2016年3月11日金曜日

585「観音3」2016.3.11

 次はこれまでと同じ名取市にある第5番札所の名取千手観音堂です。市の文化センターの近くに移転して間もなく、先日下見してその移転に気付きましたが、下調べは必要なことと改めて思ったところです。どこかのお寺さんが管理しているのでなく、普通の住宅の玄関先に鎮座しているのです。 綺麗に掃除されて大事に管理されているようです。庭仕事をしていた住人の方に挨拶をして参拝させていただきました。ここには名前の通り千手観世音菩薩がおられます。
あわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「あ~ ただただ照らす。ただただ光。ただただ発し、光と成りて響きに乗り行き、大きく拡がりて参られませ。さん、さん、さん、さん、さらさんた。ゆる~。」10:03
 

次は角田市にある第4番札所の斗蔵寺です。真言宗で千手観世音菩薩がお祀りされています。1時間弱の移動ですが、途中、Tさんが体調が悪くなり、暫し車を止めて車外でエネルギー放出、変換です。
 斗蔵山の山頂にある斗蔵寺は通常は山の中腹の駐車場から20分強の山登りですが、裏道の車道でお寺まで進みました。この地に付いては以下の所縁があります。
「霊地お斗蔵山は第五十一代平城天皇の大同二年(西暦八○七年)に弘法大師の開山と伝えられるが、斗蔵山上に初めて観世音を勧請し御堂を建立したのが将軍坂上田村麻呂であるとは確実な史実のようである。弘法大師が「紫雲天にたなびき 奥州無二の聖地なり」と賛美したと言われています。」
 観音堂では人の出入りもあり、奥にある斗蔵神社であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「やれ、嬉しやな、この光を浴びたり。嬉しき生み出だす響きと共に大きなり。
 さん、さん、さん、さん、さん、さんらるり、あ~。さん、さんたり。
 許された。許された。許された。は~あ~。」11:34

 嬉しき言葉です。許されたが3度です。多くの無形存在が解放されたのでしょうか。我々も軽々と山を下ります。



 昼食は福島県の伊達市保原のお店で頂きましたが、予定時間12時半丁度の到着です。全ては計画した通りに進んでいるようです。大いなる存在の計らいが随所に見え、多くの支援を頂きこの巡りが為されている感じです。


 しかし、駐車場に車を止め、皆さんとお店に入り、豪華な昼食を頂いたのですが、朝から体調不良のTさんは車から降りることができずにのた打ち回り、七転八倒の如くの痛み、苦痛が襲っていました。私は暫く介抱し、私の非常時の為に携行している御法米を取り次ぎ、お陰様で暫くして落ち着きましたが、食事を摂れる状況でなく車中で休んでもらいました。
 私はしっかり食事を頂きましたが、車に戻るとTさんは体調は大分良さそうです。おかげさまで、先ずは一安心です。
 美味しく食事を頂、体を満たし、いざ午後の巡りの開始です。10分程で目的地の伊達市桑折町にある第12番札所観音寺に着きました。浄土宗のお寺で聖観世音菩薩がお祀りされています。ここで山形からお越しのお二人が合流して、ここから福島の観音堂の巡りを同行しました。しかしTさんは参拝せずに車で過ごしていました。
 ここであわ歌を響かせ、その時のお言葉です。
「包まず申すが、良く良く聞かれませ。
 光はここへと届けたり。これより変わる新しきを、この地に発するおつもりや。
 有りや、無しや。(拍手)
 北よりの光を受け行く身なれば、その大きなる光届かぬうち、この身はこのままなり。(拍手)
 大きく変わる時なれば、只今の光、これより降り来る。ここより発して、共々に参り来たれよ。(拍手)
 その大きなるを我受け取る身に非ず。篩うは、はらりる、らろえ。(拍手)
 恙無き身へ過ごされよ。大きく変わればその時に、共々参りませ。(拍手)
 いや、いや。(拍手)あり、あり~。」14:05

 ここでは同意頂けず、北からの指示なくば動かないと頑なに拒否されたようです。これも又致し方なきことです。




 次の第13番札所の大聖寺は同じ桑折町で5分程のところです。真言宗のお寺で聖観世音菩薩をお祀りしています。観音堂の周りには沢山の小さな石塔、石版が並んでいます。助けてほしい多くの方々が観音様に願いを掛けているのでしょう。そちらに向かってあわ歌を響かせました。
 この時にはTさんも参加して共に響かせていました。歌い始めて程なくして、中山さんが地面に五芒星を足で描いて、その中心にTさんを立たせ、さらに五芒星の頂点を結ぶように円で囲いました。あわ歌を響き終え、その後のお言葉です。
「あ~あ~。永きに亘りた多くの事ごと、背負いて参るは忍び無し。
 良く良く成されたその身を讃え、嬉し、大きな里へと道開く。
 これよりのこの音持ちて参られませ。(拍手)い~い~い~。」14:38 


 Tさんのお兄さんがこの2月初めに亡くなられていて、体調不良にはその霊的な影響も多々あったのでしょう。「ここはお兄さんの事へのお言葉であったようだ。」と中山さんから告げられました。納得です。
 縁者、子孫に願いを掛けて来ている、その意味を理解することで浄化への道が開かれるのでしょう。この観音巡りに合わせて先祖諸共多くの方々が参集していたようです。Tさんも理解を深められたようで、これまでのことが嘘の様に明るく、これまで以上に何事も無かった如く、元気になりました。不思議な世界ですが、その仕組みを知ると当たり前の世界です。いろいろな事象を通して学ばせて頂く観音巡りです。

 次の目的地、に向かう移動中にどんよりとした曇り空の一点が明るくなり始め、やがて雲間から光が射し始め、かすかな瑞光が現われました。その姿はさながら天上に繋がる階段のようです。それを観て、
「きっとTさんのお兄さんが天上に引き上げられたのだろう。」と中山さんのお言葉です。それは嬉しき事と、私たちも大きな喜びを頂ました。ありがたきことです。




2016年3月10日木曜日

584「観音2」2016.3.9

 5日7時半の仙台駅に集合して奥州33観音巡りが始まりました。
 まず奥州33観音の由来、成立経緯を見てみると以下のようです。
 「平安時代初期の延暦13年(794年)から貞観6年(864年)に生きた円仁(慈覚大師)によって、のちに「奥州古札所」とも呼ばれる三十三観音霊場が開基されたと言う。保安4年(1123年)には既に、この札所巡りが行われていたとされる。
 一方、「名取の老女」として知られる「旭」が、平安時代後期の保安年間(1120年 - 1124年)に名取熊野三社(宮城県名取市)を勧請した際に、新たに三十三観音霊場を設定したと言われる(第1番から第3番までの札所は、名取熊野三山の南東に隣接して存在)。これ以降、この新たな札所の方が栄えたが、後に衰微した。
江戸時代中期の宝暦11年(1761年)、第30番札所である補陀寺(宮城県気仙沼市)の智膏和尚を初めとした7人の僧侶により再興され、現在へとつながる札所が定められた。」

「奥州三十三観音とは、観世音菩薩が三十三種の姿に化身し、衆生を救うという考えから、三十三の観音霊場が選定され、これらを総称したものです。
奥州三十三観音の成立の経緯は定かではありませんが、「名取老女」の伝説が関係しているといわれています。
「名取老女」の伝説とは、「昔、名取の巫女が熊野権現を深く信仰し、毎年紀州熊野に参詣していたが、年老いて参詣できなくなったので、付近に小さな熊野三社を建ててお参りしていた。その後、紀州熊野権現のお告げにより、旅の山伏が一葉の梛の葉を携え訪れたが、この葉には虫が喰ったような跡で『道遠し年もいつしか老いにけり 思いおこせよ我も忘れじ』という和歌が記してあった。その和歌を旅の山伏が老女に見せたところ感激し涙を流した。老女は保安年間(1120〜1124)に熊野三社を勧請し、その結果、熊野三社が創建された。」というものです。
 この熊野三社の創建に対する感謝の印として名取の老女が三十三所の観音霊場を定めたといい伝えられています。」

「東北の北部(陸奥)は、大和朝廷成立時には中央権力の枠外で存在した。大和朝廷の成立以降も、暫くは平和な蝦夷(えみし)の里であり、土地の豪族の下で共同体を築いていた。  
 平安初期に中央の律令体制に組み込まれることになるが、鎌倉・江戸時代においてさえ中央権力と分断した歴史が存在した。
 奥州33ケ所の観音霊場を調べると、13ケ所が坂上田村麻呂と何らかの関連を持っている。本尊については、一木彫の仏像が多く祀られている。黒石寺の本尊・薬師如来像は、胎内からの墨書銘から862年後の作と言われる。東北の殆どの仏像は平安初期以降のものが多い。」
 奥州33観音ですが特別3観音を含めて36観音があります。そこにお祀りされている観音様は以下の5つです。
 聖観世音菩薩像、十一面観世音菩薩像、千手観世音菩薩像、馬頭観世音菩薩像、如意輪観世音菩薩像。
 
 車2台に分乗して出発しました。出発して直ぐに、参加者のTさんが朝から体調不良で、ひょっとしたら自宅のガスとエアコンを切り忘れたかもしれないと言うことです。万が一のことを案じて、急遽、私の車は自宅に回ることになり、もう1台は先に最初の目的地、第1番札所の観音堂のある熊野那智神社に向かってもらいました。心配は的中で、先ずは大惨事を免れることができて一安心です。
 神社で合流して神社参拝です。ここは観音様と直接関係無いのですが、先ほどの由来にあった、名取老女が勧請し創建された神社で境内の少し離れたところに観音堂があるのです。
 高館山の山頂にある熊野那智神社の本殿前の見晴台からの眺望は素晴らしいものでした。太陽がきらきら輝き太平洋に光を映し出す姿は天海を繋ぐ大いなる御柱です。巡りのスタートに天の恵みを頂けたことは幸いです。巡りで天と地を繋ぐ御柱が立てるか楽しみです。



 直ぐに車で、十一面観世音菩薩をお祀りする観音堂に移動しました。ここは曹洞宗の紹楽寺の奥宮で、お寺は高舘山の麓にあります。着いて車を降りるや否や、皆さんが揃う前に、中山さんが観音堂でお言葉を下ろされました。私も途中からそのお言葉を聞いたのですが以下の内容でした。
「大信心、賜りましたるこの地、大いなる身、迎え、語らすは、いや増すこの地の天意(あい、愛)を晴らすなり。」
 その後、皆さんであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「これより3月の間、我等が足を運びて廻り行く。
 我、先争いて、よるでないそこに留まり、最後の勤めを致されよ。
 きっと大きな光を持ちて参るなり。
 騒がず、ただただその場を守り行かれませ。大きなる時、参りておるは招致なり。
 おろろら、さんたり、さんさん、さんたる、らり~り、あり~。」8:30

 これより3ヶ月とあります。33観音巡りは4月で終わりますが5月の内容は未定です。そこでも新たな内容の巡りが意図されていて必要なようです。



 急な裏道を通って高館山を下りました。麓の紹楽寺前を通り、そこから5分程で第2番札所秀麓斎に到着です。曹洞宗のお寺で、聖観世音菩薩をお祀りしています。

ここは観音様が本堂にありますので、山腹の墓地の上にある東日本大震災慰霊の3,11観音像の前で海に向かってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「尋ねるこの身がどこやら、どうなったやら、何も見えず、何も無し。さっぱり分からず、ここは何処。(拍手)
 大きな光は届いたり。良く良く澄ましてこの声聞かれよ。目を開け、静まり、そこに居れ。これより届けるこの光、いやいや、いやう、え~え~え~え~え~え~。
 ささ、参られ。手を繋ぎ、皆々共々参ろうぞ。大きなる地で待っておる。
 さらさら、はらり、う~う~う~お~う~。」9:02

 震災で犠牲になられた方々の霊が彷徨っているのでしょう。大きな浄化の光が届けられたようで、ありがたく、嬉しきことです。


 次の第3番札所の金剛寺は既にないようで 車で5分程の川上生活センターという集会所のある場所の中に観音堂はありました。広場にぽつんと佇む観音堂は淋しくもあり、慈悲の世界の姿の現れとも思えます。ここには十一面観世音菩薩がお祀りされています。ここであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「来る日、目指すは多くの方々。ここにて永きが、相見える事無しに過ごし来た。本日、この時、一筋の光を見たり。嬉しきなり。大いなる遥けきへ参る。(拍手)
 共々なり。皆々にその光発して、来る時を待たれませ。大いなり。響きなり。
 さら、さら、さら、さらさんて、ゆよりる~。」9:30



2016年3月8日火曜日

583「観音1」2016,3,8

 観音信仰は広くみられます。観音は観世音菩薩という女の仏様で亡くなった時にお迎えに来て、手に蓮のつぼみを持つのが特徴で、これに亡くなった方を乗せて中央に阿弥陀如来、右に勢至菩薩と共に極楽へ行ける、と言われています。
観音信仰について以下のようにあります。

「「観音菩薩」という名称の由来は、梵名のアヴァローキテーシュヴァラとは、ava(遍く)+lokita(見る、見た)+īśvara(自在者)という語の合成語との説が現在では優勢である。 
『観音経』などに基づいて広く信仰・礼拝の対象となっている。
また、『般若心経』の冒頭に登場する菩薩でもあり、般若の智慧の象徴ともなっている。浄土教では『観無量寿経』の説くところにより阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共に安置されることも多い。
 観音菩薩は大慈大悲を本誓とする。中国では六朝時代から霊験記(『観世音応験記』)が遺され、日本では飛鳥時代から造像例があり、現世利益と結びつけられて、時代・地域を問わず広く信仰されている。
 観音が世を救済するに、広く衆生の機根(性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形体を現じる。これを観音の普門示現(ふもんじげん)という。法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身すると説かれている。なお「三十三観音」とは、この法華経の所説に基づき、中国及び近世の日本において信仰されるようになったものであって、法華経の中にこれら33種の観音の名称が登場するわけではない。この普門示現の考え方から、六観音、七観音、十五尊観音、三十三観音など多様多種な別身を派生するに至った。
 真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音という組み合わせになっている。」

「日本の観音信仰は、飛鳥時代に伝来したと思われています。奈良時代には多面多臂の変化観音像も造られ非常に盛んになりました。当時の観音信仰は、鎮護国家から日常的な至福や除災など、現世利益が中心でした。
 しかし、平安時代の10世紀頃から浄土信仰の発達を背景に観音信仰も来世的色彩を帯び、原是利益に加えて、六観音による「六道抜苦」や、「阿弥陀脇待」(アミダキョウジ)としての「来迎引摂(ライゴウインジョウ)の利益も説かれました。
 現当二世の利益を兼ねる観音への帰依は、毎年一月十八日に仁寿殿(ジジュウデン)で観音像を供養する宮中ニ間観音供をはじめとするさまざまの観音の徳をたたえる(観音講)、観音を本尊として罪を懺悔する観音懺法(カンノンセンポウ)など、多くの観音の法会を発達させました。
 また、10世紀末以降、京都や畿内の観音像を安置する寺院への貴族や民衆の参詣が流行し、ここから、観音霊場を巡礼して験力をみがく経験者も現れました。観音菩薩の三十三身にちなんで畿内周辺の代表的観音霊場三十三所を巡る西国巡礼の確実な例は、1161年(応保1)の園城寺(オンジョウジ)僧覚忠(カクチュウ)、に遡ります。
 13世紀には坂東三十三所、15世紀には、秩父三十三(後に三十四所に)所が成立し、まあ、15世紀頃から修験者の他に武士や、豪農も参加する巡礼大衆化が始まりました。
 この過程で札所の巡礼や服装・御詠歌など今日見られる巡礼のスタイルの原型が定まりました。
 近世には、全国各地に100に余る三十三所が形成されました。観音菩薩は、現当二世にわたる幅広い利益によって民衆信仰の代表的存在となりました。」

 今年はあわ歌の中山さんに佛の世界に入り、そこであわ歌を響かせ、底の底にまで響きと光を届けることを求められているようです。日本では神道、仏教は信仰の大きな柱で、そこで織り成された数々の歴史、事象があります。これまではどちらかと言うと自然、神を主に巡り、響かせていましたが、新たな始まりです。
 そこで東北でも観音霊場を巡ることになりました。今回は奥州33観音巡りを3月、4月の2回に分けて行います。その前半、半分をこの3月5,6日に無事に行うことができました。

 前日4日にあわ歌会、唱和会を開催しましたが、中山さんのあわ歌が又新たな変化、新バージョンになっていました。私の拝受の時は、まさに宇宙語、意味不明の音の響きが、高度な舌の動きで発せられ、多重音がもたらされる世界です。顕在意識を超えて深層の細胞、粒子に無形の波動として新情報処理をしている感じです。響きを受けていると、身体の中心から湧き出るエネルギーが巡り、強烈な活性化が起きます。
 その時に頂いたお言葉です。
「三つの頂き受け賜りて、この地と繋ぎてひとつと成し行く。
 これより繋ぐは、はれるや、うるう。サンサン サンタル サラサンテ。」




 この歌い方は数日前からのようで、何人かこのバージョンの響きを発すると身体が疲れるようです。ですから6,7人の方だけが体験できました。
 あわ歌唱和会はいつもの歌い方で3回唱和しましたが良い感じで響き合いが出来ました。

その時のお言葉です。
「始まり行く行く、大きなる変化。これより参る多くの事ごと、見事に成し行き、この地に真を現し行く。暫しの間、それぞれその身をしっかりと保ちて参られませ。」


 大きな変化が現われ、その中で真を現し行けるようにしっかりと己を保持することを求められています。


 終了後の食事会も和気藹々で明日からの巡りに備えて早めに終了です。

2016年3月1日火曜日

582「20周年」2016,3,1

 今日から3月です。北日本を襲った寒波の影響で朝、起きると深々と雪が降り、積もっているではありませんか。昨夜も冷え込んでいましたが夜半から雪になったようです。3月になっても仙台は雪が降りますから油断できません。今回は午前中で雪はあがりさほど影響はなさそうです。
 しかし、今でも鮮明に覚えているのは昭和45年の確か3月3、4日が大学入学試験でしたがその時の大雪です。その日の朝起きたら大雪で宿泊先から市電を乗り継ぎ会場に向かったのですが、10センチを越える積雪です。確か長町近くの県立農業高校で受けた記憶があるのですが、なんと校門を過ぎてその雪道で滑って転んだのです。縁起が悪いな、と思いながら受験したのですが、当時は確か9教科の試験だったように思いますが、目出度く合格できたのですってんころりん、は良き思い出で記憶に残っています。

 さて、2月7日はホロトロピック・ネットワークの創立20周年記念パーティーでした。ホロトロピック・ネットワークは1997年創立のマハーサマディ研究会から始まる会で、主催者は天外伺朗さんです。当初は理想的な死に方の追求に始まり、医療改革、教育改革などに活動の場を広げ、意識の成長と進化の場として活動してきている会です。
 天外伺朗さんは、当時はソニーの上席常務役員で、CDの開発やロボット犬のアイボの製作や、コンピューター部門の責任者で活躍された方です。著書は45冊もあり、ソニーを2006年に退任した時には、本名の土井利忠としての生前葬をされています。その葬儀を執り行ったのが私の断食の師、野口法蔵師です。
 天下伺朗のペンネームは手塚冶虫の作品に登場する名前で、手塚さんに許可を頂いて使用しているようです。
ホロトロピック・ネットワーク http://holotropic.wix.com/network

 天外塾の天外伺朗さんのプロフィールによると社外活動として以下の様な紹介があります。
「1997年には、瞑想をしながら至福のうちに亡くなる手法を追求する「マハーサマディ研究会」を立ち上げた。じつは、人間は、「死」と直面することで、はじめて意識の変容が可能になるので、「どうせ死ぬなら、理想的な死に方をしたい」と、思うだけで、死を避けていた気持ちが少し軽くなり、生きている瞬間が輝いてくる。
 活動の展開の中で、病気になると死に直面するので意識の変容が起きやすくなることを発見し、「病院をなくす」という過激な医療改革を提唱した。病院に代わり、「すべての住民の健康維持と意識の成長・進化をサポートする」(病気の治療もするが、それが主務ではない)ことを目的とした「ホロトロピック・センター」という概念を提案した。多くの医療者のご賛同をいただき、現在では、北海道の札幌市から鹿児島の指宿市まで、19の医療施設が、「ホロトロピック・センター」を目指して努力中だ。2004年には、会の名称を「ホロトロピック・ネットワーク」に改称した。」
http://www.officejk.jp/category/1327012.html

 何故か1997年のマハーサマディ研究会の立ち上げの準備会で会員を募集している時に、ある講演会でその紹介があり、これは面白そうと思い、入会したのが私のご縁の始まりです。ですから私の会員番号は確か47番だったようです。
 私も天下さんの著書、「未来を開くあの世の科学」、「般若心経の科学」等を読んでいましたが、マハーサマディ研究会主催の松原泰道老師の座禅会などに何度か参加し、やがて仙台で天下さんとゲスト講師のジョイント講演会を開催するようになりました。お陰様で長い御付き合いをさせていただいています。そんなこともあり20周年記念パーティーに足を運ぶことになりました。

 140名ほどのパーティーですが顔なじみの方と同じテーブルで四方山話を楽しみましたが天下さんのお話は概略以下のような内容でした。
「マハーサマディとは瞑想しながら至福の内に死ぬことを目指したもので、普通は病院で亡くなる。死に直面することで意識の変容も起きることがある。病気になって気付き、やはり意識の変容が起きるがそれを実存的変容と言う。経営者でも京セラの稲盛さんはじめ多数いる。そこで医療者がサポートをする。しかし密かにするので何のメリットも無い中で、全国15のクリニックで考えに賛同してやってくれている。
 今年から日本列島祈りの旅をする。日本でも先住民族が虐待、虐殺された歴史がある。その怨念を封印して大和朝廷が続いている。アイヌ、出雲族3500年位経っている。今年は最初の年で5月28日から30日に北海道に行き、長老のアシリ・レラさんとアイヌの霊を治める予定だ。キーパーソンは真言宗の口羽秀典和尚だ。和尚の導きで2014年に四国剣山、2015年に出雲に行った。後2012年に行ったビジョンクエストも関係している。その様なシナリオを書いている人がいる。その事に抵抗できない。そのシナリオに沿って事を粛々と進めるしかない。
 ビジョンクエストを岐阜の船戸先生の洞戸と言うところでやったが、参加者で意識の変容が起きた。終わった時、結界を作ってくれた神主さんに、「アイヌの怨念が柔らかくなった。戸が付く地名のところはアイヌの怨念が封印されている。」と言われた。
 今、日本中でその封印が解けて来ている。東北は鬼門と言われ、アイヌを怨念から守るためで、家康の東照宮で鬼門を防いだ。
 口羽和尚と剣山、淡路島に行きパイプセレモニーで施餓鬼供養をしたが、その時に啓示を受け、翌年出雲へも行った。天孫族が支配する前には出雲族がはびこっていて、クナト大神と言われていた。3500年前にインドから来ている。シュメール、アーリア人に駆逐され日本に来たが、いろんな民族が来ている。北イスラエルは紀元前750年に滅んでいる。秦もその失われた10支族で、秦からも日本に来ている。これから20年間は祈りの旅が続く。」


 引き続きネットワークの全国の医療の中核の先生方、佐賀の矢山利彦先生、札幌の西谷雅史先生、岐阜の船戸崇史先生など5人のお話がありました。その後は乾杯してパーティー開始です。程なくしてゲストの紹介です。ネットワークの大魔女3人、湯川れいこさん、桐島洋子さん、中森じゅあんさん、はじめ野口法蔵さんなど30名近くの著名人の挨拶自己紹介です。




 何故か私も挨拶をさせて頂きました。実は今年7月9日(土)・10日(日)に佐藤青児さんと天外伺朗のジョイント講演会&セミナーIN仙台の開催が決まっています。そのリンパケアー療法の創始者の歯科医師の佐藤青児先生も参加していましたのでの、名刺交換して挨拶させていただきました。
 20年の区切りで、ホロトロピック・ネットワークも祈りの旅に大きくシフトして行く流れのようです。やがて東北の祈りの旅も行われるかもしれません。まずは7月の天下さん達の講演会、セミナーに参加下さい。詳細は決まり次第、HPで案内します。