今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年06月14日「七夕のお願い」と2024年06月17日「欲張りな人間」の2つの記事を紹介します。
「七夕のお願い」
毎年この季節に掲載している記事をご紹介します。
7月に入ると七夕。
今日は子供たちの美しい心のお話です。
美しいものを見たり、聞いたり、触れたりした時に、
私達の心のどこかで共鳴が起こります。
そして同じように、醜いものを見たり、聞いたり、
考えたりと 心に入れてしまうと、その逆もあります。
人間の心は
何処までも、高みに登る事も出来れば、何処までも、闇に沈むこともできます。
出来れば、私達の心の波長を
真善美に合わせておきたいものですね。
それが、一番自然であり、苦しまなくて済みます。
幸せになる一番の近道だからです。。
でも、落ち込んでも大丈夫です。
それも結局は、予定調和に至る道ですから・・
私たちの内に居らっしゃる神様は、決して見捨てたりしません。
何時も傍らにおられます。
さて、始めます。
知的障害の兄を持つ小学1年生の男子児童のお話。
入学式の日、その児童の席のとなりに、小児麻痺で左腕が不自由な同級生の男子児童が座りました。
最初の体育のときでした。
手が不自由な小児麻痺の児童は、着替えるのに30分もかかってしまいました。
時間がかかっても、先生は、何も言わずこの子を放っておくことにしました。
でも、二度目の体育の時間には、この子も他の子といっしょに
きちんと並んで待っていました。
「どうしてだろう?」不思議に思った先生は、次の体育の前の休み時間に、
そっと教室の外から見ていました。
すると、隣の児童が、一生懸命に手の不自由な子が着替えるのを手伝ってあげていたのです。
そして、その子が着替え終わると、二人で校庭に元気よく駆け出していったのです。
先生は、やはり何も言わずに見守ることにしました。
七夕の日のことです。
ちょうど授業参観日でした。
先生は子どもたちに願い事を書かせて、それを教室の笹に下げておきました。
お母さんたちが集まったところで、先生は、一枚一枚、短冊を読んできました。
一年生ですから、
「あのおもちゃかってちょうだい」
「おこずかいちょうだい」
「まんが本がほしい」
というようなことが書いてありました。
その中に一枚だけ、こう書かれていました。
「かみさま、ぼくのとなりの子のうでをなおしてあげてください」
あの世話をしていた、児童が書いたものでした。
先生は、この一途な祈りを読むともう我慢できなくなって、あの体育の時間のことを、
お母さんたちに話しました。
小児麻痺の子のお母さんは、
「子どもがどんなに教室で、不自由しているのだろう」
「迷惑をかけているのだろう」
「申し訳ないことをしてしまった」
と悩みながらと教室に入れずに
廊下からじっと様子を見ていました。
が、先生の話を聞いたとき、突然、廊下から飛び込んできました。
教室に入るなり、ぺったりを床に座り、この児童の首にしがみついて絶叫しました。
「坊や、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう。ありがとう、ありがとう、ありがとう。・・・・」
その声が いつまでも教室に響き渡ったそうです。
人を思いやる気持ちって、本当に美しいですね。
「欲張りな人間」
人間は弱いので、何か困ったことが起きたり、苦境に立たされれば
・神様仏様に頼ったり
・高額な詐欺に付け込まれたり
・お金に糸目もつけず、「力があるぞ」と宣伝する人に頼ったり
とにかく
・自分ではなく
・自分の内にいらっしゃる神さまではなく
自分以外の外にある、他人や、物に頼り願いや欲望を満たそうとします。
でもそれは仕方のないことです。
しかし、その欲には限りがなく、いつの間にか頼った相手に心理的に依存し、また頼られた相手は無意識の内に支配しようとします。
支配-依存の 関係が生まれます。
この両者は、全く別物に見えますが、自分の発している波長が同じであるために同調して
いつの間にか引き寄せられていきます。
両者は、波長が同じで、波長の山であるか?谷であるかの違いだけです。
この関係が長く続き、強化されてくると、ますます心の中に広がる黒い闇に気づけません。
ご利益を求め、殺到する参拝者、頼られたものに・・集まり、うなるお金
何時しか、自らも神様に対する崇敬の念を忘れ、自我の心が、極端にまで拡大し、神の力を、己の力と誤解する人々。
神々は、そんな人間臭いドラマをどのようにご覧になっていらっしゃるのでしょうか?
・願い事が叶います
・商売が繁盛します
・病気が治ります
・学校に受かります
そう喧伝されれば、藁にもすがりたい私たちは、いっぺんに飛びつくことでしょう。
もしかしたら、見えない何者かの力によって、一時は、願いがかなったかに思える時期もあるかもしれません。
ですが、それも長続きはしないでしょう。
しばらくすれば、また同じ苦しみを味わうことでしょう。
他人に頼り、自分自身の心を変えようとしないからです。
ですが、私たちのそのような状況でさえ、私たちが生まれてくる前に、自分で設定してきた状況であり、人のせいではありません。
何故、そのようなことをあえて人生に仕込んできたかと言えば
・その悩み苦しむ時期と、
・外の力に頼る時期と
・結局はそれがうまくいかない
ことを経験することで、
・私たちの魂が学習し、磨かれ、
・より一層 輝きを増し
・神々に近づけるからです。
それなのに、その貴重な経験を、苦しいから嫌だからと、お金をかけ、人に頼り、すっとばし、一瞬だけ状況を変えてもらっても、私たちの心はちっとも変わらず輝きもせず、かえって依存の心が、闇のように広がり、氣枯れたもの(神さまの純粋な気が覆われてしまったもの)に魂が覆われてしまうことでしょう。
それは、魂の視点 、神々の視点から見て道を外れているからです。
神様は、私たちの魂を輝かせるために
「その場所で自分なりの花を咲かせるのですよ」
そう言って、今の状況に私たちを置いてくださいました。
神々のなさる奇跡とは華々しいサーカスのように人々を驚かせ、一瞬のうちに私たちを救い出してくれる・・・そういった安直なものではないと思うのです。
奇跡とは、私たちが、例え苦しい環境に置かれていようと、自分の置かれた立場で、一所懸命前向きに、周りの方々や神々に感謝しながら笑顔で、しっかりと生きていくこと。
そして日々の平凡な生活のうちに、自分や、身近な周りの方々の心の中に
・温かな優しさ
・思いやり
そんな神様の心を見つけた時
そして、それを感じ取った自分、自分の中の神様に気づいた時
神々は、私たちの心に奇跡が起きた・・
そうお思いお喜びになるのかもしれません。
人々の耳目を集める
・どんな凄いことをしようと
・どんな技や知識を身に着けようと
・どんなに地位や名声を手に入れようと
・どんなに経済的に成功しようとも
自分の心の中に 神々を見つける奇跡には敵いません。
神様は、私たちの魂を輝かせるために
「その場所で自分なりの花を咲かせるのですよ」
そう言って、今の苦しく見える状況に私たちを置いてくださいました。
私達の魂の誕生の時に頂いた神様の心。
・その心を清らかにしておくこと
・自らの足で立とうとすること。。
それ以上に、この人生に奇跡を起こす術はありません。