2021年9月7日火曜日

2448「空海とマイトレーヤ」2021.9.7

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年09月02日の記事を紹介します。


「空海とマイトレーヤ」


今週の天空農園


ついにここにもイノシシ君が現れました。 

昨年は、イノシシ君のおかげで、サツマイモが壊滅状態になりました。 

ですが、今年は早めに手を打って連絡が来た翌日から、連日 収穫作業を行いました。

朝の仕事前や、お昼休みに集まり一所懸命芋ほりです。 

今日は、お昼休みと夕方2度行ってきました。力仕事です。  

こんなのが6ケース程取れました。たぶん約千本。元々サツマイモ畑は、こんなでした。

今日、全部収穫した後はこんなです。

これをフードバンクを通じ子ども食堂や、ひとり親世帯にお配りします。

サツマイモは結構喜ばれます。


さて今日のテーマです。

皆さん、マイトレーヤってご存知ですか?

弥勒菩薩のことです。今日は閑話休題の閑話、弥勒菩薩の物語です。

弥勒菩薩は56億7千万年後に再び地球に生を受け、釈迦の次のブッダになることを

2500年前に、釈迦本人によって予言されている方です。

空海は早くから(既に24歳の『三教指帰』を書く時点)弥勒菩薩を大変意識していました。

※『三教指帰』の実物、空海の書いたものが以前NHKの番組で公開されていました。

『三教指帰』(さんごうしき、さんごうしいき)は、空海による、宗教的寓意小説に仮託した出家宣言の書。


そして空海が亡くなる時に弟子たちに遺訓として私は兜率天へのぼり、弥勒菩薩の御前に参るであろう。兜率天にのぼって私は雲の間から地上をのぞき、そなたたちのあり方をよく観察している。そして、56億7000万年後、私は必ず弥勒菩薩とともに下生する。

私の入滅の後をよく見るべきである。

その時、よく勤めている者は天の救いを受けるであろう。不信の者は不幸になるであろう。

と述べています。

高野山 奥の院 今もなお、ここに空海がいらっしゃるといわれています。

4年ほど前、高野山に上った時、高野山の最高位、空海の名代として御法印を務められていた蓮華院の御住職が、弥勒菩薩のお話をしてくださいましたが、その時はどうしても空海と弥勒菩薩が私の中では繋がらなかったのですが、こんな縁があったのですね。

奥の院にも行きました。そこはまるで時間が止まったかのような空間でした。

鬱蒼とした杉の大木の参道を約2㎞ほど行くと、御廟橋の向うに「貧者の一灯」を飾る参篭堂があります。空海はその奥の「御廟」のなかの石室で今も結跏趺坐して印を結び、弥勒の三摩地に住していると信じられています。

そして1200年たった今でも、日に2回、空海のために食事が運ばれています。

奥の院には、ありとあらゆる戦国時代の武将たちの墓があります。

敵も味方もありません。まるで死んでしまえば良き仲間といった風情です。

どうして、それほどまでにみんなが、奥の院に墓所を持ちたがるのか?

それは弥勒菩薩が下生して地球に来る時に空海がともに生まれてくるからです。

その時には、弥勒菩薩はブッダとして生まれてくるわけですが、そのブッダと私たち人間とを取り持つ役割を、空海が担うのだそうです。それゆえに、少しでもブッダに近づきたいために、みんなが競って奥の院に墓所を持つのだそうです。

ブッダを慕う気持ちは本当に凄いですね。マイトレーヤー、弥勒は元はブッダの弟子でした。

こんな逸話が残っています。

<引用開始> 引用元


憂愁のバラモンの美少年ミロクが、ブッダの晩年の説教を聞いて、家を捨て学業も捨て、「弟子にしてください」 と言ってきました。

ブッダはそのミロクをひと目見て、なぜか顔を輝かせたそうです。「ああよく来たね、ではすぐに弟子になりなさい」と優しく言いました。

弥勒菩薩

それから、強い喜びと深い悲しみのまなざしを注ぎながら、ブッダ自身の仏法の奥義を急いでミロクに教えはじめました。

ミロクはこの時、今でいえば中学一、二年ぐらいの繊細な感じの少年だったのですが、すぐ新しい生活に溶け込み、恐ろしい程の早さと深さでブッダの教えを吸収していきました。

そして一年たつか経たないうちに、何百人もの先輩の弟子たちを追い抜き、釈迦の最も主要な弟子の一人になっていました。師の最も身近に仕える最年少の弟子に。

そういう大抜擢をそばで見て、先輩の弟子たちはあまり愉快ではなかったに違いありません。彼らも仏に仕える高い志の人たちだったので、気持ちを抑えてはいましたが、中にはつい嫉妬したり、つまらない誤解を抱いた人もいたかもしれません。

しかしそれを察したかのように、ある日釈迦は弟子たちに、こんなショッキングなミロクの秘密を打ち明けた。

「実はミロクは、この世ではあと12年しか生きられない。そのあと彼は、大空のはるかかなたのトソツ天という天に昇って、とても長い間、ある大きな目的のために修行する。

そして彼の知恵と力がどうしても必要になる危急の時代に、彼は天から地上に降り、わたしを凌ぐ仏になり、わたしが救いきれなかった人々をすべて苦悩から救うことになっているのだ」

これは 「観弥勒菩薩上生兜率天経」 というお経の中に、釈迦の秘予言の一つとして出てきます。

これを聞いた弟子たちは驚愕し、ミロクがほかの弟子たちと違う特異な使命の少年だったこと、早くに死んだあと天で生まれ変わって、釈迦の後継者になる特命をおびていたことを知ったのです。

誤解していた先輩たちの態度もそれであらたまり、ミロク自身もこの重大使命を自覚しました。

残された12年の青春をフルに使って、青春の意味や愛の意味、死と死後の真実・仏や菩薩の使命など、わからない疑問全部を釈迦にぶつけて、できるだけの答えを引き出して学びました。また医薬や心の癒しを受け持つ先輩たちと協力して、さまざまな苦悩をかかえる近くの村々の人をできるだけ助けました。


そして12年後、釈迦が見通したとおりミロクは急に病に冒されて死にました。

まだ20代前半の若さでした。

はっきりした病名は伝わっていませんが、 

「安らかな死に方ではなかった。人々のいろんな痛みを引き受けるように、苦しみぬいて亡くなったそうだ」 と、わたしは以前、別の取材で東インドをさまよっていた時、地元の古代仏教の研究者から聞かされました。

その話では、ミロクの死に顔は苦しみをこえて、生前以上に美しくほほえみ、お釈迦さまも先輩たちも、ミロクを深く愛していた若い尼さんたちも、寝食を忘れて悲しんだそうです。

反面、釈迦の仏法がこれで確実に受け継がれたことになります。

弥勒菩薩

ミロクはこれで天で蘇り、最悪の危機が来るとき、天から降りて釈迦の後継者となって苦しむ人々を救う。釈迦が救いきれなかった人々をも救う。

お釈迦さまがそうおっしゃったんだから間違いない。これで安心だ。

弟子たちも信者もそう思ってうなずきあったといいます。そんな安心や期待を一身に背負って、ミロクは今も天で救いの修業を続けているのだそうです。

<引用終了>


56億7千万年と言うと途方もない年月に思えますが、これは古代インド特有の言い方です。

弥勒菩薩の兜卒天での寿命が4000年であり、兜卒天の1日は地上の400年に匹敵するといわれています。その結果が、下生までに4000×400×12×30=5億7600万年かかるという計算となるようです。

また昨年、御法印様の説明によれば、その年月は、太陽系が寿命で消滅する時とのことです。今の太陽系が消滅し、また新たな星が生まれてくる時に、弥勒菩薩は次のブッダとして転生してくると言うことのようです。

一説によれば、お釈迦様、ゴータマシッタルダまでに過去7人のブッダがこの地球に現れたそうです。

過去七仏と言います。

毘婆尸仏

尸棄仏

毘舎浮仏

倶留孫仏

倶那含牟尼仏

迦葉仏

釈迦仏


2500年前のブッダも、その過去世において、1つ前のブッダに会っています。

修行者だったゴータマの地方に、当時ブッダであった方が来られたのですが、雨の後で道がぬかるんでいました。

それを見た、当時まだ修業中だったゴータマは、自分の長い髪の毛を、そのぬかるみに敷き詰めて、着物が汚れないように、その上を当時のブッダに歩いてもらうという供養をしたそうです。

その時に遠い将来、ゴータマはブッダになると予言されました。

最終的に、私たち誰もが、神と一体となるわけですが、何だか、かなり遠い将来になりそうですね。



2021年9月6日月曜日

2447「家族になった訳」2021.9.6

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年08月31日「最強の言葉」と2021年09月01日「家族になった訳」の2つの記事を紹介します。


「最強の言葉」


皆さん、この言葉ご存知ですか?「断じて行えば、鬼神も之を避く」 

断固とした態度で行えば、鬼神でさえ、その勢いに気(け)おされて避けて行く。 

と言うことだそうです。 

私は、これを 「ありがとう」の言葉を常に口にして、

 感謝の心で生きている人のことだと思います。 

「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にする人に対して、 

どんな人が、 

・蔑み(さげすみ)、

・陥れ(おとしいれ)

・危害を加え

・足を引っ張る

ことができるでしょうか? 

それでは、歴史研究家の 河合敦さんのエッセイをご紹介します。


<引用開始> 引用元


赴任先は知的障がいを持った生徒が通う養護学校で、僕が初めて受け持った子供たちとの出来事です。

その日、子供たち10人、担当の先生3人で、小田原に遠足に行きました。

お昼になり、昼食を食べるお店を探したのですが、どこも13人の団体は入れず、

ようやくあるお店お蕎麦屋さんに入ることができました。

2階の座敷に通され、女性の店員さんが注文を取りに来ました。

ところがメニューに写真がありません。 

子供達は言葉が喋れなかったり、

字が読めなかったりするので、僕が一つひとつ説明していたら、

その店員さんは忙しかったんでしょうね、プイと下へ降りちゃったんです。  

僕はその態度にすごく腹が立ちました。

ようやく注文が決まり、別の店員さんに頼みました。

待っている間、僕たちは畳の座敷にそのまま座らされていたので、

座布団はないかなと押し入れを開けたら、ありました。

僕はそれを出して配り始めました。

そしたら最初の店員さんが血相を変えてやってきて、「これは使わないでください!」と私からひったくり、

別の場所から持ってきた座布団を投げつけるような乱暴さで生徒たちに配り始めたのです。

さすがに僕はブチ切れて、一言、言ってやろうと口を開きかけたその時、

座布団を受け取った勇太(仮名)が「おばさん、ありがとう」と言ったんです。

そしたらほかの子供たちもみんな「ありがとう」「ありがとう」と言い始め、 

言葉が出ない子は手を合わせて頭を下げたのです。

その光景を見た時、僕はもうグッときてしまいました。 

すると、その店員さんは人が変わったように急に優しくなったんです。

それまで忙しくて心に余裕がなかったんでしょうね。

13年後、勇太が亡くなったことを知らせるお母さんからの手紙が来ました。

その中に、葬式に参列された方のコラムが同封されていました。

その方は、13年前に僕が書いたエッセーのことに触れた後、こう綴っていました。

『・・・勇太が発した「ありがとう」の一言で、食堂の店員も河合先生も、 

その場にいた皆が、とても和やかな気分になったという。感動した。

そうか、勇太はそんなこともしたのか、と。

そこに知的障がい者たちの素晴らしさを見た。

白木の棺の横に大書きしてあった「ありがとう」の意味もよくわかった。

息を引き取る直前、何か言いたそうだったので、

お母さんが「ありがとう、なの?」と聞いたら、勇太は頷いたそうだ。

勇太は心から「ありがとう」と言える若者だったのだ」

それを読んで僕は涙が止まりませんでした。

僕の書いたエッセーがずっと彼の家族の支えになっていたんです。

彼は30年という短い生涯を終えたわけですが、

「ありがとう」という言葉は、これからも彼の家族を支えていくと思います。

<引用終了>


どんなに敵意むき出しの人であろうと、 

自分に向けた「ありがとう」という言葉に心を動かされない人はありません。

神さまは、人間の本能の中に 

・ありがとうと言われると(感謝されると)、嬉しい 

という仕組みを入れてくださっているからです。

感謝の心、「ありがとう」の言葉は、 自分の心も安定させ、不安を払しょくしてくれます。 

安心感をもたらしてくれます。 

何故なら、その言霊の生み出す、波動空間に自分自身が包まれ、無意識の内に 

神さまと

・仲良くなった

・融合した(一体化した)

・神さまに愛されている

・宇宙が味方してくれている

そう気付くからです。 

皆様が、内なる神さまに気づき、お幸せになりますように。



「家族になった訳」


世界で一番大切な人なのに・・家族って、どうしてこんなにも難しいものなのでしょうか? 

本当のホンネでは、愛し、愛されているのに誰よりも家族のことを深く、愛しているのに・・

憎しみ合う人たちも多い・・・

今日はそんなテーマです。


結婚するまでは、他人同志だった二人。

・生活感、

・価値観、

・金銭感覚、

・物事の受け取り方も 

まるで違う者同士。

結婚し、家庭を作り、お互いに同じ方向を見つめ、協力し、助け合い、 

貧しい中でも工夫して、小さな幸せを見つけ、笑いながら幸せに暮らして行きたい。

子供が生まれれば、二人で協力し、慈しんで育てたい。

お互いに歳をとり、白髪になり、元居た世界に帰るまで・・

そう思っていたのに、実際は家族だから苦しめ合っている

そんな現実が、なんと多いことか。

家族だから、期待や要求をぶつけ、干渉し、支配しようとする。

家族だから、罵り、傷つけ、暴力を振るう。

家族だから、残酷さや支配欲、身勝手さをさらけ出す。

ブッダは2500年前に、家族が抱える悩みの中に、 業という大きな理由を見つけました。

ブッダが生きていた時代にお弟子さんだった小林正観さんが家族について次のように仰っています。

<引用開始>


みなさんは、家族は長く一緒にいて自分の主張をし合うことが仲よしの証拠だと思っているところがあります。でも、私はそのように、家族をとらえていません。

家族とは、他人に対して言わなくてすむ、わがままを、目の前の家族という名の特別な存在に対しても言わないという訓練の場なのだと考えています。

あることを他人から言われたときに、その他人に対しては

腹を立てたり、怒ったり、怒鳴ったり、いら立ったりしない。

ところが、同じ言葉を夫や妻、子どもから言われたら、ものすごく激昂(げきこう)して、

腹を立てて、怒って、怒鳴りまくってしまうという人はいませんか?


つまり、この人には甘えていいという特別な感情を持っているわけです。もしここで、踏みとどまることができるなら、その人は忍耐力というのを持っているわけです。

自分で自分の感情が、制御できているんですね。

それが、ある人との関係では制御できて、コントロールできるのに、別の人との関係では

コントロールできないというのは、制御ができないのではなくて、制御をしないのです。

家族だから、妻だから、夫だからという理由で制御しないのは、甘えているという意味で

それを幼児性といいます。結婚というのは、幼児性の克服のための訓練の場なのです。

そこのところに気がつかない限り、多分穏やかな家庭生活というのを得ることはできません。

家族というのは、わがままを言い合うために存在するのではなく、わがままを言えるような

人間関係が目の前にあって、それでもなおかつそのわがままを言わないために存在するのです。言わないということは大人になるということです。

この話をしたらある人がこう言いました。「それではストレスをどこで発散するんだ」と。

もう一度いいます。家庭というのはストレスを発散する場ではありません。

幼児性でわがままを振りまきたくなる状況設定をされているのが家庭。

そこで自分がいかに幼児性を振りまかないで、それを克服していくかということ。これは業(ごう)というものですけれど、その業の克服のために、家庭というものが存在するのです。

家庭というところは、人間が成長する場所なのですね。

幼児性というものを克服するために家庭が存在するということがわかってくると、子どもとの関係、親と子の関係というものも見えてきます。

実は親が子どもを育てているのではなくて、子どもが親を育てにきているということに気がつきます。

結婚した時に、自分だけのわがままで生きてきた人生から相手が一人増えるわけです。

妻や夫という名の家族が。そして、子どもができたときにはもう一人別な存在が、できてきます。

妻や夫や子どもが自分の思いどおりにならなかったりすると、感情をかき乱されます。

そのときに、どんなことがあってもいら立たないということの訓練の場として、実は家庭というものが存在する。

ですから、家庭はわがままを言うところではないし、ストレスを発散する場ではないのです。

<引用終了>


日常の生活の中で幼児性を目にする機会は良くあります。

・上司が部下に怒鳴る

・妻に暴言を吐き、暴力を振るう

・年配者が若者に暴言を吐く

・飲食店や小売店で、「お金を払っているから私はお客だ」と威張ったり、

 怒鳴ったり、いら立ったりする

相手がいなくとも、こんな「幼児性」もあります。

・いつも自分だけが我慢している(すれば良い)と思っている、言っている

・ちょっとしたことに不平不満を感じ、ため息をつく、愚痴を言う

・いじける

そういう人には、すべて幼児性があります。どんなに偉そうなことを言おうと、我慢ができなくて、わがままで自分さえよければいいという、甘えが抜けない。それはまるで幼児と一緒です。幼児性のある人は、わがままを振りまきたくなる状況設定をされている場、つまり家庭では、自己をコントロールすることが難しくなります。

幼児性があるから、ものすごく激昂(げきこう)し、腹を立てて怒ったり、怒鳴りまくってしまいます。

でも、正観さんが仰るように、その家庭の中でこそ、その幼児性に気付き、そして穏やかな気持ちでいられるよう、自分自身で、コントロールできるようになりたいものです。

家庭だからこそ、その自分の幼児性がデフォルメされて表現されています。

それに早く気付けるように・・

自分の中の、幼児性に気付けるように・・・

そしてお互いに同じ方向を見つめ、協力し助け合い、貧しい中でも工夫して、小さな幸せを見つけ、笑いながら、みんな、仲良く幸せに暮らして行きたいですね。

それが、家族と言う単位を作った神さまの優しい、計らい、目的なのですから。



2021年9月5日日曜日

2446「神々の恩寵」2021.9.5

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年08月28日の記事を紹介します。


「神々の恩寵」


「ありがとう」 

そう私たちが言う時、感謝の念と共に、この言葉を口にします。

また小林正観さんが仰るように 

全く感情(感謝の念)を込めなくとも、ただ言葉を発するだけでも良いと言われています。 

感情を込める、込めないに関わらず、

いつの間にか、自然と、無意識に涙のこぼれる時が、訪れるそうです。

 

春日大社の元宮司、葉室頼昭さんの仰るように

神々の恩寵は、いたるところに、平等に注がれているのに、

それを受け取れる人、受け取れない人がいる。

その違いは、「感謝の心」を持つかどうか? 

感謝の心を持つことで、その心を媒介として神々の祝福が、現実化されると仰っています。

日本には、縄文の古くの時代から日本人特有の生きざまがありました。 

フランシスコ・ザビエルなどの時代。

世界の中で、日本が発見(再認識)された時、進んだ西洋文明の人々が、驚異と畏敬の念で

日本人の中に発見した生きざまです。

 

それは、

・自然を敬い、

・和をを尊び、

・足ることを知り、

・平和を愛し、

・助けあい、

・お互いさま、お陰さまの気持ちで生きる、 

まさに 日本の 古神道と言われる生き方です。

  

まさに日本人の生き方そのものが神道であると言われています。 

ですから、私たちの心を縛るものは一切ありません。 

支配し、コントロールしようとする者もありません。 

私たちの心は、本来の無垢の姿を失わず、

伸びやかに、躍動的で神々の創造の世界を生きることができます。

 

私たち日本人は、古くから 

自然や天候、山、川、動物、植物の中に神々を見出し、

・生かされていることに、

・そして命の恵みを頂くことに 

感謝の思いで日々を生きてきました。

・これが無い、あれが無い

・人に認められたい、愛されたい

・あれも欲しい、これも欲しい

・人より上に立ちたい

・尊敬されたい、一目おかれたい 

そんな意識はこれっぽっちも持ちませんでした。 

ですが、時が下るにつれ、

ものが溢れ、物質文明が発達し

持てる者

持たざるものが生まれ 

嫉妬の心が生まれました。 

欲しいものが手に入らなければ、幼児のように、駄々をこね、拗ねて(すねて) 

不平不満、愚痴を外に吐き出します。

嫉妬します。

口から吐き出された 

不平・不満・愚痴 

そして、

嫉妬と疑心暗鬼の心は 

漆黒の渦のエネルギーとなり、

ご自分だけでなく、 

身近な人まで巻き込んで

不幸の種となることでしょう。


これらのエネルギーは時空を超えて滞留します。

逆に 

感謝の心、ありがとうの言葉を口にして、

助け合い、認め合い足るを知る心を持ち、

笑顔で日々暮らしていくならば、 

神々のエネルギーで満たされ、

物は無くとも、健康ではなくとも

そこには笑顔が絶えず、 

幸せなエネルギーで満たされることでしょう。

ありがとうの言霊 

この言霊は、 

その深い意味を知らずとも、それを発する者の周りを

このような神々のエネルギーで満たす力があります。 

不平、不満、愚痴を言う前に

もし嫉妬の心に駆られてしまったら 

黒いエネルギーを吐き出す代わりに

まず、感謝の言霊、「ありがとう」を口に出してみてください。

最初は、苦痛かもしれません。 

「あ」という言葉も言えないかもしれません。 

ですが、小林正観さんが仰るように 

念仏のような、呪文のような言い方でも最初は構いません。

試してみてください。

 きっと

あきらめさえしなければ、 いつかは黒い霧は晴れ、

気付けば、爽やかな日が差し込み

神々の恩寵が現われてくることでしょう。 

ご自分も、ご家族も笑顔で、お幸せになれるでしょう。



2021年9月4日土曜日

2445「一途な心」2021.9.4

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年08月30日の記事を紹介します。


「一途な心」


私たち日本には、素晴らしい文明があります。 

それは、古い古い時代。 

4つのプレートがぶつかり合う場所に置かれ氷河期の終了とともに、大陸から列島が分かれ、山や川など美しい自然とともにはぐくまれた日本人の心です。  

まさに、この日本の心をはぐくむために、神々が意図した地政学上の雄大な変化です。 

私たちの日本人の心は、全ての物の中に神々を見出し、感謝と尊敬。お互い様、おかげ様の心を培い、助け合って生きてきました。 まさに神々の世界の顕現です。 

ですが、時代が下るとともに西洋文明の流入、戦後の敗戦処理 

それらによって日本人の尊厳は粉々に打ち砕かれました。 

ですが、私たちの心の見えないところでは 

何千年もかけて、神々や祖先によって受け継がれてきた気質やDNAが存在しています。 

今、精神性の復活の時代が幕を開けましたが、2つに分かれようとするこの地球に置いて、

この日本人の良き心を復活させることは非常に重要なことだと思います。  

それは、

・力のある誰かによってなされることではなく

・神々に頼っていれば何とかなることではなく

・素晴らしい過去世を持つ人が何かをしてくれるわけではありません。

私たち一人一人が、日々の生活を送る中で

我欲によって引き起こされる罪や穢れを祓おうという意思を持ち 

感謝と、思いやりの心をもって生きることこそが大切なことです。 

美しい地球、そこに住むみんなの幸せは

そんな平凡な人々、つまり私たちの心の中から始まります。 

今日は雑宝蔵経という仏教経典の中のお話をご紹介します。

<引用開始> 引用元 


とある場所に、神様の御神体でもあります山の中腹に、大きな鎮守の森がありました。

その鎮守の森には、たくさんの動物たちが、仲よく平和に暮らしておりました。 

そこに、ある日、一羽のオウムがエサを探し求め道に迷い、鎮守の森に紛れ込んでしまいました。つまり、迷子になってしまったのです。

オウムはなんとか鎮守の森から外に出ようと飛び回りましたが、自分がどこにいるのかもさっぱり解りません。

そうしている内に、とうとう日が暮れてあたりが暗くなってきてしまいました。

オウムはとても心配で不安に思いながら、自分の家の方向さえも解らず途方にくれていたのです。

日がどんどん沈み、あたりも暗くなるにつれオウムの気持ちも寂しく、しょんぼりしていた時、鎮守の森のさらに奥深くから鳥や獣などの動物がさくさん出て来ました。


すると、その動物たちは、「ねぇねぇオウム君、君は道を間違えてしまったのだよ。

オウム君の家までは、ここからずっと遠いところだから今からでは帰れないよ。

明日僕たちが送って行ってあげるから、今夜は僕たちの家にとまりなよ」ととても親切にしてくれました。 

オウムも優しい動物たちの言葉と不安な気持ちでいたことから、

動物たちの家に泊めてもらうことにしました。

動物たちは「きっと、オウム君は道に迷い、不安で寂しい気持ちになっているに違いない」

「だから今夜は、オウム君がちゃんと寝るまでは皆で順番にオウム君の側にいてあげよう」

と動物たち皆で話し合い決まりました。

「ここに木の実があるから、お腹いっぱい食べてね。あそこにはとても美味しい水があるよ」

「何も心配いらないから安心してね」と動物たちはオウムにたくさん声を掛けあっていました。オウムもすっかり動物たちの優しさに慣れて、とうとうくたびれて寝てしまいました。

その様子を観ていた動物たちも夜中にオウムが起きて悲しまないようにと、

皆でオウムの回りをぐるりと囲むように一緒に寝てくれました。

翌朝、空は晴天です。朝日に照らされながら、オウムは鎮守の森の動物たちに賑やかに送り出され、オウムが家に帰れるところまで一緒に付き添ってくれました。

そうして、無事に自分の家に着くことが出来ました。

 

家に着いたオウムは、あの山にいる動物たちの優しさが嬉しくてたまりません。

仲間の動物たちにも昨夜の話を自慢げにたくさんしていました。

そんなある日、優しくしてくれた動物たちの山の方を見ると、

親切に優しくしてくれた動物たちの山からたくさんの煙が立ち上っています。

オウムは驚いて、急いで動物たちが暮らしている山の方へ飛んで行くと、

なんと!山が大火事になっているのです。

オウムはいてもたってもいられません。

そこでオウムは、すぐさま川に飛び込み、自分の全身を濡らしては飛び立ちました。

しかし、川から山火事の場所に着く手前で、ほとんど体から水が落ちてしまい山の上空で体を振っても2.3滴しか水が落ちません。でも、オウムは諦めようともしません。

なんども何度もオウムは川に飛び込んでは自分の身体を濡らし、

燃えさかる山に飛び立ち火事の上空で体を振って2.3滴の水を落としています。

その時、近くの木立でオウムの様子を見ていた他の鳥たちが、オウムを嘲笑います。

「オウム君、君が運んでいる水であの山火事を本当に消せると思っているのか?」

「無駄なことは止めな」

「そんなことをしたってくたびれるだけだよ」

などと言いながらオウムを皆で笑っています。

この時オウムは、自分を嘲笑う鳥たちに言い放ちます。

「確かに、僕の運んでいる水は僅かです」

「あの山の火事は消えないかもしれない」

「だけど、僕が鎮守の森で迷って、困っている時に、僕に親切にしてくれた友達が、あの山にいるんです」

「僕を助けてくれた友達が苦しんでいると思うと、僕はいてもたってもいられない」

「だから、僕は絶対に止めない。僕は水を運び続ける!」

と言って一生懸命に水を運んでいます。

すると突然、さっきまで晴天だった空が曇りだし、大粒の雨が降って来ました。もの凄い大雨です。オウムもビックリして茫然としていると、その大雨のおかげで山火事はたちまち消えていました。

<引用終了>

似たようなお話に「ハチドリのひとしずく」というお話がありますね。

大切なのは、今、自分が出来ることは何かを考え、どんなに人から馬鹿にされ、蔑まれようと、それを実行する勇気なのかもしれません。

・物語の中に登場してくる鎮守の森の動物たちの親切さ

・困っているオウムに対する優しさ

・なんら見返りを求めず、自らオウムに積極的に話し掛けてくる動物たち

私たちの日常生活の中でも同じような光景があります。

一生懸命に努力している人を、努力をしない人が

・得にもならないことをよくやるな

・そんなことしても無理だ

そう言います。

でも困っている人を見て、その心情をくみ取れる繊細な感受性を持ち、

居てもたってもいられずに、「助けたい」と云うただ一心で、

純粋な心で行動する人たちも確かに存在します。

そのような心根を神々が放っておくはずがありません。

どんなに困難に見えることであっても

その心根が「人を助けたい」という純粋で一途な気持ちであれば、

その決心をしたとたんに、一気に周りの次元が上昇し、

周りの状況が協調して助けに回って動き出すことでしょう。

神仕組みの発動と言います。

全ては、私たちの心にかかっています。

静かな場所で、自分の心を見つめなおし、内観してみれば

自分の心は、今 どちらの方向に向かっているかすぐにわかります。


2021年9月3日金曜日

2444「ヒフミヨイムナヤコトの道」2021.9.3

 今回は「木の花ファミリーのジジイのブログ」の2021年8月24日の記事を長文ですが全部紹介します。https://jiiji-konohanafamily.org/2021/08/24/hihumiyoi/ 


「ヒフミヨイムナヤコトの道」

ある日の大人会議で、チナッピーが、養蜂で山梨に行く時に道を間違えそうになったことについてシェアしました。

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チナッピー:

山梨の養蜂場へ行く時の運転を私がしたのですが、その時のことをシェアします。いつも、山梨に行く時は明るい時に行くのですが、今回、夜に向かったので、いつもより感覚が鈍っていました。宿泊先に行くには、荒田という信号を右へ曲がって入る、その前にコンビニがある、という事だけが印象に残っていて、行く途中に、まだその場所ではないのに、コンビニがあり、「もう荒田だ。すごく早く着いた。」と思い、間違ってその信号を右折しようとしました。その時に、後部座席のジイジから「どこへ行くんだ。まだだぞ。」と言われて、まっすぐ進んだという事がありました。

私は、道を間違えそうになったという事を、そんなに重要なこととして捉えていなかったのですが、今朝、ジイジがともちゃんとぴっぴにこの件について話しているのを聞いたとき、これはすごく重要な事なんだという事に初めて気が付きました。それがどれぐらい重要かという事を、ジイジが二人に事細かに解説していました。道を間違えることから、私がどのように人生を歩んできたのか、日々どのような暮らしをしているのかという事を紐解いてくれました。

ジイジと私の違いという事でいうと、ジイジだったら、山梨の目的地に行く前に、そこへ行くまでのポイントを、一個ずつ確実に風景を見て押さえながら行くので、間違えないのが当たり前で、そのように日々ポイントを押さえながらやっているという事。一方、私がなぜ間違えるのかというと、全体が見えていないこと、一個一個のポイントを押さえていないという事を、比較しながら説明してくれました。日々の中でポイントを押さえる事や、道が1、2、3、4、5、6、7、8、9、10と順序だてて続くとすると、それを飛び飛びにやるのではなく、確実に一つずつポイントを押さえていく事が大事だという事を、今日学びました。

ジイジ:

このように事細かに出来事の素性をフィードバックしてもらってから、チナッピーは「そうだな」と受け取っていくから、身につかずに同じことを繰り返していく。そんな学習は一回でいい。どんなことでも同じ姿勢はいろんなところへ出るのだから、本当はある一つのことを経験し、それを自らの人柄に置き換えれば、その経験は似た様なケースで常に生かすことが出来る。ましてや、同じことだったら、一度そのパターンを理解したら、それ以外の出来事においては、学習は不要になる。しかし、同じようなことを繰り返すという事は、言われたから反省し受け取っているという条件反射の反応をしているからであり、それでは身につくことがない。

そうではなく、例えば、言われて気づいたとして、それをきっかけに、これからそのような場面に出会ったら、どう気付いてどう対処していくのか、というように考えれば、そのことは確実に実力となる。その出来事の問題を指摘されなくても、同じような場面に出会った時、自ら気づくことが出来、その対応が適切にできることで、そういった場面の話は卒業できていく。

僕は人の癖からくる問題点を観て、その人がその視点の位置にい続けることは、くり返し問題を引き起こす原因となり、それでは良い人生に出会うことができないことをずっと伝えてきた。その背景には、その人が自らの個性をよく理解し使い方をマスターすることで、行いが的を射たものとなり、活躍できる日々を生きることを願っている。そうすれば、そういった人たちと共に、今の世の中がイメージすることが出来ないところを、みんなで完結していくことにつながる。そういった投げかけの元にある精神は、大いなる善意。

しかし、そのハードルを皆がクリアしないとなると、僕は切り替えてこう考える。その進歩のない繰り返しはあなたの価値を落とすことであって、僕の人生の上にあることではない。だから、あなたがその大事を実行しなかったとしても、さらに、木の花が天の道を歩んでいるとはいえ、その道を木の花が行かなかったとしても、そのプロセスに天も僕も常に寄り添っている。そして、その大事をしっかりと押さえ、常に努力を惜しまないので、僕の歩みは外れることはない。そうすると、この場合、あなたが外れる対象になるだけなんだよ、ということ。それは残念ながら仕方がない。それは、一人ひとりが自らの価値を自らの意志でつけるための歩みなのだから。

もし、その大事をあなたが、つまりメンバー一人ひとりが達成することになれば、木の花の存在の目的が実現され、ここの価値も上がれば、世の中も是正される。そこでの個人の価値は自動的に上がる。しかし、そういった目覚めない位置にい続けることは、結果、高い誇りと尊厳をもって生きることは出来ない。今、ここの日々の生活に、病を貰ったり物を壊したりと、様々な反省をしなければならない、歓迎されない出来事が起き続けている。

生きる事は、宇宙の法に基づき現象に出会う事。我々がいかに視点を法に向け、それに寄り添い生きるかにより、病気を得ようが、対立しようが、その問題ごとの上に出来事が有益な学びとなり、自らの人間性を高めていく事につながる。しかし、天に寄り添うことで出来事が思い通りにいくかというと、そうではない。それでは、その場に相応しい出来事が起きる法則(因果応報)により人生を通して自らの姿勢を学ぶ機会を失ってしまうことになる。その結果、世の中も、人の人生も、進化しないことになる。自分の現状に対し、相応しい刺激をもらうから進化する。その適切に与えられる刺激により、常に出来事を天の法則にあてはめることで自らが進化していく。それが、良い流れを創っていく事につながる。そうでなければ、法則の意のままにあり続ける動物や植物と同じことになる。人間は人生を与えられ、その歩みの中で常に進化し、精神性の高い者になるための道を与えられ生きている。それは、大本から分かれた、分け御魂である証である。そもそも、人として生きる事の本義として、別れてきた一番の大本へ帰るための旅をしている自覚が欲しいものである。

僕がこういうことを語るとき、地球上にこのような意識の人々が発生した事を、銀河のセントラルサンに向かい発信する。「今、私はまぎれもなくこの境地であります。それは、あなたたちと常に呼応しながら連携を取ってきた結果だと自覚しています」と。

このようなことを語れば語るほど、上からはとても喜ばしいという響きが返ってくる。地球が喜ぶどころか、銀河が喜ぶ。人間の本質はそういった能力や可能性を秘めた生き物。そして、人間にはそういった大いなる使命が託されている。それを達成するからこそ、いよいよ21世紀の最終目的、宇宙時代を迎える。その結果、2102年には、今の北極星ポラリスと地球の地軸の焦点が合うところに行く。あと81年をもって、宇宙に創造された本当の目的を人類は見出し、地球上に表現できるかどうか、そのターニングポイントに向けて、今、我々の意識は宇宙への進化のプロセスにいることになる。しかし、その前に人類には、今までの目覚めない行いのつけである、2030年から始まる問題が立ちはだかり、人類に対してはそのターニングポイントに到達することが出来ない可能性も秘められている。人類は、自らに対し自らを改める姿勢をもって、今までの無自覚な地球上でのふるまいの結果を振り返り、改めるべき時を迎えている。

潤三:

ジイジの話はスケールが大きく、こういった話をジイジだけに話させていているようなことでは、皆が共に作り上げる場にはならないので、駄目だと思う。

ジイジ:

僕はね、自分でこういった話をしながら、いいな、このような人生を生きたかった、そんなことを語る人に出会いたかった、と思う。そして、ふと気づいて、あ、それは自分のことだった。なんてラッキーで、喜ばしいことか。良かった。僕はこのような人生のプロセスを歩む自分のことを大好きだと思う。その喜びは、とても魅力的なものであるが、さらに大いなる喜びがあることを知っている。

それは、神様はその昔(大いなる過去)、自分だけの存在だった時、潜象界にいて自らの存在を認識できなかった(対向発生する存在がいなかった)。そこで神様は、潜象界という「潜っている世界」から、対向発生としての現象界を創る為に、「カ」(宇宙最極小微粒子)を噴出させ、そこにヒフミヨイムナヤコトの仕組みを配置し、対向発生するべき魂たちを、自らを切り分けて遠くへ置いた。そのことにより、元の位置から離れた場所との間に空間ができ、そこから元へと帰る動きが始まることでトキが発生することとなった(時空の発生)。この時、対向発生するべき切り分けられた存在たちは、元々のこと(自らの出生の事情)を忘れてしまった。

そして、トキの道を歩む者たちは、同時に元へと帰る歩みを自動的に歩むこととなった(アウノスヘシレ)。

その者たちが歩む道は、回転しながら(マワリテ)螺旋を描き(メクル)、現象宇宙の基軸であるトキに沿い、その後、電気、磁気、力というトキを動かす直流のハタラキに対し、螺旋の動きによりコイルを巻く力(マワリテメクル)により自動的に現象を引き起こす動きが始まった。それが大いなる宇宙(現象界)の創造の始まりとなり、その行先は、いずれ元の魂(大いなる宇宙の大本)に帰る道となる。

それは、その構造を理解する者であるならば、大本にある故郷と対向発生する者としての役割を果たすと同時に、始まりの存在にある高次の響きの発生源(ア)の位置(イ)に帰ることの喜びを表現することでもある。つまり、宇宙に生きることの目的に目覚めるとは、その根源にあるアイに帰ることである。故に、この現象世界に起きる出来事の全ては、アイに始まり、全て(現象宇宙)に遍満する大本の神(カがミつって現象化を引き起こし、現象界に遍満する物理性)の意思に基づいて現れていると言える。

我々、現象界に存在する物質生命は大本にその起源を持ちながら、今現在、世の中で神を語る者に出会うことはたやすいが、その歩みの上にある存在としては、最も歩みの目的を忘れている状態にある。人々は、神を語っているが、その悟りは宇宙の実態からはかけ離れてしまっている。

その螺旋の無限なるハタラキは、トキを軸にして、ゼロに帰ろうとするハタラキである。我々の感覚で言えば、時間は未来に向かっていると思うかもしれないが、その未来に向かっている我々の旅は、実はゼロに向かって帰ろうとすることでもあり、その大本にかつての出発点が待っている。

人はしばらくの間、自我を膨らませ表現することに奔走し豊かさの追及をしてきたが、その行為は人の本質の愛から離れ、孤独になる道であった。長い間、本当の愛から離れることにより、人々は真心に染み渡る愛の場にいつしか出会うことを憧れ、そして、その愛の場の空気に触れたとき、言いようのない懐かしさと喜びを感じるものである。それは、かつての聖人聖者が求めてきた個のサトリ、さとりを超えたサトリ、フトマニのサトリ、コミュニティのサトリ、に到達する精神となる。

 

個のサトリ


コミュニティのサトリ


フトマニのサトリ

みかこ:

今の話を聞いて、「神一人でも多くの人民に帰って来て欲しいのぞ」と、火水伝文に書かれていたことを思い出した。前にジイジがまことの家で、神は人間の前にヒフミヨイムナヤコトと行く道を敷いてくれたという話をしてくれたことがある。

ジイジ:

それはお釈迦様の話。仏教には、他の宗教にはない道という教えがある。つまり、生きることは道を歩む旅だという。

30歳を過ぎ「私は一体何をすればいいのですか」とお釈迦様に聞いた時、「私は、その問いには答えん」と言われた。「その問いには答えん」という事は「聞いても無駄だという事ですか」と問うと、答えてくれたんだよ。どう答えてくれたかというと

「お前は今、道の上に立っておる。その道が一だとしよう。道は十をもって目的地とする。そうすると、お前は今一に立っていて、十はどういう答えなのかと問うている。

しかし、十を聞くと、人間というものはおかしなもので、飛び越えて十に行きたくなる。賢明な者でも、一、五、十と行きたくなる。

しかし、この道は道の上のレールに乗っておる。という事は、どうしたらいいかという事を聞かなくても、目の前に向かって進めばよい。そうすると二が見えてくるだろう。

二の目の前を進めば、三が見えてくるだろう。そうしたら、四になり、五になり、六になり、いずれは九となり十となる」と言われた。

「しかし、お前は地上を行くものである。そして、私は地上にお前の行く道(レール)を敷いた。

それは、私の位置から見るとまっすぐの道である。ところがお前は地上を行くものであるから、山にあたれば上り坂となり、つらいという。そして山を越えたら、今度は下り坂となり、怖いだのと言う。川を渡るときには落ちそうだという。しかし、私はまっすぐの道を引いた。

例えば、お前が山の麓まで行き、山に登らず迂回して道に戻ったとしても、それは私が敷いた一本の道にはならない。なぜかと言うと、これはまっすぐの道なのだから。そこにヒフミヨイムナヤコトの道がある。」

お釈迦様は、そう言われた。

「要は、余計なことを考えずに、目の前の道を進み、出会ったことをいただいていけという事か」と思った。それは、誠実に、誠実に出来事をいただいて行かなければならない。野心(自我)を持って歩むようでは道を見失うことになる。

みかこ:

この話はとても重要な話だと思った。人間はヒフミヨイムナヤコトの道の上にいながら、一、三、七、十とか、一、六、九、十というように、みんな癖があって都合のいいように飛ばしたり、迂回したりして行こうとする。

ジイジ:

人は目の前の出来事をいただいて歩むことより、目的を先に描き、行こうとする。そこでは、いただくという精神がないから、現実の伴わない理想を追い求めても、継続することは難しい。みんな評論家になって、その理想を所有することになる。

みかこ:

私もプレゼンを創ったりして、ヒフミヨイムナヤコトの道の上にいる事は頭では理解していたけれど、自分がヒフミヨイムナヤコトを確実に歩む事は、目の前に与えられた日常の全てを一つひとつクリアーしていく事の先にしかないんだと、改めて思った。そうすると、私はよく帰りたいと、目的のない思いを巡らすのだけれど、それは、どこかで目の前にあることをすっ飛ばして帰りたい気持ちが有るからだと思う。しかし、そうではないと、今、理解した。

ジイジ:

それは、ヒフミヨイムナヤコトの道順をきれいに歩んで、全てきれいにして、整えて行けという事。

みかこ:

そのような姿で、神様は帰って来てほしいんだね。

ともこ:

だから道順を間違えてはいけないんだね。

ジイジ:

神様のところへ帰るという事は光の中へ帰るのだから、一輪の汚れ、にごりがあってもいけない。

しゅうご:

さっき、潤三君がスケールの大きい話と言ったけど、日常の小さい中にもその道があり、その緻密な作業を怠っていることがある。

みかこ:

だから、面倒と思っても、今、目の前のこれを、きちんとクリアーしないといけない。

ジイジ:

カタカムナで定義づけられている「カ」は、この世界を現象化するための最極小微粒子、最小単位なんだよ。これは人間が物理的に観察できないもの。それが、どこでどのようにこの世界を創っているのかというと、そもそも「ない世界」すら「カ」で創られている。現象界という「ある世界」、その中の「見える世界」と「見えない世界」、つまり我々の物理性も霊性も「カ」で出来ている。現代人の一生が28000日だとして、人は一日に約3000回の選択をするといわれ、一生ではその28000倍の選択をする。さらに、物理性だけでなく、思いは走馬灯のように常に巡っているのだから、毎日頭に巡ることはどれだけあり、夢の中の思いも含め、そのすべてが「カ」で創られているわけだよ。それは、全てカミの遍満する領域。物質の「カ」は荒いが、霊性の「カ」はとても緻密。

あや:

響きも「カ」なのかな。

ジイジ:

そう。全ての原料が「カ」なのだから。という事は、「カ」は微細に違いを表現しながら、全てのところに満つり、現象化している。それは、思いとか、物――たとえば鉱物とか植物とか動物とか、そういった形でそれぞれに相応しく「カ」が満つっている。この「カ」が満つっている法則は、全て「カミ」という物理性によって創られているもの。この世界は、「カミ」という物理性が秩序としてハタライて動いている。因果応報の流れでも時すらも「カ」が満つることにより創造され動いている。つまり「カ」が満って現れている以外に存在するものはない。「カミ」は全てに遍満している。我々がこのように感情をもって、自らの人間性を表現することにすら「カミ」のハタラキは関わっている。

ともこ:

わかった。だからやっぱりヒフミヨイムナヤコトの順序を怠ってはいけない。どれも飛ばしてはいけない。

ジイジ:

我々は、この世界を創造するときに現象として働く神の法則ほど完璧に生きることはできない。しかし、常に己にとって必要な一番を最優先にし、日々の一つひとつを大切に生きなければいけない。だから、脱いだ履物をそろえなさい、と言うんだよ。

みかこ:

天は潜象界の側から現象界を創るときに、カミがヒフミヨイムナヤコトの順序に沿って世界を創ったわけでしょ。でも人間は創られた側から、帰る時にヒフミヨイムナヤコトの順序にのり、自らの意志でゼロに戻っていく事の出来る唯一の生き物なんだよね。

ジイジ:

だから、意志がそこに伴っていることで、大本のゼロと対向発生の対象に選ばれた。ライオンはライオンのままで、物理性の対向発生の対象にはなるが、霊的な対向発生の立ち位置には立てない。

 



みかこ:

それが、今わかった。カタカムナの三層構造の図があるでしょ。そこにはアマ界があり、そのエリアは、カムの側からこの世界に飛び出していて、人間の側からも現象界からの意識をアマ界に向けたとき、カムの世界の側に意識が飛び出すことになるのだけど、ジイジがあるとき「今の人間には、アマ界の存在も潜象界の存在も意識にないから、そちらに意識を向けることはない。だから、アマ界との対向発生が成立していない」と言った。人間が天の方に心を向けたとき、人間の意識の中にアマ界が成立し、天との共同作業が起こる。

ジイジ:

あのね、天に心を向けるというが、このオモイを竿の先にくっつけて天に届けるなんてことは出来ないんだよ。つまり、天の存在とはどのような存在なのかと言うと、テンだから点なんだよ。実際に天はどこにあるのかというと、僕は斜め45度先のセントラルサンを意識するけれど、それは宇宙の中の微細なたった一つの天の川銀河の中心にしか過ぎなくて、本来、天とは大宇宙全体のことを言うんだよ。ただ、我々はこの天の川銀河生命として地球に存在するのであり、もっとその天について身近に考えると、それがどこにあるのかというと、ここも、ここも、ここもそう、これって点て言うんだよ。この点が宇宙に無限に集合し、天を創っている。そうすると、その一点の微細な単位は「カ」の事と言ってもいい。つまり、天とは、全て「カ」でできているのであり、宇宙の至る所にその「カ」が満つり、遍満し、カミの物理性を表現している場ということになる。そうすると、あえて斜め45度に心を向けるということも、日頃からそういった特定の方向に意識を向けていることにもなる。そのからくりが解ければ、意識を向けるべきセントラルサンはどこに有るのかというと、いたるところ、どこにも、その存在があると言える。しかし、我々、地球上六方向に生きるものとして、とりあえず斜め45度上方に意識を送る、それで良いのです。そもそも宇宙に方向はないのだから。

みかこ:

回転しているしね。

ジイジ:

そもそも、我々の成り立ちは、マワリテメクル(自転公転)のもとに時間軸の上にのっているのだから、宇宙の中では向かう方向というのは、特定できない。そうすると、テンというのは何なのか。テは二面性。ンは前の音を強め起動させ発生させる。だから、テンというのは二面性が強く、起動し、動き出すということ。そこで、二面性の一方のテンとは、天と言い、無限なる宇宙のことを指す。もう一方のテンとは、点と言い、無限なる宇宙の最極小微粒子のことを指す。それはどちらも、極限の世界からの発生であり、出発点のことを指す。我々が認識する宇宙の二方向の極限の対向発生源のことを指す。点は天を創り、天は点を内包する。

そういった原理で、我々が解釈できる宇宙に対し、全ての発生源は、物理的に言えば、とりあえず、我々の生命原理の元である天の川銀河の中心であるセントラルサンのことを指しているが、本来はさらに大きな宇宙の元のことであり、それは特定できないが、天というのは二つあって、見えない天の巨大すぎて解釈できない面と、そのように捉える物理性でも霊性でもないある位置、心を向ける位置という天がある。

お釈迦様は、法華経の前に、色即是空を弟子の舎利弗に向かって説き、それを舎利弗が般若心経として体系化した。全ては空であると。特定するから多いとか少ないがあるのであって、それは位置を特定しなければ「ない」のだ、と語った。これは、今ここにあると思えばあるが、そこに気が行かなければ無いのと同じだ。

例えば、酒飲みが、町で酒屋の看板しか目につかず、ほかの景色が目に入らないとか、彼女にぞっこんになると、どんな欠点もよいことに見えてしまうとか。この事例はあまりにも我々の身近に基づいていて、あまりにも巨大すぎて見えない天の解釈とかけ離れているように思われるが、どちらもこの世界のことである。要はこの原理は、そこに意識が行かないものには、観えないものであり、ないのと同じこと。

これは、ある一点に集中して意識を向けると観えないものが観えてくる、そういった境地を説く視点のことであり、囚われている人間を救済する道であり、きわめて奇抜な理論だが、屁理屈でもある。身の回りに囚われて不自由になっている人間が囚われから解放される、究極に楽になる方法を説いたんだよ。

みかこ:

いくらお酒が好きで酒屋しか目に入らなくて、それ以外のものが見えなくても、酒屋以外のものもあるものはあるよね。

ジイジ:

あるものはあるという事を、よく目を開けてみる。そうすると、この世界が何かという事が初めて理解できる。現代人の物理性に汚染された偏った目線により、意識が届かないものを観ることを怠り、それをないものとして自らの理論を成立させ納得することは、偽物を真実として見ていることになる。

みかこ:

ごまかしだね。

ジイジ:

ごまかしなの。

みかこ:

そうすると、あるものは全てあるのであって、それが全てつながり合ってこの世界が成り立っているというところに行って、初めて、この世界の実態というものが観えて来る。

ジイジ:

我々が、現象界において、あるということを理解し、自分もいるという事を理解する、それが生きているという事。それに相応しく現象に出会っている。そして、現象に出会いながら、一体全体、自分は何者なのか、何故自分はここにいるのか、自分はどうしてこの状態なのか、という事を探っていくと、宇宙の成り立ちに行きつく。なぜなら、今ここに、銀河の仕組みがあり、太陽系があり、他の惑星と姉妹としてここで地球が活動している。そのすべての活動は、どう考えても、地球を絶妙な位置において、今のこの目の前ことを表現するためにあると、確信のように感じる。そうすると、自分という存在は、宇宙の、さらに奥の、潜象界の意向が働いて創られたととれる。その昔、神様はいつまでたっても孤独だった。その延長に、自らの存在に対し理解の確信を得ようとしたとき、そのための現象化を、長い間、どれぐらい長いかというと、僕が一生語り続けても足りないぐらい(笑)長い間続け、今やっとここまで来て、互いを理解する対象として出会い、それを表現(現象化)するところまで来た。(喜び)

みかこ:

ジイジは、ものの観えない人間にものが観えるように導いて、対向発生するものを育てているんだと、今思った。

ジイジ:

60才になる前に僕が言い出したのは、どうも地球が狭いということ。実は太陽系も狭い。これからは銀河を意識して生きていこうと思い、生前葬を行った。

今度70歳になって、全ての人間に目覚めるための道しるべを示す、つまり、悟りにいざなうことが、自分が生まれてきた目的だという事が分かった。だから人間に対して差別的に見る目は何もない。厄介なことに、人間というものは、あまりにも自分の癖性分に溺れすぎた神様の失敗作なのかもしれない。そのように、自らが観えない。歴史を振り返って客観的に見ても、あまりにも幼稚で愚かしい。それに、邪悪で巧妙なところが、擁護のしようがない。そのような愚かしいものであるならば、動植物の様に自我を持たない生き物ならよかった。しかし、それでは、この大いなる対向発生の対象としての価値は消えてしまう。

一体全体、どこまでいけば人間たちは、この大いなる舞台に出現した目的に相応しいものになるのか。

みかこ:

今、この話を聞いていて、人間って物が観えないじゃない。例えば、酔っぱらいの親父の話。自分も一緒だと思うんだけど、ジイジに出会わなければ、自分の実態をわからないままに、なんで自分の人生にこんなことが起こるんだろうと思いながら生きてきて、過去を置き去りにしながら終わっていくだけ。そんな人生を歩む人々は、自分の価値感でしか捉えられない狭い範囲で世界を観ているけれど、観えていないところにもいろんなものが存在し、そこに影響を与え、その結果、与えた影響が自分に返ってきている。例えば、酒飲みの親父の意識にはネオンしか見えないけれど、街にはいろんな存在がいる。

ジイジ:

その、酒屋しか目につかないというのは、ある意味、経典がもたらす境地だよ。他のものは「無」なんだから。意識にあるのは酒だけ。

みかこ:

それは偏った境地だよね。でも、その酔っ払いの親父には、奥さんがいたり、子どもがいたり、奥さんは泣いていたり、あるいは浮気していたりと、背景にはいろんなことがあって、それが世界に影響を及ぼしている。使っている紙はどこかの国の森林を伐採したもので、捨てたごみはどこかを漂流していて、そうやって自分がやった何かが、風が吹くと桶屋が儲かる式に、すべてがつながり連動して、こうやって今のような地球の2030年問題にまでなっていったことを、人類はわからなきゃいけない。

ともこ:

なんか今、いろんなことが分かったという気持ちがする。今朝ジイジが話をしてくれた時、いつも語られている話なんだけれど、それは、天にお伺いを立てると同時に、自分が気付いたことを天に返しているんだと聞いた。最近、自分はお伺いを立てる事はするようになった。自分の自我が手に余るものだから、どうしたらいいでしょうかとお伺いを立てるようにはなったけれど、もらう一方で、それが自分の中で何か気づきになった時、向こうに返すという事を全くやっていないと思った。今この話を聞いていて、自分の中でカタカタカタと色々つながっていく感じがあって、これを今この瞬間返していく事なんだなと思った。

ジイジ:

人間の動きと天は連動しているのだから、目覚めた人間が、その目覚めの方向に行けば行くほど、天、もしくは大いなる存在は、常に喜びをもって迎えてくれる。しかし、目覚めに移行した段階では喜びは発生するが、それをそのままにしておくと今度は停滞していくことになる。宇宙は常に変化、変容、変態を繰り返しながら進化していくプロセスで、そのプロセスを通じて発生する喜びが、神様の食べ物。だから、人間が学んで成長し喜びを発することが、神様の食べ物となる。そのように考えたら、今更宗教に走る必要はなく、物理性の世界を観察していくとその奥が見えてきて、その成り立ちがより理解できる。そのように生きたとき、自己コントロールができるようになり、生きる事が整っていくと、それが「生きることは直会」という、天の意向を現象化し、天の代理として地上に表すことになる。それは、生きることが、対向発生として天と共に世界を創造していく充実した人生を歩むこととなり、人が地上に生み出された本来の目的に目覚めることと言える。

僕は今、この話をしながら、そういった大いなる仕組みから外れた現象や存在は、この世界にはないと思うんだよ。それでも、違う観点から見ると、それぞれの立場からの視点で、なんだかんだと人間たちは物申すが、それも多様性のうちにあることとして、個性的であっても良いのだろう。しかし、この視点を原点として、多様性が展開されることが望まれる。

ともこ:

今改めて、最初のチナッピーの話に戻ると、だから道は間違えてはいけないんだと思った。

ジイジ:

あの交差点から右へ回ってどこへ行こうとしているのかを振り返ると、道は日本中つながっているのだから、そのまま先へ行くことも良し、間違いに気づいたらUターンして戻ってくるのも良し、というような話ではない。それこそが、道が間違っているという事。目が観えていなければ、そのまま進んでいくのが人生であり、人類でもある。

まっすぐの道というのは、天から見るとまっすぐな道だと、お釈迦様が言われた。方向は、どのみち神様へ帰っていく悟りの道として、まっすぐ引いてある。それは、一人ひとり同じではなく、上る苦しみ、下る苦しみ、渡る苦しみ、いろんな事に出会うが、上から見たらそれはまっすぐの道なのだ。いろんなものに出会うのが地上を生きるものの定めであり、それを、山の手前で「上り坂が厳しいから迂回しよう。」と迂回し、向こうへ行ったところで、道はまっすぐではなくなってしまう。そもそも迂回したのだから。だから、まっすぐ目の前に進め、と言われる。

確かに、上るときはエネルギーも時間もかかるかもしれない。降りるときも怖いと不安が出たり、その道に出会ったことについて不満が出るかもしれないが、それがまっすぐの道を行く者の定めであり、その姿勢が、外さぬ道を歩むことにつながる。

だから、悟った者にとっては、困難は問題ごととはならない。それは、レールの道を歩む上での枕木にしか過ぎない。悟れば悟るほど、己の自我を超え、さらにスケールの大きなことや、他者のことが課題となり、道を進めるための原動力となる。

かつては、山にこもり、瞑想し、世情の汚れから解放され、無の境地に至り、美しく昇天したものたちがいた。しかし、この世に貢献するためにある人の道、定めを断って道を究めたからといって、それを尊いとは言わない。この世に人として生を受けたものは、世に出ることにより、ヨコシマな世を味わい、その歪みを正してこそ、人としての歩みを全うしたと言える。それは、どんな賞賛よりも価値のあることである。

ヒフミヨイムナヤコトの大いなる定めを、正直に、素直に、前向きに、怠らず歩めば、人を必ず目的の地にいざなう。


2021年9月2日木曜日

2443「究極の選択」2021.9.2

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年08月29日の記事を紹介します。


「究極の選択」


今日は神様から示された究極の選択についてです。

ブッダによれば、私たちの悩み事、苦難の多くの原因は、自分に起こってきた出来事を

・受け入れたくない

・認めたくない

という気持ちから、抵抗し、逃げ出し、

そしてそれができない、無駄だとわかると 

・不平不満、愚痴、文句

を言い、ますます人生を暗くしてしまうことに起因しているようです。

ですが、本当の真実は

・その出来事は神様が起こしてくださったことであり

・その目的は、その出来事を通じ、私たちの魂を磨くため

・そしてますます幸せな段階へと、私たちを進ませるためのもの

そういうものだということです。 

すべては、その出来事を、 

・認め

・受け入れ

・その新たな環境の中(おかれた場所)で、

 小さな幸せを見つけ、

・笑顔で感謝の気持ちをもつこと

そうした途端周りの環境は、一切変化がないのに、一瞬にして、神々に祝福され

天国に住む者に変化します。

 

小林正観さんのお子様、慶子ちゃん。

 生まれながらに心臓に穴があき、脳にも障害を持って生まれたお子様のお話をお読みください。

 

<引用開始>


正観さんは、変わった紹介方法すると、

・ブッダの弟子

・そして空海の弟子

・プレアデス星団から地球に来ました

そのような人です。ですが、もう亡くなってしまいました。

その正観さんは、30歳で結婚し、

3年目にして、やっと待ち望んだお子さんが生まれたそうです。

待ち望んだ子ということで、お名前は「慶子」と付けました。

ですが、知的障害と、染色体異常であったため、筋力が、人の半分しかありませんでした。

その娘さんについて、正観さんが次のように書いています。

彼女は、普通の子供よりも筋力が足りないため、早く走ることができません。

運動会の徒競争に出ると,1位はおろか、2位になることも、3位になることもありません。

いつも「ビリ」でした。忘れもしません。彼女が小学校6年のときです。

運動会の前に、足を捻挫してしまった友だちがいました。 

長女は、その友だちと一緒に走ることになっていたため、友だちには悪いのですが・・・・

「はじめてビリじゃないかも知れない」と、妻は期待していたようです。

運動会を終え、妻はいつも以上にニコニコしながら帰ってきました。

長女がビリから抜け出したのかと思いきや、「今回も、やはりビリだった」というのです。

ところが妻は、今回もビリだったことを嘆くどころか、ニコニコと嬉しそうにしていました。

 

徒競争が始まると、長女は、足を捻挫した友だちのことを何度も振り返り、

気にかけながら走っていたそうです。

自分がゴールすることよりも、自分がビリから抜け出すことよりも,

ケガをした友だちのことが心配だったのでしょう。

友だちは足をかばうあまり、転んでしまいました。 

すると長女は走るのをやめ、友だちのもとに駆け寄り、手を引き、起き上がらせ、 

2人で一緒に走り出したそうです。

2人の姿を見て、生徒も,父兄も立ち上がり2人に大きな声援を送りました。

そして、いよいよゴールのとき、長女は、友だちの肩をポンと押して、 

自分より先に友だちをゴールさせたというのです。

この話を聞いたとき、私は気がつきました。

人生の目的は競い合ったり、比べたり、争ったりするものでも、努力したり、頑張ったりして「1位になる」ためにあるのではない。

人生の目的は、「喜ばれる存在になることである」私はこのことを、長女に教わりました。

そして娘は、そのことを教えてくれるために、私たち夫婦の子供になったのだと、 

妻の話を聞き終え、私は そう気がついたのです。

<引用終了>


さて究極の選択はここからです。

正観さんご夫婦が50歳の頃、この慶子ちゃんが生まれて 15年位した頃、 

お二人でこんな会話があったそうです。

ひとつは、もし神さまが、白い粒でお薬のようなものを差し出して

夫婦二人で決めなさいと 言われたとします。

この粒を飲めば、この障害のある子が治り、普通の子のように、

健康で元気になることが出来る。 

そう言われたら、そのお薬を飲みますか? どうしますか? 

と話したそうです。

すると奥さまは はっきりと「今のままがいい」と答えられたそうです。


もうひとつは、3人目の子どもができたとして、事前に知恵遅れであることが分かったとします。「それでも産みますか?」

という質問、選択です。

奥さまは即答した と言います。「そのまま 喜んで産む」と。

そしてお二人して、この慶子ちゃんが、15年経って 本当に可愛いと思っていることが

心の底から分かったそうです。

生まれた直後は大変 悲しい思いなど、さまざまあったけれど、結局全ては、15年経って見れば「ニュートラル」であったと。良いも悪いもなかったのだと。

障害を持って生まれたのが悪いわけでもなく、

それを受け入れて、不平不満、愚痴を言わず、

一緒に暮らし、時を経て見れば、決してそれは悪いことではなく、

むしろ素晴らしい体験をさせてくれた 

と言うことが解ったのだそうです。


「人生の読み替え 遅くない」全ての現象はニュートラルだから、

必ず、そしていつでも、不平不満、愚痴を言うことを止め、

静かにそのことに感謝する「読み替え」は必ず出来る。

正観さん そして奥さま。 

慶子ちゃんのことが可愛くて可愛くて仕方ないと、仰います。

幸福も不幸も 自分が決めること。

そのことを、この慶子ちゃんが教えてくれたのだそうです。

もし、貴方が同じ立場だったら、どちらを選択しますか?

今の目の前の苦労が一気に無くなって、安楽に暮らせる薬を飲みますか?

私たちは、生まれる前に、

今世で、

・いつ何が起きるか、

・いつ誰と出会い、いつ分かれるか

・健康な身体か、病弱な身体かを選び 

神さまと相談し、承諾を得て、生まれてきました。

天国で神さまと 設定した、人生で起こる全ての出来事は、 

私たちの魂を、より進化させ、神さまに近付くため という目的を持っています。 

ですので、全ての出来事に意味があります。

全ての出来事が、寸分の狂いもなく起きるように、神さまがはからってくれています。

ですので、私たちは、その流れに乗ってさえいれば、

・ああ、しなければならない

・もっと努力しなければならない 

そんなことを全く考えずとも、ただ目の前に起きて来たことに、 

感謝し、愛を込めて、行うだけで流れに乗ることができます。 

なぜなら、神さまのみわざは、どの人にも平等に降り注いでいるのですが、 

そのみわざ、神さまの祝福が現れるには、

人間側の「感謝の心」がどうしても必要だからです。

 

ですので、

人生に現れてくる、様々な出来事に「感謝の心」で、接している限り、

私たちは、揉まれ揉まれながらも、魂の輝きが増し、

結局は幸せな岸辺に、たどり着くようになっています。

でも、それでも、 

あなたは今の目の前の苦労が一気に無くなって、安楽に暮らせる薬を飲みますか?



2021年9月1日水曜日

2442「小さな思いやり」2021.9.1

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年08月26日「今の幸せ、死後の幸せ」

と2021年08月27日の「小さな思いやり」の2つの記事を紹介します。


「今の幸せ、死後の幸せ」


昨日は天空農園で取れた八色スイカ21ケを、フードバンクを通じ寄付してまいりました。

丁度、金曜日にひとり親世帯の子供たち77名を集めたイベントがあるので、お配りするそうです。ベストタイミングでした。 

肝心のサツマイモも今年は順調です。10月頭に収穫して、ご寄付予定です。

 

さて、今日は「どうしたら憎しみを消すことができるか?」と言うお話です。

心の中から憎しみを消さないかぎり、本当の幸せを手に入れられないからです。

よく、「不平不満・愚痴や悪口などは、思ったり口にしたりしない方が良い」と書いていますが、それは取りも直さず、自分の中の神さまと繋がり、本当の幸せを掴むことが、自分の力でできるようになるからです。

私たち凡人は、なかなか心の内の、「憎しみ」を消せない時があります。 

そしてその結果、現実の生活では様々な艱難苦難に遭遇していきます。

その憎しみの対象は、家族に対してのことがダントツに多いようです。親や配偶者など。

ですが空海の仰るように、心というのは、生きていても、死んでからも同じ。

憎しみや怒りに執着して凝り固まっていたら天からの光に気づかない。

無意識に拒否する。だから、死後も成仏できない。

同じ状態のまま、長い長い死後の生活を送らなければならない。

すべては本人の心の問題。が真実のようです。

肉体があろうと、肉体が無かろうと、心の状態は変わらない。

死んですぐに仏になるわけではない。

ですので、このことが空海が言う、 生きているうちに「幸せ」を掴まなくてどうする?

という「即身成仏」の教えに繋がってきます。

空海は生きているうちに仏になれるんだよ・・ と教えています。

ここで言う仏とは、心の状態が穏やかで平和で幸せと言うことです。

生きているうちに憎しみ、怒り、執着から離れることで

天の光に気付き、幸せになることが出来ると言っているわけです。

もし心が、憎しみ、怒りから離れなければ死んだ後も、同じ状態が続くと仰っています。

でも、そこには仏の慈悲があります。

生きている間には、いろんな人と接することで、気付きをもらうことが出来ます。

私達は、今こうして生きています。それぞれが置かれた環境は異なります。 

楽しさや、苦労の度合いも人さまざまでしょう。

ですが、私達は色んな個性の人達に囲まれ、 

・好きな人に囲まれ、

・嫌いな人に囲まれ、

・人を好きになったり、

・嫌いになったり、

・嫌われたり、

様々な経験を積み重ねていくことで、沢山の気付きを頂くチャンスに恵まれています。

もし、私達が自分の置かれた環境で、その様々な境遇に感謝して、

明るく前向きに自分の精一杯の生きざまを示すことができたならば、

きっと私達は生きながら 仏の気持ちになれるかもしれません。

生きながら幸せになれるかもしれません。

私達、誰一人も例外なく、その様な恵まれた環境に今置かれています。

例え、苦しく感じる環境であっても、それは実は私達の心にとっては、

神さまが準備してくれた素晴らしい環境であるのかもしれません。


最後に空海のお言葉を紹介します。

生きとし生けるもの、すべてに命があり、心がある。

そのことを忘れてはいけないよ。

すべては、一人一人の命の働きから始まるのだ。

難しく考えることはない。

素直に生きて、皆に感謝をしなさい。

そして、おのれの魂が喜ぶ生き方をしなさい。

さすれば、道は開くであろう。


空海が生きていた当時の日本で、仏教は朝廷の強力な推薦もあり民衆の間に広まっていました。 ですが当時の(奈良)仏教は今ではなく、死んだ後の来世の幸せを説くものでした。

ですが空海は、今、生きている今ここで幸せになれると説いたのでした。

そして、その方法こそが、素直に生きて、皆に感謝をしなさい。

そして、おのれの魂が喜ぶ生き方をしなさい。 だったのです。


魂が喜ぶとは・・自分の良心、自分の中の神様が喜ぶこと。良心に従った生き方です、

皆に感謝とは・・みんなに「ありがとう」と言う事です。

素直に生きて、皆に感謝をすることで、今、この生きているうちに

「本当の幸せ」を手に入れることが出来ると、空海は仰っています。

不平、不満、愚痴、悪口も良いでしょう。

・むり、

・どうせ、

・だって 

と言い訳や、後ろ向きの言葉を使うのも良いでしょう。

ですが、もしそれに疲れてしまったら、この空海の言葉を思い出してみて下さい。

きっと空海の仰る通り、生きている今、幸せになることが出来るかもしれません。


「小さな思いやり」


神様が、神さま自身を知るために、神様に似せて作った人間の本能には 

「人から喜ばれると嬉しい」というものがあるそうです。 

この本能は、人間に与えられた本能であると同時に神さまの性質でもあります。

ですので、ちょっとしたことに、笑顔で喜び、感謝する人は、相当、得な性格です。

誰からも、愛され、みんなが味方になって、助けてあげたくなってしまいます。

きっと神様も同じ気持ちです。

 

宇宙の仕組みや、神さまの行動の原則などが分かってくると、

日々の何気ない生活でさえ、楽しくなってきます。

ありとあらゆるところに、神さまの働きを感じることができるからです。 

いつも傍に居ることが分かるからです。 

また、偶然が起きた場合も、「どうせ偶然でしょ」とすまし顔で、冷たくあしらわず、

「まぁ凄い、面白いね」と素直に子供のように喜んでいれば、

神さまは、なおさら沢山の偶然を見せてくださいます。 

神さまの声は、誰かの口を通してくることもよくあります。 

また外応と言って 

・小川のせせらぎの音や、

・子供たちの笑い声、

・そよ風なども、 

神さまが私たちにプレゼントしてくださっているものです。

そのように繊細な心で、神さまの働きを感じられるようになると、

もう全てのもの、事に感謝しかありません。

神さまの働きに気付き、人が喜び、感謝すればするほど、神さまは私たちの身近で、 

良きことを起こしてくださいます。 

ひすいこうたろうさんの記事 (喜び上手な人には運がやってくる)に、

こんなことが書いてありました。意訳します。

<引用開始>

 

もし神様がいるとしたら、 小さな幸せや、ささいなことでも、

喜んでくれる人のために、働こうか、

もっと喜ぶことをしてやろうかと思うのではないでしょうか? 

それとは逆に全てを偶然と片付け

神様が、ちっぽけな自分(や、レベルの低いあなた)のために、

特別なことをしてくださるはずがないではないか。 

そのように、偏った自己卑下(自分を低く低く見ること)や、

他人卑下(他人を・・・)をして

神様が、小さな幸せを見せてくださっても、ブスッとしてる人。

頑な(かたくな)に、敢えて心を動かそうとしない人

どちらに神様は微笑むでしょうか?


<引用終了>

  

耳をすませて見て下さい 注意深く、周りを見渡してみてください

あちこちに、神様からの贈り物があることに気づくでしょう

また、いつもと違う 何かに気づいたなら悪い予兆などとは考えず、

是非それを  良き予兆と解釈してよろこび、神様に感謝してみてください。

きっと ますます恩寵に気付きやすくなると同時に

幸せが、雪だるまのように、どんどんと膨らんでくることでしょう 

感謝の種が増えてくることでしょう。

  

一見不幸に見える

・死別

・病気

・事故

・貧困

などでさえ、私たちの魂を磨き、

光り輝かせる、研ぎ石の役割として神様が与えてくださったものです。 

私たちが、その出来事を

・どのように受け取るか?

・どのような意味を与えるか? 

その違いだけで、天と地ほどの違いが出てきます。 

・小さな親切

・小さな思いやり

・小さな優しさ 

を感知できる感受性を持ち、喜び、感謝できる心を持ちたいものですね。

私たちの周りには、気づかないだけで、それらが沢山 散らばっています。