうを信頼する。

その時代には、多くの数字が書かれた本を読んだり、あるいは書いたりする者たちが、もっともよく物事を知っていると考えられる。

これらの教育のある者たちは、自分の人生を計算に基づいて送ろうとし、数値の命ずるままに行動する。

こうした人々の中にも悪人と善人が存在する。悪人は悪行を平気で行う。たとえば、空気や水、そして河川や土地を汚染し、このため人々はさまざまな病気で死ぬようになる。

善人で賢いものたちは、数字から導かれた努力にはなんの価値もなく、それはただ世界を破壊するだけであることを悟るようになり、数字に答えを見いだすのではなく、瞑想を通して真実を発見しようとする。

しかし、時はすでに遅い。悪意をもつものたちが全世界を荒らし回っており、膨大な数の人々が死に始めるからである。