2025年9月27日土曜日

4028「青空ひろば」2025.9.27

今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最新記事を紹介します。


1555 2025.09.10

あせらないこと

しっかり充電しないで 走り出しても すぐ止まってしまう

人より出発は おくれても

まず、しっかり いのちの充電に 心がけよう


1554 2025.09.09

誰もが 傷つき、悲しみをかかえながら

それでも 思いかえして けんめいに生きている

そんな自分や人の姿が 何ものにもかえがたく

とうとく、ありがたい


1553 2025.09.08 

自分の力で やれるところまでは 精一杯努力して

でも自分の能力には 限界があるので

手にあまるところは 神さまにお任せして 悔いはない

それが人としての 正しい生き方ですね


1552 2025.09.07

みんな 一体のいのちと 分かれば

私が私であり あなたがあなたである

その尊さが 身に染みて分かる


1544 2025.08.27 ~ 1551 2025.09.06 

<Aさんの事例>

・Aさんは、精神世界については詳しく、その世界の悟りもあり、能力者でもある。

・セラピストとして世に出ようとした。

・次々色んな妨害が入り、お金もなくなって、親の家に引きこもってしまった。

・眠ると光いっぱいで、調和した絶対の世界にゆける。しかし、目覚めるとそこは現実の理不尽な世界で、苦しくてしょうがない。

・もう、いっそのこと、光に満ちた世界に行ききりにしてしまおうかと思う。

・大敬先生が前世のことや、業(いのちの傾向性)について語られるのも、また、徳を積むというような話をされるのも方便の教えで、本当は、あの光いっぱいの、絶対の世界があるだけなんだと言っておられる。


<Aさんへの道元禅師のアドバイス>(正法眼蔵『光明』の巻より)

<光明の巻 第1公案>

ある時、雲門(うんもん)禅師は弟子たちに問いを投げかけた。

「どの人も、<尽有(じんゆう)>というあり方が出来れば、光明的存在なのだ。

しかし、この光明は見ようとしても、暗昏々(あんこんこん)、決して見ることはできない。

さて、光明的存在であるというのは、どういうことなのだろうか」

雲門禅師は、20年の間、この質問を弟子達に投げかけ続けたが、弟子達は、誰も答えられなかった。 

そこで、一番弟子の香林(きょうりん)が、答えを示してくださるよう、師にお願いした。

雲門は「僧堂(そうどう)・仏殿(ぶつでん)・厨庫(ちゅうく)・山門(さんもん)」と、解答を示された。


<光明の巻 第1公案の解説>

『尽有(じんゆう)』=『いのちの全体』というあり方

人が『尽有(ことごとくが有り)』というあり方で行動できているとき(全体作用(ぜんたいさゆう)できているとき)、その人は『光明的存在』となっている(その人の今・ココ・私の全体から「光明」が放たれているのだ)。

Q.なぜ、この光明は見ようとしても、決して見ることはできない(暗昏々)のでしょうか?

A.行為の今・ココにある光明→あなたは傍観者ではなく、当事者だから→自分が放っている光明は自分には見えない(自分の顔は自分には見えない)。「傍観」ではなく、「当観」だから。(続く)


1548 2025.09.03 (前日の続き)

Aさんが光を見るというのは、自身が「光」に成りきれていないから(光を外に見ている)→「尽有」というあり方が、まだできていないから。 

「尽有(全体作用)」になりきっている人の実感→真っ暗闇の中、何が何やらちっとも手ごたえがない。知らないうちに、手が動き、足がはたらいて、投球というひとつの動作が完了している。→それなのに、その投球が、その場、その時、その相手にふさわしい、最高のピッチングになっている。

Q.なぜ、雲門禅師は、光明とは「僧堂・仏殿・厨庫・山門」のことだと解答したのでしょうか?

A.「尽有(じんゆう)」に成りきれている時、自分にはさっぱり分からないが(当事者だから)、自分から世界に向けて「光明」が放たれており、その光明によって、自分が関わっている環境のすべてが、必要に応じて鮮明に照らし出される。→だから、今ココで、最高の行動が取れる(しかし、自分にはすべてが暗闇の中のまま)→「明暗双々底(めいあんそうそうてい)の時節(じせつ)」という禅語がある。


<光明の巻 第2公案>

雪峰(せっぽう)禅師が説法の場(僧堂)で、弟子たちに向かって語られた。

「この僧堂で今君たちと出会っている。しかし、それ以前に、もう君たちとの出会いは済んでいるのだよ」 

この雪峰禅師の話の後、弟子の保福(ほふく)と鵞湖(がう)が問答した。

保福は言う「僧堂以前のことは置いておいて、では、望州亭や烏石嶺との出会いや対面についてはどうなんだ」

鵞湖は、駆け足で自室に帰っていった。

保福は、僧堂に入っていった。

Q.「光明」が説かれていないのに、なぜこの公案は『光明の巻』に採り上げられているのでしょうか?

A.「光明」=「尽有」

「尽有」=「今・ココの一動・一作」にすべての時間と空間を含んでいる。そのすべてを光明で包みこんでいる。宇宙中の、世界中のすべての存在と、今・ココの「一行」において対面し、一体となっているのだ。

鵞湖の駆け足の「今・ココ」も、保福の僧堂に入ってゆく「今・ココ」も、光いっぱいで、全時空・全存在を温かく包みこんでいる。(続く)


1551 2025.09.06 (前日の続き)

<光明の巻 第3公案>

地蔵院(じぞういん)真応(しんおう)禅師が言われた。「ご覧、典座(てんぞ、食事係)が庫堂(台所)に入ってゆくよ」 

(解説)

台所で、皆のために食事を調理する。もしその典座の一動・一作が「尽有」になっていれば、その愛の光明が全時間、全空間を包みこんでいる(癒やしている、養っている)。 

声高に世界平和を叫び/世界を乱している人がいる

トントントン/台所でキュウリを切りながら/その音で世界を救っている人がいる

(完)


1543 2025.08.25

<ティヤール・ド・シャルダン -織物のたとえ->

(註)「ティヤール・ド・シャルダン」:フランスのカトリック司祭(イエズス会)、古生物学者、地質学者、思想家、「キリスト教的進化論」を提唱。北京原人の発見者。 

「すべての人は、時を超えて1つの織物を共に織っているのである。

生きるとは、織ることである。

生きている間、裏側を見て織りつづけるから、自分がどんな模様を織りなしているか想像もつかない。

しかし、全人類が1つの織物を完成させたとき、全人類が織りあげた芸術品の織物は、はじめて、人々の前に表をみせ、その模様がはっきりと、意味を持って示されるのである。

一人、ひとりが、自分の織った部分を認めることができる。

どんな小さな部分でも、大きなデザインの一部として、想像を絶するほど大切なのである。

一つ、ひとつの部分の完成度が高いことが、全人類の織りなす価値を決めてゆくのである。

この世で生を受けた人は、一人残らず大切な存在であり、全人類の大事業に関わる、大切な使命を授かっているのである」