「運命の三つの法則」
歳をとると眠りが浅くなって、真夜中に眼が覚めてなかなか眠れなくなってしまうということが増えてきます。心配事を抱えていれば、ますます眠れなくなってしまいますね。
そんな時は、『どうせ眠れないのだから…』と思い切って坐禅を始めることにしています。
取りあえず30分のつもりで坐ります。それが何時間にもなるという時もたまにはあります。納得出来るまで坐禅して再び寝床に入ると、たいていの場合、すぐコトンと寝入ってしまいます。有難いものです、坐禅を習慣にしておいて本当によかったなあと思います。
坐禅を始めようと決心する前は、『坐るのはイヤだなぁ』と寝床の中でしばらくグズグズしています。特に冬は寒いのでなかなか決断出来ません。
なぜ坐禅がなかなか始められないのかというと、地上世界は「慣性」が強くはたらく世界なので、しばらくある状態が続くと、それが習慣性を帯びてしまって、そこから切り換えて別のことを始めるのが困難になってしまうのです。
これは物理学の方では「慣性の法則」と呼ばれています。たとえば、ボールが一直線上を転がっているとします。そのボールに力がはたらかなければ、このボールはこれまでの真っ直ぐな軌道を同じ速さのまま、さらに進んでしまいます。進路を右か左に曲げる、あるいは速さを変えるためには、力を加える必要があります。
質量が小さなボールだと、少しの力でボールの進路を大きく変えることが出来ますが、質量の大きなボールだと、少々力を加えたくらいでは進路を変えることは出来ません。それで、状態が変化するのを妨げる性質、つまり「慣性」は、「質量」に比例するとされています。
物体の運動だけではなくて、大きく地上世界における「いのちの運び(運命)」においても、物理法則に相応する「慣性の法則」がはたらいていることが分かります。私の坐禅する前のグズグズなんかは、心理的な「慣性」の一例ですね。
「物理の法則」の場合は、「慣性」は「質量」に比例しましたが、じゃあ「いのちの運び(運命)の法則」においての「慣性」は何が相応するのでしょうか。実はそれは「心の重さ」なのです。
「心が重い人」は、質量が大きい物体の場合と同じように、運命の軌道をなかなか変えることが出来ないで、過去の運命の軌道の延長上をそのまま進んでしまいがちになります。「運命は生まれた時から決まっているんだ」などと断言する人は、このような「心の重い人」だけを観察してそのように思い込み、信じ込んでしまっているのです。
では、「心が重くなる」のは、どうしてなのでしょうか。それは「つみ」に拠るのです。 「つみ」とは「積み」です。人生で積み上げてきた重苦しいものの多さが、運命の方向の改善にブレーキを掛ける「重荷」となります。これが物理法則の場合の「質量」に相当します。過去に蒙った負の体験が心に残したトラウマやコンプレックス、過去にやってしまった、人や組織に危害を加えてしまった体験などが、心に残存する「重い固まり」になります。この過去というのが、現世のもののみではなく「過去世」という場合もあるのでやっかいです。
それに加えて、親の過度の期待や先祖から託された遺産などが重荷になってしまうということもあります。過去の成功体験(過去の栄光)が心の重荷になってしまうという場合もあるのです。心にそういう「重荷」がたくさんあればあるほど、運命の方向を変えることが困難になってしまいます。