2024年6月6日木曜日

3450「怒る人々」2024.6.6

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年05月24日の記事を紹介します。


「怒る人々」


夜が明ける前の闇が、最も暗いと言われます。

今までの嘘が全て明らかにされてしまう水亀座の時代に入り

今までの思考方法の残骸にしがみつく人々と

新しい精神性の復活の時代を生きようとする人々と

今はまさに最後のせめぎあいのような、夜明け前の暗さなのかもしれません。

・心の大切さ、周りの人々との調和を一番に考える人と

・自分さえよければ、お金さえあれば。。 

自分さえよければ。。。の人々は、変わってしまった時代の流れに沿いませんし、

自分の心の内の良心が、常にシクシクと痛んでいますから、余裕がありません。 

人を非難し、貶め、中傷し、デスることで無意識にマウンティングし、

相対的に自分の地位や環境を安泰にしようとします。 

そして、常に心に怒りを抱えています。 

常に、怒りを振りかざし、ちょっとしたことで、正義感の隠れ蓑をまとい、怒りを爆発させます。

社会で何か事件が起これば、自分だけは正義の立場に立ち、その事件の被告を追及し、憎しみをバラまく。 

表面的に見れば、誰しも忌み嫌う事件の加害者、

その人をどんなに憎み、正義の剣を振りかざそうと、誰も文句を言わないことでしょう。 

付和雷同し、煽る人も出てくるでしょう。

誰かを悪とみなし、激しく追及することで、自分自身の留飲も下がることでしょう。

でも、そこには、愛がないのではないでしょうか? 

私たちを作られた神様は、子供たちの誰かが、罪を犯した時や、他人の心身を蹂躙した時、

その人間を憎み、糾弾し、一瞬で地獄に落とすでしょうか?

更正の機会を与えないでしょうか?

二度と許してはくれないでしょうか?

その人を糾弾し、憎しみをぶつけた私たちはたとえ立場が変わろうと、自分だけは決して、

そのような行為を行わない、いつも変わらず、正義の人なのでしょうか? 

たとえ正義の名の下であろうと、人を憎む者は、自分自身を憎む者です。

人を憎む者の心には、憎しみが宿ります。 

その憎しみの種は、だんだんと自分自身の心身や、取り巻く環境に浸透して行きます。 

その結果、環境は、だんだんと憎しみ色に染まり、良くない出来事が続くでしょう。 

小林正観さんがおっしゃるには、憎しみの心が身体に出た場合、関節の疾患として強く表れるそうです。

それでは、今日のお話は「正義感の落とし穴」ということで、まじめな人、一途な人が陥り易い、落とし穴について書きたいと思います。 

小林正観さんの著書よりご紹介します。

<引用開始>


真面目な人ほど、正しさを追い求めてしまいます。

その結果、敵意と憎しみが湧いてくるというように、人間の心が創られているのかもしれません。

社会を四十年観察してきた結果、真面目な人ほど、人生を暗く辛いものにしていることが読み取れてきました。 

心の勉強をしていった結果として、いろいろなことを学び、心正しい人になり、心正しい行動をするようになっていきますが、どの人も九十八点まできたときに陥りやすい罠があります。

ある大きな災害のときのこと。

自分の家や土地すべてを売り払って、数千万のお金を作り、被災地で炊き出しをした

農家の方がいらっしゃいました。

ボランティアで一日三食、合計二千四百食を毎日作り続けました。

この話を聞いた人たちも募金をして、半年ものあいだ、炊き出しを続けることができたそうです。

半年後、仮設住宅などができ、必要がなくなったので、家族のもとへと帰っていきました。

この話を聞き、日本各地の商工会議所などから講演依頼がくるようになりました。

そこで、このような話をされたそうです。

「あまりにも悲惨な状態だったので、家や土地を売り、乗り込んでいきました。

いま聞いている皆さんは、会社があり、社員がいて、預貯金もある。

そういうものを全部売り払って、なぜ同じことをしなかったのですか?」

この方は、心温かくて困った人のためにやっていこうという、神のような心を持った方でしたが、ですが、この一言を言った瞬間、会場はシーンと静まりかえったそうです。

そして、同じ主催者から、二回目の講演を頼まれることはありませんでした。

自分は喜ばれるように生きているのに、周りの人は呼応した生き方をせず、自分勝手に生きている。

「あの人がそう思うのが許せない」という、正義の「敵意」「憎しみ」の小さな芽は、

誰の心の中にも宿っています。

他人を憎む「心」そのものが、争いの種になっています。

 

他人や世の中をどうするかより、自分の中の敵意と憎しみをなくし、太陽のように明るく生きていくこと…。

よい仲間と明るく楽しくいたいのならば、目の前の人に対して 

・自分と同じように振る舞え

・同じ価値観になれ 

と強制するのをやめる。

よい話を聞いて、周りの人にたくさん広めようと思った瞬間、よからぬものが入り込んでいる可能性があり、運とツキが逃げていくようなのです。

人間は、ろくなものでもなくて、大したものでもないと思うことで、心地よい方向にいけるのかもしれません。

<引用終了>

 

本当に、正義感が強く、良いことをしよう、他人の役に立とうと、一所懸命な人、

ある種のストイックな人、修行僧のような人が、非常に陥り易い罠です。

自分は、これだけしているんだ。

どうして貴方は同じようにしようとしない?

自分の価値観を人に押し付け、強制する事・・

どんなに自分が良いと思うことをしようと、それを他人に強制したりしては、何のための良き行動か解りません。 

むしろ神様から遠ざかる行為です。

マザーテレサが仰るように、私達が、誰か人にした事、それは、本当は人ではなく、神様にしたことです。

神様 対 私達のできごとです。

ですから、それを恩に着せることも、自慢する事も、他言する事も必要ありません。

ましては人は、その人に一番適した道のりを、その人のペースで進んでいます。

その人に対して、如何に自分が正しいと思ったことであっても、押し付けては台無しです。

正義感とは、不正を憎み、正義を尊ぶ気持ちのこと。

でも、そこには憎しみの心が潜み、そこには愛や温かさの芽はありません。

正義感の強い人は、周りの人といつか衝突することになります。

自分自身の心身も蝕みます。

その言い分がどんなに正しいことであっても、人には人の、それぞれ事情があり、できることと、できないことがあるからです。

どんなに正しいことであっても、押しつけられたら誰でも嫌になります。

正義感など振りかざさず、自分の主張を「俺が俺が」と言い張らず、自分の生き方が温かく、

明るくキラキラと輝いていて、そこに優しさや、愛を感じる事が出来れば、その後ろ姿に感動し、人は共感して下さいます。

北風と太陽のお話のように。

貴方は、ご自分の主義主張を人に押し付けてはいませんか?

頼まれてもいないのに、人の生き方に口をはさんではいませんか?

人の生き方を、良い悪い、高い低いで測り、ジャッジしていませんか?

その正義感の底に、憎しみの心は潜んでいませんか?