今回は「いっぷくからありがとう」さんの2023年08月02日「祈り」と 2023年08月04日「欲張りな人間」の2つの記事を紹介します。
「祈り」
今日は、渡辺和子さんのお話を通して、
神さまは、どうやって人間の祈りに答えてくださるのか、考えてみたいと思います。
<引用開始> 引用元
・もし私が祈ったことが全部叶えられたら、どうなるのだろう
・神様のお役目というものは、
人間の願いを全部叶えることなのだろうか
・いくら祈っても、所詮(しょせん)神はご自分の好きなようになさるのだとしたら、
祈っても、祈らなくても同じではないか
その上で渡辺さんはイエスの言葉を紹介します。
・求めなさい。そうすれば、与えられる。
・探しなさい。そうすれば、見つかる。
・門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、
・求める者は受けとり、
・探す者は見つけ、
・門をたたく者には開かれる
そして渡辺さんは続けます。
でも、この言葉には
・求めたもの、そのものが与えられると約束されていませんし、
・探したそのものが見つかるとも約束されていません。
むしろその後には
あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、
魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょうか。
してみると、あなたがたも悪い者ではあっても、
自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。
とすれば、なおのこと、天の父が求める人たちに、
どうして聖霊を下さらないことがありましょうか。
と続く言葉があって、求めたものの「代わりに」
何かを下さる可能性があることを示唆されています。
祈ることは大切なことです。
しかし、人々が願う前から、その必要とするものを知っておられる天の父は、
人間が願ったことをそのまま叶えることをもってして、
ご自分の、その人に対する愛の証、とはなさらないのです。
なぜならば、私たちはいつも、「欲しいもの」を願っているからであり、
それに対し、神様が私たちに叶えてくださるのは
私たちの魂にとって「必要なもの」だからです。
<引用終了>
神さまは、私たち自身より、私たちのそば近くにおり、
例え口に出さずとも、私たち以上に、私たちの望むものを知っておられます。
そして、私たちの望み、願いを全て聞いてくださっています。
私たちの人生が、平和で順風で
・友達や家族の笑顔に恵まれ
・健康で金銭的な憂いが全くなく
・将来の不安など、みじんもない
そんな時にはきっと
・神さまに祈ることも、
・全てを用意してくださった神様に感謝することも
・人々の優しさに気づくことも
あまりないかもしれません。
神さまの恩寵は2段階で現れると言います。
・まずは、不幸に見える出来事
これを通じ、私たちは、悲しみ、苦しみのどん底に落とされます。
嘆き、悲しみ、涙を流し、不平不満を口にして、世の中、全てを呪うかもしれません。
自分の力ではどうしようもないと諦めかけた時、神さまを思い出すかもしれません。
人知を超えた力にすがろうとするかもしれません。
そして「祈り」始めます。
この時、神さまは、全ての全てを見ており、私たちの心の中まで、把握しています。
なぜなら、「不幸に見える出来事」を持ってきてくださったのは神さま自身だからです。
私たちは、早く苦しい状況から抜け出したくて、具体的に神様に「祈り」ます。
神さまは、その「祈り」をじっと聞いておられます。
私たちは、苦しみ、悲しみの中で神さまに祈ることを通じ、
心、魂が、どんどん、どんどん成熟していきます。
・人々の小さな優しさに気づきだします。
・健康だったことが、どれだけ、ありがたいことだったかに気づきます。
・同じ苦しみを持つ人の、心の叫びが聞こえるようになります。
その時です。
私たちの心に気づきが起こります。
どうして神様が、私たちに「悲しみ、苦しみ」を運んできてくださったのか?
物理的な状況は、全く変わらないかもしれません。
ですが、目に見えない、私たちの魂は、
美しく純粋に生まれ変わりました。
祈りを通じ、神様が私たちの魂を洗い、本当に私たちの永遠の生命にとって
大切なものを、くだされた瞬間です。
祈りは、必ず聞き届けられます。
「欲張りな人間」
人間は弱いので、何か困ったことが起きたり、苦境に立たされれば
・神様仏様に頼ったり
・高額な詐欺に付け込まれたり
・お金に糸目もつけず、「力があるぞ」と宣伝する人に頼ったり
とにかく
・自分ではなく
・自分の内にいらっしゃる神さまではなく
自分以外の外にある、他人や、物に頼り、願いや欲望を満たそうとします。
でもそれは仕方のないことです。
しかし、その欲には限りがなく、いつの間にか頼った相手に心理的に依存し、
また頼られた相手は無意識の内に支配しようとします。
支配-依存の 関係が生まれます。
この両者は、全く別物に見えますが、
自分の発している波長が同じであるために同調して
いつの間にか引き寄せられていきます。
両者は、波長が同じで、波長の山であるか? 谷であるかの違いだけです。
この関係が長く続き、強化されてくると、
ますます心の中に広がる黒い闇に気づけません。
ご利益を求め、殺到する参拝者、頼られたものは・・
集まり、うなるお金、何時しか、神様に対する崇敬の念を忘れ、
自我の心が、極端にまで拡大し、神の力を、己の力と誤解する人々
神々は、そんな人間臭いドラマを、
どのようにご覧になっていらっしゃるのでしょうか?
・願い事が叶います
・商売が繁盛します
・病気が治ります
・学校に受かります
そう喧伝されれば、藁にもすがりたい私たちは、
いっぺんに飛びつくことでしょう。
もしかしたら、見えない何者かの力によって
一時は、願いがかなったかに思える時期もあるかもしれません。
ですが、それも長続きはしないでしょう。
しばらくすれば、また同じ苦しみを味わうことでしょう。
ですが、私たちのそのような状況でさえ、
私たちが生まれてくる前に、自分で設定してきた状況であり、人のせいではありません。
何故、そのようなことをあえて自分で仕込んできたかと言えば
・その悩み苦しむ時期と、
・外の力に頼る時期と
・結局はそれがうまくいかない
ことを経験することで、
・私たちの魂が学習し、磨かれ、
・より一層 輝きを増し
・神々に近づけるからです。
それなのに、その貴重な経験を、
苦しいから嫌だからと、お金をかけ、人に頼り
、すっとばし、一瞬だけ状況を変えてもらっても、
私たちの心はちっとも変わらず輝きもせず、
かえって依存の心が、闇のように広がり、氣枯れたもの
(神さまの純粋な気が覆われてしまったもの)
に魂が覆われてしまうことでしょう。
それは、魂の視点、神々の視点から見て道を外れているからです。
神様は、私たちの魂を輝かせるために
「その場所で自分なりの花を咲かせるのですよ」、
そう言って、今の状況に私たちを置いてくださいました。
神々のなさる奇跡とは華々しいサーカスのように、
人々を驚かせ、一瞬のうちに私たちを救い出してくれる・・・
そういった安直なものではないと思うのです。
奇跡とは、私たちが、例え苦しい環境に置かれていようと、
自分の置かれた立場で、一所懸命前向きに、
周りの方々や神々に感謝しながら、笑顔で、しっかりと生きていくこと。
そして日々の平凡な生活のうちに、
自分や、身近な周りの方々の心の中に
・温かな優しさ
・思いやり
そんな神様の心を見つけた時、
そして、それを感じ取った自分、
自分の中の神様に気づいた時、
神々は、私たちの心に奇跡が起きた・・
そうお思いお喜びになるのかもしれません。
人々の耳目を集める
・どんな凄いことをしようと
・どんな技や知識を身に着けようと
・どんなに地位や名声を手に入れようと
・どんなに経済的に成功しようとも
自分の心の中に 神々を見つける奇跡には敵いません。
神様は、私たちの魂を輝かせるために
「その場所で自分なりの花を咲かせるのですよ」
そう言って、今の状況に私たちを置いてくださいました。
私達の魂の誕生の時に頂いた神様の心。
・その心を清らかにしておくこと
・自らの足で立とうとすること。。
それ以上に、
この人生に奇跡を起こす術はありません。