今回は立花大敬さんの青空ひろばの最新の内容を紹介します。
1008 2023.06.18 ~1019 2023.07.01 (前日の続き)
「白隠禅師坐禅和讃」を簡単に解説してゆきます。
先ず初めに白隠禅師という方の紹介を…。
白隠禅師は江戸時代中期の人。今の静岡県出身で、生家は日蓮宗やったみたいです。お母さんは天神さんを信仰していて、禅師もその感化を受けて、お題目を称えて、また天神さんを拝んでおられた。
禅に帰依して出家されてからは法華経や天神信仰からは離れておられた。
ところが、42歳で「法華経の悟り」を悟られて、初めて本当の意味の「大乗の悟り」って言うのがわかったんです。
また、天神様が霊的に出現されて「延命十句観音経」を広めてくれ、このお経を唱えてくれたら、苦しむ人たちの救済のために私はもっと働けるようになるからと依頼されて「延命十句観音経」を人々に広められたということがあります。
それで、法華経を捨てて禅に入門した。
それはそれは壮絶な修行をされて、「達人の悟り」って僕は言ってるんですけど、すごく高い境地の「達人の悟り」を得られた。そして世界中でオレぐらい悟ったヤツは居ないとか自惚れていたらしいです。でもね、なんぼ自分でそう自惚れていてもね、身体は嘘をつかない。
どうなったかと言うと精神的におかしくなり、ふらふらしていつも脇汗、脇の下からたらたら汗が出る様になりノイローゼの様な…。
胸がいつも痛くて、大変な身体と心の両方の病に成ってしまった。そこで、「これはどこかおかしい。自分の悟りってなんか違うんじゃないか。自分が得たのは本当の悟りではないんじゃか」と、ようやく反省したんだそうです。
そういう疑問を抱えていた42歳の時に、冬の始めにコオロギが鳴いている声を聞いた。弱々しい声でコロコロ、コロコロコロ鳴いていた。
それを聴いた途端に「法華経の心」が悟れた。そして涙がボロボロ流れて法華経を仏壇にあげて礼拝した。
申し訳なかった、私はこの法華経というものが持つ「大乗の慈悲」がようやく分かった、と言って懺悔礼拝されました。
「達人の悟り」の境地から、「大乗の悟り」の境地になられた。
「達人の悟り」っていうのはある特定の人だけがその悟りを得る事が出来る。それを得られない人は不合格。その悟りを得た少数の人だけが合格者。
合格と不合格がある様なのは、実は本当の悟りじゃないのです。言うたら悪いけど禅のお坊さんとか、禅をちょっとでもかじった人は直ぐ言う。「あの人は悟ってない、あの人は悟ってる」とか。悟りっていう言葉で人を合格と不合格に分けて差別してしまうんです。それって本当やろうかな、と疑問に思うんです。
仏様の目から観たらどやろ。仏様の目から観たら、全ての人は「妙法」なんです。(ボードに妙法と書く)
全ての人が「妙法」なんです。「妙」って何かって言ったら「美しい、素晴らしい」という意味。
「法」って何かって言ったら「超えられない枠組み」のことを意味する。「法律」といったら、ここから外にはみだしたらいけないよという枠組みでしょう。「作法」といったら、この通り行動しなさいという行動の枠組みでしょう。
仏教では、そういう「法」という漢字が持っているもとの意味を活用して、地上世界に生きている個々のいのちのことを「法」と言ったのです。
地上のいきものは皆、「法」的存在なんです。
どういう事か言うと、例えば「犬」を例に考えてみると、犬は飛べません。犬は数学の勉強出来ません。そういう制限と制約の枠組み(「法」)を持っています。
そして犬は電信柱みたら足が上がってしまいます。自然に上がってしまう。そして何か物があったらまずクンクン匂ってしまう。そういう制限と制約の枠組みの中に犬という存在はいます。
A君もBさんもどの人も、それぞれの「制限と制約の枠組み」の中におります。A君には楽々出来ることがBさんにはどうしても出来ないということがある。
逆に、Bさんには簡単にやれる事がA君にはとても無理ということもある。いくら人に説教されても出来ない事は出来ないんです。
だからみんな法的存在、法の囲いの中で人間も動物も植物もみんな生きている。なんぼ植物が頑張っても、生えている場所から離れる事は出来ない。植物はそういう制限を持っている「法的存在」です。
でも仏様の目から観たらそのままで、制限制約のままで「妙法」なんです。皆そのままでいいんだよ、どんな人であってもそのままでOKなんだよ、って言ってるのが仏様なんです。
だから「達人の悟り」を得た人から観たらお前は未だ悟ってない。お前は未だ駄目、そういう風に人や生命あるものを合否で差別してしまうんだけれど、お釈迦様の目から観たら違う。
お釈迦様の目から観たら、みんな「妙法」で全ての存在がそのままでOKである。みんないのちの花を精一杯咲かせていてキラキラ輝いていて美しいんです。お釈迦様にはそう見えるんです。
そのような宇宙に咲いた個々のいのちの花々を「蓮華」で喩えます。
「蓮華」は「連なる華」という意味です。どのいのちも別々のように見えて、実は根っこでは一本の「蓮根」から生え出しているのです。だから、あなたはあなたでいいし、僕は僕でOKなんです。
なんぼ僕にやれと言われても、アインシュタインの様な研究は出来ないですよね?でも大敬はそれでいいんだよとお釈迦様はおっしゃるんです。
なんでそう言えるのかと言うと「蓮華」なんです。「いのち」が一つに連なってるからなんです。
蓮の花が咲いてる。別々の花の様に見えるけど、アインシュタインと僕と、本当は繋がって一つなんですよ。一つだから、アインシュタインも僕なんです。アインシュタインも僕だし、それから勿論ヒットラーも僕やけどね。そこは忘れたらあかんですよ。そういうのを全部含めて自分なんだから、君は君でいいんだよ、君といういのちのあり方は宇宙で唯一人、「君」にしか出来ない尊いものだから、人と比べる必要はない、「君」は精一杯「君」を生きれば、それだけで、人類に対する大きな貢献をしているんだよと、お釈迦様は言っている訳です。それが「妙法蓮華」っていう。「妙法蓮華経」の教えっていうのはそういう事を言っている。
白隠さんが42歳で、「達人の悟り」から「妙法蓮華の、大乗の悟り」に、移る事が出来た。そうすると、もう合格と不合格が無くなってしまった。みんなそのままOKとなってしまった。
そのように、自分もOK,人もOKと抱擁してゆくのが大乗の坐禅。
それに対して小乗仏教というのがある。この「小乗」というのは、「小さな乗り物」という意味。どういう事かと言うと先ず小乗仏教の人はこの世の中は幻想に過ぎない。人間が錯覚でこういう「苦の世界」を産み出してしまったんや。だからそこから一刻も早く離れないと駄目。こういうのから離脱して出来るだけ速やかに、もとの真理の安らかな状態に戻らないと駄目だと言うのが小乗仏教なんです。
では、苦の世界から早く脱出するためにはどうしたらいいか、出来るだけ係累を作らん方がいい。配偶者がいたり、子供が出来たり、孫が出来たりすると、中々この錯覚の、苦しみの世界から脱出出来なくなる。だから係累は少ないほうがいいんだよというんです。だから出家しなければならない。出家しなければ悟れないというんです。
小乗仏教は出家主義と言うのはそういう意味。それから「小さな乗り物」、自分しか乗れない乗り物に乗る。
何故そんな小さな乗り物に乗るのかというと、小回りきくでしょう。障害物があっても、クルクル避けながらスイスイ進めるでしょう。だから、地上世界からすばやく脱出できる。それで「小さな乗物」でゆく。一人乗りの車なので、係累が少ない出家でいた方がいいんだというんです。
僕らは違う、「達人の悟り」でもない。なぜなら、「達人の悟り」は小乗ではないけどやっぱり限定的でしょ。「悟り」というチケットの無い人は乗れないから、基本的には小乗的なんですね。
僕らは「大乗」なんです。
「大きな乗り物」、世の中の人もネコもシャクシもみんな収容して、全員で一緒に進化過程をゴールインしようぜというんです。ですからしつこく、しつこく、これから何度も地上世界に生まれ変わり戻ってきて、皆で協力して全ての人をこの「大きな乗り物」にヨイショ、ヨイショって、汗水流して収容し終わるまで、何回も地上に帰って来なければならない。自分だけ早く脱出したいなんて思わないんです。
白隠さんは、ようやくそういう「大乗」がわかる様になって、それまでは弟子に物凄く厳しい指導をしたみたいなんです。だから若くして死んだ弟子がいっぱいいたようです。禅師がおられた龍澤寺の墓地には若くして亡くなった修行者のお墓がいっぱいあるそうです。それ「達人の悟り」でしょ。
しかし、42歳の時に、冬の初めのコオロギの弱々しい鳴き声を聴いて「大乗の悟り」に到達された。
冬の初めに鳴いても仕様がないでしょう。もうこの時期に子供を産むことは出来ないんだから。しかし、そうとは言いながら、今このコオロギに出来るのは鳴く事だけなんですよね。精一杯今の自分がやれることをやっていたら、それでOKであり、その姿が最高に美しい(「妙法」)ということが初めてわかったんです。(完)