2015年1月1日木曜日

387「変換点3」2015,1,1

 今日は2015年1月1日、元旦です。
 新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
変換点のブログを大晦日から元旦と年をまたいで書いていますが、将に大峠を越えているのかもしれません。
 年末は30,31日と2日間続けて大和農場での農作業で、豆の脱穀を終わりどうにかすっきり終える事が出来ました。
 そんな中、30日には同じ部落の家で火事がありました。午後の作業をしていると何台も消防車がサイレンを響かせて行くのが分かりましたので近所だなと思っていました。夕闇迫る中、作業を終えていつもの温泉に汗を流しに向かうと、消防車始め何台も車が路上に止まっています。家屋が全焼していました。そこにはおじいさんが一人で住んでいて、障子の張り替えしていてストーブから引火しての火災だったようです。
 事件事故は身近なところで起きます。何事も強制的に変化を促されるか、自ずから変化を選択して進むか、今は将に変換点にいるようです。

 今回のあわ歌の集いの内容は「公開しない。」という事で中山さんから言われていました。大晦日31日朝にあわ歌の集いで頂いたお言葉を読み返していると、筆授ではあるが本当に必要な方にはお伝えした方が良いのかな、と思いました。そんなことを中山さんに相談したところ、このブログだけでの公開の許可を頂きました。ありがたきことです。
 急いで2014年12月31日に13日の集いでのお言葉までブログにアップさせて頂きました。あわ歌の集いに参加した方はその集いを髣髴とし内から理解を深める為に。参加していない方は、内容に触れて己の中に動く思いから、次なる選択、決断を得る至源として、又新たなるあわ歌とのご縁と成る様に活用いただければありがたいです。

 物事を教授頂く在り方には、筆授と面授がありますが、その意味、内容については以下のように記されて
「面授とは、空海がとった手法で、重要な教えを面と向かって伝授すること。
筆授とは、最澄がとった手法で、重要な教えを書物などに記して伝授すること。」
 この事に触れた以下のブログを紹介しますので参照ください。
「空海と最澄の出会いと別れの話を聞いたことがありますか。二人とも同じ遣唐使の船団に乗りました。最澄はすでに高僧であり、空海は、なんと私費留学生でした。四隻のうち、最澄と空海の乗った二隻だけが中国に到着したのも不思議な運命ですね。
 帰国すると、最澄は比叡山で天台宗を開き、空海は高野山で真言密教をスタートしました。当時の桓武天皇は密教を熱望していましたが、最澄はその勉強を中国でする機会がありませんでした。一方、空海は密教の奥義を極めて、多くの教典を持ち帰っていたのです。
 最澄は、空海に密教のお経を貸してくれるように頼み、最初は蜜月の関係でした。
 ところがあるとき空海は、
「これ以上は経文を読んでも密教の奥義は得ることができない。実際に面と向かって本質を(エネルギー)で伝えなければならない」と言います。
 つまり、筆授ではこれ以上の深さは学べない。面授でのみ可能となるというのです。
 最澄は、主張します。
「いや、自分は面授でなくとも筆授で理解できる」と。
 そして、ついに別れがくるのです。あなたはどう思いますか?
 私は、理性で理解できても、本性(魂)で受け取るためには、その人のエネルギーに実際にふれることが大切だと思います。概念的に理解しても、本当に理解したことにはならないのです。ここに人との出会い「縁」の意味があります。」

 物事には変化し、ある意図で思いや意思が働き内外の要因で展開が現れます。中山さんを通してのあわ歌のお伝えも将に今変換の時に来ているようです。己の必要が全てを決めますが、更なる進展、変化が促される変換点に今あるようです。次なる世界への誘因、導きなのでしょう。面授の更に深い伝えの伝授でしょうか。
 
 1日目の研修の後は温泉で温まり、懇親会で皆さんと交流を深め、終わってみれば3次会までです。随分な酒を飲まれた濃厚な望念会となりました。夜は雪が降り積もり、朝は一面の白銀の世界です。


 14日は定時9時に2日目の研修が開始されました。今日は皆さんからの質問に中山さんがお応えする内容です。昨日既に用紙を配布していて記名で質問等を記入して頂いています。それを回収し質問時にその方からその質問内容を読み上げて頂く形で進めました。
 これは、用紙の内容を見て中山さんから出る言葉の内容と、本人の肉声、身体全てからを発せられる情報は全く違うものです。ですから真剣な中に全員の方々が1日の研修を共有しました。

 先ず冒頭に中山さんからあわ歌を歌って頂き、以下のお言葉がありました。
「光りて参る、この地、皆々様方。
 これよりの日々を、それぞれその目の前に現るるを、只々懸命に成しゆく事なり。
 この事、その身を預け、この宇宙を一つと成り行く。
 その先に在るは、光。」

 引き続き、質疑応答ですが中山さんのお答を中心に、その中を一部紹介します。
・「皆さんが見える世界は、今見える世界だけだが、私に来るメッセージの世界は、見知らぬ世界。これから自分の都合を越えたものになる世界になり、自分の心の世界が変わる。許容範囲が拡がり、意識が宇宙レベルに成ると塵芥が見えなくなる世界が実現する。 しかし、各自では全体は分からないし、宇宙レベルで光が変わるのは説明できない。自分自分の世界を作る事が第一。」

・魂とはどういうものか?との質問へ中山さんが下されたお伝えのお言葉。
「伝えましょう。その魂とは、この地の方々、作り出されたるものと思わるる。
 皆々はっきりと認識されぬ、全てのこの身の中なる不思議を、都合上そのようにおっしゃると、心得ます。
 真の思い、皆々それぞれ持ち来りて在るなり。
 光の中への大きなる道となれば、一つなることなり。
 悠々遥かへ持ち行かれるもの、と心得て下され。」」

・新しき御代へはこの肉体を持って行けるのか?
「新しき御代をどう捉えるか、にもよるが、生まれ変わりとは輪廻のこと。今までの輪廻、魂を持ってこの世に生まれ、魂にある傷などを綺麗にして次のもっと良い次元に還ると言われている。それを繰り返すと、それでは輪廻の世界からは変わらない。
 この世界は光と闇の繰り返しで光だけでない。光と闇をやってしまうことが現実。光だけだと現実を感じない。そこで懺悔し浄化すること色々な宗教で言っているが繰り返しで、それで宗教もうまくいかない。戦争も。そこから脱することが解脱、この輪廻から脱する事。形式だけが残って、言っている事は難しく解決できない。
 光の世界と言われていることは、見せられた中では、光に包まれている肉体があり、それが光ったり光らなかったりして生きている状態。
 都合よく、苦行をしなくても意識で変われる方が良い。行くと決めて行くがまだ分からない。行く行かないと仕分けしている間は行かないだろう。まだまだ行くぞの思いからで、それも無くなる。いろいろ経験して、無いのは凄いと解るといける。無い、という感じがわかれば、楽しく、嬉しくなるだろう。(中山さんの商売では)かれこれ苦労だけが残った。
 全て捨てたらスッキリし、前も後ろもストンと抜けた。決心は深くもあり、簡単でもある。一切無しのメッセージが良く分かった。自分の中の気持ちにある、そのものをすっきりとする。」