2017年6月6日火曜日

962「祈り旅3」2017,6,6

 天外伺朗さんのフェイスブックに今回の旅の事が書かれています。参加者の方々の書き込みも、映像、写真も沢山あります。天外さんの、5月20~22日、「日本列島祈りの旅、青森編」の話題の項目から天外さんの文章も少し紹介しながら巡りをお伝えしていきます。

「アイヌの女性長老、アシリレラさん、真言宗の僧侶、口羽和尚、高知の舞姫、大村憲子さん、先住民のフィロソフィーを伝えている亭田歩さん、宇宙語でのチャネリングをするキムユキさんなど50人で、虐殺されたアイヌの怨念を供養する旅を続けている。」(「日本列島祈りの旅、青森編」の話題①)
 
「これは初日の一番の供養。アイヌの武将が処刑され、首と胴体を離されて埋葬された場所、小金山神社。
 虐殺が起きると、その怨念を鎮めるため、神社を建立する、というのが大和民族の方法論。多くの人が神社で手を合わせるが、自分のことを祈るのではなく、埋葬された人の供養を祈ってほしい。
 この社は首が埋められた場所。胴体が埋められた場所は30m下にある。いまでも人が入ると小刻みに揺れる。ポルターガイスト現象。アシリレラさんが20年前に来た時には、ものすごく揺れたという。
 アシリレラさんが胴体が埋められた場所で祈り、口羽和尚が首を埋められた場所で祈った。見える人の話だと、なかなか首がつながらなかったのだが、口羽和尚が車から五輪の塔を持ってきて地面に突き刺すとうまくつながり、御霊は無事昇天した。
 首と胴体を別々に埋葬するというのは、中世の魔女でも見られるが、死後の霊力を封じるおまじない。相当に霊能力の高い人だったと推定される。小金山神社。アイヌの祈りと真言宗の祈りがうまく融合して、首と胴体がつながり、無事に昇天した直後の写真。光がまぶしい。(「日本列島祈りの旅、青森編(5月20~22日)」③)

 入内観音堂から次の目的地は五所川原市の高楯城跡です。ここも以前に訪れていますが津軽藩の始まりの時に強く抵抗をし、攻防戦が長く行なわれ、最後は惨殺され落城したところです。
 この経緯は以下の様にあります。

「康永3年(1344)、後醍醐天皇の側近万里小路藤房の息子である藤原景房によって築城されましたが、天正16年(1588)大浦為信によって滅ぼされ、万里小路藤房より10代目の城主朝日行安は自害し、飯詰城は廃城。一族も徹底的に捜索された末に惨殺され朝日一族は滅亡。
 なお、大浦氏により包囲された際には城内に通じる水脈を絶たれましたが、白米で馬を洗って見せるなどの必死の抵抗を見せたという言い伝えがあります(白米伝説)。
 また、糠塚川に鎧を捨て逃亡を企てるも力尽きて主従は自害したという逸話が残り、鎧留の由来となっているようです。
 落城の際に城址周辺では鎧武者や女の亡霊が現れたり、日照りや長雨などの天候不順に見舞われ、これは朝日一族の祟りであると噂されたそう。

 高楯城址由来の一部を紹介します。
「天正十六年六月十六日高楯城主従は玉砕の意を決し、先づ以て老臣女童を密かに秋田旭川の地に脱難せしめたる後、高楯城に残る寵城の兵は主従倶に二百七十餘名なり。夜明ける辰の刻、城主自ら弟なる十三湊判官樺沢団右衛門藤原行貞殿と水盃し、自ら高楯城に火を放つ。軍神麻利支天の如く大浦軍の陣営に斬込みて、刀折れ血の流れ出づる限り戦ふて壮烈な武人の最期を遂げたり(以上東日流外三郡誌より)。
 歌人菅江真澄翁の曰く、『ものふのかけし鎧かふちなみかよせてをまたで泡と消えけむ』。東日流外三郡誌によるもの…津軽一統志では朝日氏と為信の戦いについて全く記されておらず、また、私の愛読書である『津軽ふるさと散歩』にて、外三郡誌と高楯城についての疑問点などが約2ページに渡って記述されているので、興味のある方は読んでみてください。」

 津軽藩は過去の歴史書を抹消、処分し、己が歴史書にはこの高楯城の事には一切触れていませんが、何時の世も勝者の歴史のみがまことしやかに作り上げられ改竄されるのが常なのですね。

 高楯山妙龍寺の山門を観て裏手の山に登ります。お城の跡地に城の形の記念館がありますが今は機能していないようです。その奥の草むらで儀式を行いました。大きな木に向かい皆さんが座り、火を焚いて、レラさんのお祈り、口羽和尚の施餓鬼供養のお祈りです。





 儀式は40分以上になります。無事に終わりました。帰りの道にはりんごの木が花を咲かせていました。