7月になると盛岡藩も譲歩姿勢を示すが、実際には遠野の役銭取立所を再建し、南部弥六郎を要職から排除し、利済の院政下で領民負担増を進めようとしたため、三閉伊通の百姓は素早く行動し、7月8日遠野役銭取立所を打ち壊す。10日には仙台領の四十五人衆が故郷の各村に決起を呼びかける。12日に大槌通から250人が仙台領に逃散、18日には野田通で決起、宮古通と合わせ3千5百人が宮古に迫った。
盛岡藩は遂に発砲に踏み切り、一揆勢に死傷者を生じる。8月にかけて農民の不満は雫石通、五戸通、三戸通、沼宮内通、福岡通、田名部通にも及ぶ。
仙台藩も黙っておれなくなり、四十五人衆を気仙郡盛町に移し、さらに9月には仙台城下に移した。亡命指導部と南部領内の各村を断ち切ることで、南部の騒動を煽っているとの批判を避けようとしたと思われる。一方で仙台藩は幕府に報告する旨を盛岡藩に通告。動揺した盛岡藩は9月21日一揆勢の要求の多くを受諾。10月4日には負担増政策を進める石原汀と田鎖茂左衛門を罷免。翌日南部弥六郎を藩大老に復帰。さらに10月9日には一揆勢の残りの要求も受け入れた。
南部弥六郎は四十五人衆の身柄を引き取るため仙台城下に赴き、帰村を促すが、四十五人衆はさらに粘り、上納金は直納とすること、三閉伊の百姓の借金返済を30年の年賦とすること、一揆参加者を逮捕しないことなどを求める。南部弥六郎はほとんどを認め、一切咎めをしないとの安堵状を手渡す。30年年賦こそ認められなかったが、返済を督促しないよう貸し主に触れを出すと約束したので、一揆勢の全面勝利と言える。
そして南部弥六郎は約束を守った。一揆参加者に何の処罰もせず、俊作らも釈放され帰村。
他方で盛岡藩は藩役人二百数十名を処分。南部土佐、石原、田鎖のか、休職中の家老横沢兵庫なども含まれた。南部利済は幕府によって江戸下屋敷謹慎を命じられた。」
参考:伊藤孝博『東北ふしぎ探訪』無明舎出版、2007年
https://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/200801060000/
安堵状を勝ち取ったことは当時ではとんでもないことでした。安堵状には以下の様に書かれています。
「その方どものことは表ざたにはしないという約束でこの度仙台藩より引き取った上はどんな処分も申し付けないから安心して村にかえるように」。
安堵状の資料に以下のようにあります。
「安堵状(正式には「南部弥六郎奥書黒印状」)は嘉永6年(1853年)に怒った南部藩三閉伊通百姓一揆の際に、一揆に参加した百姓の処罰を一切おこなわない旨の約定書のことであり、南部藩目付けだけでなく、南部藩大老からも署名を勝ち取っている。当時は、一揆に参加した百姓、特に指導者の処罰を免れることはなかったため、この種の文書は全国的に見ても類がなく、百姓一揆の成功を裏付ける極めて重要な文書である。
この一揆の特異性や歴史的評価は、一揆の規模のみならず、南部藩の度々の公約破りに対し、管轄の南部藩を相手にせず、仙台藩に提訴するという近世幕藩制下の百姓の世界観の否定にある。
安堵状は桐箱に収められ、一揆の指導者である多助の子孫、畠山家で代々大切に引き継がれ、現在も良好な状態で保管されている。」
この安堵状は三重の桐の箱に収めて保管していたそうです。案内に以下のことも記されています。
「切牛弥五郎衛、田野畑太助が指導した二度にわたる三閉伊一揆はその指導性、組織性、理論性においても最高級の一揆でした。命を賭けた行動のなかにも「小○」(=困る)の幟旗を掲げる等のアイディアにも光るものがあります。」
博物館には村から出土した遮光器土偶や人面付き石製品なども陳列されています。
日常品についても以下の様に記されています。
「生活の道具には、それを使っていた人の物語がまつわっている。道具そのものを展示するのではない。道具をめぐる人々の面影を慈しみ、その時どきの生活の様子を偲ぶきっかけをつくる為にここにあるのである。
ひいじさんが使った様に船の舵や、おばあさんの糸車には、ありし日の面影が漂っている。道具を介して昔の人と今の人が交流する。はるか遠い縄文の時代から・・・・」
案内してくださった館員の方はとても熱心でした。沢山の資料も頂きましたが、定年退職後の高齢者が支えているので若き方々への期待が大のようでした。それは午前に訪れた野田村のアジア民俗造形館も同じようです。