坐禅は本当に不思議で有難いものだと思います。イヤイヤ始めた坐禅でも、坐禅という形(印)を体で組み上げさえしたら、ちゃんと「坐禅の世界」が開けます。『ああ有難いなあ。安楽だなあ。これが本来の自分で、世界の本当の姿なんだなあ』としみじみ実感出来ます。
「坐禅して開ける世界」はそういう安らぎと自己受容の世界です。軽やかで、温かくて、心と体が微妙に細やかに振動していて、その波動の振動数がとても高いのです。
坐禅の心境のレベルが一段と高くなった際の振動レベルはついに「光」の周波数帯域にまで突入して、自身の身心から四方八方に光を放っているのが分かるようになることさえあります。いつもそうだというのではなく、坐禅はそんな状態を目指して坐るのでもありませんが…。
坐禅で開けてくる世界に比べると、地上世界での心の波動は荒っぽくて重く、振動数が低いのです。なぜ地上世界での心の振動数が低いのかというと、心が重いからです。
物理学の方から説明してみましょう。質量が大きな物体と質量が小さな物体があるとします。この二つの物体を叩くと、質量が小さな物体の方が振動数が大きい、つまり高い音が響きますね。それに反して質量が大きな物体を打った際に出る音は振動数が小さな、鈍い、低い音となります。
実は心は絶えず振動していて、自らが波源となって世界に波を送り出しています。その心が放つ波動が結晶化して次の世界を形成するのです。
このような「想い→心の振動→世界形成」のメカニズムを研究し、解明したのが、弥勒菩薩(マイトレーヤ)を始祖とする仏教の唯識学派です。
坐禅中に心が放つ波の振動数が高いというのは、坐禅中は心の重荷がいったん心の荷台から降ろされて、心の質量が小さく、軽くなっているからです。心の質量が小さくなっているので、坐禅中に心が放つ波は高い振動数となっているのです。つまり、坐禅中は、日常の地上世界と比べて「心の質量」が小さくなっているのです。
実は、ニュートンさんは、物体の運動の物理法則を三つにまとめました。それは、先ほど検討した「慣性の法則」、それから「運動の法則」、「作用・反作用の法則」です。
「運動の法則」は、「ニュートンの運動方程式」とも呼ばれ、式で書くと、
(力)=(質量)×(加速度)となります。
(加速度)とは、物体の運動の速さの変化の度合い、あるいは方向転換の度合いの大小を表わします。「いのちの運び(運命)の法則」としては、運命の方向転換が出来る度合いを表わしていますね。
この運動方程式によると、同じ(力)を加えても、物体の(質量)が 大きいと、(加速度)は小さくなってしまいます。「いのちの運び(運命)の法則」としては、「心の積荷=質量」が大きいほど、運命転換が難しい(加速度が小さくなる)という事を示しています。逆に、「心の積荷」が降ろされて、心が軽やかになると、運命の方向転換が容易になるということも分かりますね。
「いのちの運び(運命)の法則」における(力)に相当するのは、「意念」です。こうしたいという意志が強いほど、その想いが繰り返されるほど、運命の方向転換に必要な(力)は強くなります。
坐禅すれば、取りあえずその間だけは、過去から積み重ねてきた心の重荷が荷台から降ろされて、心がサッパリ軽くなるのです。この状態を「無心」といいましたね。
そうすると、地上世界では(慣性=心の重さ)が(力=運命を変えようとする意志)より大きくて、必死で力を加えても「いのちの車」のハンドルをちっとも回すことが出来ず、運命の方向を変えることが出来なくても、坐禅中は(慣性)が小さくなっているので、同じ(力)でも、軽々とハンドルを切ることができ、「いのちの車」が進む向きを変えることが出来るのです。