2018年4月19日木曜日

1279「三陸3」2018,4,19

 二戸市内中心部に九戸城跡があります。二戸にあって何故、九戸なのかはありますが、
中世の名君、九戸政実の居城で九戸の乱、奥州再仕置きで有名な所です。以下が九戸城の紹介です。
 
「市の中心部にある九戸城跡は昭和10年に国の指定を受けた史跡です。この城は九戸政実の4代前の光政が築いたもので、豊臣秀吉天下統一の最後の合戦場となりました。城跡には、東北最古とみられる石垣遺構が残っています。
 九戸城には、東北地方の中世の城と近畿地方の近世の城の特色が見られます。地形を活かし曲線的な九戸城の中に直線的に改修された福岡城の部分があります。
 三方を川に囲まれた平山城で、約34万m2(指定地21万m2)、東京ドームの約10倍です。
 九戸城旧来の姿を止めるのは若狭舘・戸舘等で、本丸は改築された福岡城であることが解っています。本丸は二ノ丸より一段高く土を盛って築かれており、この盛り土から焼けた生活用品や火縄銃の弾丸が出土し、明らかに合戦後の整地です。堀沿いに土塁と石垣が巡り、土塁の高く広い部分は隅櫓跡です。東の追手門は、門と木橋があったところで、南にも二ノ丸と地続きの小口があります。二ノ丸は、本丸の東と南を囲む形で築かれ、周囲に土塁、南に大手門、北には搦手(からめて)門があります。本丸の西側下は三ノ丸で今は市街地です。松ノ丸は、人工の堀で囲まれ、土塁の一部が残り、南東には武家屋敷の在府小路に面して大手門があります。
 政実の4代前の光正が明応年間(1492~1501年)に築城。その後九戸氏は着実に勢力を拡大します。

 天正8(1580)年三戸城主南部24代晴政が死去。晩年まで嫡男が無く、一族の田子信直(たっこのぶなお)を後継者に指名。しかし、男子(25代晴継=はるつぐ)誕生後は信直を嫌い世継ぎを撤回。晴政の死後、南部は跡目を巡り、信直指示派と晴継擁護の九戸一派とが対立。晴継も13才で謎の死を遂げ、混迷の中、信直が南部26代目を継ぎます。
 天正18年、秀吉は小田原城攻略後、奥州仕置を開始。小田原不参陣の諸氏を追放しますが仕置軍が去ると残党が蜂起し不穏な状況でした。
 この機に乗じ政実は翌年3月に挙兵。信直は苦戦を強いられますが、9月1日には奥州再仕置軍が馬淵川流域に到着。6万騎を敵に籠城軍は5千人。
 しかし、苦戦と疲弊の上方軍は4日、九戸氏菩提寺の和尚を使者に、政実の武勲を称え、婦子女や下級武士の助命を条件に和議を勧告、政実はこれを呑み開門しますが、これは謀略で、悉く撫で斬りにされ九戸城はあえなく落城。政実らは、宮城県三迫で処刑、九戸神社と首洗いの池が残っています。
 秀吉の国内統一は完了し、実名ともに配下の諸国大名となった信直に和賀・稗貫・志和の三郡を加封、蒲生氏郷に命じ九戸城を豊臣流の城に改修し授けました。
 信直はこの城を福岡城と改め南部の本拠地としました。その子利直が盛岡城に本拠を移す寛永13(1636)年に廃城となりました。
 現在市では公有化と発掘調査を進め、文化庁や整備委員会の指導の下で史跡公園化を進めています。」

 ここも何度も訪れていますが駐車場など変わっていましたが、いろいろ整備がなされているようです。武士の歴史における権力争いの中で、多くの謀略、殺戮の怨念、遺恨の巣窟です。勝てば官軍負ければ賊軍で九戸政実の意は無残にも潰えた世界であり、この地は彼らの怨念の遺産です。
 しかしその地に南部氏は福岡城として再築城してそれまでの三戸城から移り、更に盛岡に移るまで約40年間、ここに南部氏の本拠を構えていたのです。九戸政実一党の怨念の地に居て平然と治世をしたのですから驚きです。

 盛岡市に在住で文筆活動をされている作家の高橋克彦氏は陸奥の歴史的作品を数多く書かれています。その中で「天を衝く〈上〉―秀吉に喧嘩を売った男・九戸政実」はこの地での史実を読み知るには必読の書です。
 高橋氏は蝦夷の長として大和朝廷と戦い果てたアテルイの生き様に付いての著書もありますが、確か高橋氏は「九戸政実は、蝦夷、アテルイの御魂を継承した最後の陸奥の長だ。」と記しています。陸奥の地は西からの支配が繰り返され、戊辰戦争にまで続きます。

 
 「天を衝く」の読者の九戸城跡の紀行の記事がありますので紹介します。

 最初に訪れた時ほどでは無いのですがエネルギー的には収奪される感じで、本丸近くまで見学して早々に失礼しました。Tさんは駐車した門から中に入らずにいます。感応が高い人には無形存在の意念は深いものです。